小学校2年生で広島の原爆に遭い、家屋の下敷きとなった家族が焼死するのを目撃するゲン。
「はだしのゲン」は作者の中沢啓治による、自身の原爆の被爆体験を元にした漫画です。
戦中戦後の激動の時代を必死に生き抜こうとする主人公中岡ゲンの姿が
生き生きと描写されているもので、
私は題名だけを聞いたことがありますが、実際に本を読んだことはありません。
本日のTVニュースでは、このはだしのゲンを題材にした授業がニューヨークの大学で開かれていたりしているそうです。
すでに英語を始め、世界20ヶ国語に翻訳され、核兵器の恐ろしさ、非人道的な被害を長く与える残酷さがリアルに人々に訴えているようです。
核開発の進むイランでも、在日のイラン留学生がペルシア語へ翻訳したことから、この本を読む人たちが起こされています。
核を持たずに、平和への道を模索する機運を与えるツールとして用いられていきますように期待します。
私も英語版を購入して子供に読ませてあげたく考えています。
S.Fベイエリアにはイラン料理の店が多く見られます。
「ペルシャ料理」と銘打っているところが多いです。
地中海料理の中ではお勧めです。
イランは中東でもアラブ諸国とは趣を異にしている。
紀元前数千年の昔から、
ペルシア帝国を築き上げ当時最新の建築技術で他を圧倒していた時期もある。
先日の大統領選挙で保守穏健派のロウハニ師が当選したことも、
イラン社会にある底力を見せてくれた様に感じている。
保守強硬派のアフマディネジャド大統領は
イスラエルへの暴言を繰り返し、
核開発を強行したため、国際社会で孤立した。
西側からの経済制裁はイランの国民に耐えがたい苦難を強いた。
今回の選挙結果は、その大統領路線に民意がノーと判断したものである。
昨今の「アラブの春」騒動に見られるように、
暴動やクーデターが頻発している中にあって、
正当な選挙によって暴君を引き降ろすことができた。
自己変革の力を見せてくれたように思う。
改革派が選挙活動をほとんど封殺されたという現状で、
第1回投票から過半数という圧倒的な数で従来の路線が否定され、
その選挙結果が穏便に政権交代に移行して行ったのは、
ペルシア人の民主主義に基づく民度の高さ故とみて良いと思う。
国土の広さや人口(7500万人)、資源だけでなく、
歴史的・文化的厚み、民度の高さ(今回のような自己変革していく力)から、
イランは強力な中東パワーになれる条件を備えている。
ただこれは国際社会との融和の中でこそ可能なはず。
特にイスラエルとの平和共存を新政権が模索することを期待する。
いのちと全世界を天秤にかけると、、
マタイ16章21~28節
「弟子への受難予告」
~マタイ福音書連続講解説教43~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6212843
{メッセージの抜粋}
「その時から」(21) という言葉はカギとなるフレイズです。
マタイ福音書では、重大な転機を意味する言葉として用いられています。
4:17にも出現していますが、
そこでは主が公の生涯に入られた転機を示すものとして使われています。
マタイ福音書を「その時から」で3つに区分すると、以下のようになります。
メシアの準備期間 ~4:16
メシアの宣教期間 4:17~16:20
メシアの受難期間 16:21~
さて、16章は弟子訓練の章でした。
弟子たちや一般民衆のメシア理解とイエスとの間には大きなギャップがありました。
主は今まで言及されなかったのですが、
訓練の進み具合を見ながら、
いよいよここで弟子たちが仰天するようなことを開陳され始められます。
❶ 受難の予告(21節)
主の弟子訓練もいよいよギアが入って来ました。
先回はペテロが満点のメシア告白をしました。
これを受けて主は初めて教会設立や、
その経緯や教えの正統性などにも言及され始めます。
そしてさらに、ご自分の受難について預言されたのが今回です。
そこには4つの側面があります。
エルサレムにて起こることである
長老、祭司長(サドカイ人)、律法学者(パリサイ人)たち、これらサンヘドリン構成員たちから受けるものである。
多くの苦しみのあと殺されることになる。
三日目によみがえる。
❷ ペテロの反応(22~23節)
主が死を遂げられると聞いて、
ペテロは不吉な事と感じたのでしょう、師である主を「引き寄せて、
いさめ始めた」とあります。
そこには主への愛情や守りたいとの熱情が見て取れますが、
同時に彼自身の願望や都合も見え隠れしています。
主は、「下がれ。サタン」と厳しく譴責されました。
それはかつて荒野で悪魔の誘惑に会われたときに使われた断定のお言葉と同じものです(4:10)。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 (16:23)
❸ 弟子としての道(24~28節)
主は弟子となる道を解き明かされます。
それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:24-25)
気をつけなくてならないことは、
この聖句は救いにいたる条件を教えているのではないことです。
信者となることと、弟子になることとは異なります。
恵みに応答する信仰により私たちは救いをいただきますが、
もし救われた者が弟子として歩みたいのであれば、
それは自己犠牲の道を覚悟せねばなりません。
ここで動詞の時制に注目してみましょう。
アオリスト時制(決断・ある瞬間に完成される行為)が、
「捨てる」(=自己否定であり自己中心をやめること)と
「十字架を負う」(=神に自己意思を全面的に承服させること)に使われてます。
そして、現在形時制(継続・現在も繰り返される行為)が、
「ついて来なさい」(=日々の実践で神の御心を歩むこと)に使われています。
これら動詞の使い方から教えられることは、
自己の意思や願望などの執着を全面的に主におささげする献身の行為は、
生涯のどこかで明確に決断せねばならないというものです。
その後は、
生活の至る場面でその献身の選択を繰り返すのが弟子の歩みであることです。
人は、たとい全世界を手に入れても、
まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。 (16:26)
この聖句は、
日本へ宣教にやって来たフランシスコ・ザビエルが若い時に神への献身を決意するに至ったものとして有名です。
彼が上陸した鹿児島の港には御影石の記念碑が置かれてあり、
その石碑にこの聖句が刻まれてありました。
彼が万里の波濤を越え来日し、いのちを捧げたがゆえに、
戦国時代の多くの日本人がまことのいのちを見出したのです。
歴史に名を残したからでなく、
主に従った献身の生涯ゆえに、
来たる世にあっても彼には大いなる報いが約束されていることでしょう。
使徒パウロは、殉教する直前に次の言葉を残しています。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現れを慕っている者には、
だれにでも授けてくださるのです 」(2テモテ4:8 )
「義の栄冠」という報いは、
ザビエルやパウロといった功労者だけに備えられたものではないのです。
「主の現れを慕っている者にはだれにでも授け」られるものです。
栄光の報いを目指して、弟子としての道を進もうではありませんか。
この日の土曜もいました。
ユニオン・スクエアのメイデン・ラインにて美しいソプラノを披露して下さるご婦人。
この十数年間、毎週土曜には一度も欠かしたのを見たことありません。
バークレーの見抜き通りの一つ、Shattuck通りの昼下がり。
バークレーは、UCLA大学があることで有名です。
もう一つ有名なのは、この町がヒッピーの聖地であること。
70年代のベトナム反戦運動とヒッピーライフスタイルがこの町で融合し、
一台ブームを引き起こしました。
今でこそヒッピーと言われるホームレスは、ほかの町と比べて特別に多いと感じません。
それでも、名残を家々の様子や町並みに感じることがあります。
たとえば、写真に見られるランチ風景。
中央分離帯にある僅かな緑の芝生に腰を下ろして、
堂々と食事しているのは学生だけではありません。
隣のオークランドにも、カリフォルニアのどこにもこういうのは見覚えがありません。
これも由緒ある?ヒッピー文化の名残でしょうか?
サンフランシスコの日本町。
サンフランシスコ・ベイエリアで牧師をしているS先生と会食しました。
お互い、ほとんど同時期に6月下旬から2週間ほど訪日していたので、
そんなことも報告。
「2週間滞在して、ほとんどプライベートな時間が無かった」と述懐されたS先生。
御教会出身者のための同窓会を全国3箇所で開かれ、2箇所での被災地奉仕。
到着日と、出立日にご両親の家に寄ったのが唯一プライベートと言えるかな。。
なんておっしゃっておられました。
今年の私の訪日も、似たような感じでした。
羽田到着から10時間後には横浜港南教会の日曜礼拝、羽田出立の3時間前までは川崎教会の水曜祈祷会に家族で出席していました。
プライベートと言えるのは、隅田川クルーズに母親を誘ったのと、その夜に高校同窓会に行ったくらいでしょうか?
「そういう訳で」ということではないのでしょうが、S先生は来夏、3ヶ月間の休暇を日本でお取りになるとのこと。
大いに結構ではないですか!
サバティカルとして、これまでに取れていなかった休暇を一気に消費するとのことです。
サバティカルとは、旧約聖書にあるもので、1週に対しての1日、7年間に対しての1年間を休暇として人間や農地に与えよ、との教えです。
もちろん、その運用は社会制度や職種で様々であってしかるべきもの。
そういえば、明治学院の教員がサバティカルを利用して1年間の研究生としてワシントン大に留学、当時ベルビュウーに滞在していたそのご家族とは今でもお付き合いがあります。
もちろん留学費用も滞在費用も大学持ち。
民間企業も同様で、さらに渡航の際にはビジネスクラスが提供されるというのだからスゴイ。
日本の経済力が下火だなんて言われて久しいですが、家族毎海外に研修させるんだから。
ところで聖書に最も親しんでいるはずの、
本家本元のキリスト教会がこの点でかなりの遅れを取っているようです。
私の周りのプロテスタントの日本人教会では、そもそも休みを貰っても外泊出来ない経済事情の牧師たちばかりです。
それを清貧の美徳とするか、改善点と認識するかは、日本の教会人の民度にかかっているのではないでしょうか。
さて、私はサバティカル欲しさにこれを書いているのでありません。
いつの頃からだろうか、私は休暇という概念を捨ててしまった。
On/Offの切り替えや、労働と休養の区別はあっても、
一年365日、一日24時間、常時仕事をしているつもりでいます。
同時に趣味にも励んでいます。
仕事=趣味です。
自分の心からしたいことに取り組んでいるんです。
たった今、夜の12時を超えてしまいました。
そろそろベッドに入り、睡眠という仕事に取り掛かることにします。
S.Fの観光目玉のケーブルカー。
始発駅のパウエル通りにて。
この日は、アメリカの両親の結婚48周年でした。
そこで我が家にお招きして夕食ともにする事に。
と言っても、アルツハイマーを患っている父はケアハウスから外出できません。
母だけが来てくれました。
家内が作った料理の一つは、焼きそば。
野菜と肉、麺を炒めて、さあ最後のソースを、、、
冷蔵庫のドアを開けて取り出したソースを見て、彼女の顔から火が吹き出しました。
取り上げたソース瓶は空っぽ。
一滴とてソースが無いんです!!
「キョ、キョウタ〜 ♪───O(≧∇≦)O────♪」
「な、なぜ、空の容器を冷蔵庫に入れておくんだあ〜!?」
幸い私はその時数百マイル離れたカリフォルニアにいました。
彼女からの「光子力ビーム」@マジンガーz
で焼き殺されずに済みました。
せっかく作った焼きそばを、
家内はあきらめることはできません。
かといっても、ソースのない焼きそばなんて、
クリープを入れないコーヒーのようで、食べれたものでない。
彼女は腹ペコの母親と子供達を残したまま、近所のadverdsonへ走りました。
その店にアジア系の食材はほとんど置かれてないことを承知の上で。
夕方の渋滞時間帯に、
アジア系スーパーまで買い出しに行く暇は間違いなくない。
そこまでしていたら、子供たちは餓死していることでしょう。
そして、、、、、、
案の定、ソースばかりか焼きそばも無いのを確認して手ぶらで帰るしかなかった家内。
どうやって夫の息の根を止めるかを思案しながらハンドルを握って、
自宅の2軒前まで来た時、
その家の白人男性が庭仕事をしているのを目にした。
その人は日本人女性と結婚して、女性と子供は今は里帰り中ゆえの一人暮らし。
家内は車から降りて事情を話すと、男性は焼きそばソースを持ってきてくれた!
ヤッターマン、いい男、救世主!!!
彼のおかげで私の命は、絶対絶命のピンチから救われたのでした。
教訓・ 空の容器は冷蔵庫へ入れざるべからず。
Unitedの機体は、二人掛けのシートが左右に二列に並んであるのみの、まことに小さなもの。カリフォルニアまで飛べるんかしらん?と少々不安に。やがてそれも主にゆだねて夢の中に入りました。
サンフランシスコ・ベイエリアでのレンタカー情報をお伝えします。
これまでシアトルからベイエリアへのフライトは、大抵はオークランドにしてきました。
Southwest を利用すれば手荷物の預け料金が加算されません。
今回、Unitedでサンフランシスコまで飛んだのは、手荷物料金$25を考慮してもこちらの方が航空運賃そのものが安上がりだったから。
ところが、レンタカー料金で痛い目に合いました。
オークランドのそれは、一日約$20。
サンフランシスコでは、倍の$40となってました( ̄▽ ̄)
そういうわけで、もしベイエリアでレンタカーを利用するのでしたら、断然オークランド空港で借りた方が有利です。
寝坊して起き出してみると、すでに妻によって朝食の用意が。
子供たちはそれぞれカードを書いてくれてました。
この日、49回目の誕生日を迎えてしまいました。
49歳といえば、戦国時代では平均寿命らしいです。
これといったことも達成しないまま、伊達に年だけ取ってきた自分が恥ずかしいです。
ところで、織田信長が本能寺の変で自害したのが49歳でした。
1560年の桶狭間の戦いで今川側を奇襲して破ったのが、26歳のときです。
出陣のとき死を覚悟した信長は、敦盛の一節を舞ったと信長公記にあります。
「 此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。
人間五十年 下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、
と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、
御物具召され、たちながら御食をまいり、
御甲めし候ひて御出陣なさる。 」
『信長公記』
現在の平均寿命からすると、49歳なんてまだまだ洟垂れ小僧です。
今後も何事もしないまま年だけ食うことになる私ですが、
ひとつ野望があります。
それを子供たちに、この日伝えました。
それは、
百まで生きて、彼らの孫たちとサッカーするというものです。
それを聞くなり笑ってました。
子供らは本気で私が言っているのを知りません。
私の敦盛は以下のようになります。
「人間百年。
永遠のうちをくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
一度主イエスにある救いを受け
滅せる者のあるべきか。」
同僚や家族を裏切り、殺すことも茶飯事だった戦国時代に
生きていないことをつくづくうれしく思います。
「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされるのだそうです。
すると、、、僅かな人間の一生が、投げやりとなり、空しい無常観を抱かざるを得ない。
主イエスが約束された永遠のいのちは、たかだか500年ではありません。
そして長短に関わりなく、今のこの一瞬が、永遠者との交流ゆえに無上に価値ある時となるのです。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは決して滅びることなく、
また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありあません。」
ヨハネ10章28節
カトリック教会の教皇に聖書的根拠があるでしょうか
マタイ16章13~20節
「弟子信仰告白」
~マタイ福音書連続講解説教42~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6132042-1
{メッセージの抜粋}
16章は弟子訓練の章です。
十字架まで1年を切った段階にあり、
主は12弟子だけを連れて、ユダヤの地を離れてのリトリートに赴かれます。
今回はピリポ・カイザリヤでの弟子訓練の記録です。
そこはヘルモン山の雪解け水が湧出して、
バニヤス川(ヨルダン川の源流)となっている場所で、
偶像のパン神が切り立つ崖に彫刻された異邦人の地でありました。
❶主イエスへの信仰告白
主は弟子たちに、「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」と問われます。
数年間、主と共に生活をしてきた弟子たちの見解と信仰とが試された瞬間です。
『シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 』(16 節)
それは、
①メシアであり、
②神の御子であり、
③生ける神なる方である、という原語の語順であり、100点満点の答えでした。
主は、「幸いなるかな、バルヨナの子、シモン」と感嘆されて、訓練が進んでいることに喜ばれました。
『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」 (17節)
主への信仰告白とはどういうものでしょうか。
それは人間=「血肉」が明らかにするものではない
教育や説得がイエスへの信仰を生み出さない
天の父のみが、この真理へと導くことができるものです。
もし貴方が主をメシアであると告白出来るなら、
それは父なる神が貴方に啓示されたので可能となった事です。
神が貴方を選ばれたからです。
❷教会設立の預言
その告白に至った信仰者に主は言われます。
「この岩の上にわたしの教会を建てます。」
この聖句はカトリック教会にとり、その唯一性、正統性、教皇権継承の根拠となっている大切なものです。
曰く、「この岩」とはペテロを指すので、教会の土台がペテロの後継者であるローマ教皇である、というものです。
ところがこの解釈は、
ギリシア語の原語に遡って調べてみると誤りであることが分かります。
ここでの「岩」とは「ペトラ(女性名詞)」であり、岩山のことです。
ヘルモン山の麓にある高い岩山が、彼らの目の前に聳えていました。
一方、ペテロ・ペテロス(男性名詞)とは石ころであり、
バニヤス川の川床に転がっているものです。
ペテロの名はその石ころを意味したものです。
旧約聖書では、
「岩」がたとえで用いられた場合、それは必ず神かメシアが意味されて来ました。
この文脈を踏まえても、ここでの「岩」とはペテロでなく、イエスご自身のことを言われているのが分かります。
❸ペテロの使徒首位権を確立
主はペテロに、「あなたに天の御国のかぎを上げる」と言われて、
将来設立されるキリスト教会の進展に大きな役割を担う者とされることを約束されました。
ここにある「御国」とは、
「奥義としての御国」(マタイ13:11)、つまりキリスト教界のことです。
ペテロは、人々を教会へ導くパイオニアとなるというのです。
歴史上、どのようにしてこの預言が実現されたでしょうか。
福音は、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となる」(使徒1:8)との主のお言葉通りの伝播経路を辿りますが、
各展開のステップにおいてペテロがキーパーソンとして活躍しているのです。
エルサレムとユダヤ人に(使徒2章)
サマリヤ人に(使徒8章)
異邦人・コルネリオ(使徒9章)
さらにペテロには、
使徒的権威として正典(霊感された聖書の言葉)を定める者とされる預言が続きます。
「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、
あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」 (19節)
「つなぐ」とは、禁止を表し、
「解く」とは、許可を表すラビ用語です。
彼の言葉が神的権威を持つものとされるというのです。
彼が後に書いた書簡は新約聖書の中に『ペテロの手紙』としてその2巻が納められています。
さらにその聖書記述者となる神的な権威は彼個人だけでなく
、弟子集団に与えられることになります(マタイ18:18)。
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