年の終わりに歴史の終わりを想う
12月
30日
マタイ20章20~ 28節
~マタイ福音書連続講解説教56~
聖書本文とメッセージノートは、
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/0202856
エルサレムに向かう主イエスの一行は今や目的地を目前に控え、
目の前に迫るそれぞれの期待値がクライマックスに達しようとしていた
~主の期待しておられたことと、
弟子たち・群集のそれとは大きく異なるものではあったが。
主は受難のメシアとしての十字架での死を覚悟し、
弟子たちは王なるメシア即位としての世界統治を夢見ていた。
2013年、最後の日曜礼拝を迎えた。
新年に向けて抱負や希望を語ることの多い時期であるが、
私たちの抱く野望と主の御心とは、果たして一つのものであるだろうか。
それとも当時の弟子たちのように、開きのあるものだろうか。
Ⅰ 歴史には初めがあり、終わりがある。
「わたしはアルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである」
と言われた主。
天地を創造されて人間歴史をエデンの園から創始された神は、
歴史の終わりまでをもプログラムされておられる。
人類の救済プログラムをさらに一歩前進させるために、
今や購いの代価(奴隷の身代金)として
ご自身のいのちを差し出されようとしておられた。
それはあらかじめ神に予定されていたことであり、
預言者たちにより語られていたことであっても、
当時の人たちには弟子たちにさえ理解できないことであった。
今年に初めがあったが、今や暮れである。
この人間歴史もまた、やがて閉じられるときが来るのを
私たちは今、弁えねばならない。
Ⅱ 突然、不可抗力を持って進展
その歴史の収束時点とは、
主イエスが再びこの地上にお出でになられるときである。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、
神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」(Ⅰテサロニケ4:16)
そしてそれは、何の前触れもなく突然起こる。
「主の日が夜中の盗人のように来るということは、
あなた方自身がよく承知しているからです。」(Ⅰテサロニケ5:2)
いったんそれが起これば、誰も神のプログラムを後戻りさせることはできない。
どれほど祈りや断食、努力や犠牲が捧げられたとしても、
神の訪れのときの前に人は無力でしかない。
まるで洪水が突如として襲ったノアの日の出来事のようだ。
またそれはちょうど、
主が「過ぎ越しの祭りの大いなる日」に
「木に掛かって」受難の死を遂げられねばならず、
これを人的な力で遮ることが出来なかったのと同様である。
ユダの裏切りがあってもなくても、
ユダヤ人のねたみやピラトの優柔不断があってもなくても、
その時と方法を目指して主の歩みは続けられた。
誰もその歩みを止められる者はいなかったのである。
Ⅲ 新しい時代での報酬・地位
ヤコブとヨハネらは、メシア的王国で右大臣、左大臣の地位を懇願した。
彼らの求めたものは間違ってはいないが、そこに至る道程を理解していなかった。
神の国での立身出世は血縁関係によらず、
「杯」(試練や苦難、さばきを意味する)を経た者にしか与えられない、
という原則を。
しかも、どんな地位に昇進するかは、
主イエス様でさえあずかり知らないものであるという。
「それはこのわたしの許すことではなく、
わたしの父によってそれに備えられた人々がある」
神の国での人事権は、父なる神による専権事項であるのだ。
ここで私たち自身、「どんな願い」(21)を抱いているのか、主の前に問われている。
私たちには、主の「杯」(22)を受け取る用意はあるだろうか。
私たちは新しい年に与えられる、神から許されている時間、賜物、
そして運命なるものを父なる神の御心にゆだねられるであろうか(23)。
たとい、あなたに関わる父なる神の使命がどのようなものであったとしても。
その使命がもたらす結果や、人による評価、報酬がどうであったとしても。