土砂降りでもテノールおじさんの声はユニオン・スクエアに響きます
シアトル行の飛行機。
パイロットが自ら窓拭きをしているのを初めて見ました。
この日、サンフランシスコは大雨に見舞われた。
この街で初めて傘がほしいと思った。
ここ5ヶ月間ほどは、まともな雨が降っていないようである。
いとこが住む近所の山、Mt.Diabloでは激しい山火事となり
数百人に避難命令が出されたのが先週のことだった。
この雨は必要とされていた。
だから文句を言うわけにはいかず、
さりとてずぶ濡れになるのも気が引けて、
早めのランチをと、お馴染みのレストランに駆け込む。
サンフランシスコからハイウエイ80を北上して
ベイ・ブリッジを走行している時に気がついた。
「あっ!」
「新しいブリッジを通っている」
数年越しの工事がついに完成したんだ。
右側に以前のベイ・ブリッジがドーナッツ状になって並行している。
新しいベイ・ブリッジは、上下線が左右に幅広く別れている。
高いポールには数多くの照明ライトがくっついていて、充分以上の明るさに照らしてくれるようだ。
きっと毎朝の渋滞もレーン増設によってすっかり緩和されていることだろう。
それはサンフランシスコに至る上り車線を通行しないと分からないことであるが。
米国の主要都市であっても、
インフラ整備に絶えず追いかけられている。
❹ヘブル7:11〜19
「11 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、--民はそれを基礎として律法を与えられたのです--それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
12 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
13 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
14 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
15 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
17 この方については、こうあかしされています。 「あなたは、とこしえに、 メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
19 --律法は何事も全うしなかったのです--他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」
モーセ律法は、レビ系祭司制度の法的根拠を与えていて、
いわばモーセ律法とレビ系祭司職の間には不可分の関係が構築されていた。
上記の聖句が教えているところは、
新しい法律の下にあって、初めて新しい祭司職が機能出来る、という点にある。
ある一つの法体系の下では、一つの祭司制度しか存続が許されないのである。
モーセ律法の下ではそれがレビ系祭司制度であった。
そのレビ系祭司制度では、完全をもたらさなかった。
その見解はヘブル9:11〜10:18において論述されている。
動物の捧げられた血(レビ系祭司制度)は人を完全としなかった、と明快である。
ただメシアの血(メルキゼデク系の新しい祭司制度)だけが完全な救いを与えるものであると説明されている。
今やレビ系祭司制度は終わって、新しい祭司制度に取って代わったのということは、
それを執行するための法律も変えられなければならない、ということだ。
モーセ律法が機能しているとするなら、
それに準拠しているレビ系祭司制度を除いて他の如何なる制度も無効である。
それなら、法体系は変わったのだろうか?
「前の戒め(モーセ律法)は、弱く無益なために、廃棄された」(ヘブル7:18)
もはやモーセ律法が効力を失ってしまったので、
メルキゼデク系列の新しい祭司制度とそれを支える新しい法体系が必要となったのである。
もし今もモーセ律法が有効であるとするなら、
主イエスは祭司として働くことはできない。
結論はこうだ。
新しい法体系ゆえに、モーセ律法は廃棄されねばならなかった。
メルキゼデク系列の祭司制度を成立させるための新しい法律が機能し始めるために。
❸ガラテヤ3:19
「では、律法とは何でしょうか。
それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、
違反を示すためにつけ加えられたもので、
御使いを通して仲介者の手で定められたのです。」
3番目の論考は、律法は永遠に存続する掟として想定されていなかった、という点。
それは一時的なものであり、いわば時限律法なのだ。
ガラテヤ書の「来られる時まで」という条件節に注目していただきたい。
この部分の文脈で、パウロはモーセ律法とはアブラハム契約に「つけ加えられた」ものであると解説している。15-18節
「15 兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。
17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。
18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。」
(ガラテヤ 3:15-18)
人々に罪を明確に認識させる目的として
律法は「つけ加えられた」ものである。
これによって、全ての人は、誰もが神の義の基準には達しないことを知るのだ。
律法は一人の子孫(メシア)が来られる時まで、
一時的に付け加えられたものであり、
そのメシアが来られた今となっっては、
律法は終了した。
「付け加えられたもの」は、
十字架の役割が始動し始めたことにより廃止となったのである。
❷ローマ10:4
「キリストが律法終わらせたので、信じるものはみな義と認められるのです」
「終わらせた」は、ギリシア語で「テロス」である。
この語は「終了」とも、「目的」とも双方に翻訳の可能な語句である。
古典ギリシア語辞典の権威であるThayer's Greek-English Lexicon of the New Testamentでは、
テロスの第1義的な意味を「終了」としている。
その上、ローマ10:4をその用法例として取り上げている。
それで「終了」とした方が通常のギリシア語用法からして相応しい、となる。
しかしながら、どちらの意味にとっても結局のところ構わない。
聖書は両方を教えているからである。
メシアは律法の指し示した目的であられたが、
同時に律法を終わらせた方でもあられる。
律法によって私達が義に至ることはない(ガラテヤ2:16)。
そればかりでなく、
律法によって聖化されることも、
栄光のからだを受けること(栄化)もない(ヘブル7:19)。
「19 --律法は何事も全うしなかったのです--
他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。
私たちはこれによって神に近づくのです。 (ヘブル 7:19 )
義認、聖化、栄化はメシアにとって与えられる恵みであることからすると、
メシアは律法の目的であったとしても良いはずである。
繰り返すが、
律法はこれらの祝福を教えているが、
成就には至らなかったのである。
そこでメシアの死によって律法は「終了」し、
現在では義認にも、聖化にも役立たないのである。
特に信者には無効とされている。
さらにつけ加えるなら、
ローマ10:4は、
ローマへの手紙のもっと広い文脈で解釈されなくてはならない。
そこにはローマ7:1-6も含まれている。
そこでパウロは「律法からの解放」を高らかに宣言しているのである。
首尾一貫した読み方をしようとすれば、
ローマ10:4は、「目的」でなく「終了」と解釈する他ない。
「教会内での罪の処理」
マタイ18章15~ 20節
~マタイ福音書連続講解説教48~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8152048
❶「奥義としての御国」であるキリスト教会
「御国」(Kingdom)とは何であるか?
聖書には5つの概念が見て取れます。
「キリスト教会」がその一つであるのですが、
それは旧約聖書には啓示されておらず、
マタイ13章に至って初めて明らかとされました。
マタイ16章と18章には「教会」という言葉が出て来ましたが、
福音書ではそこだけで使われています。
「教会」という「御国」では、
その王であるメシアは天にあって統治されています。
王国の臣民である我々信者は、地上に王が不在ですので、
王の遺された言葉と聖霊が導いて書かせた言葉、
つまり新約聖書を頼りにして王の御心を実現して行くのです。
マタイ18章では、
教会内での統治(政治)の有り様を王が示してくださった所と言えます。
今回の箇所は、もしその教会内に罪の問題が起こった際に、
どう対処すれば良いのかを王が教えてくれた箇所です。
王を悲しませる罪を放置せず、除去せねばならないのですが、
それには方法があります。
私達は、往々にして罪の問題に対処するよりも、
人との対立を避けるがために罪をウヤムヤにしがちなのです。
あるいは、噂話やゴシップに流されてしまう悪癖に傾きやすいのです。
そこで王が示された4つの対処法を学んで見ましょう。
❷罪を犯した人への対処方法(15~17節)
1. 個人的な直接交渉:「行って、あなたと彼だけの間で責めなさい」
先ず、傷つけられた人は、
罪を犯した人と直接面談して話し合うように勧められています。
レビ19:17が旧約聖書にある背景です。
「責めなさい」(エレンワソン)とは、
「認めさせる」(ヨハネ16:8)のことであり、
罪を弾弓するのが交渉の目的でありません。
2. 証人を同行する:「ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい」
申命記19:15の教えと合致します。
これも個人的中傷の類でなく、客観的な証拠を確認するためのものです。
3. 教会の裁定:「教会に告げなさい」
それでも当人が罪を認めずに改めることをしないのであれば、
教会という秩序ある組織に訴えねばなりません。
ここにある教会とは、物理的に存在している各地方教会のことです。
それに対して16章にある教会は、
目に見えなず、時代を超越し、全世界で霊的に新生した信者をメンバーとしたもの、目に見えない普遍的な組織を意味しています。
4. 追放する:「異邦人か取税人のように扱いなさい」
教会の裁断にも従わない場合は、最後の手段として、
その交友から切り離すことが教えられています。
具体的には除名などの処分であり、
のちになってパウロがコリント教会のあるメンバーに対して執行しました(Ⅰコリント5:11)。
❸主イエスの同席と承認(18~20節)
しかしこれらのステップを踏むのは何と困難なことでしょうか。
しかし主の言葉を踏襲して行く時に、
そこに主も同行してくださる約束が記されてあります。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、
わたしもその中にいるからです。」
(マタイ 18:20 )
この聖句は多くの場合、文脈を無視して取り上げられて来ました。
まるで2ー3人の信者の集まりでも、
主が臨在してくださっている、
そこも立派なキリスト教会だ、というような説明の仕方で。
それは当ホサナ教会のような小さな群れには
励ましとなる解釈には違いありませんが、本意を得ていません。
ここでの「2ー3人」とは、その直前に出てくる証人や当事者たちのことです。
同様に
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」 (マタイ 18:19 )
とある聖句は、複数者での祈りの効用を教えたものではありません。
たとい2人でも3人でも、
当事者達が真実になってその困難極まる和解のプロセスに臨むのなら、
主はそこに同席され、
父なる神も祈りに応えられ、
交わりが回復されるという意味です。
長男は背番号1
この日から二人の子等のサッカーシーズンが始まった。
午前と午後、それぞれの子等の試合を観戦。
長男は今季からセレクト(選抜)チームに入ったこともあり、
試合もサッカーらしいものへとレベルアップしている。
コーチはナショナルチームのU16も指導していて
一流のコーチスキルを持っているという。
すでに始まている週2回の練習の際も
ハードなランニングなどもあり、
いつもクタクタで帰ってくる。
妻は今回も長女チームのコーチを引き受けて
選手育成に日頃から余念が無い。
写真のピッチは人工芝。
ここが公立中学校の校庭である。
コーチ陣も、設備も、サポート体制も、
羨ましいほどに恵まれている米国の少年スポーツ事情。
だが、それを生かせるかどうかは別問題。
恵まれていると、それを恵みとして感じないものだ。
そこに怖さがある。
子どもらには、与えられている機会を充分に生かしてほしい。
おっと、これは子どものことだけではないであろう。
私自身は与えられている数々の恵みと特権を活用しているか?
新約聖書は、「モーセ律法はメシアの死によって無効となった」
と教えていることに疑問の余地はない。
換言するなら、
モーセ律法は新約時代を生きる現在の誰に対しても強制力を持っていない。
今後、このことを新約聖書自体の7つの証言から検証して行く。
❶ローマ7:1〜6
「1それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか
--私は律法を知っている人々に言っているのです。--
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。
しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、
律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」
夫が死亡すれば妻は未亡人となり、
「夫に関する律法」から自由になれる(1〜3節)
その女性は自由に再婚できるようになり、
姦淫の罪を犯すことにはならない。
なぜなら、夫の死は夫に関する律法から彼女を解放したからである。
この説明を終えたあとでパウロは神学的適用に入る。
その適応でも、ある人の死が話題となっている。
それは、メシアの死である。
信者はメシアの死によって、
「キリスト(メシア)のからだによって、律法に対しては死んでいる」者
と見なされているのである(4節)。
前章でパウロは信者はキリストと合一された者だ、
キリストの死と葬り、また復活に与った者なのだと言っている。
「3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 」(ローマ 6:3-5)
ゆえにキリストの死は、
私達信者を死んだ者とするという理屈である。
何に対して? 律法に対して死んだものとするのである。
「そのように思いなさい(計算しなさい)」ローマ6:11
と結論付けられている。
ここで死んだ者とされるの相手は「律法」でなくて「罪」であると書かれている。
しかしこの文脈では「律法」が「罪」を意識させる、つまり生じさせると論じられているので、同格扱いにできる。
罪の性質は、
それまでのように律法を活動拠点として働けなくなっている(5節)。
罪は律法を橋頭堡のようにして私たちのうちに侵入し、
やがて私達を完全制圧する、と言うのが
罪に至る人間心理を巧みに描写しているパウロ神学の真骨頂である。
「7ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。 」(ローマ 7:7-11)
上記の聖句に2回ほど現れる「機会」という原語は、
「アフォルメイ」というもので、
それは"Base of Operation"(橋頭堡)を意味する軍事用語である。
こうして厄介な「律法に対して死んだので、律法から解放されている」(7:6)
との結論に至る。
人は、律法かメシアかのどちらかに結ばれなくてはならず、
両方と結ばれることはできないのである。
モーセ律法の下に生きるか、
新しい契約によってメシアの律法の下に生きるかの
どちらかである。
二者択一は、この結婚の例えから明白である。
聖書はモーセ律法を一つにまとまったものとして扱っていることを
確認することから始めたい。
「律法」を意味するヘブル語は「トーラー」である。
もしそれがモーセ律法を指す場合、
聖書では必ず単数形で用いられていて、例外はない。
モーセ律法には613の命令があるが、必ず単数系で使われている。
新約聖書で律法を意味するギリシア語は「ノモス」であるが、
同様にして必ず単数形で用いられている。
モーセ律法を道徳法、市民法、祭儀法と3分割するのは、
多種多様の命令を理解する勉強の助けにはなるだろうが、
聖書自身にそのような分類はなかったし、ユダヤ教ラビの伝統にもなかったことだ。
多くのクリスチャンが信じているように、
613ある命令から十戒だけを取り出して、
これだけは今も有効であるとする主張にも何ら聖書的根拠がない。
613の全ての命令が集合して、モーセ律法という統一体が成立しているのである。
聖書自身の証言を見てみよう。
「 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、
その人はすべてを犯した者となったのです。
なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、
「殺してはならない」とも言われたからです。
そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、
あなたは律法の違反者となったのです。」
(ヤコブ2:10-11)
ここで言わんとしていることは明白である。
613ある命令のどれか一つにでも違反したら、
モーセ律法全てに違反したことになる、との教えである。
これはモーセ律法が統一体であることを前提にして初めて成立する論理である。
市民法のどれか一つに違反したら、
その人は祭儀法にも道徳法の全てにも違反していることになる。
分かりやすく説明してみよう。
もし人がイカの寿司を食べたとしよう。(鱗のない魚は食物規定に違反する)
その時、その人は十戒の全てを犯したことになる。
十戒は寿司について何も言っていないが、
律法は分割できない一体性のものなので、
613の一つを破れば全ての613の違反者として責められるのである。
これは通常の世界にはない事例であるかもしれないが、
それがモーセ律法に対する聖書の論理である。
モーセ律法と我々信者の関係を論ずるには、
聖書が見るように律法を理解しなくてはならない。
つまり、律法のある箇所を指して
今でも有効なところ、別の箇所は無効となっている箇所だ、
というように分割できない統一体として見るということである。
また十戒のように律法の一部だけを取り出して、
これは他の603とは別格で今日でも有効であると主張することもできない。
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