今日のシアトルは快晴
中華街入り口とスミスタワー
キッチン流し台の下水パイプからまたもや水漏れ。
数ヶ月に一度は繰り返されるトラブル。
重たい水量に耐えられなくなると
プラスチックのパイプどうしのつなぎ目が外れるだけのことで
スクリューを調整して直して来た。
ところが今回は何度調整しても、
そのジョイント部からの水漏れが収まらない。
原因は、ジョイント部のパッキンが破損していたのだ。
すでに家内が新品のパッキンを用意してくれていて
取り替えるだけで問題解決。
問題の根本に手を入れなくては
真の解決につながらない。
それは神が人間を扱う方法と同様である。
人が大きな家に住み、便利な生活と高い教育だけでは外側を取り繕うのに等しい。
社会から憎悪や窃盗、詐欺や殺人などの罪の行為の濁流はなお流れ続ける。
力任せにスクリューをどんなに締め付けても水はポタポタと漏れてくる。
神のなされる問題解決法は
人間の心という根本のところにメスを入れることにある。
罪深い人の心は治療不可能なので
神がキリストの心というものと入れ替えてくださる、というもの。
主イエスだけが罪のない完全な生涯を送り
神の前に「義」であられることが出来た。
その義を私たちに転用してくださるというのが、キリスト教の救いの極意である。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」
だれが、それを知ることができよう。」
エレミヤ17章9節
「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、
律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
(ガラテヤ 2:16)
本日はシアトル圏で日本人伝道に携わるリーダー会が
市内のバプテスト教会で開かれた。
本日で最後の出席となる先生あり、
赴任直後の初顔合わせとなった先生あり。
また、それぞれが担っている働きの重荷や課題を分かち合いながら
ともに考えたり、悩んだり、アドバイスしたりしながら貴重な時が流れて行く。
最後は少グループに別れて祈りの時を持つ。
3ヶ月に一度のこの集いから、大きな励ましと力とを頂いている。
テルアビブ
シアトル長老教会の中西牧師との朝食会。
中西先生は先月イスラエル旅行から帰って来たばかり。
イスラエルのホットな情報を伺う。
これまで私の参加したツアーではエルサレム滞在の場合、
城壁外に位置する近代的な巨大建物のホテルを利用した。
中西先生達は少人数のこともあって、
城壁内でヴィアドロローサに面しているかつてのアントニア要塞敷地内に宿泊。
そこは巡礼者用のホテルとなっていて、
神殿の丘までも目と鼻の先の距離。
その建物地下はローマ人達が過ごした居間であり、
彼らが残したゲームの痕跡が床に残っているとのこと。
次回のイスラエル旅行のための戦略拠点?となりそうである。
死海南部。年に数日しか雨の降らない地域に雨雲が広がっているのは実に珍しい。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/2114-63
「招待された宴会」
マタイ22章1~ 14節
~マタイ福音書連続講解説教63~
サンヘドリン「祭司長、民の長老たち」(23)からの吟味・論争に
主がたとえ話を持って答えている箇所が続いている。
彼らの問いを再度確認して見よう。21:23。
①一体何の権威があって
神殿から両替商やいけにえ用動物を追い出したりしたんだ!
②お前にその権威があるというなら、それを与えたラビとは誰なんだ!
主は彼らからの詰問を直接答えるのを拒否された。
しかし、たとえ話から間接的に答えておられる。
本日はその3回目、最後のたとえ話である。
この3回目は、第1と第2のたとえ話の展開後の時系列順としてのものである。
つまり連続小説の最終回と言える。
さらに、第1と第2のたとえ話を包括してまとめているとも言える。
この第3のたとえ話も、内容から3つに区分される。
❶ 第一のたとえ:ユダヤ人のメシア拒否の罪とその結果(2~7)
•「王」は父なる神、「王子」はイエス、「招待しておいたお客」はユダヤ人
•「披露宴」が原語で複数形なのは、約7日間ほど続くユダヤ式披露宴ゆえ
•宴会の準備が整うとしもべを遣わして招待客に伝えるのがユダヤの習慣
•最初のしもべたち(3)とは、B.ヨハネとその弟子たちであろう
•別のしもべたちとは、その後の12弟子たちであろう
•宴会の準備が「何もかも整いました」とは、
メシア的王国が樹立されるためのあらゆる準備が完了されたことを示す。
•B.ヨハネも、主イエスの宣教メッセージも同様に
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であり、
それは旧約聖書預言成就としてのメシア的王国(千年王国)が
今や到来しようとしている緊迫感の中でのものであった。
•ところが招待客(当時のユダヤ人)は畑や商売に多忙で、
メッセージに応答しない。
それは既得権益や自己保身のために神の言葉を受け止めなかった、
パリサイ人やサドカイ人達の姿であった。
•「王は怒って、兵隊を出して、人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払った」
とはAD70年エルサレム陥落を預言している。
•ここまでは、第1と第2のたとえ話が教えている
ユダヤ人指導者の歩みとその結果の裁きとを描いているところと重複する。
❷ 第二のたとえ:神の国への招待が異邦人へ及ぶ(8~10)
•「大通り」とは町の境界線にある四方へと伸びる道の分岐点。
そこは各国へと連なる幹線道路のジャンクションであり、
色取り取りの民族が行き交っている。
•「出会ったものをみな宴会に招け」とは、
選民だけでなく全ての異邦人への宣教が始まる預言となっている。
その時代は使徒10章から開始される。
•「良い人」でも「悪い人」でも、とにかく道端で出会った者達をみな集めた。
•聖書には、信者が「悪い人」であると言及される箇所は一つもない
•それは不信仰者のことであり、「毒麦」のことである(マタイ13:25)
•ここで信者の中で善人・悪人と二分するものではないことに注意。
良い行いがどれほど積まれたか、といった人側の功績が救いを与えるのではない。
•人は、信仰により誰もが義とされる。
•そこに行いの入り込む隙間はない。
「 こういうわけで、
ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、
ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、
いのちを与えられるのです。 」(Rom 5:18 )
❸ 第三のたとえ:王が祝宴会場に到着する場面:最後の審判(11~13)
•今や披露宴が始まろうとするその時、
それまで見えなかった王が宴会場に姿を現す。
それは千年王国成就直前に、
人は神の前に立って裁きを受けねばならないことを教える預言である。
•そこには「礼服を着ていない者が一人いた」
~当時の宴会会場には礼服が客人のために備えられていた。
•それを拒否したとは、侮蔑行為である。
神の備えられた救いを拒んだ不信仰者の行為である。
•「礼服」とは、イエスへの信仰による義の衣であると言える(イザヤ61:10)
•また、天においてはメシアとの婚礼の場で聖徒らに
「光り輝く衣」が与えられると約束されている。(黙示19:8)
•「外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」とは、
不信者達が最後の審判を受けて後、火の池に投げ込まれること。マタイ8:12
•それは信仰のない者(義の衣を着ていない者)の結末であり、
救いをどこまでも拒んだパリサイ人たちの行く末である。
主はパリサイ人らとの問答の中で、
これら第1から第3までのたとえを即興で作られて教えられた。
そこにはユダヤ人によるメシア拒否の今日的事象、
近未来に異邦人宣教が開始せられること、
そして歴史の最後の終末預言までが網羅されてある。
その現実把握力、
数十年後の未来予測術、
世の最終章を預言したメシアとしての知恵と力。
一流の作家なら、
一晩かけて一つのたとえ話を組み立てられることもあるかもしれない。
しかし主は、数十分の短時間内にこれら全てを淀みなく話された。
それによりご自身の権威とその出処とを明らかとされた。
つまり、神殿の主としてのメシアの権威であり、
父なる神から託された権威であった。
ユニオンスクエアでのウガンダ子供達によるダンス
この日のサンフランシスコは快晴で暖かい。
1時間以上も市内を徒歩で徘徊し続けると顔から汗も吹き出て来る。
タオルを持参してこなかったのが悔やまれる。
10年以上にもなる友人に会いに行く。
私の頭を見て、
「ヘアカットが必要だね」と言ってくれて、
その場でカットをしてもらう。
$50以上はチャージするであろう彼のようなサロンを
自ら利用することはない。
高額料金にはそれなりの理由もある。
格安の美容チェーン店では、バリカンだけで済ましてしまうとことを
彼は数十本の髪の毛を束ねてはハサミを入れて行く。
もちろん結果が違う。
高級チェアに腰掛け極楽気分に浸っていると
これまで話したことのないようなディープな領域に会話は流れて行く。
60代前に思しきそのサロンオーナー男性はユダヤ人であるという。
ともに働いている奥様はクリスチャンであるので、
彼にしばしば改宗を勧めてくると言う。
「改宗という必要はないと思う。
同じ神なのだから」
そう私は答えたが、これには誤解を避けるための説明が必要だった。
聖書的なユダヤ教はキリスト教であること、
現在のユダヤ教はパリサイ派のものであり、
旧約聖書の教えから逸脱したものであることを伝えねばならなかった。
今回は時間もなくその機会を逸してしまったが、
今後彼とお会いする楽しみが一つ増した。
カイザリア
「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)
この聖句を真に理解するために
ローマ2:17-3:9 の文脈を確認している作業の第三回目である。
⑶外側の従順と内なる従順さとの対比 ローマ2:25-29
「25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。
しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、
あなたの割礼は、無割礼になったのです。
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、
割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、
律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、
さばくことにならないでしょうか。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
(Rom 2:25-29)
ここでパウロが論じているのはパリサイ的な視点、
つまり「全て割礼を受けた者には神の国へ入れる保証があるとする神学」
についての反駁である。
確かにパウロは割礼が特権であると言及するが、
割礼が契約を完成させるものであるとは認めていない。
むしろ、割礼はすでに成就している契約のしるしなのである。
割礼は契約を成就するものではなく、従順に基づく祝福を与えるに過ぎない。
もし律法の全てを守っていないのなら、
割礼を受けているだけで裁きを間逃れることはできないのである。
割礼そのものがユダヤ人を救いに至らせないのはちょうど、
洗礼が異邦人を救いに至らせないのと同様である。
洗礼はイエスを信じたゆえのしるしであり、
それに従うことで祝福に与るのも相似形にある。
預言者エレミヤは
実体のない割礼は無割礼と何ら変わらないと指摘している。
儀式が人を神の義に至らせないので、割礼が人を救うことにはならないのである。
そこで28-29節で、
なぜ割礼そのものが役に立たないものかを論ずるのである。
肉体の誕生だけでは人は救いに至らない。
肉体に割礼を受けただけでも救いに至らないのである。
割礼は外形上のことに過ぎないが、
神が要求しているものは内なる心に施術される割礼である。
肉体に施術する割礼は外形上の儀式に過ぎないが、
肉体と心に割礼が施術されるなら
外形上も内なるものも双方に割礼が施術されることになる。
そして「その誉れは、人からではなく、神からくるものです。」と言うのである。
ユダヤ人の原意は「誉まれ」である。
そこで「ユダヤ性は、人からではなく、神からくるものです。」
とも置き換えられるのである。
真のユダヤ人とは、内側も外側も割礼を施術された者達のことである。
ここの箇所で、
異邦人が霊的なユダヤ人になったとは教えていないことに注目しよう。
異邦人についてはすでに1:18-2:16で論じており、2:16で結論を出しているのである。
2:17-3:20ではユダヤ人に関する質問を扱っている。
ここでしていることは、やがて9ー11章で彼が論じている手法と同じである。
信じたユダヤ人と信じていないユダヤ人を区別しているのである。
それはユダヤ人と異邦人の区別でもなく、
ユダヤ人と教会の区別でもない。
それはレムナントとノン・レムナントの区別であり、
信仰のあるユダヤ人と信仰のないユダヤ人の区別である。
信仰のないユダヤ人とは、そのユダヤ性が外側だけのものであり
神の義に至らないゆえに神の裁きから逃れることが出来ない。
このところは文脈で理解されねばならない。
彼が論じている点は、ユダヤ人であるだけでは完成されたユダヤ人では無いこと。
完成されたユダヤ人とは、外側にも内側にも両方割礼を受けたものであるという点。
アブラハム契約に従って外側の割礼を受けて後に、
新しい契約に従って心に内なる割礼を受けた者のことを言うのである。
本当のユダヤ人、完成されたユダヤ人とは、
外側にも内側にも割礼を受けた者のことである。
外側の割礼とは、肉体に施術されたもので、文字と思考に関するものに過ぎない。
内側の割礼とは、心に施術されたもので、聖霊と神とに関わる事柄である。
外側というのは、律法の文字をどう理解してそれに従順に従うかという点であり、
内側というのは、律法の精神に関してであり、
律法が要求している義に内なる従順をもって対応することである。
外側で人は理解した律法を表面的に遵守することはできる。
しかし内側に施術されて初めて人は聖霊の力により神に仕える者とされるのである。
ハイファでのランチ
「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)
この聖句を真に理解するために
ローマ2:17-3:9 の文脈を確認している作業の第二回目である。
⑵神の義の基準にまで至らないユダヤ人の行い ローマ 2:21-24
「21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。
偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。
24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」
と書いてあるとおりです。」
(Rom 2:21-24)
ここでパウロが発している質問はすべて修辞的で、
全てにYESと答えが用意されねばならない文法構造となっている。
これらの質問を発しながらパウロが言っているのは、
先に指摘したユダヤ人としての数々の特権に伴う
責任を彼らは果たしてこなかったというもの。
彼はユダヤ人が特権を持った民族であるのを否定はしなかった。
事実、特権は彼らのものだ。
特権には責任がとなうのであるが、
その責を果たしてこなかったというのである。
ユダヤ人であっても異邦人と同様に神の義に達するに成功しなかったのである。
ここでパウロが論じているのは、エゼキエル36:20-21を土台としている。
「20 彼らは、その行く先の国々に行っても、
わたしの聖なる名を汚した。
人々は彼らについて、
『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。
21 わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。」
あるレストランにあった壁掛絵画
「最も住んで見たい街」全米ベスト10から
3-4ほどの街はベイエリアから選ばれている。
サウスベイに群居しているお馴染みのFacebookやGoogleなどのIT関連企業は
若い技術者たちを惹きつける。
それが最大の理由であるようだが、
この地域の住宅不動産価格は高率での上昇が続いている。
昨年同月に比べること14%を超える上昇率。
数年前の不動産の冷え込みはどこへ行ったのだろうか。
「持てるもの」には景気の良い話になっても、
賃貸生活者には厳しいばかりである。
友人のSさんはPaloAltoで一軒家を賃貸しているが、
大家から突然$500の家賃値上げを突きつけられたという。
やむなくも出て行くことしかなく、
現在は引越し作業の中にいる。
その多忙の間隙にともに夕食する機会を得た。
この地域の高騰の波は、
いつかシアトルにも押し寄せて来るのだろうか。
この日もまる子お母様は食べ切れないほどのご馳走を作って待っていてくださった
サンマテオの吉田邸にお邪魔する。
夕方に上がり込むと、ご夫妻と夕食を囲むのが恒例のパターンとなっている。
ご夫妻には3女の素敵な娘さん方がいらっしゃって、
すでに皆さん家庭を持っておられる。
先日の年末年始にご夫妻はご長女のご一家を伴い、
総勢6名で故郷の熊本へ一時帰国された。
そのお土産話に花が咲く。
ご夫妻の3女は私の年代である。
息子がいないことから、
そのようにして私が息子代わりとなって甘えさせてもらっている。
長女の13歳の誕生日を祝う。
レントンにあるCheese Cake Factory という流行りのファミレスへ行く。
道中の車内で、愛娘に語る父親からの訓辞を思いついた。
「明美、13歳の誕生日おめでとう。
13歳といえば、ユダヤでは成人式なんだ。」
「オー、ウィー、エー ´д` ; 」
嗚咽とも悲鳴ともつかないような感嘆詞が後部座席から漏れている。
「またイスラエルの話〜」という干からびたタタミイワシのような声が続いた。
なるべく威厳の響きを感じてもらう音色を装いながら、
私は構わずに続けた。
「13歳の成人式は「バル・ミツバ」と呼ばれ、
それは「律法の子」という意味がある。
つまり、もはや霊的に神の前に独立した人としてみなされるんだ。
聖書の言葉を自ら読んで従う年齢に達したということなんだよ。………」
後方からの「すでに聞いたよ〜、知ってるよ〜」などの声に妨げられながら
そのようなあらましを語るが、どうもうまく事が運ばない。
「丁重に父上の訓辞を拝聴する大和撫子」
といった当初の想定は早くも崩れ去ってしまった( ̄▽ ̄)
苦し紛れにしゃべってしまった最後の一言が余計であったようだ。
「もっともバル・ミツバは男子だけのものだけどね。
女子は人数に入っていなかったんだ。」
「ウオッ〜 (u_u) 」
悲鳴の声は、1オクターブ高くなっていた。
「繊細な女性の気持ちは分かっていないわね」
と隣からも横槍が入る。
お祝いの誕生会が一体どこへ行ってしまうのか、
ヒヤヒヤのドライブとなった。
古代イスラエルの風習(今日までも続いている成人式様式だが)を
ウーマンリブのお国柄と比較したのが土台間違えであったような、、、(≧∇≦)
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