この中を人間が通り抜けるとはすごい。
この数週間、気になっていた洗車へようやく行って来た。
チケットを販売している30歳ほどのお兄さんへ。
「今日も暑いね。
これだけ暑いと、車だけでなく私もシャワー代わりにそこへ入りたいもんだね。」
「いやあ〜確かに。
実はこの間、俺は実際そこへ入って見たんだ。」
「ゲエ〜 ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆」
「涼しくなったけれど。多少痛かったよ。」
それはそうでしょう。
若さとは冒険のできることでしょうか。
マタイ16章1~12節
「弟子訓練の必要性」
~マタイ福音書連続講解説教41~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/611241
{メッセージの抜粋}
マタイ16章は弟子訓練の章と言えます。
① 1~12:弟子訓練の必要性が露呈
② 13~20:弟子の信仰告白
③ 21~28:弟子への受難告知
主と弟子たちは、この日も舟でガリラヤ湖の向こう岸(5)へ行かれました。
生活と伝道の根拠地であるカペナウムを離れて、
彼らだけで寂しいところへ退避し、弟子訓練に集中するためです。
主の地上生涯は、すでに十字架までの1年のタイムリミットを過ぎてしまっています。
ご自身が天に引き上げられてから、
弟子たちだけで産声を上げたばかりのキリスト教会を背負わねばならないのです。
弟子たちの双肩にかかっているので、主の訓練にも力が入ります。
舟の中で主は、
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」(6)と弟子たちに言われました。
「パン種」がたとえで用いられた場合、
旧約聖書でも、新約聖書でも例外なく罪とか、その影響力を意味してきました。
弟子たちは当然そのように解釈するとの前提で主が語られたのです。
ところが滑稽なことに、弟子たちは、パンを充分に持参してこなかったのを知られた主が自分たちを咎められたのだと、勘違いしてしまいました。
両者には、着眼している方向性に大きな隔たりがあったのです。
主が言われた「パン種」とは、「教え」のことです。
「パリサイ人のパン種」〜彼らは、イエスが悪霊に憑かれていると結論づけました。
己の願望・欲望が優先されると真理に対して盲目となり、イエスを排除する教えを植え込みます。
「サドカイ人のパン種」〜彼らは、イエスが神殿を否定していると結論づけました。
神殿を中心とする祭司制度は本来の礼拝から大きく外れて、
彼らの懐を潤すビジネスとなっていました。
これらの偽りの教えから弟子たちを守るために主が腐心されておられた時、
弟子たちにとっての最大の関心事は、「今日は充分な夕食にありつけれるだろうか」
といったものだったのです。
主の弟子とされたい私たちも、着眼点がどこを向いているかを確認しましょう。
正しい方向性を得るためには、
1) 単純な信仰によります。
当時の弟子たちには衣食住の課題が常について回りました。
今日の多くの私たちもまた経済的な戦いから逃れることはありません。
「日用の糧を今日も与えたまえ」
~主に対しての信仰の祈りをささげましょう。
私たちの生活の糧も、それを得るための働き、
土台となる健康や人間関係においても主の助けを信じてこのように祈るのです。
金銭という目に見える保証でなく、主に信頼することを学びましょう。
『私の神は、キリストイエスにあるご自身の栄光の富をもって、
あなたがたの必要を全て満たしてくださいます。』 (ピリピ4:19 )
2) それは注意深い警戒によります。
主が「パン種に気をつけなさい」と言われたものは、
人々が簡単に陥りやすい神学でした。
パリサイ主義は、個人の熱心さ、まじめさに基づいていています。
サドカイ主義は、組織の強固さや偉大性に基づいています。
今日の信仰者も、己の義に頼ったり、
大きな組織に属するゆえの安心感があるとしたら、
注意が必要です。
真の義と平安は、主ご自身がが与えて下さるものです。
今日も主に信頼を表明しようではないですか。
「志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26章3節)
コロンビア河にかかるハイウエイ5.
こちら側がワシントン州で、橋を越えるとオレゴン州です。
海のように広がる河。対岸までの距離はかなりあります。
ポートランドでの今回の宿舎は、コロンビア河の湖畔に位置しています。
先回ここに泊まった時は、窓の外には隣の建物しか見えなかったんです。
ぞこで河の見える部屋がないか聞いてみました。
すると、、、スンナリとそこを与えてくれました。
何でも聞いて見るものですね。
この大型のパンは文句なしの一品。
夕食はレバノン料理のお店へ。
地中海料理は、イスラエルへ行って以来好物となりました。
ですが、ここのお店は大外れ。
Kabob の羊肉が固くて噛みきれない上に、
おせいじにも美味いとは言えないあり様。
それでも、
笑顔で対応してくれるウエイトレスには、罪は無い。
「とても良いですよ」と答えた私に、大型の石造りの釜での焼き立てであり、
ポートランドではすでに3軒のお店が成功している話を得意になってしてくださる。
確かに、写真の平たいパンは美味い。
が、メインの羊肉とライスはど〜しようもない( ̄▽ ̄)
やがて伝票をお願いした時、信じられない事が起こった。
「今回の会計は心配しないでください。私が支払うことにさせていただきます。」
「えっ、、?? どういうこと?、、、
なぜですか?」
「あなたがナイスだからです。」
「そーんなこと聞いたことありませんよ…
『私』って、お店ですか、それともあなたのことですか。」
「私がお客様の代わりにお支払いします。本当に気になさらないで下さい。」
このような接客をいただいたのは、アメリカ生活ながしといえども、初めてのこと。
始終明るい接客サービスをしてくださってる30前後と思しき彼女に
料理にガッカリした本心は見破られていないはず。
パンをいただいていた上機嫌の時に、弾む会話をしたのだから。
彼女のオファーを退けるのも気が引けたので、伝票のないままで料理の支払いはしませんでした。
ただ彼女のサービスに対しての多目のチップをサンキューノートと一緒に置いてきました。
こんなことってあるんですね。
Gresham のダウンタウンにあるお店でした。
ミニゾウでランチをしました。
ポートランド中心部から北へ10分ほど、
最近開発の進むミシシッピー通りにあるそれは、
移動用屋台車の集積地にありました。
10程のエスニック料理の屋台車が所狭しと並んでいる一角。
ポートランドで初めてのラーメン。
日本でも成功している有名居酒屋チェーン店のものだけあって、
味は唸らせるものでした。
これで7ドルは納得。
きっと、先日新横浜のラーメン博物館で子供達が試食したラーメンよりもうまいと思う。
彼らはそこでは納得していなかった。
ここならウンといってくれそうな気がする。
だけど、たった一人のお兄さんが働いているのでは、
家族での注文はほかの客に迷惑となるかな?
このビルの27階にポートランドの総領事館が置かれています。
今週月曜から金曜までの5日間が、選挙の投票日です。
参議院選挙のための投票へ行って来ました。
神奈川選挙区からの議員選出選挙と、
比例代表制政党選出選挙の二つでした。
海外居住者がこうして国政選挙に参加できるようになってから、十数年が経ちます。
私は現在オレゴン州ポートランドにいるため、
いつものようにシアトル総領事館での投票ができないと危ぶんだのですが、
ポートランドでも投票ができる事が分かりました。
いや、海外居住者で選挙人登録カードとIDとの2点があれば、
世界のどの総領事館でも投票が行えるのを初めて知りました。
ポートランドのダウンタウン、
ある銀行のビルディングの27階に総領事館は位置しています。
投票方法ですが、
日本と違い、投票用紙をただ箱へ投函するのではないのです。
記入した投票用紙は2枚、それぞれの専用封筒に2重にして納められます。
外側の封書には「立会人」の証明を記す欄が設けられています。
領事館側と選挙人側が正しく投票事務を踏襲しているかを見定めている
「立会人」がその部屋の中で座を占め、始終監視を続けています。
その人のサインがあってはじめて投票が有効となる仕組み。
無事にその方のサインをいただいて、投票を完了。
あとは、その投票用紙が日本へ運ばれて後、各選挙管理事務所へ郵送されてから開封されることとなっています。
そういうわけで、日本国民としての主権を行使できて、
少々誇らしく感じた午後の一時でした。
激動の生涯を生き抜いたジョン万次郎の物語。
本日は、本についてのエピソード。
日本のニュースを見ていたら、米国の小学生間でベストセラーとなっている話題の本が取り上げられていました。
Heart of a SAMURAI という本です。
ジョン万次郎の生涯について書かれたものです。
幕末、漁師の見習いであった少年万次郎は嵐に遭い遭難。無人島で米国の捕鯨船に救出せられてから、東海岸にある船長の家に移り住み、そこで学校へ通います。
やがて帰国しますが、時は明治維新。
彼は日本側通訳官として勝海舟艦長の船に乗り込んで、日米の条約締結の橋渡しをします。
試練と困難の中でもめげずに道を切り開いて行った万次郎の物語が、米国の子供たちに大きな励ましを与えているようです。
その話を家族にしたところ、小学4年の長男のクラス担任は毎朝の読書の時間、この本を子供たちに読み聞かせているのだそうです。
先月の長男の誕生プレゼントにはこの本を買い与えました。
彼は一向に読もうとしないので、
私が先に読むことにします。
いつかハードルを越えて、飛翔しよう!
長女の初パラセイリング。
この日、長女を連れれ本屋へ。
何やら読みたくてたまらない本があるらいしい。
家内に頼むと「図書館で借りればよい」となるので、私に連れて行け、と言う。
彼女は何度も読み返すし、赤線も引けるだろう、と考えて自分の本として所有するのは賛成だ。
読書以上にコストパーフォーマンスの優れた投資はないだろう。
それが10代の子供であったらなおさらだ。
実際に購入できるとなった段階でも、さらに長女には越えなくてはならないハードルがある。
彼女の年齢に適しているかどうかを、家内が判断しなくてはならない。
本屋に到着後に、レビューを読んだ家内は携帯電話で長女には相応しくないと告げる。
長女は泣く泣く、購入予定の本を半分ほどにさせられてしまう。
5冊ほどのシリーズものを買ったが、1週間で読んでしまうのだそうだ。
おたまげ。。
ここ3週間ほど見ていなかった
八重の桜を見ました。
まだ会津戦争なのですね。
戦いばかりのドラマっていう印象になりそう。
それにしても、
開城・恭順を説く西郷タマモは徹底的に正論。
降伏は腰抜けでなく、勇気ある選択。
指導者の頑固さやプライドが、どれほどの尊い会津人の命を奪ったことか。
二本松での年少者の死、白虎隊の自害、、、無念です。
見るのに辛いです。
偕楽園の好文亭にて
先週、山形県の大江町教会へした礼拝説教の要旨をまとめたものを紹介します。
説教題: 「よくなりたいか」
聖書箇所: ヨハネ福音書5章2ー9節
このベテスダの池に佇む足の不自由な男の癒しの記事は、
今から30年以上も前、
私が高校1年生の時に
東戸塚教会での特別伝道集会で語られていた物語した。
その時は、
小学校低学年時に数年間日曜学校に出席してからの、
初めてとなる教会出席でした。
そこで「天啓」とも言えるメッセージに大きな衝撃を受けて以来、
今日まで私の教会生活が続けられています。
当時のウブな高校生に拓かれた啓示とは、
①私のことを知っておられたお方がおられた。
「イエスは彼が伏せっているのを見、
それがもう長い間のことなのを知って」(6節)
思うように歩めずに自分自身に失望しては他者を非難している病人(7節)の姿は、
見事に当時の私を照らし出しました。
劣等感と自己嫌悪に陥り、
自分で自分の事が分からなくなっていた私は、
その実情を全てご存知の上で
それを言い当てられたお方の存在に圧倒されたのです。
②私に語られたお言葉があった。
「よくなりたいか」(6節)
ⅰ それは単純な問いかけでした。
よくなれない理由は数多く上げることができた(7節)中で、
主はたった一つのことを聞かれておられます。
ⅱ それは本来的な問いかけでした。
37年間の病の現実は、彼から回復の希望を奪い取っていた。
俗信(4節)に藁をもつかむ思いでベテスダ池に留まっているのは、
他に居場所がないからであり、
癒しのためという本来の目的は忘れていたのだ。
ⅲ それは自己存在に関わる問いかけでした。
鉛のように重たい現実の前に、
良くなれることなんて誰に聞いても無理と言われたであろう。
家族、友人、教師や上司の意見でなく、
「あなたはどうしたいのか」という、あなたの意思に向けられた問いであった。
③私に決断を迫った瞬間であった。
「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」(8節)
この主のお言葉はあまりにも文脈を超越した、
唐突なものでした。乱暴とも言えるかもしれません。
彼に決断を迫るものとなりました。
知識と信仰との間にはギャップ・断絶があります。
人が主の御業に与るためには、
貴方の理屈や経験、
蓄積されて来た自負心などから
飛躍・ジャンプしなくてはならないのです。
当時の私は、聖書知識も教会生活もないに等しい状態でした。
人の説得力からでなく、
天的に迫り来るものを感じたのです。
その招きに応答するなら、
これまでの生き方とは全く別個で別次元の世界が拓かれるのではないだろうか、、
そのように感じながら、
押し出されるようにようにして挙手決心へと導かれていました。
その決心は今振り返って見ると、
私の生涯で最大に意義のある、
最善のものでありました。
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