本日のシアトルオーナー会は今年初回となり、
新年会を兼ねて普段とは異なる趣向。
10ドルを少々上回る弁当が通例だが、それに加えて寿司が付きました^_^
講師は早稲田大学社会学部で専任講師をされておられる奥迫元博士。
国際関係が専門であられることから、国際関係学の学問としての始点から現代までの複雑な国際関係の実情に至るまでを概観させていただきました。
2時間余りの講演の中で、学問的に整理された部分はもちろん一般には知り得ることのない国際会議での各国の攻防戦など、興味尽きないお話を伺いました。
特にルワンダでの虐殺問題は、家内が現地を訪れて奉仕しており、私の知人もその宣教に携わっていることから強い関心を持ちました。
ルワンダ内戦が、隣国のウガンダやコンゴにどういう経緯で波及して、一体どこが問題点でどこに解決への糸口があるのか、専門家を通じての分析に新しい視野が開かれて行くような感覚を持ちました。
現在の国際社会での日本の立ち位置や役割をどこに見出していくか、そのような視点からの質問が参加者から多く寄せられて、終わった時には午後10時を過ぎていました。
奥迫氏はシアトルの大学の研究室で数年学ばれ、この3月に帰国されるとのこと。
今後のご活躍を期待しています。
「自動車のオイル交換」と掛けて
「コインが撒き散らされた運転席」と解く。
その心は、、、
家内の乗っているHonda車をオイル交換のため、私が早朝販売店へ届けに行った。
そのため家内は私のToyotaで出勤した。
Honda車のサイドブレーキはフッドレバーであり、
解除には左手を伸ばしてレバーを引けば良い。
一方Toyota車のそれは右手で車内中央部にある斜めの突起物を上下するだけ。
習慣とは恐ろしい。
この朝Yoyota車を発進させる際、家内は左手でダッシュボード左隅にあるレバーを勢いよく引き寄せた。
だが、レバーだと思って引いたそれはタバコの灰皿だった。
そこには釣り銭のコインが満載してあり、
コインが雨のように自らの左半身に降りかかってきたそうな。
これで2回目の悲劇(喜劇)
2度あることは3度ある^_^
テルアビブ
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/12846-61
「建設家達が見捨てた石」
マタイ21章28~ 42節
~マタイ福音書連続講解説教61~
受難週の第3日目・火曜日の出来事である。
当時の過越の祭りではニサンの月の10日に捧げ物の羊を1頭選り分けると、
それに疾患や外傷がないかを14日まで吟味されることになっていた。
「贖いのための神の子羊」として主イエスは
同10日にエルサレムへの勝利の入城をされた後、
4つのグループから質問を受け、論争に巻き込まれていく。
火曜日の出来事とは、その論争に明け暮れた一日であった。
先ずサンヘドリンというユダヤ最高議会の構成員達(祭司長や長老たち)
から論争を挑まれる。
主イエスはこれについては直接答えるのを拒否されるが、
3つのたとえ話を用いて彼らの罪状を言い当て、
その結果である裁きを免れる事なしと断罪し、
将来の世界情勢がどう変遷していくかを預言された。
❶ぶどう園としてのイスラエル
最初の二つのたとえ話で主はイスラエルをぶどう園として描写している。
それは旧約聖書からの長い伝統でもあった。
話は変わるが、
カリフォルニア州はナパバレーを筆頭に多くの世界的なワイン産地となっている。
そのワイン造りは、カトリックの神父さんたちから始まったものであった。
ミッションストリートを巡りながら
各地に宣教の拠点となるカセドロを建てて行ったカトリックは、
ミサのためにぶどう酒がどうしても必要だった。
教会の敷地内から始められたぶどう造りが、
今日のカリフォルニアワインの元祖である。
ワイン造りには壮絶ともいうべき忍耐が強いられる。
長い年月と費用、労力を投じてようやく収穫を得るのである。
神はイスラエルをワインを作るような細かな配慮をもって、
いわば手塩にかけて育てて来たのである。
彼らと契約を交わし、律法を与え、ご自身を啓示して、様々な特権を与えてきた。
預言者を度々送ったが、イスラエルは彼らを辱め、殺してきた。
そしてぶどう園の所有者(神)は、最後に一人息子(イエス)を送った。
ぶどう園を預っていた農夫達(ユダヤ人リーダーたち:サンヘドリン)は、
その息子をも殺して財産を横取りしようと相談する。
神が良い収穫を期待して育てたユダヤ人の実情は
そのような期待はずれのものとなった。
そのユダヤ人リーダー達は、
「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、
季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません」
と答えているが、それは自分たち自身への死刑判決を結審したことになる。
事態はその通りに推移して行くのである。
それではユダヤ人が神の期待に応えて来なかったとしたら、
彼らに与えられた契約はどうなるのであろうか?
彼らが契約不履行ゆえに、
契約そのものも反故とされるのであろうか?
❷家を建てる者たちの見捨てた石
『22 家を建てる者たちの捨てた石。 それが礎の石になった。
23 これは主のなさったことだ。 私たちの目には不思議なことである。
これは詩篇118:22からの引用である。
ここで礎の石(コーナーストーン)について説明をしなくてはならない。
それは建設工程で最も重要な作業である。
礎としてどんな石を、どの場所に、
どの方角を向けて据えるかで建物の全体像が決定されるのである。
コーナーに据えられたその石の直角に交わる2辺が、
土台の縦と横のラインを決定する。
最も熟練した建設家がそのコーナーストーンを選び、
所定の位置に据えるのであるが、
一度据えて見たもののどうも収まりが悪いので、
横に跳ね除けて別の石をコーナーに据え直すということも時に起こった。
「家を建てる者たちの見捨てた石」とは、
そのようなコーナーストーンになり損ねた石のことである。
ここで「石」とは旧約聖書の用例から神やメシアを指す言葉である。
つまりユダヤ人たちからメシアが拒絶されることを預言した聖句なのである。
農夫達がオーナーの跡取り息子を殺してしまおうと陰謀しているたとえと共通している。
❸それが礎の石になった
一度捨てられた石が、
再び見直されコーナーストーンとして採用されるというモチーフ。
ユダヤ人による後日のメシアの受容が預言された聖句である。
それは詩篇が書かれた時点では将来に属することである。
イエス時代においてももちろん実現されていない。
イエスは拒否され十字架で死なれ、
民族としてのユダヤ人多数に理解されないまま天にお帰りになられた。
現在においても未だイエスはユダヤ人に受け入れられることなく、
その預言成就を目にしていないのである。
ところが、「礎の石になった」。
これは完了形で書かれていることに注目したい。
たとい人の目から見て将来に属することであっても、
神からすればその契約履行の確かさゆえに、
すでに過去に成就したものであると見なしているのである。
このような語法は預言的完了形と呼ばれるものである。
ユダヤ人によって拒否されたイエスが、
将来のある時点(それは艱難時代を通り抜けた世代のユダヤ人であるが)、
イエスをメシアとして受け入れるときが来るとは、
何とも信じ難いことである。
教会歴史においても、
教会はユダヤ人をイエス殺しの犯人であるとして目の敵にして来たのである。
今日の多くの教会もユダヤ人に対する約束や契約は終わってしまい、
キリスト教会がそれを引き継いだのだとする神学が流行している。
イスラエルへの祝福や契約はキリスト教会に置き換えられたとする考えが、
置換神学である。
今日までもその論争が続けられている。
まさに「主のなさったこと」は、実に「私たちの目には不思議なこと」である。
今年1月のガリラヤ湖
③ローマ 2:28-29
「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)
この聖句を真に理解するためには、
ローマ2:17-3:9 という大きな文脈の中で論じなくてはならないことを先回指摘した。
この箇所を5つに区分して見て行きたい。
⑴ユダヤ人としての特権について 2:17-20
「17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、
律法を持つことに安んじ、神を誇り、
18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
19 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため
、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、
幼子の教師だと自任しているのなら、
20&21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」
(Rom 2:17-21)
17-18にはユダヤ人が持っている5つの特権が列挙される
・ユダヤ人という名前そのもの。栄誉という意味であり、
神を褒め称える民という特権。
・律法を授けられた特権。
それは神の最大の啓示を内蔵するものであり、
ユダヤ人とは啓示を受けて来た特別の民族である。
・神を誇る(栄光を帰す)民。
異邦人は神々や偶像を拝んでいるが、
ユダヤ人だけが民族全体としてまことの神を礼拝し、栄光をお返ししてきた。
・神の御心を知っている民。
言語では「御心」に定冠詞があり、
ユダヤ人だけが神のお考えを知りわきまえる事が可能であったのを示している。
・律法によって何が優れた事であるかをわきまえている民である。
律法はユダヤ人に事の善悪を明瞭に語ってきた。
確かにこれらはユダヤ人に与えられてきた特権に違いないが、
それら特権が彼らを神の義に至らせたものではないのである。
特権には責任が伴うのである。
ところが彼らにとっては、その特権が民族的な優越感となって現れてしまった。
律法という特別な特権の基盤を与えられた彼らは、
異邦人世界の中で神を宣教する役割を担うはずであったが、
出て行って証するよりも優越的な立場を主張して終わってしまったのであった。
その彼らの優越感溢れる主張点もまた5つある。
・盲人の導き手
・闇の中にいるものたち(それは旧約聖書から異邦人を意味する)にとっての光
・愚かな者たちを教導する。
旧約聖書によれば、「愚か者」とは神を認めない者たちのことを言う。
・幼子の教師。ユダヤ教に転向した異邦人を教える立場にある。
・知識と真理の具体的な形としての律法を手にしている。
律法が真理を啓示したものであるとの主張はその通りである。
問題は、パリサイ的なユダヤ教が律法を曲解してしまい
もはや本来意図された教えがそこから抽出されないことにある。
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バンクーバー島での最終日はヴィクトリアに
フリーを終えて自己最高点。満足の涙を見せる真央選手。
旅行中、宿舎のTVで家族そろって浅田真央選手を応援する。
SPで思わぬ転倒、そして16位という厳しい結果。
その後の彼女が良かった。
諦めずに残りの演技を続けた。
思い返せば4年前、近所のバンクーバー五輪で銀メダルを取った真央選手。
MAOロールと名付けられた巻き寿司が常連の日本食レストランのメニューに登場したのもその時だった。
そのリベンジとして望んだ今回のオリンピック。
「うれしかったです。うれし泣きと笑顔と、同じ意味だと思います」
とのコメントはフリー演技を終えて、自己ベストの得点を得たときのもの。
悔しくて泣いた前回バンクーバー五輪とは、涙の理由が違ったようだった。
ナナイモ(7つの芋)という町でランチ
ここヴァンクーバー島は、
米国ノースウエストとは明らかに異なる景観が広がっている。
ハイウエイの路肩は雪で覆われており、
そこよりも視線を遠くへ向ければ針葉樹林が散在してる。
ノースウエストでは針葉樹よりもブナなどの広葉樹が密集しているし、
その密集林をくもの巣のようにネット接続するオバケ苔ももちろんない。
結果、視界が広く開かれ空の広さまでもが
異界に来たことを印象付けるものとなっている。
ケッペン気候区分によっても、両者は異なる区域に分けられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%80%99%E5%8C%BA%E5%88%86
シアトル圏のノースウエスト地区はCSB(地中海性気候)という気候区域。
温帯に属し、夏季乾燥、月平均気温10℃以上が年に4ヶ月以上となる。
一方、南端を除いたヴィクトリア島はCFC(西岸海洋性気候)の範疇に収まる。
同じ温帯には属しているが、雨季は冬季・夏季の区別なく、年に月平均気温10度以上が3ヶ月以下。このCFCにおさまる主な都市としては北海道の室蘭、ロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリンなどとなっていた。
宿舎前に広がるビーチ
対岸がカナダ本土となる
数日前から咳き込んでいた長男の具合がさらに悪化している。
昨晩は数秒おきに咳を連発していて、彼はほとんど寝ていない。
カナダ・バンクーバー島での最初の行動は
薬局を探し出して薬を処方してもらうことになった。
朝食後、家内と長男はその行動に移り、私と長女は宿舎前のビーチを散策。
こんな地の果てとも思えたバンクーバー島の中程の極地にも
米国資本のあらゆるビジネスが進出している。
薬はWalmartに付随している薬局で簡単に手に入れることが出来た。
ショッピングモールは米国と変わらない洗練された近代的な作りで、
ターゲットやホームディポ、スタバやもちろんマックなど、
ほとんど同じ巨大資本のお店が並んでいた。
ヴァンクーバー島へ渡るフェリーの甲板上で
自宅を出発したときは雨でしたが、晴れの天気に気分もウキウキ
この冬休みには北へ探検することとなった。
カナダ国境までは車で約2時間。
国境線を超えて20分ほど走った北西の海岸に、Tsawwassen という港がある。
そこから2時間、フェリーに揺られて着いた港が Nanaimo である。
そこはニュージーランド以東の太平洋でもっとも大きなバンクーバー島。
南北が約460キロ、東西の最大幅が約80キロで、面積が32,134平方キロ。
九州が37,814平方キロだから、少々小ぶりにしたサイズである。
地図でみると北米大陸からその島までがわずかの距離に見えたが、
2時間の乗船とは想定外であった。
「そんなところ、遠過ぎるよ」
との家内の意見の意味を今後も身をもって体験して行くこととなる。
フェリーを降りてからもさらに北にドライブすること2時間弱。
宿舎に着いた時には、すでに夜の帳がすっかりと降りていた。
来週から長男の新シーズンが始まる
米国はこの日、President Dayとして休日である。
長女は昨日一緒に買いに行った新しい本を読むのに夢中。
長男はiPadでゲーム三昧。
午後から彼を連れ出してコミュニティーセンターのジムへ行ってきた。
体育館は案の定誰も使っておらず、
広いスペースを独占しての二人だけのサッカーが始まった。
パスを送る味方がいないということは、常に自らが防御に付くか、ドリブル攻撃のどちらかをしていなくてはならず、体力的にしんどくなる。
が、まだまだ10歳の坊やに負けてられん、とばかりに意地も見せなくてはならない。
息がきれて最初に音をあげるのは彼の方である。
それが逆転するのはいつの日のことだろうか。
安息日のエルサレム
③ローマ 2:28-29
「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)
これは、「異邦人クリスチャンが霊的なユダヤ人となった」
とする神学が最終的で最大の拠り所とする聖句である。
本当のユダヤ人とは内的のことであるなら
信仰のある異邦人もその基準を満たしているし、
結局異邦人も内的ユダヤ人と見なされるのだ
とここの聖句が教えているとする論理である。
そのように主張する人たちは、
ローマ書簡の構造的な文脈を弁えていないのである。
ローマ書3章までの基本的な構造は次のようになっている。
あいさつ 1:1-7
序論 1:8-15
主題 1:16-17
有罪の下に置かれた全世界 1:18-3:30
有罪の下に置かれた異邦人 1:18-2:16
有罪の下に置かれたユダヤ人 2:17-3:20
結論 3:21-30
冒頭の2:28-29の聖句はユダヤ人に関わる文脈に位置している。
そこには異邦人に関わるものは何もなく、それに関しては2:16で終わっている。
この聖句をより良く理解するには、
信仰あるユダヤ人(パウロ)が信仰のないユダヤ人に語っているところであるという文脈
に注目せねばならない。
そうするならパウロがここで言葉遊びをしていることにも理解出来るであろう。
Judaism(ユダヤ性) やJew(ユダヤ人) とは、
同じ「栄誉」という語源から派生している。
ここで教えているのは、外的なユダヤ人であることが神の義を受けるに十分でなく、
それには神のユダヤ性(つまり霊的なユダヤ性)が必要となるというものである。
29節は、「ユダヤ性とは、人からではなく、神から来るものです。」
とも言い換えられるのである。
この箇所を学ぶにあたり、ローマ2:17-3:9 という大きな文脈から整理するなら
さらに納得していただけるものと思う。
(次回に続く。一連の投稿は「救済」タグをクリック)
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