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「宝は土の器の中に」

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「宝は土の器の中に」





ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。











「宝は土の器の中に」





コリント人への手紙 第二 4章6~16節



"「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。"




(1)  私たちは土の器



①  当時イスラエルでの食器は粘土で作られていた。割れやすく、すぐに壊されてしまう。


② 私たちの体も、心も傷つき壊れやすいもの
  


(2) 宝が土の器の中に入って



① 「宝」とはキリストご自身のこと。啓示の光を照らされた心に、その神の栄光を知る者にされた(6)。



②宝が器の中に注入されて居住した経験が、ペンテコステの日に起こった。
主イエスの霊が各自に注がれて、その方と共に生きるものとされた。




(3) 神の栄光の表れ~計り知れない神の力が明らかとされる



 ①死にゆく体に対し、主イエスのいのちが明らかとされる(10)


②  信仰の霊を抱いているが故に宣教する(13)


③  すべてのことを感謝に至らせる~苦しみ(8)、迫害や躓き(9)さえも


④  日々新とされる内なる人(16)


⑤今の艱難をテコとして計測不可能な重たい栄光へ至らせる(17)



(結論)



本日は、ペンテコステ記念日です。

神の霊が注がれて、今、私たちの内に主イエスが生きておられます。

私たちは日々衰えていく土の器に過ぎなくても、この尊い宝をいただいて永遠の栄光に至るものとされています。
#メッセージ

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「愛から引き離すものあるか」

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「愛から引き離すものあるか」
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「愛から引き離すものあるか」










ローマ人への手紙 8章31~39節










"では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、

高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"










(1)  繋がっていた愛



①キリストの十字架において
  極限にふみにじられ、死の底に突き落とされたとき




②父と子との関係は揺るがなかった   
  父の愛がその時注がれていた。私のあの暗黒の時にも、イエス様の愛は注がれていた。







(2) 表された栄光







① 最も卑しめられた時に栄光が表されるのか?
  「この方は誠に神の子であった」と100人隊長の告白




②  神の愛と義、救いと裁きの交差~スパークによる遮光のように
 私のあの悲惨な屈辱と卑下された経験は、神の愛に気づくキッカケとなり得た







(3) 確定された勝利







 ① 「屠られる羊とみなされた」(36)ものが「圧倒的勝利者となる」(37)のは、
  先駆者キリストゆえ。







②  このキリストが復活され、神の右の座におられ、私たちのために執りなしておられる(34)。

 よって困難も迫害もどんな被造物も、キリストの愛から私たちを引き離すことはあり得ない(35、39)。










(結論)










1923年の関東大震災で、被災民の蚊帳にろうそくの火が十字架に光る。

その絶望した状況の中にキリストの愛を感じたマーチン宣教師の作詞作曲したのが、聖歌397番「遠き国や」だった。あなたのあの暗闇の瞬間にも、キリストの愛が輝いていた。
#メッセージ

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「聖書が教える信仰について」

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「聖書が教える信仰について」






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「聖書が教える信仰について」










創世記 15章1~6節










"これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」

さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」

すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。"










信じるとはどういう事か






自己努力による信仰の振起
  自分を説得しながら、対象(他者でも自己でも)を信じようと努める姿勢

  「我が子に限って」、試合前に自分を信じるとか。




暖かい体験を通じて説得でなくても喚起される心情
  幼児が無条件に母の胸に抱かれる光景







(2) Abrahamにとっての信仰







創世記12章から:「ウルからあなたを連れ出した主」(7)に対する信仰と従順は見事
 ~神の約束の言葉も、Abrahamには虚しく聞こえた(2-3)




創世記15章に至って: 満点の星々を見せられ、神の温かい御心に触れることができた      新しい意味での信仰を抱く (3) 誤解を生じやすい教え






(3) 神があなたに到来される時







①自己説得の信仰においては、平安も確信も与えられないのが私たち

15章以降においてもアブラハムはしばしばそのような現実の中をさまよう

16章で、ハガルを迎えて息子イシュマエルを得る

さらに17:17。




②私たちのところに訪れては懇ろに語り、温かく包む

18章で神とその使命ら3人の訪問を受けている







(結論)







"ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。"

イザヤ書 46章3~4節




私が気づく前から目を留め運んでこられた方がいた(私の誕生以前から)
 

「信じる」とは、この方の暖か眼差しを発見すること(人生の時点)



弱さと限界を迎えても神は背負い、運び、救い出す方(今後も)
#メッセージ

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「二通りの生き方」

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「二通りの生き方」
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「二通りの生き方」










マルコの福音書 8章31~38節










"それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。

自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」"







(1)  ペテロ流生き方









①  イエスを「諌めた」(32)
  苦しみ、捨てられること、殺されるのは、人が最も避けたい事柄

  人は苦難を避けて自らを楽しませ喜ばせることに注意を向けたいもの




② その理由
  イエスへの同情心~人間中心主義・ヒューマニズム

  その奥底には、自らの野心を満たしたいとの欲望~メシア王国での地位










(2) イエス流生き方










① ペテロを「叱って」(33)~原語では「諌めた」(32)と同語
 「サタンよ、しりぞけ」~ペテロのヒューマニズム的観点には悪魔の考えが潜む: 荒野での誘惑




② その理由 「神のことを思わないで、人のことを思っている」~ 個人の享楽的な生き方を否定して、神の国の前進とその強化のためには自己犠牲すべき時がある。






(3) 誤解を生じやすい教え










①イエスの弟子となる道は、自発性・自主性が土台

 「誰でも私についてきたいと思うなら」(34)~そこには他者の模倣や強制・期待は関与せず




②さらに、あなたへの個人的な使命に関わることである

 「自分の十字架を負って」イエスにとっては文字通りの十字架であり、ペトロにとって逆さ十字架であり、Abrahamにとって我が子の全身供養であった。










結論 ~ 近視と遠視










① ペテロ流行き方とは、近視眼的
 自分のこと、たった今の享楽だけを考えたら、割に合わない。

 死や十字架のどこに意味があるのか?




 

② イエス流生き方とは、遠視眼的
 現世の霊的生活において、安全と豊かさが約束されている。

 やがてイエスの再臨のときには大きな報酬(千年王国での地位)が約束されている。
#メッセージ

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「透徹された秩序」

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「透徹された秩序」
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「透徹された秩序」



マタイの福音書 8章5~13節


"イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、

「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。

イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。

しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。

と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」

イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。"





(1)権威の下にある百人隊長


①日常経験から
  軍隊の規律は、権威と秩序をいやがおうにも知らしめた

②日常経験をキリストの世界にも援用した
  「行け」と言えば行く権威の下にある世界に生きていた」(9)


(2) 権威や秩序を見出せない私たちの世界


①病、心身の汚れ、罪、イライラや高慢、壊れた人間関係など多くの無秩序にさらされている
 健全な状態が何であるかを分かっていても、その相手や環境、自分自身でさえも変えることができず、いつしか諦めてしまう。

② カオス(混沌)の中に浸っているとあきらめが先に来てしまう。キリストの話を聞いても自分とは無縁の世界であると決め込んでしまう。



(3) 声に出して願う事から1歩が始まる


①「ただお言葉を聞かせて下さい」
 「光あれ」と言われた神は、その瞬時に光を創造された。

②主は待っておられる
 「イスラエルの家の誰にも、このような信仰は見たことがない」(10)
すべてを統べおさめておられる方は、私たちを心配し深く憐れんでおられる。



(結論)



混沌としている私の心にも周囲の世界にもキリストの権威が存在していることを認めよう。

主が仰せられたらその通りになる。主の絶対的な主権者としての発動を求めようではないか。

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「お着物に触る事でもできれば、きっと」

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ヤッホの港 ヤッホの港
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「お着物に触る事でもできれば、きっと」










マルコの福音書 5章25~34節










"そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。

彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。

彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。

「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。

すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。

イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」

すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。

彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」"










(1) 希望を失った女性






①不治の病
  12年間の漏出を病む女性~体力を消耗するばかりか、社会的に大きな制約を受けた。

  レビ5:25




②悪くなる一方であった
  全財産をつぎ込んでも医者には解決できずに、症状は悪化するだけ

  これはまさに罪ある私たちの写し絵ではないか~ドラック、酒、快楽などに溺れて中毒になった挙句、健康と財産を失う。







(2) イエスのことを耳にして







①イエスをメシアであると信じて
  メシアにしかできない癒しの奇跡を、主が行っていることを耳にしたゆえ

  




② 「お着物に触る事でもできれば、きっと直る」

 ユダヤ人男性の着るガウンの四隅についているフサの事

自分に直していただく資格があると考えたのではない。癒し主にその権威があるとの確信。







(3) 病気にかからず、健やかで






①主のなされた「救い」=「直る」(28,29,34)の業は、瞬間の出来事
  私たちを赦し、命を与える主の業は瞬間的である
恐れ震えながらも、主がしてくださったことを告白して確証を得る




②その後の人生においても健やかであれとの継続される祝福
 主に対する感恩と感謝からの信頼関係が継続した








(結論)







時に私たちは重たい現実を前にしてどう祈ればよいのか、人々に説明したら良いのか分からないことがある。そんな私たちの罪や汚れ、恐れや戸惑う心を主はご存知だ。

主はそんな私をも拒絶されずに受け入れてくださる。礼拝に来たのは、御衣に触れるため。それだけでも良いのではないか。
#メッセージ

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「彼らの信仰を見て、イエスは」

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「彼らの信仰を見て、イエスは」


ホサナキリスト教会、日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



「彼らの信仰を見て、イエスは」


ルカの福音書 51726


"ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。


すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。


しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。


イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。


ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」


イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。


『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。


しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」


すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。


人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」"






  1. 不撤退の進撃~信仰を確かなものとせよ





  1. 不治の病である中風


  脳血管障害による全身麻痺。歩く事はもちろん、話すこともできなかったのではないか。




  1. 「何とかして家の中に運び込み」(18)


  家には入ることができない現実。その壁を乗り越えるための非常手段が行使されて。




(2) メシアへの傾倒~信仰の方向性を確認せよ





  1. パリサイ人らのもっともな反論


  「神の他に、誰が罪を赦すことができよう」(21)




  1. 友人らのイエス様への理解と信仰


  病をおいやしになられるメシア


  罪をお赦しになられるメシア





  1. 人と人との絆が結ばれて~個人主義でない、関係作りによる信仰





  1. 主イエスは友人らの信仰をご覧になられた


  この場合、癒しの必要な本人の信仰が問われていない




  1. 彼らの間にある愛と信頼の絆~そこから熱意と行動力が生み出された





(結論)




個人の信仰告白が、その当人を救いに至らせるのは間違いない。


同時に、信仰告白に至らないほどの制約下にある人はどうか?


私の信仰を橋頭堡として、さらに広い範囲に主イエスの御力が及ぶことを主は期待されているのではないか。私はどれだけの熱意を友人らに抱いているだろう。


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「神の力による信仰」

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「神の力による信仰」
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「神の力による信仰」



コリント人への手紙 第一 2章1~5節



"兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです"


(1) パウロの宣教主眼〜人々に「信仰」を惹起させること


①聖書の語る「信仰」は何でないのか
  自分の力で神を信じること。願いや仮定を肯定し、説得させようとすること。
  実は私たちは信じることを頑張っては出来ないし、コントロールもできない。

②聖書の語る「信仰」とは
  他者の真実に接触した時、自分の中の真実が立ち上がり、これに応えようとする営み。
  最大の他者なる神の真実に触れる時、それまでなかった真実が蘇って、神に任せている自分を発見する。


(2) パウロの宣教形態〜その見えるところ


①優れた言葉と知恵とを用いなかった。
  コリント教会、ギリシャ世界のトレンドとは真逆。
  むしろ、イエスキリストの十字架以外に何も知らないとした。


②健康的にも弱く、さらに恐れおののいていたマインド。
  肉体的健康に恵まれず、それが気力や気分にもネガティブに波及していた。


(3) パウロの宣教実態〜その隠れたところにあったもの


① 御霊と御力の表れ。
  聖霊の臨在が疑いようもなくその場を覆い、神の力ある業によって病人が癒されていった。


② 神の力によって支えられる信者を排出。
  教会内のあるものは、人間的な魅力や力に頼るシンパを形成(2:4)していたが。



(結論)



私の理解を超えた聖霊様の働きを見させていただこう。
イエス様が今も生きておられることを知らせていただこう。
与えられる信仰によって、神の御霊に導かれて。

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「あなたの本質を見極めるキリスト」

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「あなたの本質を見極めるキリス... 「あなたの本質を見極めるキリスト」
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「あなたの本質を見極めるキリスト」



マルコの福音書 2章15~17節



"それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"



(1) キリストは、人をどう見たのか


①人の本質はどこに? 人は様々な物差しで他者をカテゴライズし、理解しようとしてきた。
  民族、国語、性別、家庭、学歴、職業など。

②キリストはあなたをどう見るか(聖書の人間観)。神の形に造られたた尊いものであり、善なるものである。罪によってこの事実に曇りが生じている。


(2) 人々は、人をどう見るのか


①病の人を見て(2:3) 。 非生産者であり、価値のないものであるとみなす。


②取税人と罪人たちを見て(2:16) 。 神に捨てられているが故に人の社会から阻害され無視されても当然だとし、その差別感情が優越意識を助長させた。


(3) キリストの見方に気づくとき


①私の真の価値に目覚める。罪と病の不健康な状態が真の私ではない。真の私はキリストが自らの命を捧げるほどに尊いものである。私の中に隠れている神の子としての姿をご覧になっておられる。


②他者の価値にも気付く。キリストの愛により癒され満たされたとき、あの人の為にも、キリストは命を捧げられたことに思いが及ぶ。



(結論)


私は自分自身を、そして他者をどのように見てきたであろうか。
キリストの視点でこの世界を見るために、今注がれている私に対するキリストの眼差しを受け入れよう。



#メッセージ

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「人は土を耕すものとなった」

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「人は土を耕すものとなった」

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「人は土を耕すものとなった」


創世記 3章21~24節


"神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。
神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
神である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。"


(1) エデンの園から追放されたアダム


❶裁きの要素
果実・採集生活から労働による農耕生活(17-18)
やがて肉体的な死を迎え、ちりに帰る(19)

❷恵みの要素
労働は、人を堕落から守るようになる
悪を知った人が、そのままの状態で永遠に生きることの苦悩
「いのちの木への道」(24)は一時的に閉ざされていても、やがて開かれるのが暗示されている
「皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」ー動物による はじめての生贄 、贖罪の原初タイプ



(2) 創造の業に参与するアダム


❶土地から取り出された地を耕すことで、生命を維持する生業が始まった
その土地と降水は、植物を成長させ、結実させると言う神の業に他ならない

❷主イエスの4つの種類の土地の例え話から
①道端に落ちた種、
②岩地の上の薄い土壌に落ちた種、
③棘によって塞がれてしまう土地、
④手入れされ耕された土地
〜結実に至るには、人手による耕作が必要である


(3) 自分自身を耕し、また耕して頂くアダム


❶農耕には季節を学び、種の種類を選り分け、品種を改良し、他者との共同作業が必要
〜人は自らが頑固な思いを捨てて、自らを耕す者とされねばならない

「culture」は「耕す」を意味するラテン語「colere」に由来初めは土地を耕す意味で用いられていたが、英語に入って「心を耕すこと」の意味で用いられるようになり、そこから「教養」「文化」も意味するようになった


❷その不従順でわがままな人の心を耕す方がおられる

"わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。"
(ヨハネの福音書 15章1~2節)

「刈り込み」という修正作業を通じて私たちを教導される父なる神



(結論)



私たちは、失楽園の子孫としての肉体的死と霊的死の状態で生まれてきた。
神の子イエスが究極の生贄として、自らの命を捧げられたことにより、神の前に立てるものとされた。今置かれている世界で神と共に働き、耕すものとされたのである。
#メッセージ

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