マタイ16章1~12節
「弟子訓練の必要性」
~マタイ福音書連続講解説教41~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/611241
{メッセージの抜粋}
マタイ16章は弟子訓練の章と言えます。
① 1~12:弟子訓練の必要性が露呈
② 13~20:弟子の信仰告白
③ 21~28:弟子への受難告知
主と弟子たちは、この日も舟でガリラヤ湖の向こう岸(5)へ行かれました。
生活と伝道の根拠地であるカペナウムを離れて、
彼らだけで寂しいところへ退避し、弟子訓練に集中するためです。
主の地上生涯は、すでに十字架までの1年のタイムリミットを過ぎてしまっています。
ご自身が天に引き上げられてから、
弟子たちだけで産声を上げたばかりのキリスト教会を背負わねばならないのです。
弟子たちの双肩にかかっているので、主の訓練にも力が入ります。
舟の中で主は、
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」(6)と弟子たちに言われました。
「パン種」がたとえで用いられた場合、
旧約聖書でも、新約聖書でも例外なく罪とか、その影響力を意味してきました。
弟子たちは当然そのように解釈するとの前提で主が語られたのです。
ところが滑稽なことに、弟子たちは、パンを充分に持参してこなかったのを知られた主が自分たちを咎められたのだと、勘違いしてしまいました。
両者には、着眼している方向性に大きな隔たりがあったのです。
主が言われた「パン種」とは、「教え」のことです。
「パリサイ人のパン種」〜彼らは、イエスが悪霊に憑かれていると結論づけました。
己の願望・欲望が優先されると真理に対して盲目となり、イエスを排除する教えを植え込みます。
「サドカイ人のパン種」〜彼らは、イエスが神殿を否定していると結論づけました。
神殿を中心とする祭司制度は本来の礼拝から大きく外れて、
彼らの懐を潤すビジネスとなっていました。
これらの偽りの教えから弟子たちを守るために主が腐心されておられた時、
弟子たちにとっての最大の関心事は、「今日は充分な夕食にありつけれるだろうか」
といったものだったのです。
主の弟子とされたい私たちも、着眼点がどこを向いているかを確認しましょう。
正しい方向性を得るためには、
1) 単純な信仰によります。
当時の弟子たちには衣食住の課題が常について回りました。
今日の多くの私たちもまた経済的な戦いから逃れることはありません。
「日用の糧を今日も与えたまえ」
~主に対しての信仰の祈りをささげましょう。
私たちの生活の糧も、それを得るための働き、
土台となる健康や人間関係においても主の助けを信じてこのように祈るのです。
金銭という目に見える保証でなく、主に信頼することを学びましょう。
『私の神は、キリストイエスにあるご自身の栄光の富をもって、
あなたがたの必要を全て満たしてくださいます。』 (ピリピ4:19 )
2) それは注意深い警戒によります。
主が「パン種に気をつけなさい」と言われたものは、
人々が簡単に陥りやすい神学でした。
パリサイ主義は、個人の熱心さ、まじめさに基づいていています。
サドカイ主義は、組織の強固さや偉大性に基づいています。
今日の信仰者も、己の義に頼ったり、
大きな組織に属するゆえの安心感があるとしたら、
注意が必要です。
真の義と平安は、主ご自身がが与えて下さるものです。
今日も主に信頼を表明しようではないですか。
「志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26章3節)
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