簡略審査に選ばれた
最新式の搭乗機は新しく快適で、足元も広いスペース
オークランド空港で保安検査の列に並ぶ時、
電子モニターの矢印が指す方向へ進むようにと係員に言われた。
無作為に選ばれたその列に並ぶ時者たちは
審査の時靴やジャケットを脱がなくて良く
PCをカバンから取り出す必要なく
3・11前の簡略審査で良いのだという。
これは試験期間で、
しばらくすればすべての乗客を対象に簡略審査が始まるのだそうだ。
審査ゲイトを通過する時「ビッー」と電子音が鳴った。
これも無作為による選り分けで、手のひらを探知機の様なもので検査された。
「今晩はとても恵まれました。
二重の選びに与ったんですから」
と係員に言ったところ、
「その通りだ」と言いながら、腰を曲げて笑っていた。
彼は多分クリスチャンだろう、と見越してのジョークであった。
サンフランシスコ・ユニオンスクエア付近のレンタル自転車
先日ニューヨークで初めて見たレンタル自転車が
サンフランシスコでもお目見え。
報道によれば試験的に導入したところ市民の活用率が良好とのことで
今後はさらに多くのステイションの設置と
5千台までの自転車が市内を走ることになるのだそうです。
全米でもポートランドについで
自転車フレンドリー度数が2位のサンフランシスコならではの
交通環境がなせる業
これが渋滞緩和に役立つのならさらに歓迎。
今日の渋滞はこれまでで一番酷かった。
信号が青になっても車一台分も進まず、完全駐車場の有様。
いつもは5分ほどのユニオンスクエアからベイブリッジまでが、
何と50分もかかってしまったのだから!
❻罪を明らかとする役割
「 さて、私たちは、律法の言うことはみな、
律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。
それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、律法を行うことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
(ローマ 3:19-20)
「律法によって誰も義に至ることはない」ということは、
律法は罪の知識を人に提供するものであり、
罪とは一体何であるかを示す役割を持つものなのである。
さらに、違反行為を明らかとする役割を担うこととなった。
「律法が入って来たのは、
違反が増し加わるためです。
(ローマ 5:20)
律法は何が許される行為であり、
何が許されない行為であるかの詳細を教えているので、
人はその境界線を踏み越えた時に罪を認識できる。
その境界線として、律法の613が明確としてあるのである。
❼人がさらに罪を犯す機会を与える役割
「律法が入って来たのは、
違反が増し加わるためです。
しかし、罪の増し加わるところには、
恵みも満ちあふれました。 」
(ローマ 5:20)
「肉の性質」つまりは罪の性質とは橋頭堡を必要としている。
さらには罪の性質は、律法を橋頭堡として利用してしまうのである。
「律法のないところには違反もない」とパウロが教えた時、
それは律法が与えらる以前には罪がなかったと言っているのではない。
「違反」と訳されている言葉は、罪のある具体的な側面を現すものである。
律法が与えられる以前から人は罪人であったが、律法の違反者ではなかった。
違反であると測定させる基準がないのだから。
ところが律法がやってきた途端、
罪の性質は橋頭堡を得たこととなり、
人はこれらの違反を犯し、さらなる罪を犯すものとなった。
❽神の義に到達できないことを示す役割
「14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
15 私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、
自分が憎むことを行っているからです。
16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、
律法は良いものであることを認めているわけです。
17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく
、私のうちに住みついている罪なのです。
18 私は、私のうち、すなわち、
私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがないからです。
19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行っています。
20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、
その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23 私のからだの中には異なった律法があって、
それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、
私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、
肉では罪の律法に仕えているのです。」
(ローマ 7:14-25)
自分だけで人は神を喜ばすことはできないことや
律法を完全に守ることができないことを明らかとするのがモーセ律法である。
❾これらの役割が人をメシアへの信仰へと導く
「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
(ガラテヤ 3:24-25)
❻〜❽は必然的に人を律法の持っている最後の役割へと導く。
それは自力救済に失望した者を救いの信仰、メシア信仰へと導くのである。
❺イスラエルと異邦人とを分け隔てる中垣の壁となった
「 11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
(エペソ 2:11-16 )
モーセ律法はイスラエルを異邦人から隔てる壁の役割を果たした。
それゆえ異邦人は、
神の物質的なものでも霊的なものでもあらゆる祝福を受け取れなかったのである。
その祝福とは
イスラエルに対して与えられた4つの無条件契約を通じて流れ出てくるものであるが、
その流れを異邦人へいたるにストップさせる中垣となったのが
モーセ律法なのである。
12節にある「約束の契約」とは複数形であり、
その4つの無条件契約を意味している。
この無条件契約に一つ加算されたのが条件付きの契約のモーセ契約である。
モーセ契約にはモーセ律法が含まれていて、
15節ではそれが「さまざまな規定」「戒めの律法」であると紹介されてある。
それで律法の目的として、
異邦人が異邦人のままではユダヤ人に与えられている霊的な祝福を享受できない隔ての中垣となったことが示されてある。
この目的ゆえに異邦人は
「イスラエルの国から除外されて」
「約束の契約については他国人」
となった。
律法時代に、
異邦人がユダヤ人の霊的な祝福を楽しむための方法はたった一つしかなかった。
すなわちそれは、
律法のすべての義務を自分自身に課し、
割礼を受けて、
ユダヤ人の祭りや習慣のあらゆる特異な生活習慣に
倣わねばならなかったのだ。
主イエスが
「ご自分の肉において、敵意を廃棄」
(十字架による肉体の死)
されるまでは、
異邦人は異邦人として霊的な祝福を受けることができず、
ユダヤ教に改宗せねばならなかったのである。
上の二つの窓も含めて、レンガ作りの建物の側面に描かれたもの。
Bellinghamへ行ってきました。
シアトルから北上すること1時間40分ほど。
こじんまりとした小さな町ではあるが、
堂々と国際空港まであるのは米国ならではか。
家内はここにある大学にしばらく通った。
今回、初めてフェアヘブンという名の町を発見。
Bellinghamのダウンタウンからわずか南に10分ほどのところ。
さらに小さな町であるが、おしゃれなお店が中心部に集まっている。
この町の名を見てすぐに連想したのが、
ボストン南部にあるフェアヘブン。
そこではジョン万次郎が船長ホイットフィールドの好意を得て、
ホームステイをして過ごした所。
彼はその町で教会に通い、学校を卒業し、恋をする。
やがて日本へ帰って幕末の怒涛の歴史の流れに巻き込まれていく。
彼の生涯も、NHKの大河ドラマにいつの日か抜擢してほしい。
❷旧約聖書時代の聖徒の行動規範となった
「人が義と認められるのは、
律法の行いによるのではなく、
信仰によるというのが、
私たちの考えです。 」
(ローマ 3:28)
この聖句が教えているのは、
律法を守ることによって誰一人神の義に到達できないことであり、
救いの手段として律法があるのではないこと。
律法の役割は他にあった。
それは生活の指針を与えるためであった。
旧約聖書時代の信者にとって律法は信仰生活の中心であり、
魂の喜びでもあったのである。
詩篇119:77,97,159.
❸個人的にも、民族的にも礼拝の場を備えるものとなった
レビ23章には、7つのイスラエルが守るべき聖なる祭りについて記されてある。
❹ユダヤ人を特異な民族とするため
食物規定や衣服規定などに見られるように、
律法には多くの部分でユダヤ人を他の民族とは異なる生活様式に
導く役割があった。
ユダヤ人の特異さは、
礼拝様式(レビ1ー7章)、
食事様式(レビ11:1-47)、
性生活(レビ12章)、
衣服様式(レビ19:19)、
そしてヒゲの切り方にまで(レビ19:27)
現されていた。
❶神のきよさを明示する。
人と関係を保つために要する神の義の基準を明示する目的がある。
1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。
あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、
あなたがたも聖なる者とならなければならない。
(レビ19:1-2)
15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、
あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」
と書いてあるからです。
(Ⅰペテロ1:15-16)
律法はきよく、正しく、良いものなので
そのような機能を本来具備していることになる。
ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、
正しく、また良いものなのです。 (ローマ7:12)
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