「強くあれ。雄々しくあれ。
恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、
あなたとともにあるからである。」
ヨシュア1:9
先日はこの聖書の言葉が
イスラエルの人々にとっていかに重厚な意味を持ったものであったかを述べた。
彼らに取ってそれは観念でなく、生死存亡を賭けた言葉である。
私たちも危急のとき、恐れに取り付かれ、心くじけそうなとき
天を見上げることは、単なる気休めでなく実態となる。
数日前もそんな試練の場に立たされたことがあった。
オークランド空港に降り立ったのだが、
預けたスーツケース2個のうち1つが届かないのである。
それがなければカリフォルニアにやって来た意味はなくなる。
仕事は何一つできない。
事務室で紛失手続きを終えてから、
レンタカーを手配しに行き、
再び戻ってきてシアトルからの最終フライトの手荷物を探してみた。
やはり、出てこない。
「主よ」
「主よ」
「主よ」
言葉短く、天を仰ぐ他できない。
午前12時を過ぎてホテルにチェックイン。
午前2時07分に携帯電話が鳴り響く。
手荷物事務室のCLIFFからで、スーツケースが見つかったと言う。
発見次第、至急連絡をくれとお願いしていた通りに彼は動いてくれた。
彼は申し訳なさそうに、私といっしょに荷物を探してくれもした。
これまでの経験則かれすれば例外だ。
空港で顧客の紛失荷物を依頼通りに扱ってくれたことはない。
ヨルダンのアンマン空港では持っていない振りまでされた。
さらに翌朝のことだ。
早速空港まで荷物を受け取りに行く際、
トランクに車の鍵を残したまま扉を閉めてしまった。
あっ!!!!!!!
と気づいたときにはすでに遅く、
どうあがいてもどこのドアも開かない。
もちろんそのような初歩的ミスを避ける方法を通常はしている。
このときも、トランク・ドアの蝶番のところにカギを置いたのだった。
自分の車ならたといドアを閉じようとしても、カギがあるので閉じれない。
だが、このレンタカーはすっぽりと閉じてしまった。
ここのときも、
「主よ」
「主よ」
「主よ」
ただ天を見上げるばかり。
サービストラックが来て、
カギを取り戻してくれるまで2時間ほどのロス。
その時間的損失はこの場合、大きなものであった。
先回のカリフォルニア遠征では腰痛のため亀のような動きしかできず、
今回はこうしていくつものアクシデントに見舞われた。
その度に天を仰ぐしかない。
恐れているからこそ、
「恐れるな」との言葉が響く。
一人ぼっちで頼りなく感じるからこそ、
「わたしがあなたとともにいる」との約束が力となる。
夕日に照らされるガリラヤ湖
「あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
聖書でこのみ言葉が繰り返されているが、
その意義を知り、深く味わってみよう。
1) 申命記31:6 :モーセが主の言葉として民に伝えた
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。 」
2) ヨシュア1:9 :神がヨシュアに語られた
「わたしはあなたに命じたではないか。
強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
3) 1列王記8:57 :ソロモンが神殿奉献の際、民を祝福した言葉
「私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、
私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。 」
4) 1歴代誌28:20:ダビデが神殿建築をソロモンに委任した際に
「それから、ダビデはその子ソロモンに言った。
「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない
。おののいてはならない。
神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから--。
主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、
主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。 」
5) ヘブル書13:5 :全ての信者に対する神の言葉
「金銭を愛する生活をしてはいけません。
いま持っているもので満足しなさい。
主ご自身がこう言われるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
繰り返しこのように教えられているのには訳がある。
私たちは恐れにいとも簡単に取り付かれてしまうからである。
病や死、経済的な困窮、いや目の前の試験や仕事にも恐れを抱く。
だが、その必要はないと主はおおせられる。
主ご自身が私たちとともに歩いてくださるからだ。
イスラエルの国が置かれたその場所は、
地球上のどの場所にも勝ってストレスを感じざるを得ないところであった。
民は常に恐れと同居していた。
どうしてその場所が困難であるといえるか、大きな3つの理由を示そう。
① 地政学的見地
イスラエルの地は「乳と蜜の流れる」一等地であることには間違いなくても、
アフリカ・ヨーロッパ・アジア3大陸の接点、陸の回廊に位置している。
ゆえに古代から戦争の絶えない場所であり、
有力な帝国が勃興すると他の国々を蹂躙するための通り道となってきた。
バビロン、アッシリア、エジプト、ギリシア、ローマ、トルコ、イスラム、イギリス、、、
これらの大国に占領されて来たのは、
その戦略の上で重要な地に位置しているからに他ならない。
② 地理的状況
この地には大きな川がない。
隣接する大国は、
ナイル川やチグリス・ユーフラテス川が年中大地を潤していて
大規模な灌漑農業による大生産地となっていた。
ところがイスラエルに灌漑農業は不可能であり、
冬季の降雨に頼るしかなかった。
人為的な方法で水の確保ができないとき、
人々は天を仰ぎ、不安な気持ちを押し殺して神に祈るほかない。
現在のイスラエルでも雨量は国民の大きな関心事となっている。
③ 民族的宿命
ヨシュアによって約束の国に定住した時から、
その周囲には敵対的な諸国家が隙あらば攻め込もうと目を光らせていた。
その中でもイスラエルと親戚関係にある民族が執拗な悪行を繰り返していた。
死海東方や南部に広がる国はエドムであり、
それはヤコブの双子の兄弟エサウを先祖に持つ民族である。
ヨルダン川東方には、アモンとモアブがいるが、
それらはアブラハムの甥であるロトの二人の娘たちが
近親相姦によって設けた民族である。
このように、イスラエルの与えられた約束の地とは、
決して安閑としていられるところではなく、常に緊張を強いられている地である。
日本は水と安全はタダと言われるが、彼らにはそれが根底から欠如していた。
ゆえに天を仰いで神を求めるより他に、
自力では解決不能な困難をやり過ごす方法はなかったのである。
いわば、信仰心を発揮せざるを得ない道場に置かれていたといえよう。
イスラエルとキリスト教会❷〜区別されるその聖書的論証
①教会は歴史的に使徒2章のペンテコステの出来事(AD30)で誕生した。
ところがイスラエルとは、
紀元前2千年に遡るアブラハム、イサク、ヤコブを先祖に持つ
民族グループのことである。
キリスト教会は、聖霊のバプテスマによって誕生したことが
預言、史実、そしてパウロ書簡の叙述から明らかである。
「教会はキリストのからだである」と教えられている。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。
御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。
こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」
(コロサイ1:18)
そしてこの「キリストのからだ」に加わるためには、
聖霊によるバプテスマを受けなくてはならないとも教えている。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。
神の御霊によって語る者はだれも、
「イエスはのろわれよ」と言わず、
また、聖霊によるのでなければ、
だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」
(1コリント12:3)
主が天へ帰られる前、
その聖霊のバプテスマとは
その時点では将来に関わることであると教えられた。
「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、
もう間もなく、あなたがたは
聖霊のバプテスマを受けるからです。」
(使徒1:5)
それでは「聖霊のバプテスマ」とは、一体いつから始まったのか?
答えは使徒2:1-4にあるペンテコステの日の聖霊の傾注なのであるが、
問題はその箇所には「聖霊のバプテスマ」という語が出て来ないのである。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、
彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、
他国のことばで話しだした。」
(Act 2:1-4)
それでも使徒11:15-16に
当時を振り返ったペテロがその出来事を
「聖霊のバプテスマ」であると呼んでいる。
「そこで私が話し始めていると、
聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、
彼らの上にもお下りになったのです。
私はそのとき、主が、
『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、
あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』
と言われたみことばを思い起こしました。」
(Act 11:15-16)
ペテロは異邦人達に聖霊のバプテスマがあった(使徒10:44-46)様子は、
ちょうど初めの日にユダヤ人達に聖霊の傾注があったのと同様であった
と、ここで述懐している。
そして使徒1:5の主イエスの預言を取り上げて
それが使徒2:1-4において成就したのであるとの解釈を進めているのである。
聖霊のバプテスマがキリスト教会の設立に不可欠なものであり
聖霊のこの傾注が初められたのは使徒2:1-4のみであると聖書が語っているのなら
キリスト教会はそれ以前には存在していなくて
使徒2章で初めて存在するようになったことになる。
旧約聖書のアダムやアブラハム、
どの時代でも教会が始まられたとする言及はないし、
マタイ16:18には教会設立預言が未来形で語られていることから
福音書時代にもあり得なかった。
「ではわたしもあなたに言います。
あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません。 」
(マタイ 16:18 )
エキサイティングしている男の子に注目(^o^)
レントンにある、スパゲティのお店。
しばらくの間シアトルに滞在していた姉家族も最後の日となった。
オールド・ファッション・スタイルのレストランで新年会。
その後、彼らはカリフォルニアに向けて十数時間のドライブに旅立った。
会う度に子供達の成長には目を見張らせられる。
次回はイースターの時に再会となるだろうか。
Bellinghamまで足を伸ばした。
シアトルから高速道路を北上すること、約2時間弱。
あと15分も北上すればカナダ国境に至る街。
昨日、妻と長男がこの街に来たばかり。
妻が大学生活を送った地でもある。
ここで初めて経験したこと数点。
①ベルトコンベア式の寿司レストランがあった。
②そこで寿司を握っていたのも、ウエイトレスのお姉様も白人。
アジア人かメキシカンの多い業界でこれも始めての経験
③ベルトには、ラムネが乗っていた。
日本と韓国の国同士のお付き合いをする上で避けて通れないのが従軍慰安婦問題。
その慰安婦の記念碑建立運動が全米各地で韓国人によって広がっている今、
日本人として無関心ではいられない。
こういった微妙な歴史問題は専門家に任せるべきで、
市井のキリスト者が意見するべきでなく、
対立の構造を深めることにならないか?
そんな懸念を持っていたゆえに、あまり触れないようにして来た。
両国政府の歴史的見解がどうであろうと、
私の大切な韓国人への友情や尊敬にはいささかの変化も無いのは事実。
一方、国家の政治問題に一個人が無関係でいることが出来ないのもまた事実。
この問題を扱うにおいて、最も大切なこととは何か。
それは被害・加害感情を一先ず横に置いての、
冷静な歴史的事実を確認することからではないだろうか。
フィクションの上に友情や信頼関係を築き上げることは出来ない。
意思に反する強制的な性的虐待・奴隷搾取の蛮行が
歴史的事実としてあったのか、なかったのか?
竹島や北方領土、尖閣諸島は歴史的に見てどちらの領土に属しているのか、
つまり客観的に確証できる資料を根拠に論じなければ
どこまでも双方の言い分は平行線に終わるであろう。
この確認作業は
「信じるに値する宗教はあるのか」
という命題にも共通するものであると考える。
人はフィクションの上に、作り話や神話・おとぎ話の類の上に
己の信仰を築くことがあり得るのだろうか?
人はフィクションというウソのために殉教出来るだろうか。
私は聖書の全ての記述は、歴史的に起こった事実の記録であると考えている。
つまり聖書に記された教えも事物も「歴史」の上に乗かっている。
そうでなければ信じるに値しないし、キリスト者であることをやめるであろう。
話がそれてしまったが、
従軍慰安婦問題である。
その歴史的な検証のために、「テキサスおじさん」が活躍してくれているようだ。
その歴史性に立っての、
ウソを糾弾するための署名が10万人を突破したとのことである。
私はまだ署名をしていない。
これを機にしてみようかと思っている。
テキサス親父さんの動画、
↓
http://www.youtube.com/watch?v=ggQaYD37Jm4
絶対証拠:米軍報告書1944年
↓
http://texas-daddy.com/comfortwomen.html
お正月、やはりお餅くらいは作りました。
新年、明けましておめでとうございます。
ところで、どうして「めでたい」のでしょうか?
我が家にとっては、この日が正真正銘の休日となったからです。
大晦日の晩は子供達も深夜まで起きていられる唯一の日であり、
皆で0時を待って乾杯!
スペースニードルで打ち上げあっれている花火をTVで見ながら
新年を祝いました。
よって元旦の朝は、家族皆がゆっくりスタート。
クリスマスのようにプレゼント交換やパーティーなどの特別行事は一切ありません。
米国の正月は実にシンプル過ぎて寂しいほどです。
私がまだ血気盛んな若かった時は、
日本的正月伝統を継承させねばならないと、使命感に燃えてた一時期がありました。
おせち料理や餅つき、雑煮に挑戦したり、
渋る子供達の尻を叩きながら書き初めをさせ、
お年玉を与えたりもしてきました。
昨年までは。。
ところが、
クリスマスで祭り気分を高揚した後の1週間後に
正月だとして同様のテンションに引き上げるのは用意ならざることを
加齢とともに実感(^_^)
国際結婚の宿命とはいえ、二つの文化を継承させるのは思ったほど簡単ではない。
誰も何も言い出さないことから
この日は完全休養日に。
お年玉のことも子供達はスッカリ忘れている事を良いことに
財布を傷めずにすんで、この点でも助かった(*^◯^*)
皆様も、
それぞれの良いお正月をお過ごしください。
イスラエルとキリスト教会❶〜その問題提起
「イスラエル」と「キリスト教会」についてこれからしばらくの間話を進めて見たい。
と言うのも
プロテスタント教会の中の多くの部分、
特にカルビン派の学者達は
両者が同一であり、
新約聖書時代以降は
「イスラエル」が「教会」に取って代わり
これらは相互変換できるものであると論じているからです。
これを「置換神学」と言います。
明治後に西洋のキリスト教会を通じて日本にキリスト教が浸透して来た経緯から、
日本のキリスト教会は、この神学の影響を強く引きずって来ました
果たして聖書はそのように教えているでしょうか?
契約神学の立場の3大神学校では
「教会が新しいイスラエルになった」と教えており
その聖書的根拠として、どの神学校でも
ガラテヤ6:16、ローマ9:6-8を取り上げている。
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように。」
(ガラテヤ 6:16)
「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、
イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、
「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、
約束の子どもが子孫とみなされるのです。」
(ローマ 9:6-8)
そこから
「教会が霊的なイスラエルになった」
「異邦人信者は霊的なイスラエル人である」
という結論に至ろうとしている。
しかし聖書を比喩的に解釈せず
書かれた通りに、字義通りに解釈するなら
両者は明確に区別されていることが分かる。
そこでイスラエルと教会が
明確に区別されて存在するそれぞれの統一体であることを
今後6つの聖書箇所から論証して行きたい。
主イエス降誕の地、2013年末のベツレヘム
「天の御国での地位」
マタイ20章20~ 28節
~マタイ福音書連続講解説教56~
聖書本文とメッセージノートは、
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/0202856
エルサレムに向かう主イエスの一行は今や目的地を目前に控え、
目の前に迫るそれぞれの期待値がクライマックスに達しようとしていた
~主の期待しておられたことと、
弟子たち・群集のそれとは大きく異なるものではあったが。
主は受難のメシアとしての十字架での死を覚悟し、
弟子たちは王なるメシア即位としての世界統治を夢見ていた。
2013年、最後の日曜礼拝を迎えた。
新年に向けて抱負や希望を語ることの多い時期であるが、
私たちの抱く野望と主の御心とは、果たして一つのものであるだろうか。
それとも当時の弟子たちのように、開きのあるものだろうか。
Ⅰ 歴史には初めがあり、終わりがある。
「わたしはアルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである」
と言われた主。
天地を創造されて人間歴史をエデンの園から創始された神は、
歴史の終わりまでをもプログラムされておられる。
人類の救済プログラムをさらに一歩前進させるために、
今や購いの代価(奴隷の身代金)として
ご自身のいのちを差し出されようとしておられた。
それはあらかじめ神に予定されていたことであり、
預言者たちにより語られていたことであっても、
当時の人たちには弟子たちにさえ理解できないことであった。
今年に初めがあったが、今や暮れである。
この人間歴史もまた、やがて閉じられるときが来るのを
私たちは今、弁えねばならない。
Ⅱ 突然、不可抗力を持って進展
その歴史の収束時点とは、
主イエスが再びこの地上にお出でになられるときである。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、
神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」(Ⅰテサロニケ4:16)
そしてそれは、何の前触れもなく突然起こる。
「主の日が夜中の盗人のように来るということは、
あなた方自身がよく承知しているからです。」(Ⅰテサロニケ5:2)
いったんそれが起これば、誰も神のプログラムを後戻りさせることはできない。
どれほど祈りや断食、努力や犠牲が捧げられたとしても、
神の訪れのときの前に人は無力でしかない。
まるで洪水が突如として襲ったノアの日の出来事のようだ。
またそれはちょうど、
主が「過ぎ越しの祭りの大いなる日」に
「木に掛かって」受難の死を遂げられねばならず、
これを人的な力で遮ることが出来なかったのと同様である。
ユダの裏切りがあってもなくても、
ユダヤ人のねたみやピラトの優柔不断があってもなくても、
その時と方法を目指して主の歩みは続けられた。
誰もその歩みを止められる者はいなかったのである。
Ⅲ 新しい時代での報酬・地位
ヤコブとヨハネらは、メシア的王国で右大臣、左大臣の地位を懇願した。
彼らの求めたものは間違ってはいないが、そこに至る道程を理解していなかった。
神の国での立身出世は血縁関係によらず、
「杯」(試練や苦難、さばきを意味する)を経た者にしか与えられない、
という原則を。
しかも、どんな地位に昇進するかは、
主イエス様でさえあずかり知らないものであるという。
「それはこのわたしの許すことではなく、
わたしの父によってそれに備えられた人々がある」
神の国での人事権は、父なる神による専権事項であるのだ。
ここで私たち自身、「どんな願い」(21)を抱いているのか、主の前に問われている。
私たちには、主の「杯」(22)を受け取る用意はあるだろうか。
私たちは新しい年に与えられる、神から許されている時間、賜物、
そして運命なるものを父なる神の御心にゆだねられるであろうか(23)。
たとい、あなたに関わる父なる神の使命がどのようなものであったとしても。
その使命がもたらす結果や、人による評価、報酬がどうであったとしても。
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