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はじめての日本のお風呂

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はじめての日本のお風呂 はじめての日本のお風呂





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第17回目から本書の第二章に入ります。
川崎での住居を定めてから慣れない田舎伝道へと出かけられます。




第二章




日本到着から山形での働きと生活まで

"見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。"
出エジプト記 23章20節



田舎伝道



1959年9月23日、日本に無事に到着した日のことです。
既に賃貸の申請は終えていたのでしたがシェルホン先生ご夫妻が居住しているアパートメント建物にある一室は、まだ誰も入居できる状態ではありませんでした。

そこでシェルホンご夫妻は気前よくも彼らの小さなアパートメントに私を同居させてくれました。私は六畳の部屋に寝たのですが彼らは小さなキッチンに寝ました。あんな小さなスペースにどうやって二人が収まったのか、今日まで謎のままです。

神様は真実なお方で、ご自身の約束を確かに守られるお方です。
私は見えるところによらず、信仰によって歩むことを学びました。

日本に到着してから間もない頃、川崎キリスト教会のある若いご夫妻が私を彼らの田舎にある実家に招いてくれました。私は彼らの申し出を躊躇なく受け入れ、すっかり興奮に満たされました。

私の最初の伝道旅行が始まろうとしているのです。私は喜んで私のカバンに、読むこともできないまして説明することもできない日本語のトラクトを詰め込みました。

その頃にはシェルホンご夫妻のアパートメントの隣の部屋が使用可能となりました。
主が私のために場所を備えてくださったのですが、私はとても忙しくその田舎から帰ってくるまでは入居できませんでした。

私の旅は満員電車での夜行となりまして、そこには生の興行までありました(酔っ払いの騒がしい行状のことです)。そしてその旅の最終段階は山道をテクテクと歩くと言うものでした。



初めての”実際的”オリエンテーション



誰も私にどのような心構えで、どのように行動すれば良いかを教えてくれる人はいなかったのですから、私は最初から未経験のまま実際的なオリエンテーションに晒されたのでした。

時に収穫の季節でした。私はリンゴ摘みを手伝いました。私は水田の歩き方を知らなかったこともここに記録しておきます。私は泥の中に沈んでしまい、手を引いて助け出してもらわねばならなかったのです。このように私の助けとなってくださる方はその地に一人もいませんでした。

ただし、気前の良いホストファミリーによって私はまるで女王様のように扱われました。
お客様として私は一番風呂をいただいたのです。

私にはお風呂の入り方が分かりません。先ず石鹸をつけて体を洗い、そしてその石鹸を流し終えた後に熱いお湯の張ってある木製の風呂に首まで浸かるのが日本式です。私はこの二番目のステップを飛ばしてしまってお湯を台無しにしてしまいました。

おじいさんが火を焚いて全ての家族の方が使うはずのお風呂のお湯だったのですが、私一人で泡だらけとなったお湯はもはや誰も使うことはできませんでした。
私には持ってきた全てのトラクトを配るチャンスが与えられました。
それはその田舎の学校での運動会の時でした。

その地域の全ての人々はこの大行事に参加しているようでした。私はといえば、まるで空から突然降ってきたような存在でした。私はいきなり人々からの強烈な注目を集めました。多分町の多くの人々にとって最初に見る外国人だったのでしょう。

お昼になったとき、私のホストファミリーは食べ切れないほどの十分なお弁当を用意されたのですが、多くの人々は彼らの弁当を私に差し出しに来られました。後にも先にも見たことがないほどのとても巨大なおにぎりまでいただきました。

ですが伝道師として私ができた事は、ただトラクト配ることだけです。ある小さなご高齢のご婦人は話ができない私に、そのトラクトについて何やら聞いてきたのです。

川崎に帰る時、私は最低限日本語で証しができるぐらいまではしっかり日本語を学ばなくてはならないと固く決意しました。



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ついに日本の地を踏んで

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ついに日本の地を踏んで ついに日本の地を踏んで




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第17回目は、聖書の御言葉から日本宣教への召しを確かめると、いよいよ修養会を経て太平洋を渡ります。



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神様の約束を固く信じて



シェルホン先生ご夫妻が来られたのは11月の事でした。
翌年一月の下旬頃に、主はご自身の御心について私にはっきりと示されたのです。

"見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。"
(出エジプト記 23章20節)

この確信に従い、私は準備を始めました。教会とその牧師は私に全面的な賛同と支持とを示してくれました。私のことを最も気にかけてくれていた父はこう言ってくれました。
「行きなさい。そして私のために帰ってくることがないようになさい」

何と言う父の献身でしょうか。彼は数年後に私に会いに日本までやって来て、その働きを見ることも出来て人々とも交わったのでした。だからといって全てのことが順調に進んだわけではなかったのですが。

有効パスポートと日本の教会、それに私の地元の教会からの推薦状を持って日本の移民局を訪問しましたが、そこでビザ発行を拒否されてしまったのです。私に同行してくれた友人は少しも助けとはなってくれませんでした。彼女は、「あなたは日本にとって必要ではないんですよ。あそこにはたくさんの宗教があるんですから」と言ったのです。

教会は祈り、牧師は移民局に電話をして「ビザが早急に発行されるためには、あとどんな書類が必要なんですか」と聞いてくれました。
プレジデントラインズと言う船会社への渡航費支払いを終えて、出航の日にちも決まりました。
そしてチャーチオブゴッドの全てのキャンプ修養会を訪問しました。

そこでお会いした人からは期待していなかった反応もありました。
「あなたは看護士でもないし説教者でもないですよね。一体日本では何をするのですか」とある牧師は言ってくれました。他の牧師は「油の切れた軋んだ音出す車軸のようなものだね」とも言ってくれたのです。

私はこれまで無職だった事はないし、サポートを求めて音を軋ませるせるような事はしていないはずです。クインシーキャンプでの早朝祈祷会の時では、ある牧師が私の肩を叩いてその祈祷室から呼び出すと二人だけのところへ連れて行きました。

彼はまもなくレドンドビーチ教会の牧師となることを告げた後、私の出港を後日に変更するようにと求めて来たのです。私はお断りしました。彼にはそんな権限は無いはずです。彼はまだそこの教会の牧師として任じられてはいなかったのですから。



プレジデントクレバランドに乗船


プレジデントクレバランドに二週間の乗船中、私は福音を携えて広島へ向かう宣教師ご一家と共に祈ったりお交わりを楽しみました。同時に教団機関紙「よき道」の執筆仕事もする時間が優にありました。

ご一緒した同室の四人の方々は暇を持て余していましたが、私はその旅行の全ての一刻一刻の時間を楽しんだのです。ハワイでは丸一日間の上陸が許されました。私はバスツアーに参加して、ハワイのエキゾチックな花々を楽しんだのです。

横浜港に到着する数分前、私は「日本のエンブレム」にお目にかかるのを期待したのでした。
でも上陸したのは雨の日でしたし、まぶしい白富士を見るにはすでに数ヶ月間遅かったようです。

横浜港の桟橋を降りた時、そこにはシェルホン先生や日本のクリスチャンたちの笑顔が待っていて大歓迎を受けました。ついに日本の土を踏んだのです。


#ドロシー師

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いよいよシェルホン先生との出会いが始まりました

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奥多摩福音の家でのチャーチオブ... 奥多摩福音の家でのチャーチオブゴッド夏季修養会


チャーチオブゴッドとシェルホンご夫妻


私の父と母はコロラドにあった彼らの家を売ってカリフォルニアの私の所にやって来ました。
母の体調はかなりの間、おもわしくなかったのです。私たちが共に過ごした最後の数ヶ月間は、大変貴重なものとなりました。

小さな開拓教会にあって私は徐々に青年グループのリーダーとして認められるようになり、さらに日曜学校の教師や教会会計まで任せられるようになったのです。

大工ではもちろんありませんが、可愛らしい教会堂を増改築する上での様々なお手伝いまでするようにもなりました。

この頃、私には安定した仕事がありました。多分「仕事」と言っていいものだと思うのですが。時に私は掃除婦となり、母の手伝いをし、メイドとなり、とにかく様々な家であらゆる仕事をしていました。



日本宣教と新しくされた献身



レイモンド・シェルホン先生とお会いするだいぶ以前から私はイリノイ州クインシーにあるウオマック・ファミリーを通じて日本宣教について知る機会が与えられていました。

クインシーキャンプでシェルホン先生とお会いした事は、私の人生の指針を変えることとなったのです。宣教大会での締めくくりの場面においてシェルホン先生はアピールをなされました。

「若い人も歳を召された方であっても、すべてを置いてキリストに従いたい、それが主の導かれるどこの場所であろうとも従いたいと願われる方は、ぜひとも前に進み出てください。共にお祈りをしましょう」

私は宣教師候補者としてはすでに歳を過ぎてしまったものですが、私の心には否定できないあるものがあったのです。私はそれに応答して私の献身を新たなものとさせてもらいました。

カリフォルニアに帰ってから、私はハイチ宣教で働く友人に手紙を書きました。
彼女に私の心を包み隠さず伝えたのです。たとえ私の年齢であったとしても何かできることがあると考えました。

彼女は詳しいことは私に伝えなかったのですが、ある問題のためハイチ宣教に申請する事は避けた方が良いとアドバイスして来ました。彼女は私にそのハイチでの働きを勧めてもよかったはずなのに、私は大変失望しました。再び訪れた機会にもかかわらず挫折してしまったのです。

その後、シェルホンご夫妻が日本に帰国する直前になって、彼らは小さなレドンドビーチの教会を訪ねられたのです。礼拝後、私は彼らご夫妻を我が家にお招きしました。
私に対してのキリストからの召命について、その努力が実ならなかったことについて、心開いて打ち明けたのはその時のことでした。彼らは私をとても励ましてくださり、たとい私の年であったとしても英語を学びたいと考えている日本人青年にキリストを伝えることができるはずだ、と言ってくれました。

日本での生活に順応するのは優しいことではないので、神の確かな御心を確信するまで求めるようにとアドバイスもいただいたのです。


「親愛なる主よ、私を用いてください。
主よ、どうか私を拒まないでください。
私にも何かできる仕事があるはずなのですから。
それがたといへりくだらねばならないものであったとしても。
主よ、私の意思が粉々になるよう助けてください。
あなたのための働きは、どんなものでも偉大なものなのですから」



#ドロシー師

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「からし種一粒ほどの信仰」

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ヨルダンにある古代ローマ遺跡 ヨルダンにある古代ローマ遺跡




ホサナキリスト教会・日曜礼拝メッセージアウトラインです。


「からし種一粒ほどの信仰」



マルコの福音書 9章14~29節



"さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」"




⑴イエス様のみを凝視した信仰


①山頂での高揚した喜び
特別に選ばれた3人には主イエスの変貌の姿を見せられた。

②山麓での問題の不毛さ
弟子たちには解決できない難問題を持っている父親の嘆き(18)


⑵己の不信仰を悟った信仰



①「不信仰な時代だ」との主の嘆き
治療の前に正確な病名を診断しなくてはならない
問題の究極的な原因がここにあるとの看破

②「この子がこんなになってからどのくらいになりますか」 この子の責任能力の限界。家庭環境と社会がこの惨状をもたらした

③「不信仰の私をお助け下さい」
問題の所在は息子にではなく己自身の不信仰にあったとの気づき。「できるものなら」と言う疑念しかない自身の限界を認めた。


⑶徹底された祈りの姿勢に見られる信仰

メシア的奇跡
耳も聞こえず口もきけなくする悪霊からの解放はメシア以外には誰にも不可能な奇跡と認識されていた。ここでメシアの代理人である弟子たちには土台無理なこと。

②聖霊様が与えられて主イエスと一つとされた私たちには祈りによって主の業を進めることができる(ヨハネ14:13)


(結論)


厳しいお手上げ状態の現実を前に私たちは途方に暮れるばかり。憐れみと理解と力とにおいて優った主に、永遠に変わらない主ご自身にいける信仰で結ばれよう。そして人の常識を超えた技を見せていただこう。
#メッセージ

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車上荒らしの被害に遭って

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車上荒らしの被害に遭って

日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第15回目は、車上荒らしの試練に遭ったことについてです。






解雇、強奪、それでも継続した友情


私の弟はロサンゼルス郊外に住んでいました。

私が仕えていた開拓教会はレドンドビーチにありましたし、ロサンゼルス東側にあるチャーチオブゴッドの教会にも友人がいました。

弟の家に引っ越す前に、私は全ての荷物を自分の車に詰め込むと友人とかなりの時間をともに過ごすべく計画しました。それから毎月行われている貧困街での給食ミッションの働きにそのまま出かけたのでした。

そこでは東ロサンゼルスの教会とレドンドビーチ開拓教会もまた共に働きを担っていました。
その働きの最中に私の車は車上荒らしに合い、強盗らは一切合切、車内をきれいにしていったのです。警察署に行ってそのことをレポートしましたが、荷物が戻る可能性はほとんどないと言われました。なんといっても貧困街での事件ですから。

友人との一夜を過ごした後、必要なもののいくつかを借りる事が出来ました。
あのお金持ちのメイドの仕事を解雇されてすっからかんとなってから、私は神様の恵み深い備えを理解し始めました。

弟の家への途上、私がおさげの幼い時から私のために祈ってくれていた年配の友人を訪ねるため立ち寄りました。彼女の祈りは、神の御座にまで届く力強いものです。

彼女は主を褒めたたえ、盗まれた全てのものは戻ってくる、と私に確信を与えてくれました。
その後、弟の家に到着しました。

彼の奥さんと私は、私のための必要最小限のものや裁縫のための生地を求めて買い物に出かけたのです。私の自由時間を満たそうとする神さまの計画はすでに進行中だったのです。私はその弟の家を拠点にしてユースグループを手伝ったり、レドンドビーチ教会での夏期聖書学校やクインシー・イリノイ・キャンプミーティングに参加しました。

ミシンに向かって忙しくしていた頃でした。警察署から電話があって私の持ち物が見つかったことを知らせて来ました。そして彼らが調べ上げた結果、私が作成した所持品リストからは何も失われたものはなかったのです。

私はその時にハレルヤと叫んだかどうか、今もって思い出せないのですが、私の義理の妹はその時のことを全て覚えていらっしゃいます。すぐに警察署にまで出かけてみると、すべての荷物は、まだ誰も触れられていないことがわかりました。

強盗らがそれらの荷物を盗み出して直後、レストラン近くにあるゴミ集積所の後ろ側に隠したのです。おそらく後にやってきて回収しようと考えたのでしょう。しかしそこで働く従業員が先にそれを発見して警察に知らせました。私は今や必要以上の生活必需品を持つこととなったのでした。



自由に奉仕をして



クインシーキャンプに最初に参加して以降、私は毎年そのキャンプを欠かさないようになりました。やがてチャーチオブゴッド教会に深く関わるようになると「グッドウエイ」という教団機関紙の青年編集人を任せられる事になったのです。そこでは宣教師物語を書く大変良い機会に恵まれました。



#ドロシー師

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職場を転々として

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職場を転々として 職場を転々として


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第14回目は、臨時雇いの仕事を転々とした場面です。





ユダヤ人の家族にイエス様を証して




あるユダヤ人家庭でイエス様のことをお証することがしばらくの間できたのは喜びでした。

父親は外科医で、子供たちは土曜日の安息日にはユダヤ教シナゴーグに通います。
家族で年取ったおばあさまだけがかなりの正統派でした。

彼女はほとんどの時間を部屋で過ごします。毎週金曜日の夜になるとろうそくに明かりが灯され、彼女がひとり儀式を守っていることがわかりました。

他の家族たちは彼らが好きなことを自由にしていました。二人のお嬢さんたちは両親とともに断食をする事にして、金曜の日没から土曜の日出までの安息日に断食をしていました。

彼らはその断食の前か後にはとても盛大なご馳走を楽しんでいましたが、コーシャや食物規定には何もとらわれてはいませんでした。

料理担当の私としてはそんな彼らの非正統的な食事作りにも関わっていたのです。
ひとりのお嬢さんは、イエス様に関するエッセイを書くのを手伝ってくれるようにと願ってきました。

私は彼らとともにシナゴーグにも通いました。



それからお金持ちの家で



次なる私の臨時仕事は、ある歳を召されたご夫妻の家で働くことでした。

ご主人はビバリーヒルズのサンセット通りにある高級レストランのオーナーでした。
彼女の奥さんは毎日介護が必要な人です。

彼はレストランから食事を運んでいました。私の仕事は簡単な家事一般で、住まいとしてはガレージに隣接した快適な家具付きの借家を充てがわれました。
教会にも自由に行くことが許されました。

夏が近づいた頃、私は再びイエローストーンのレイクホテルでのパストリー料理主任の仕事を申し込みました。その頃奥様の健康状態がかなり悪化していたため、彼は私にその申し込みをキャンセルして継続して滞在してくれるようにと求めてきました。

彼は、その快適な借家に続けて私が滞在できること、そしてかなりの自由時間が与えられ好きなことに使って良いことを約束してくれました。その病の奥様を気の毒に思うところから、私は滞在することにしたのでした。

やがて奥様は亡くなり彼がひとりとなったとき、私が到底同意できないことを彼は求めて来たのです。すると、私は直ちに解雇されることになったのです。

「もうあなたは去っていいよ」と彼は言ってきました。
「いつからでしょうか」と聞くと、「明日から」と答えてくれました。

#ドロシー師

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「五殉節の日になって」

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エルサレムのダマスコ門 エルサレムのダマスコ門

ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



「五旬節の日になって」



使徒の働き 2章1~13節



"五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。"



⑴聖霊様の傾注ー「時代」の転換点であった


①突然の出来事〜弟子や近所の人々の視点
「すると天から突然」
神ご自身の特別な顕現に伴う自然現象=シャカイナ・グローリー。
風、響、地震、炎などの出現。アブラハムが契約を締結した時、モーセのシナイ山で、またイエス様の昇天の時など

②必然の出来事〜主イエスの預言の成就であった(使徒1:8)
これは復活後40日後の遺言でありその後いつ成就するかは弟子たちには知らされていない。
10日間の熱心な祈り(1:14)
さらにイスラエルの祭りにはこの予言的な意味が隠されている。


⑵他国の言葉で話し出したーさらに古い「時代」からの回復を意味する


①その特異性
15の国言葉、ネイティブスピーカーとなった
学習し習得したものとは違う。異言とも異なる。

②その預言的意味
バベルの塔以来の言葉の混乱、連帯の崩壊からの回復の時代が到来した。
さらにそれは「教会時代」の始まりを意味している。民族を貫いたあらゆる隔ての壁を取り除いた組織体である


⑶ヨエル書預言の成就ーやがて到来する新しい「時代」を見据えて


1部分の成就であった(2:16-21)
旧約聖書のラビ的引用法の4つのうちの1つ。
数ある預言項目のうち1つが適用出来たらそれで成就とみなされる。ここでは聖霊が激しく傾注されたことであり、その他の天変地異はまだ起こっていない。

全体の成就は終末時代の最終段階に成就される
それが主の再臨前、世界帝国軍がイスラエルに侵入しユダヤの民を全滅させんとする戦争時に起こる。


(結論)


私たちが今生きている時代を正しく認識しよう。
どういった時代経て次にどういう時代が来るのか。私たちのするべき事は主の証人(1:8)として生きることである。


#メッセージ

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イエローストーン国立公園にて

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錦の隣の紀伊長島と言うところで... 錦の隣の紀伊長島と言うところで朝祷会に参加しました。 イエローストーン国立公園にて


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

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その第13回目は新たな職場としてイエローストーン国立公園に移ったことです。









イエローストーン国立公園にて



病院の菓子コックからホテルの菓子コックへ


町立病院にあっては多くの証する機会が与えられました。
職場の同僚たちは伝道集会にも喜んで私と一緒に参加してくれましたし、ある人々は心の問題も打ち明けてくれました。

かつて宣教師でもあった聖書学校の校長がよく言っていた言葉です。
「宣教師に召されているかどうかを判定するには、今あなたが置かれているところでそれを行っているかどうかで明確です」

町立病院で働くのは満足できるものでしたけれど、多分チャレンジできるものがなかったからでしょう。私は新たな働き場に転職したい思いに駆られ始めていました。

その思いに駆られるようにして私は有名なイエローストーン国立公園での職場に応募しました。
すべての病院職員は退職するにあたり、少なくても二週間前にはその要望書を提出せねばなりません。

要望書なしにクビにされる事はあり得ても、要望書を提出しないままで辞任することは許されなかったのです。私は早めに申請しました。その私の申請は思わぬ時間がかかったのです。時間はなくなり始めました。ついにある月曜日、辞任を告げるためにオフィスに行く日が来たのです。

日曜日は主と交わり、そして主から導きをいただく大切な日です。
私は王妃エステルに想いを重ねていました。

私は常日頃、王妃エステルとその勇気に感謝していました。
「私が死なねばならないなら死にます。生きねばならないなら生きます」

月曜日になってオフィスに行ってみると、私の上司が即、聞いてきました。
「もう次の仕事は見つけたのですか」
「いいえ、まだです」と私は正直に答えました。

ちょうど次の日になってイエローストーンに提出していた私の申請書が認められたのです。
私にあてがわれた部署は、レイクホテルのパーティスト料理の補助と言うものです。
そのホテルは700人ほどの人々を宿泊出来る巨大なものでした。

新しい仕事場に到着した時、拒絶に面食らうことになります。
パストリー料理のトップはドイツ人でしたが、彼は女性とは共に仕事をしないとシェフに告げていました。そこで私はサラダとサンドイッチの部署に廻されたのです。

やがてそのドイツ人パストリー料理長はシェフと揉め事を起こし、まもなく解雇されました。
次のパストリー料理長はロサンゼルスのオフィスから送られて来ましたが、どうもドヤ街出身のような方でした。

彼は最初の給料でとんだ所へ行ってしまい、そして仕事場には現れませんでした。
そのため私は休日にも関わらず朝方に呼び出されて、彼の代わりを務めねばなりませんでした。

私はシェフに言いました。
「自分に四人ほどの真面目な学生さんをヘルパーとして与えてくれたら仕事は完璧にやり遂げます」。そこで私はパストリー料理長に任命されたのです。

私には数人の男子学生があてがわれました。
私はボスになれるタイプではないと、学生たちに伝えておきました。

私たちは皆でパンやケーキやロールを一緒になって作り、また一緒になって皿洗いや掃除をしたのです。とっても良い夏を過ごすことができました。実に充実した時となったのです。


日曜日が私の休日として与えられたのは奇跡のようなものです。
礼拝のための場所は、神様が備えられた偉大な野外です。

そこにはクッション付きのベンチはなく、ただ粗末に斬られた丸太が転がっているだけでした。
それでも私にはイエス様がかつて野外で説教された時の状況と重なるように感じました。

私のルームメイトはミネソタから来られた素敵な女性でした。私たちは生涯の友となりました。彼女はやがてカルフォルニアにいる私をわざわざ訪ねてくれたし、彼女とは長い間文通を重ねました。彼女がやがて天に召されると、その娘さんと毎年クリスマスカードを交換しあっています。



人生に楽はなし



ホテル従業員にはあらゆるタイプの人々がいました。

私には全世界が提供できるすべてのタイプの人々と会えたように思えました。
私はその人たちをこんなふうに区分けしたのです。「とても良い人達」、「普通の人達」、「あまり良くない人達」そして残りが「それ以外の人達」という具合です。


クリスチャンホームと教会の守りから離れて、私はキリストとともに誘惑に直面することを学びました。このキリストこそ既に罪と地獄、そして死からも勝利されたお方です。

高給とまた気前良いボーナス故に、その頃の私は1年のうち3ヶ月だけ働けば十分に生活できるほどでした。そういう現実ではありますが、スキルを維持するためにはこの業種で少なくともパートタイムで働いた方が良いでしょう。

イエローストーン国立公園から兄の家族のいるワシントン州に行きました。
そこでは私に見合う仕事が見つからなかったので、南カルフォルニアの弟の家庭にその後移ったのです。そこでは少なくもメイドの仕事を見つけることができました。

#ドロシー師

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光の中に生きるもの

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Sacramentoのベスト日... Sacramentoのベスト日本レストラン、MIKUNIレストランのダウンタウン店 すでに20年近く通っているがラ... すでに20年近く通っているがランチ弁当ボックスがあるのをこの日初めて発見してオーダー。もちろんグッドでした。


ヨハネの手紙 第一 2章9~11節



"光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。
自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。"



私は一人っ子だから兄弟を憎むことも愛することができない、と勘違いしないでください。
ここで言う「兄弟」とは、信仰者お互いのことを指しています。

キリスト教会の中での分裂、クリスチャン夫婦の崩壊や離婚、宣教チームの仲違い等、不幸にして兄弟間の一致が保たれない場合があります。

新約聖書時代の最大の宣教師であったパウロとバルナバですら意見が異なることから議論したが互いに譲らず「激しく反目となり」、宣教チームは瓦解して互いに別行動をする事になりました。
使徒15:36-39

考え方の合わない兄弟に対してもし「憎しみ」と言う感情が沸き出てきたならばここのみ言葉からサーチライトに心照らされてみると良いかもしれません。憎しみは人殺しであり、それは永遠の命を持つ者のことではない、とヨハネは非常にシビアにクリアカットです(ヨハネ3:15)。

聖書理解が異なったり意見が異なっていたとしても、憎しみから守られることは出来ます。
そして愛することも出来るのです。
なぜなら私たちは光の中に、つまりイエスキリストとの交わりの中に生きているものだからです。

もし兄弟を憎んでいるとしたらその人は闇の中にいる、と聖書は明快です。その闇は彼の目を盲目としどこに行くのかを知らない、つまり自分自身とその言動を理解できていないと指摘しています。

#メッセージ

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麻疹が流行ってるようです

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サンフランシスコダウンタウンに... サンフランシスコダウンタウンにて





人体の持っている不思議さ。

州外遠出から帰ってきて先週末を共に過ごした息子に麻疹の疑い。

倦怠感と高熱のためベッドに伏してことが多かったけど咳など風邪の症状は無い。日曜になってから胸と首周りに赤い湿疹ができた。
その夜、家人が病院に連れて行き、医師は彼から摂取したサンプルをオリンピアに送って現在も診断待機中。麻疹の疑いのある彼は学校にも登校出来ない。そのサンプルが間違った医療機関に送られたとことでもう1日無駄に学校に行けない日が伸びた。

その間、医療機関が私の携帯に電話をして色々と聞いてくる。
現在オレゴン州で麻疹が流行しているとのことで、数週間前に私がポートランドに行ったときの日時やその行動状況。
先週末に息子をどのような場所に連れ出し、どのような活動をしたか。さらに私自身が幼少期に日本でいつ麻疹ワクチンを受けたかなど。これについては数年前母から譲り受けた母子手帳があったのでその正確な50年前の日時を提示できた。
と言うわけで現在も診断が降らない彼は学校にも行けず1人でお留守番。現在サンフランシスコにいる私は何もしてあげること出来ず。

それにしても50年前に接種した父親の麻疹ワクチンが、現在の息子の人体にどんな影響があると言うのだろうか?
#健康

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