上の二つの窓も含めて、レンガ作りの建物の側面に描かれたもの。
Bellinghamへ行ってきました。
シアトルから北上すること1時間40分ほど。
こじんまりとした小さな町ではあるが、
堂々と国際空港まであるのは米国ならではか。
家内はここにある大学にしばらく通った。
今回、初めてフェアヘブンという名の町を発見。
Bellinghamのダウンタウンからわずか南に10分ほどのところ。
さらに小さな町であるが、おしゃれなお店が中心部に集まっている。
この町の名を見てすぐに連想したのが、
ボストン南部にあるフェアヘブン。
そこではジョン万次郎が船長ホイットフィールドの好意を得て、
ホームステイをして過ごした所。
彼はその町で教会に通い、学校を卒業し、恋をする。
やがて日本へ帰って幕末の怒涛の歴史の流れに巻き込まれていく。
彼の生涯も、NHKの大河ドラマにいつの日か抜擢してほしい。
❷旧約聖書時代の聖徒の行動規範となった
「人が義と認められるのは、
律法の行いによるのではなく、
信仰によるというのが、
私たちの考えです。 」
(ローマ 3:28)
この聖句が教えているのは、
律法を守ることによって誰一人神の義に到達できないことであり、
救いの手段として律法があるのではないこと。
律法の役割は他にあった。
それは生活の指針を与えるためであった。
旧約聖書時代の信者にとって律法は信仰生活の中心であり、
魂の喜びでもあったのである。
詩篇119:77,97,159.
❸個人的にも、民族的にも礼拝の場を備えるものとなった
レビ23章には、7つのイスラエルが守るべき聖なる祭りについて記されてある。
❹ユダヤ人を特異な民族とするため
食物規定や衣服規定などに見られるように、
律法には多くの部分でユダヤ人を他の民族とは異なる生活様式に
導く役割があった。
ユダヤ人の特異さは、
礼拝様式(レビ1ー7章)、
食事様式(レビ11:1-47)、
性生活(レビ12章)、
衣服様式(レビ19:19)、
そしてヒゲの切り方にまで(レビ19:27)
現されていた。
❶神のきよさを明示する。
人と関係を保つために要する神の義の基準を明示する目的がある。
1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。
あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、
あなたがたも聖なる者とならなければならない。
(レビ19:1-2)
15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、
あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」
と書いてあるからです。
(Ⅰペテロ1:15-16)
律法はきよく、正しく、良いものなので
そのような機能を本来具備していることになる。
ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、
正しく、また良いものなのです。 (ローマ7:12)
ベルビューのとあるホテルで朝食
シアトルのN牧師の紹介で、昨日日本から飛来されたH牧師と会食。
引きこもりのミニストリーを手がけておられて、
この9月にも30人の人々を引率されて来米された。
そのときはサンディエゴからシアトルまで北上、
その後アイダホ方面まで東に進む、
数台のレンタカーを駆使しての米国縦断旅行。
宿泊は知り合いの牧師たちにに頼んで
寝袋を持参しての教会での雑魚ね。
あえて「引きこもらせない」毎日で
彼らは自然と変えられていったそうです。
来年春にはフィリピンの貧困地区まで彼らと同行するそうです。
ミャンマーからの移民は就学の機会がないため、
彼らのための学校を作るプロジェクトを始め、
すでに資金は与えられて建設業者を探している段階。
宿泊は、野外の地面にそのまま野宿。
「気候が寒くないのでそれができる、
私がそのようにして寝るのだから、誰も文句言えないんですよ。」
そのように笑いながら言われたH牧師は
白髪のよく似合う70歳前後とお見受けしました。
たった今、
その引きこもりの若者たちを教会スタッフとともに米国で生活させるための
シェアハウス物件を探しにオレゴン・ユージン間で出かけておられる。
「ビジョン」
「年齢」
「行動力」
「規制枠」
「柔軟性」
「愛」
これらのキーワードが私の中で去来している。
さて、モーセ律法の目的を論ずるにあたり、
議論の前提となるところを先ず確認する所から始めよう。
「モーセ律法は、ユダヤ人に与えられた法体系である。」
この聖書の原則を理解しただけで今日の多くの混乱が解決できるはずだ。
聖日が日曜日なのか土曜日なのかという議論、
日曜日にどこまで仕事が許されるのかという議論に終止符が打たれるはずだ。
なぜならモーセ律法とはそもそも異邦人に与えられたものでも、
教会に与えられたものでもなく、
ユダヤ人のみを対象に与えられた戒めであるからだ。
聖書の3つの箇所からそのことが明らかとなる。
①申命記4:5-8
「見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、
おきてと定めとをあなたがたに教えた。
あなたがたが、入って行って、所有しようとしているその地の真ん中で、
そのように行うためである。
これを守り行いなさい。
そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、
これらすべてのおきてを聞く彼らは、
「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」
と言うであろう。
まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、
いつも、近くにおられる。
このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。
また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、
このみおしえのすべてのように、
正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」
律法を持っている「偉大な国民」とは一つしかないことが分かる。
全民族の中でイスラエルのみである。
②詩篇147:19-20
「 主はヤコブには、みことばを、
イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、 このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。
ハレルヤ。」
モーセ律法とそれによる神の啓示の
イスラエルに対する専有性が教えられている。
③ミカ4:4
「あなたがたは、 わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。
それは、ホレブで、イスラエル全体のために、
わたしが彼に命じたおきてと定めである 。」
モーセ律法はホレブにてイスラエルに与えられた。
それを記憶せよとの進めもまたイスラエル人に対するものである。
これからしばらくモーセ律法の現代的な意義について考察して見ようと思う。
これまでモーセ律法がメシアの死と同時に破棄され、現在ではどんな個人
(ユダヤ人・異邦人を問わず)の上にも従うべき権威としては機能していない事を
7つの聖書記事を考察しながら証明して来た。
(それらの記事は本稿の「救済」タグをクリックしてもらうと抽出出来る)
「それでは、もはや旧約聖書は無用の長物ということか?」
「聖書は「永遠の神のことば」ではなかったのか?」
想定されるそのような疑問にお答えしていこうと思う。
モーセ律法の遵守すべき権威は無効となっても、
モーセ律法の目的は廃れてなく、現在も有効である。
それゆえ旧約聖書も依然として私たちが学ぶべき永遠の神の言葉である。
そのモーセ律法の目的として9つを上げることができる。
その9つを4つのカテゴリーに整理しながら解説して行きます。
①神との関係から
②イスラエルとの関係から
③異邦人との関係から
④罪との関係から
先回初めて自分で松茸ご飯に挑戦し
まあまあだったのに気を良くして
この日も再び挑戦。
この日も自分では戦果を納めていると評価している。
家族の者たちは誰もこの極上の逸品に与ろうとはしないので確かめようがない。
読者の皆さん、よろしければご賞味にいらして下さい。
試合後のミーティングでコーチからアドバイス
ポートランドから我が子達のサッカーゲームに直行。
長女のゲームには間に合わなかったが、
長男のゲームには20分ほど観戦できた。
毎週2回の練習に加えて、
土曜日にはこうして毎回試合がある。
シーズンはじめよりも数段スキルアップしているのが
長男自身も、チームとしても明確に分かる。
昨夜はハロウィンであった。
皆お化けの格好をするわけだが、一体どういうルーツがあるのか不明であった。
近隣のK牧師がFacebookに投稿したものを読んで始めて氷解。
以下、紹介します。
「ハロウィーンって?」
ハロゥイーンはもともとクリスチャンのお祭りでした(All Saints Day or All Hallow’s Dayのこと)と言う説が広く伝えられているようですが、これは間違いです。
クリスチャンのお祭りとして祝われた時期もありましたが、更に歴史をさかのぼると、ハロゥイーンは悪魔的カルト、ドロイド教のお祭りであった事がわかります。
ドロイド教は、いくつかの神々を拝む中で、10月31日(旧暦の大晦日)に死者の神、サムヘインを特別に礼拝しました。この日、サムヘインがその年に死んだ人の霊を良い霊だろうと悪い霊だろうととにかく家族の所に送ってくれる、と信じていたからです。
その時に戻る悪霊たちは人々に悪さをするようになりました。そこで人々は彼らから隠れるために、仮装しました。
また、家に悪霊が来た時、Treatでもてなす事で悪霊からの被害を逃れる...これがTrick or Treatの由来とも言われています。
もともとのドロイド教の祭りでは、サムヘインを喜ばすために人身御供(Human Sacrifice)もなされていたようです。
月日は経ちましたが、ハロゥイーンは悪魔のパーティであることに変わりはありません。
「あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。」 (出エジプト記23:24)
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