❻ガラテヤ3:23-25
「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、
閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
(3:23-25)
ここでは律法が、
未成年者をメシアへの信仰へと導く養育係、家庭教師と見なされている(3:24)。
それなら、メシアを信じた以上、その養育係の下にいないことになる。
我々はもはやモーセ律法の権威の下にはいないのである。
この箇所は、それ以上にはない明快さで、メシア到来により律法が無効になったことを論じている。
99号線からダウンタウンを眺めて。
この季節の晴れ間は貴重な瞬間です。
夏から秋への変化は、自然界で色彩だけではない。
それは雨季に入ったことを意味する。
日本のような豪雨でないが、いわゆる霧雨が数度も一日に降る毎日が、
翌年の春を迎えるまで続く事になる。
夏場の最盛期には夜も10時頃まで残照で明るいのであるが、
これからは暮れて行く時間も、日に日に早まって行く。
おまけに雨雲に閉ざされた空では、
お日さんが顔をなかなか出してくれない。
夏に蓄えた日光浴の貯金で、この雨期を乗り越えられるだろうか。
貯金をはたいてしまうと、鬱にもなりかねない。
ある美容店の入り口に飾られてありました
シアトルでは、この週からすっかりと秋らしくなった。
米国大陸には珍しくも、四季の変化が鮮やかなシアトル。
先週は残暑に「暑い」だなんていう言葉も飛び交う日もあったが、
もうそれは過去のものとなった。
秋になると、街中の装飾がいっせいに黄土色へ変わって行く。
夏の間、生命力溢れる緑の衣をまとっていた街路樹が黄色や橙に衣替えし、
やがてその衣を脱いで行く。
パンプキンのピックアップを宣伝する農場の看板も、
あちこちで目にするようになった。
すでに我が家の玄関には、パンプキンが3つほど置かれている。
そんな色彩豊かな秋は、11月末の感謝祭で絶頂を迎える。
❺エペソ2:14〜15
「14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、
隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、
平和を実現するためであり、」
律法は隔ての壁といわれていたが、今やそれが取り去られた。
神様は、イスラエルと4つの無条件契約を結ばれてきた。
①アブラハム契約
②土地の契約(アブラハム契約の土地に関する条項が発展)
③ダビデ契約(アブラハム契約の子孫に関する条項が発展)
④新しい契約(アブラハム契約の祝福に関する条項が発展)
物質的なものであれ、霊的なものであれ神様の全ての祝福は
このユダヤ人の4つの契約を通じて与えられるものである。
神様はまた5つ目の契約を与えられたが、それは他の4つの契約とは異なるもので
条件付きで一時的なものであった。
それがモーセ律法を包含しているモーセ契約である。
モーセ律法は隔ての壁の役割を果たし、
異邦人をユダヤ人の霊的な祝福から切り離していた。
もしモーセ律法が今でも有効であるのなら、
それは異邦人を今でも分け隔てる壁となっていなければならない。
しかしその壁がメシアの死と同時に崩壊したのである。
「ご自分の肉において」とは、「ご自分の肉体によって」との意味であり、
つまり死を通じてとのことである。
この神学的な重要ポイントを象徴とする出来事が
メシアの死の瞬間に起こっているのを福音書記者は忠実に記録している。
「50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 」
(マタイ 27:50-51)
ここで「神殿の幕」とあるのは、
神殿内の聖所と至聖所とを隔てる厚手のカーテンのことである。
至聖所には大祭司一人が全イスラエル&人類を代表して
1年に一度だけしか入れなかった。
聖所には祭司しか入れず、さらにその周りを取り囲む境内の内庭には
イスラエル人男性しか入れないとモーセ律法は命じる。
男性と女性、異邦人とイスラエル人、一般人と祭司、祭司と大祭司、、、
これら人と人とを区別する掟があり、
神に近づく際にも隔たりがあるとモーセ律法は教えている。
上記の新約のエペソ書では、
隔ての壁とはモーセ律法であると明言されてある。
それはつまり、
モーセ律法がメシアの死と同時に無効となったと理解しなくてはならない。
隔ての壁が除去された今、
異邦人は異邦人のままで信仰の原理により、
メシアなるイエスにある約束をともに相続し、
ユダヤ人の霊的な祝福に与り楽しむことを許されている。
田村先生
知らなかった世界に目が開かれて行く想いでした
この日のホサナキリスト教会は、
日本国際飢餓対策機構で主事を務めておられる、
田村治郎先生をお迎えしました。
アフリカの知られざる実情の数々に
驚くことしきり。
我々の通常の感覚や常識の通じない世界で、
犯罪、レイプ、虐殺が起こったルワンダやコンゴ。
その暗闇に「光」を灯すために、
現地で活躍しているクリスチャンたち。
先進国の経済力や技術力が、
アフリカの豊かな資源を利用するのは良いが、
結果として
現地を貧困のままに留め置いている現実。
気の遠くなるような複雑な問題を抱えている国々の実情にあって
カギは、
はやり人作りにあることに気づかされました。
土砂降りでもテノールおじさんの声はユニオン・スクエアに響きます
シアトル行の飛行機。
パイロットが自ら窓拭きをしているのを初めて見ました。
この日、サンフランシスコは大雨に見舞われた。
この街で初めて傘がほしいと思った。
ここ5ヶ月間ほどは、まともな雨が降っていないようである。
いとこが住む近所の山、Mt.Diabloでは激しい山火事となり
数百人に避難命令が出されたのが先週のことだった。
この雨は必要とされていた。
だから文句を言うわけにはいかず、
さりとてずぶ濡れになるのも気が引けて、
早めのランチをと、お馴染みのレストランに駆け込む。
サンフランシスコからハイウエイ80を北上して
ベイ・ブリッジを走行している時に気がついた。
「あっ!」
「新しいブリッジを通っている」
数年越しの工事がついに完成したんだ。
右側に以前のベイ・ブリッジがドーナッツ状になって並行している。
新しいベイ・ブリッジは、上下線が左右に幅広く別れている。
高いポールには数多くの照明ライトがくっついていて、充分以上の明るさに照らしてくれるようだ。
きっと毎朝の渋滞もレーン増設によってすっかり緩和されていることだろう。
それはサンフランシスコに至る上り車線を通行しないと分からないことであるが。
米国の主要都市であっても、
インフラ整備に絶えず追いかけられている。
❹ヘブル7:11〜19
「11 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、--民はそれを基礎として律法を与えられたのです--それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
12 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
13 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
14 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
15 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
17 この方については、こうあかしされています。 「あなたは、とこしえに、 メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
19 --律法は何事も全うしなかったのです--他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」
モーセ律法は、レビ系祭司制度の法的根拠を与えていて、
いわばモーセ律法とレビ系祭司職の間には不可分の関係が構築されていた。
上記の聖句が教えているところは、
新しい法律の下にあって、初めて新しい祭司職が機能出来る、という点にある。
ある一つの法体系の下では、一つの祭司制度しか存続が許されないのである。
モーセ律法の下ではそれがレビ系祭司制度であった。
そのレビ系祭司制度では、完全をもたらさなかった。
その見解はヘブル9:11〜10:18において論述されている。
動物の捧げられた血(レビ系祭司制度)は人を完全としなかった、と明快である。
ただメシアの血(メルキゼデク系の新しい祭司制度)だけが完全な救いを与えるものであると説明されている。
今やレビ系祭司制度は終わって、新しい祭司制度に取って代わったのということは、
それを執行するための法律も変えられなければならない、ということだ。
モーセ律法が機能しているとするなら、
それに準拠しているレビ系祭司制度を除いて他の如何なる制度も無効である。
それなら、法体系は変わったのだろうか?
「前の戒め(モーセ律法)は、弱く無益なために、廃棄された」(ヘブル7:18)
もはやモーセ律法が効力を失ってしまったので、
メルキゼデク系列の新しい祭司制度とそれを支える新しい法体系が必要となったのである。
もし今もモーセ律法が有効であるとするなら、
主イエスは祭司として働くことはできない。
結論はこうだ。
新しい法体系ゆえに、モーセ律法は廃棄されねばならなかった。
メルキゼデク系列の祭司制度を成立させるための新しい法律が機能し始めるために。
❸ガラテヤ3:19
「では、律法とは何でしょうか。
それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、
違反を示すためにつけ加えられたもので、
御使いを通して仲介者の手で定められたのです。」
3番目の論考は、律法は永遠に存続する掟として想定されていなかった、という点。
それは一時的なものであり、いわば時限律法なのだ。
ガラテヤ書の「来られる時まで」という条件節に注目していただきたい。
この部分の文脈で、パウロはモーセ律法とはアブラハム契約に「つけ加えられた」ものであると解説している。15-18節
「15 兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。
17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。
18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。」
(ガラテヤ 3:15-18)
人々に罪を明確に認識させる目的として
律法は「つけ加えられた」ものである。
これによって、全ての人は、誰もが神の義の基準には達しないことを知るのだ。
律法は一人の子孫(メシア)が来られる時まで、
一時的に付け加えられたものであり、
そのメシアが来られた今となっっては、
律法は終了した。
「付け加えられたもの」は、
十字架の役割が始動し始めたことにより廃止となったのである。
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