主イエス降誕の地、2013年末のベツレヘム
「天の御国での地位」
マタイ20章20~ 28節
~マタイ福音書連続講解説教56~
聖書本文とメッセージノートは、
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/0202856
エルサレムに向かう主イエスの一行は今や目的地を目前に控え、
目の前に迫るそれぞれの期待値がクライマックスに達しようとしていた
~主の期待しておられたことと、
弟子たち・群集のそれとは大きく異なるものではあったが。
主は受難のメシアとしての十字架での死を覚悟し、
弟子たちは王なるメシア即位としての世界統治を夢見ていた。
2013年、最後の日曜礼拝を迎えた。
新年に向けて抱負や希望を語ることの多い時期であるが、
私たちの抱く野望と主の御心とは、果たして一つのものであるだろうか。
それとも当時の弟子たちのように、開きのあるものだろうか。
Ⅰ 歴史には初めがあり、終わりがある。
「わたしはアルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである」
と言われた主。
天地を創造されて人間歴史をエデンの園から創始された神は、
歴史の終わりまでをもプログラムされておられる。
人類の救済プログラムをさらに一歩前進させるために、
今や購いの代価(奴隷の身代金)として
ご自身のいのちを差し出されようとしておられた。
それはあらかじめ神に予定されていたことであり、
預言者たちにより語られていたことであっても、
当時の人たちには弟子たちにさえ理解できないことであった。
今年に初めがあったが、今や暮れである。
この人間歴史もまた、やがて閉じられるときが来るのを
私たちは今、弁えねばならない。
Ⅱ 突然、不可抗力を持って進展
その歴史の収束時点とは、
主イエスが再びこの地上にお出でになられるときである。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、
神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」(Ⅰテサロニケ4:16)
そしてそれは、何の前触れもなく突然起こる。
「主の日が夜中の盗人のように来るということは、
あなた方自身がよく承知しているからです。」(Ⅰテサロニケ5:2)
いったんそれが起これば、誰も神のプログラムを後戻りさせることはできない。
どれほど祈りや断食、努力や犠牲が捧げられたとしても、
神の訪れのときの前に人は無力でしかない。
まるで洪水が突如として襲ったノアの日の出来事のようだ。
またそれはちょうど、
主が「過ぎ越しの祭りの大いなる日」に
「木に掛かって」受難の死を遂げられねばならず、
これを人的な力で遮ることが出来なかったのと同様である。
ユダの裏切りがあってもなくても、
ユダヤ人のねたみやピラトの優柔不断があってもなくても、
その時と方法を目指して主の歩みは続けられた。
誰もその歩みを止められる者はいなかったのである。
Ⅲ 新しい時代での報酬・地位
ヤコブとヨハネらは、メシア的王国で右大臣、左大臣の地位を懇願した。
彼らの求めたものは間違ってはいないが、そこに至る道程を理解していなかった。
神の国での立身出世は血縁関係によらず、
「杯」(試練や苦難、さばきを意味する)を経た者にしか与えられない、
という原則を。
しかも、どんな地位に昇進するかは、
主イエス様でさえあずかり知らないものであるという。
「それはこのわたしの許すことではなく、
わたしの父によってそれに備えられた人々がある」
神の国での人事権は、父なる神による専権事項であるのだ。
ここで私たち自身、「どんな願い」(21)を抱いているのか、主の前に問われている。
私たちには、主の「杯」(22)を受け取る用意はあるだろうか。
私たちは新しい年に与えられる、神から許されている時間、賜物、
そして運命なるものを父なる神の御心にゆだねられるであろうか(23)。
たとい、あなたに関わる父なる神の使命がどのようなものであったとしても。
その使命がもたらす結果や、人による評価、報酬がどうであったとしても。
カリフォルニアのサンフランシスコ郊外に住む義姉一家が
クリスマス休暇を利用してやってきました。
この日は両親宅で少し遅めのクリスマスパーティー。
シアトル南方にいる義弟一家も、もちろん合流。
子供のいとこ達7人が勢ぞろい。
その中で男の子は長男の一人だけ。
バツが悪そうに、いとこ達のハニー雰囲気の中に入っていけない長男。
夕食の際、彼だけが子供指定席から抜け出して大人の輪に入ってました(^_^)
プロの二人の選手に囲まれて
女子プロサッカー選手によるクリニック(練習)があるというので
妻が参加してきました。
チームとしての戦術やスルーパス、そのタイミングなど
これまで思いもしなかったスキルを教えてもらって
収穫も多かったようです。
彼女はこの秋シーズンも長女の女子サッカーチームの監督としても、
自身のサッカーチームの選手としても活躍していることから
スキルアップのための勉強には余念がありません。
この日のコーチは、Stephanie CoxとKeelin Winters
という現役米国サッカー代表選手。
先回のワールド・カップ決勝戦でなでしこジャパンとも
フル出場して戦った選手たちです。
あの日、妻は山形県の教会にいて
子供達と牧師先生達とを叩き起こして
徹夜しながらなでしこジャパンを応援したのでした。
でもそのことは彼女ら二人には秘めたとのことでした。
早朝外に出ると、
車のタイヤがパンクしてるのに気がついた。
アッッ、リャー☆〜(ゝ。∂)
確か半年ほど前、全てのタイヤを交換した。
あの時も高額な費用に悲鳴を上げた。
でも待てよ、、、
あの時オフィスで、
「もし次にパンクした時は無料で修理します。
どの私たちのチェーン店にでも、車を持ってきてください。」
そんなこと言われたような気がする。
まさかそこまでサービスは無いだろうと思いながらも
電話連絡してみると、どうもそのようだ。
自力でスペアタイヤと交換した後にオフィスに行ってみると
「そうです。私たちが無料でパンクを元に戻します。
もし傷が深くて直せない場合は新しいタイヤと交換します。」
夢のようなお言葉に、ウキウキ。
調べてもらうとスクリュー釘が直角にタイヤに刺さっていて修理が不可能。
そこで新調するタイヤが届くまで2、3日待ってくれ、とのことでした。
無料修理や交換の保証期間は一体いつまであるんですか、との私の問いには、
「タイヤがすり減って使えなくなるまでいつまでもです。
またパンクしたらお店に持ってきて下さい。無料修理しますから。」
そのチェーン店は、シアトル圏のほとんどの地域に存在していてとても便利。
こんなサービス、信じられない(^o^)/
第3回目〜聖書は何と教えているか
先回は新約聖書の記述から
初代教会では日曜日に礼拝をしていなかった例を見た。
ここからも教えられることは、
現在のそれぞれの地域教会には
礼拝のための日時を定める自由があり、
一律のものを聖書が定めてはいないということ。
日曜日午前中でももちろん構わないし、
金曜日の夜でも、
いつでも良い事になる。
米国のある有力・巨大なキリスト教団体は、以下のような声明を公表している。
「初代教会では、ユダヤ人も異邦人も、
安息日(土曜日)に代わって主の日(日曜日)に礼拝を行って来た確かな証拠がある。
ゆえにクリスチャンには、
旧約聖書の安息日規定を日曜日に位置変化させねばならない、
嗜好的、都合的、情緒的以上の正当な理由がある」
この声明文は、歴史的に見て誤りと言わざるを得ない。
4世紀までのユダヤ人信者たちは、
日曜日ではなく、
安息日が終わった土曜日の夜に集まって礼拝を行っていた確かな記録が
イスラエルにも、それ以外の地中海諸国のどこからでも見出されている。
異邦人クリスチャンは2世紀頃から日曜日に礼拝をしていたようだ。
初代教会のメンバーは当初、ほとんどがユダヤ人であった。
彼らは主イエスをメシアとして受け入れて以降もユダヤ性を捨てていない。
安息日にシナゴーグに集まり、
日没後のその日の土曜夜に
イエスを信じる者たちの群れに加わっていたのである。
また、神学的に見ても誤りである。
日曜日が「主の日」であると言及されている箇所は、聖書に一つも無いからである。
礼拝の日を変えたり、あるいはそれが特定されるための「確かな根拠」
は聖書のどこにも見い出されないのである。
最後にパウロの安息日に関する教えを紹介したい。
「9 ところが、今では神を知っているのに、
いや、むしろ神に知られているのに、
どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、
再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
10 あなたがたは、
各種の日と月と季節と年とを守っています。」
(ガラテヤ 4:9-10 )
ガラテヤ書全体の文脈からして、
議論の中心はモーセ律法であるのは明らかである。
2:16,19、3:2,5,10-29、4:4-5,21、5:3-4,14、6:13
「月」とは、新月の祝い
「季節」とは、イスラエルの7つの聖なる季節の祝い
「年」とは、安息年、特に50年目のこと
「日」とは、安息日のことである。
ここでパウロは明確にこれらの価値を否定している。
それらは救いのための方法でもないし、信者が守るべき生活習慣でもないのである。
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第2回目〜「主の日」について
先回はキリスト教会の主流が
「旧約聖書の安息日規定は、
新約時代の日曜日と入れ替わった」
と考えていることを紹介した。
それでは、歴史的にキリスト教会が産声を上げた初期の頃を概観してみよう。
2世紀には、キリスト教会が日曜日を礼拝の日としていたのは確かである。
また同時に、パウロが建てあげて行った1世紀のキリスト教会では、
「週の初めの日」に礼拝が行われていたのも確かである。
「7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。
そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、
人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
8 私たちが集まっていた屋上の間には、
ともしびがたくさんともしてあった。
9 ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、
ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、
三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
10 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、
「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。
11 そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、
明け方まで長く話し合って、それから出発した。」
(使徒の働き20:7-11 )
トロアス教会では、
「週の初めの日」にパウロの説教による礼拝を行っていたが、
通常解釈されて来たようにそれは日曜日ではない。
ユダヤ歴では、一日は日没とともに始まり、翌日の日没で終わる。
そこでは人々が安息日を終えた土曜の日没後に教会に集まり、
礼拝を行っていたのである。
聖書記述に採用されているユダヤ暦で、
「週の初めの日」、つまり日曜日となっているのは、
安息日明けの土曜の日没後のことで、
それは、ローマ暦(現在私たちの使用している暦)では土曜の夜に当たる。
この解釈はその集会でパウロが長い話をしたために、
真夜中を超えたという記録にも合致する。
その3階の部屋にランプが必要であったという記述も、
集会が夜であったことを示唆している。
翌日、パウロはそこから旅立つが、それは日曜の朝であった。
これまでの歴史的キリスト教会が主張している
礼拝の日時としての日曜日午前中には
彼らは礼拝の集会をしていなかった。
むしろパウロは旅行へ出掛けていたのである。
「信仰と生活の唯一の規範が聖書にある」
とする立場がプロテスタンティズムであり、
教会の伝統や人間の理性がそれに取って代わるものではないことを
再確認したい。
聖書信仰の立場は教会の長年の伝統と相容れない場合があるが、
(それゆえにカトリックからプロテスタントが誕生した)
人の理性や科学的論証性になんら矛盾するものではないが、
ここではこれ以上進めない。
長いキリスト教会の伝統の中で常識と考えられてきた
「日曜日=安息日」図式も
その正当性を論ずるにあったては
聖書から検証しなくてはならない。
さらに、日曜日は新約聖書で一度も
「安息日」と呼ばれている場所は見出されない。
いつも「週の初めの日」と呼ばれている点に注目。
また、「主の日」と日曜日が呼ばれている箇所も一度も無い。
初代教会の教父達は、
確かにその著作の中で日曜日を主の日と表現した所があるが、
新約聖書でその用例は無いのである。
新約聖書で「主の日」という用語は、
黙示録1:10に見出されるが、
それが日曜日であると推論できる証拠は文脈からは見出されない。
10 私は、主の日に御霊に感じ、
私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
11 その声はこう言った。
「あなたの見ることを巻き物にしるして、
七つの教会、すなわち、
エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ
に送りなさい。」 (黙示録 1:10-11)
ここでの「主」にあたるギリシア語は
名詞ではなく、形容詞であることから、
Lordy Dayと直訳され得る言葉となる。
日本語に無理に意訳すれば、
「主に属する日」
とでもなろうか?
それが意味するのは、
安息日や日曜日などの特定の日ではなく、
ヨハネが聖なる恍惚感に聖霊によって捉えられ、
聖なる啓示を与えられた「特別な日」であるのを示した言葉である。
ヨハネにとって、その日は主に属する日、Lordy Dayとなったのだ。
(つづく〜「救済」タグをクリックしてください)
ホサナ教会のクリスマス祝会には
頬も蕩けるばかりのご馳走が並びました。
礼拝の時を持たせていただいたあとに
舌鼓を打ちながら
主がこの一年間にそれぞれに与えてくださった恵みを分かち合いました。
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