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ベイデン教会ドン牧師が召天されました

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ドン先生と奥様のデビー ドン先生と奥様のデビー
COGベイデン教会(セントルイス)のドン牧師がこの水曜日に召天されました。

私がドン先生とはじめてお会いしたのは10年以上も前の成田空港でした。

1歳にも満たない明美を連れて初めて家族3人で帰国したときです。

たまたまセントルイスからのドン先生ご夫妻と同時間の成田着フライト。

確かあの時はCOG50周年の記念会出席のための帰国。

落ち着いた風情にも温かみのある器でした。

私の両親宅にもお出でくださり、夕食をともに囲んだことを懐かしく思い出します。

今は天にてシェルホン先生と主イエス様とご一緒に
楽しく過ごしておられることでしょう。

ベイデン教会のニュースレターを
COG名誉理事長の伊藤先生が翻訳してくださった文書を載せます。

英語本文はその後に続きます。


ダン牧師主イエス様のみもとに凱旋

 ダン牧師がイエス様のみもとにお帰りなられたことを知らせなければならないことは、私にとつて実に心痛む思いです。ダン牧師とお交わりを持った者であればだれでも先生はイエス様と人々を心から愛しておられたことを知っていることでしょう。
 先生は、今やその生涯にわたった信仰が真実であり、私たちの神の驚くべき栄光を見ており、そして私たちと再会する日を待ち望んでおられます。
 私たちが心から愛していた者が突然去って逝くことはとても悲しいことです。しかし、その悲しみは私たちにとってはしばらくの間のことであり、また再び一緒になるまでのことであるとダン先生がよく言われていたことです。
 昨晩、私たちはダン先生のお宅で火曜日の聖書研究会を持っていました。私たちはマタイ24章について話し合いました。主イエス様の再臨についてでした。それは私たちにとって「目からうろこ」のような衝撃で、その日には驚くような速さてこの世が新しい世に移り変わるということでした。そしてきょう、私たちにとって驚きの展開となったことは目もくらむばかりの事でした。
 しかし、神様の恵みは私たちの理解を超えています。私たちはこの世に生きている限り神様に全く委ねて生きてゆくことこそが神の恵みであります。また、そのように心に深く覚え、そのような思いをお互いに抱くことのできることは神様の愛であります。ダン先生はそのように生きておられました。私はそのような霊をいままで以上に私たちに注いでくださるようにと祈っています。
 ダン先生の証しは力強いものでした。先生は気力、知力に優れた人でした。先生は神様の恵みによって救われました。ちょうど私がそうであるように、またあなたがそうであるように、先生の心は貧しい者、助けを必要とする者たちに向けられていました。それは閉ざされた者たち、ホームレスの者たち、障害者、麻薬耽溺者、そして飢えている者たちにまで及んでいました。彼らに対する愛はチャーチ・オブ・ゴッド、ベイデン教会を変えました。それは「いと小さき者」を求めて愛する教会へと変えたのです。
 ベイデン教会はこれからもこのようなミニストリーを継続してゆきます。それは神様がわたしたちにお与えになったミッションだからです。私たちはこれからも人々を愛し、助け続けて行きます。それはダン先生が望んでおられたからと言うのではなく、神さまがそうするようにと私たちに教えているからです。(マタイ23章32~46節)
 ダン牧師は花束のようなもので飾るむなしい言葉で彼の地上での栄光の生涯を書くことを私に望んでおられないと思います。それよりも先生はあなた方に尋ねたいと思っていることを私に書くようにと望んでおられると思います。それは、あなたは救われていますか。あなたはイエス・キリストが神の子であると信じていますか。イエスさまは罪なきお方であるにもかかわらず、あなたの罪のために十字架の上で死なれたことを信じていますか。そしてイエス様は死者の中からよみがえられたことを信じていますか。あなたが自分が罪人であることを認めて、イエス様が提供している救いの賜物を必要としておられますか。あなたは心からイエス様に従う用意がありますか。どうかこの問題を真剣に考えてみてください。私たちのいのちはゆらめくキャンドルのようなものであり、私たちはいつ私たちの息が閉じるかを知らないのです。あなたが救われているか否かはもっとも重要な問題です。
 お葬式の一切についてはベイデン教会のウエブサイト(www.cogab.net)からご案内があると思います。今はデビー夫人とご家族、そして教会のためにお祈りください。

 主の平安と愛 リック・メスター


 ダン牧師のお別れ会と葬儀(ベイデン教会のウエブページより)

Pastor Carvin “Don” Sharp Jr. went home to be with Jesus on Wednesday, March 19, 2014 at 10:45 am.

  Funeral services are as follows:
 葬儀については下記の通りです。
Visitation on Sunday, March 23rd from 3PM – 8PM
お別れ会 3月23日(日)午後3時~8時まで

Funeral Service on Monday, March 24th at 11AM
葬儀 3月24日(月) 午前11時

会場 下記の通り
Stygar Florissant Chapel
13980 New Halls Ferry Road
Florissant, MO 63033



Pastor Don Has Gone Home To Jesus

It is with a bittersweet heart that I write these words. Pastor Don has gone home to Jesus. Anyone who has had any interaction with him knows that he absolutely loved Jesus. And he loved people.

He is now living the realization of his years of faith. He’s seeing the awesome glory of our God right now. And he’s waiting to see us all again.

It is such sorrow to have someone we all love so dearly taken from us. But that sorrow is for us, the living. Pastor Don would tell us all now that he’s doing just fine and we’ll be together again in a little while.

Last night we had our Tuesday night Bible study at Pastor Don’s house. We were discussing Matthew chapter 24 and talking about the coming of our Lord. It will be in the blink of an eye. It’s amazing how quickly our world can change. Today, in the blink of an eye, our lives were turned over.

But the grace of God is beyond our comprehension. It is this grace that we must lean on while we are still on earth. It is the love of God that we must embrace and share. Don was so very good at that. I pray that Jesus pour out that spirit on us now more than ever.

Pastor Don’s testimony was a powerful one. He was a tough, intelligent man who was saved by grace. Just like me, and I hope, just like you. His heart for the poor, the needy, the shut-ins, the homeless, the dysfunctional, the drug addicts and the hungry was contagious. This love transformed the Church of God at Baden into a down and dirty, ministry minded church who sought to love ‘the least of these’.

The church will carry on in this ministry. It is the mission that God has given to us. We will continue to love people and help them, not because it’s what Pastor Don would have wanted. But it’s what God has instructed us all to do (Matthew 25:32-46).

Pastor Don wouldn’t want me to write a bunch of flowery stuff that would glorify his life on earth. But he would want me to ask you something…

Are you saved? Do you believe that Jesus Christ is the Son of God and that He was sinless but died on the cross for YOUR sins? Do you believe that He was raised from the dead? Do you recognize that you are a sinner and that you need this gift that Jesus is offering you? Are you willing to follow Jesus? Please think about these things seriously. Our lives our just flickering candles and we never know when our last breath will be drawn. It is of the utmost importance that YOU ARE SAVED.

Funeral arrangements and other church related items will be posted at the church’s website (www.cogab.net) when they are available. For now, please pray for Deb, the family and the church during this time.

Peace and Love,
Rick Mester
#お知らせ

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オレゴン誕生と日本の開国

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ポートランドダウンタウンの長老... ポートランドダウンタウンの長老教会 組織化は1854年とある 組織化は1854年とある
ポートランドにて、歴史を感じる教会堂を発見。

今日、ダウンタウンのAlder通りを歩いているときだった。

これまでその壮麗な教会堂の目前を何度も通ってきたが、
壁に掛かる碑文に注意を向けたことはなかった。

その教会の設立は1854年とある。

その年、数百年間の鎖国を破り日米和親条約が締結された。

前年からのペリー艦隊による砲丸外交によって
江戸幕府は無理やりに開国を余儀なくされた。

時に、二十歳前の坂本竜馬は江戸の千葉道場で剣術修業中である。


「歴史を感じる」と冒頭に書いたがこの州の、
そしてこのアメリカという国の若さを改めて実感してしまう。

長い平安王朝貴族の時代が終わって武士の世となり、

鎌倉から武士政権が誕生して以来650年ほど続いた
「刀とちょんまげ時代」が終焉を迎えようとするころ、
このオレゴン州が産声を上げることになる。

オレゴンがアメリカ合衆国の州に昇格したのは、1859年2月14日である。

ついでにもう少し遡ると、
ジェファーソン大統領の時
ルイスとクラークの二人が陸路北西部の探検に派遣されて、
ロッキー山脈を超えて太平洋岸に達するのが、1805年であった。

当時英国もクックらの探検家を送っていてこの北西部の領有を主張していたため、1818年の米英協定で、共同領有とされた。

当時のオレゴンとは、オレゴン州、ワシントン州、アイダホ州の北西部一体を指している。

1830年代には、ミズーリ州インディペンデンスから
ロッキー山脈を越えてオレゴンに達する「オレゴン街道」が開かれると、
西部に移り住む開拓民が後続するようになる。

1846年、オレゴン条約によって国境問題が平和的に解決される。

アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカの国境が北緯49度線に設定されたもの。
これは現在のカナダとの国境線になっている。

1848年にはオレゴン準州が公式に組織化され、
再度記すが合衆国33番目の州に昇格するのが1859年である。

ちなみにワシントン州の昇格は、
さらに送れること1889年11月11日であり、
大日本帝国憲法が公布されるとの同年である。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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豊臣秀吉と黒田官兵衛の対話

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高松城を湖に沈めんがために長大な堤防を建設中に

秀吉が黒田官兵衛に次のように言っている。






「世を動かすのは、これだ」

と、秀吉は言った。これ、というのは人間の欲望を指している。

秀吉は人間の欲望を刺激した。

すると水が低きへ流れを変えるように、
秀吉の思うがままの方向に人間どもは動き出した。

世を動かすの原理は人間の欲望である、ということを、
秀吉は年少のころから勘づいていたが、その証拠として、
これほど壮大な規模で目の前にくりひろげてくれた光景は
彼自身もはじめて見た。興奮しきっていた。

「官兵衛。デウスは愛であるというたな」

「申しました」

官兵衛はうなずいた。
この切支丹宗徒の発想では宇宙には唯一神デウスがおわす。

その唯一神の作用は愛であるという。

愛をもって万物を創造し、生かしめておられる。

これほど巨大な力の存在を、
天竺人も唐人も日本人もかつての発見したであろうか。

東洋の神仏は幾千幾万も存在し、それぞれ小さな機能をもつに過ぎないが、
このデウスという造物主、
絶対者、唯一神は、天を蔽い、地を蔽い、
人間を創造し、人間に君臨し、
善悪をただし、善は天国へ、悪は地獄へ送る。

何とすばらしい力であろう。

その唯一神が人間を統一している作用は、愛である。

もし人間の帝王にして唯一神の愛を身につけるとすれば、
唯一神と同様の作用を人間どもにおよぼすことができるのではないか。

つまり、愛という神の原理さえ身につければ
この地上を統一できるのではあるまいか。

官兵衛は宗徒としての立場からそのように秀吉に説いてきた。

聡明な秀吉は、それをよく理解した。

もっともその理解の仕方は秀吉流の、
ひどく非宗教的な、
いわば形而下的で現実くさい理解のしかたにすぎなかったが。


その証拠に秀吉はいま、ーーー世を動かすのは欲望だ。

と、官兵衛に異を立てるようなことをいった。

愛よりも欲望ではないか、と秀吉はいうのである。


「さに候わず」

と、官兵衛はいった。

愛でござる。

原理は愛でござる。……………


(司馬遼太郎・太閤記)
#エッセイ #コラム #本 #詩 #読書

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「カイザルのものはカイザルへ」

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イスラエル・オファキームにかか... イスラエル・オファキームにかかるダブルの虹
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/21522-64


「カイザルのものはカイザルへ」
マタイ22章15~22節
~マタイ福音書連続講解説教64~


当時のローマ帝国はユダヤ人に対して人頭税を徴収していました。

ユダヤ人にとって異邦人の政府に納税せねばならないのは屈辱です。

そこには金銭的搾取という政治・経済的理由ばかりでなく
宗教的嫌悪感がありました。

納税の際に使われるコインはデナリ貨であり、
それには皇帝ティベリウスの頭像とラテン語で次の銘が刻まれてあったのです。

「神として崇められるアウグストスの子、カイザル・ティベリウス」

神として祭られているカイザルに税を支払うことは
聖書が堅く禁じている偶像崇拝につながるのではないかとの危惧感から、
パリサイ派を始め保守的ユダヤ人は納税を毛嫌いしていたのです。


❶カイザルものはカイザルへ

この納税問題においての主のお考えはここにある短い言葉に要約されています。

時の地上権力が法令で定めた納税義務を課すなら、
それを果たしなさいというものです。

神の国の国籍を持つクリスチャンは、
地上の権威の下にも置かれているとパウロやペテロも教えています。

神の権威の下に服し、
地上政府の権力の下にも服しているのが信仰者だと言うのです。

地上政府は、
人民の平和と秩序のために神から権力の委託を受けたものであると
聖書は教えます。

それであるなら、政府はその神からの委託に応じなくてはなりません。

無条件の白紙委任ではないのです。

その委託を正しく行使しているかを監視しなくてはならない責任が
我々人民の側にあるし、

もし神からの委託に応えず神の御心に反する政策を政府が行使するなら、
権力乱用でありそれに従ってはならないことなります。


❷神のものは神に返しなさい

この主の言葉を聞いて彼らは「驚嘆した」とあるので、
その言葉の持つ重みを彼らが十分に理解ていたことが分かります。

旧約聖書文化の蓄積のない我々異邦人には説明が必要です。

そこには、人間とは神の刻印が押された存在であり、
神が真の人間の所有者であるとの共通理解がありました。

彼らは創世記にある人間創造の記事を熟知していました。

人は土地のチリを原材料にして造られたとあり、
さらに「神のかたち」に造られたとあるのです。

ここで主が言わんとしていることは
パウロがローマ12:1で言っていることと同じです。

「 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
きよい、生きた供え物としてささげなさい。 」
(ローマ 12:1 )

「からだ」とは全身全霊、あなたの存在の全てを意味しています。

神の御心を知りながらも因循姑息な口伝律法に凝り固まり、
自己義を捨て切れないでいる彼らは
「神の所有」という立ち位置から相当かけ離れた所にいる現実を自覚させられて、
そこから逃げるようにして立ち去ったのでした。


❸ ささげものについて

地上政府や神に対しても返すべき負債・義務を負っているとの教えの原則は、
教会でのささげもの(献金)についてもそのまま当てはまります。

私たちが日常所有していると認識している
私の財産、
私の時間、
私の賜物、、、
どれ一つ取ってみても実は自分のものでなく神の所有物なのです。

地上生涯のしばらくの間、私たちはそれらを委託されているに過ぎません。

真のオーナーは神であり、我々はマネージャーです。

やがて神の前に立つ時に、
それらの委託物をどのようにマネジメントして来たかの収支報告書を
提出しなくてはならないと聖書は教えます。

政府への納税義務には強制力が伴っています。

義務を履行しないのなら懲罰されます。

ところが、教会には強制の献金や懲罰は今日ありません。

それは私たちが神の前における自由人として判断を任されている分野です。

献金は強要からでなく一人ひとりが心で決めるものである、
と聖書は明快です。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
Ⅱコリント9:7

ここで、
自由裁量に任されているものこそが、
やがて神の前での評価の対象となり、
報酬が決定される選考基準となると言えるでしょう。


#救済

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イスラエルと教会11~その⑦

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プリムの祭りの日に子供の入院し... プリムの祭りの日に子供の入院している病院に現れたサプライズ
⑸結論 ローマ3:9

 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。
決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、
すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

私たち(ユダヤ人)は特権を持っているので、
他の異邦人達よりも優れているというのか、という論点。

そんなことは決してない、と言うのが答えである。

ユダヤ人も異邦人も神の義には到達しなかったのを確認してきた。

それゆえ、全ての人は信仰を通じてのみの恵みによる救いという
同じ方法が必要なのである。



(まとめ)
ここまで2:17-3:9を長く扱って来た目的は、
2:28-29を正しい文脈に位置付けて理解するためであった。

この文脈では、パウロは
異邦人クリスチャンが霊的なユダヤ人になったと教えているのでなく、
全てのユダヤ人が真のユダヤ人になったのではない
と教えるのである。

ここにある区別とは
ユダヤ人と異邦人ではなく、
イスラエルと教会でもなく、

それは
レムナントとノンレムナントの区別であり、
信仰のあるユダヤ人と信仰のないユダヤ人の区別なのである。


#救済

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イスラエルと教会11~その⑥

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イスラエルでは3月16日にプリ... イスラエルでは3月16日にプリムの祭りがありました。
エステル記に起源を持つ祭りで大人も子供も仮装します。
⑷ユダヤ人に与えられた約束   ローマ 3:1-8

「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。

2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。

5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。

6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。

8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」


❷ユダヤ人の不信仰は神の約束を無効とするのだろうか。 3ー4節

言葉を言い換えるなら、

ユダヤ人が信仰に欠如したら
神の真実性までもが疑うものとなってしまうのか
という点である。

ここでパウロは全てのユダヤ人が不信仰に陥ったとしてるのでなく、
彼らのうちのあるものたちが不信仰に陥った点をあげているのに注目しよう。

ユダヤ人の中には救いに至る信仰を持つものたちが
これまでにいつの時代にも存在していたし、
今後も少数であるが存在し続けるであろう。

それでは、不信仰なユダヤ人ゆえに、
神の約束の真実性が損なわれるのだろうかという点はどうであろう。

答えはNOであり、
ギリシャ語の中で最も強い否定形の用例が用いられている。

「絶対そんなことはあり得ない」というもの。

神の真実性は人間の不信仰によって左右されるものでないのである。

パウロがここで言っている「神は真実な方であるとすべき」とは、
神はご自身の約束の言葉をお守りになられる方であると教えるものである。

「全ての人を偽り者としても」とは、
ユダヤ人に対する神の約束は成就しないと教える
全ての人の事を指摘した聖句である。


❸人々の不信仰にも関わらずに神の真実性が保たれるなら、
神は人を裁くことが出来るだろうか。5-8節

神の真実性がいよいよ現されるために
人は罪を犯し続けても許されるのではないか、
という論点についてパウロは再び厳しい調子で否定している。

その議論の行き着く結論は、
神は誰をも裁かれないことになる。

その教えは、全ての人がやがて世の終わりに神の裁きに服するという
古からの明瞭な聖書の教えと明らかに矛盾することになる。

7ー8節は人間の視点からの論点であり、
ある人々がパウロ神学を誤解して攻撃しているところである。

彼らはパウロがモーセ律法とは異なる義を伝えている道徳廃棄論者
であると結論づける。

それは誤解であり、ここでの答えは次のようになる。

律法を守ろうとしてもそこに至らない点で裁かれるのと同様に、
道徳廃棄論ゆえの積極的な悪行もまたもちろん裁かれるのである。

神はとにかく罪を公正に裁かれるお方であられる。

#救済

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イスラエルと教会11~その⑤

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ヘルシーなイスラエル料理 ヘルシーなイスラエル料理


⑷ユダヤ人に与えられた約束   ローマ 3:1-8

「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。

2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。

5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。

6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。

8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」


この箇所は、
パウロが2:17-29で展開してきた
ユダヤ人もまた神の義に至らずに裁きの下にあるという論を踏まえている。

もしそれが正しいとすると、
当然予想される反論とそれに答えたパウロの言葉の箇所である。

もし罪深い異邦人と同じレベルに罪深いユダヤ人がいて
ともに神の怒りの下にあるというのなら、

神がユダヤ人達に与えてきた特権はどうなってしまうというのか?!
という反論に答えるのである。

ここでの答えとは大変短いものであるが、
9ー11章にては、相当詳細な分量の答えとなっている。

ここでの基本となる答えは次のように要約できる。

パウロはユダヤ人と異邦人との区別の全てが
帳消しとされてしまったとは教えていない。

彼が教えているのはそうでなく、
救いの方法に関してのみ、
両者の違いがもはや存在しないということである。

ユダヤ人は異邦人が罪深いのと同様に罪人である。

両者ともに神の義の基準に達することはあり得ない。

ゆえに両者は同様の救いに至る方法が必要となってくる。

人の付け入る隙のない、ただただ神の側における恩寵による救いである。

すなわち、信仰による恵みが身代わりの死において現されていること、
イエスの死と復活がメシアとしての人を救う根拠となっている点などである。

この箇所でパウロは予想される3つの反論と
それに対する答えをそれぞれに3つ用意している。


❶ユダヤ人の契約の民としての立場はどうなってしまうのか? 1ー2節

もはや契約の民族としての特権を失ってしまったのか。
こたえはNOである。

ユダヤ人に対しての神の約束は
現在でも多くの点で有効であるとパウロは告げている。

ここでは1つだけを上げているが、
9ー11章にかけてはさらに多くの特権を論じている。

ここでの主な特権とは、ユダヤ人には神の言葉が委ねられている点である。

神はご自身を啓示するためにユダヤ人だけを選ばれた。
ゆえに聖書記者は全てがユダヤ人なのである。

時に医者ルカが異邦人であったと見なされることもあるが、
その論拠とするものは弱いものだ。

この特権性からして、彼もまたユダヤ人であると見なされるのが適当である。

救いに関する以外の領域では
キリストの体の中(教会)においても
ユダヤ人と異邦人には明確な区別が存在している。

未だ成就していないアブラハム契約の土地条項については
ユダヤ人だけに与えたれているものである。

物質的なこの祝福は彼らだけのものであり、
異邦人が共通して参与できる祝福とは
ユダヤ人に約束された霊的な祝福の分野のみである。




#救済

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人生の達人

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吉田花さん。 幾つに見えますか... 吉田花さん。
幾つに見えますか?
美容師のJUNさんに毎週、整髪... 美容師のJUNさんに毎週、整髪してもらいます。

最初の写真に映る初老のご婦人。

一体何歳に見えるだろうか?

彼女は昨日、95歳の誕生日を迎えられた。

タコマに住む
吉田花(ハナ)さん。

現在ではお一人で生活されながら炊事、洗濯、買い物、
そして週一度の美容院までの運転も全てやってのける。

長寿の秘訣を聞いてみると、
「クヨクヨ悩まないことだ」と言っておられた。

困ったことが起きたとしても
「大丈夫よ、それもOKよ、何とかなるわ」
と全てを肯定して積極的に受け入れるのだそうです。

食生活については納豆を毎日食べる他、
野菜を多く採っているとのこと。

広島出身の両親の家庭でタコマで生まれ、育てられました。

もちろん太平洋戦争中は、家族皆でミネドカ収容所送り。

父親はタコマの中心街にホテルを所有していたが、
その時に失い、現在そこにはシェラトンホテルが建っている。

そんな苦労のどんでん返しに遭っても
まるで子守唄を歌うように
柔和に楽しそうにお話くださった。

人生の達人って、
こんな人のことを言うのだろう。




#健康 #美容

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パッキンと人の心

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今日のシアトルは快晴 中華街入... 今日のシアトルは快晴
中華街入り口とスミスタワー
キッチン流し台の下水パイプからまたもや水漏れ。

数ヶ月に一度は繰り返されるトラブル。

重たい水量に耐えられなくなると
プラスチックのパイプどうしのつなぎ目が外れるだけのことで
スクリューを調整して直して来た。


ところが今回は何度調整しても、
そのジョイント部からの水漏れが収まらない。

原因は、ジョイント部のパッキンが破損していたのだ。


すでに家内が新品のパッキンを用意してくれていて
取り替えるだけで問題解決。

問題の根本に手を入れなくては
真の解決につながらない。

それは神が人間を扱う方法と同様である。

人が大きな家に住み、便利な生活と高い教育だけでは外側を取り繕うのに等しい。
社会から憎悪や窃盗、詐欺や殺人などの罪の行為の濁流はなお流れ続ける。

力任せにスクリューをどんなに締め付けても水はポタポタと漏れてくる。

神のなされる問題解決法は
人間の心という根本のところにメスを入れることにある。

罪深い人の心は治療不可能なので
神がキリストの心というものと入れ替えてくださる、というもの。

主イエスだけが罪のない完全な生涯を送り
神の前に「義」であられることが出来た。

その義を私たちに転用してくださるというのが、キリスト教の救いの極意である。



「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」
だれが、それを知ることができよう。」
エレミヤ17章9節


「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、
律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
(ガラテヤ 2:16)
#暮らし #生活

ワオ!と言っているユーザー

シアトル地区の牧師会

スレッド
シアトル地区の牧師会 シアトル地区の牧師会

本日はシアトル圏で日本人伝道に携わるリーダー会が
市内のバプテスト教会で開かれた。

本日で最後の出席となる先生あり、
赴任直後の初顔合わせとなった先生あり。

また、それぞれが担っている働きの重荷や課題を分かち合いながら
ともに考えたり、悩んだり、アドバイスしたりしながら貴重な時が流れて行く。

最後は少グループに別れて祈りの時を持つ。

3ヶ月に一度のこの集いから、大きな励ましと力とを頂いている。
#暮らし #生活

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