「カイザルのものはカイザルへ」
3月
18日
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
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「カイザルのものはカイザルへ」
マタイ22章15~22節
~マタイ福音書連続講解説教64~
当時のローマ帝国はユダヤ人に対して人頭税を徴収していました。
ユダヤ人にとって異邦人の政府に納税せねばならないのは屈辱です。
そこには金銭的搾取という政治・経済的理由ばかりでなく
宗教的嫌悪感がありました。
納税の際に使われるコインはデナリ貨であり、
それには皇帝ティベリウスの頭像とラテン語で次の銘が刻まれてあったのです。
「神として崇められるアウグストスの子、カイザル・ティベリウス」
神として祭られているカイザルに税を支払うことは
聖書が堅く禁じている偶像崇拝につながるのではないかとの危惧感から、
パリサイ派を始め保守的ユダヤ人は納税を毛嫌いしていたのです。
❶カイザルものはカイザルへ
この納税問題においての主のお考えはここにある短い言葉に要約されています。
時の地上権力が法令で定めた納税義務を課すなら、
それを果たしなさいというものです。
神の国の国籍を持つクリスチャンは、
地上の権威の下にも置かれているとパウロやペテロも教えています。
神の権威の下に服し、
地上政府の権力の下にも服しているのが信仰者だと言うのです。
地上政府は、
人民の平和と秩序のために神から権力の委託を受けたものであると
聖書は教えます。
それであるなら、政府はその神からの委託に応じなくてはなりません。
無条件の白紙委任ではないのです。
その委託を正しく行使しているかを監視しなくてはならない責任が
我々人民の側にあるし、
もし神からの委託に応えず神の御心に反する政策を政府が行使するなら、
権力乱用でありそれに従ってはならないことなります。
❷神のものは神に返しなさい
この主の言葉を聞いて彼らは「驚嘆した」とあるので、
その言葉の持つ重みを彼らが十分に理解ていたことが分かります。
旧約聖書文化の蓄積のない我々異邦人には説明が必要です。
そこには、人間とは神の刻印が押された存在であり、
神が真の人間の所有者であるとの共通理解がありました。
彼らは創世記にある人間創造の記事を熟知していました。
人は土地のチリを原材料にして造られたとあり、
さらに「神のかたち」に造られたとあるのです。
ここで主が言わんとしていることは
パウロがローマ12:1で言っていることと同じです。
「 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
きよい、生きた供え物としてささげなさい。 」
(ローマ 12:1 )
「からだ」とは全身全霊、あなたの存在の全てを意味しています。
神の御心を知りながらも因循姑息な口伝律法に凝り固まり、
自己義を捨て切れないでいる彼らは
「神の所有」という立ち位置から相当かけ離れた所にいる現実を自覚させられて、
そこから逃げるようにして立ち去ったのでした。
❸ ささげものについて
地上政府や神に対しても返すべき負債・義務を負っているとの教えの原則は、
教会でのささげもの(献金)についてもそのまま当てはまります。
私たちが日常所有していると認識している
私の財産、
私の時間、
私の賜物、、、
どれ一つ取ってみても実は自分のものでなく神の所有物なのです。
地上生涯のしばらくの間、私たちはそれらを委託されているに過ぎません。
真のオーナーは神であり、我々はマネージャーです。
やがて神の前に立つ時に、
それらの委託物をどのようにマネジメントして来たかの収支報告書を
提出しなくてはならないと聖書は教えます。
政府への納税義務には強制力が伴っています。
義務を履行しないのなら懲罰されます。
ところが、教会には強制の献金や懲罰は今日ありません。
それは私たちが神の前における自由人として判断を任されている分野です。
献金は強要からでなく一人ひとりが心で決めるものである、
と聖書は明快です。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
Ⅱコリント9:7
ここで、
自由裁量に任されているものこそが、
やがて神の前での評価の対象となり、
報酬が決定される選考基準となると言えるでしょう。