「よくなりたいか」
7月
7日
説教題: 「よくなりたいか」
聖書箇所: ヨハネ福音書5章2ー9節
このベテスダの池に佇む足の不自由な男の癒しの記事は、
今から30年以上も前、
私が高校1年生の時に
東戸塚教会での特別伝道集会で語られていた物語した。
その時は、
小学校低学年時に数年間日曜学校に出席してからの、
初めてとなる教会出席でした。
そこで「天啓」とも言えるメッセージに大きな衝撃を受けて以来、
今日まで私の教会生活が続けられています。
当時のウブな高校生に拓かれた啓示とは、
①私のことを知っておられたお方がおられた。
「イエスは彼が伏せっているのを見、
それがもう長い間のことなのを知って」(6節)
思うように歩めずに自分自身に失望しては他者を非難している病人(7節)の姿は、
見事に当時の私を照らし出しました。
劣等感と自己嫌悪に陥り、
自分で自分の事が分からなくなっていた私は、
その実情を全てご存知の上で
それを言い当てられたお方の存在に圧倒されたのです。
②私に語られたお言葉があった。
「よくなりたいか」(6節)
ⅰ それは単純な問いかけでした。
よくなれない理由は数多く上げることができた(7節)中で、
主はたった一つのことを聞かれておられます。
ⅱ それは本来的な問いかけでした。
37年間の病の現実は、彼から回復の希望を奪い取っていた。
俗信(4節)に藁をもつかむ思いでベテスダ池に留まっているのは、
他に居場所がないからであり、
癒しのためという本来の目的は忘れていたのだ。
ⅲ それは自己存在に関わる問いかけでした。
鉛のように重たい現実の前に、
良くなれることなんて誰に聞いても無理と言われたであろう。
家族、友人、教師や上司の意見でなく、
「あなたはどうしたいのか」という、あなたの意思に向けられた問いであった。
③私に決断を迫った瞬間であった。
「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」(8節)
この主のお言葉はあまりにも文脈を超越した、
唐突なものでした。乱暴とも言えるかもしれません。
彼に決断を迫るものとなりました。
知識と信仰との間にはギャップ・断絶があります。
人が主の御業に与るためには、
貴方の理屈や経験、
蓄積されて来た自負心などから
飛躍・ジャンプしなくてはならないのです。
当時の私は、聖書知識も教会生活もないに等しい状態でした。
人の説得力からでなく、
天的に迫り来るものを感じたのです。
その招きに応答するなら、
これまでの生き方とは全く別個で別次元の世界が拓かれるのではないだろうか、、
そのように感じながら、
押し出されるようにようにして挙手決心へと導かれていました。
その決心は今振り返って見ると、
私の生涯で最大に意義のある、
最善のものでありました。