至るところにシーホークス応援のサインが
スーパーボウルとは、
年に一度のアメリカンフットボールの全米チャンピョン決定戦の祭典である。
この日のTV視聴率が毎回、年間を通じて最高を記録する。
その祭典に初めてシアトルのシーホークスが駒を進めたというのだから、
この街も黙ってはいない。
友人たちで揃っては大型TVの前でコーラとポテトチップスを方張りながら歓声を上げるのが定番の過ごし方となる。
我が家はどうであったか?
一人を除いて全く関心なし。
私は直前までシーホークスが勝ち進んでいることも知らなかった。
その日、弟の家でも典型的なTV観戦が友人たちを集めて続けられていた。
3歳になる双子の姪たちは、相手チーム・ブロンコのファンであるという。
ゲーム当初からシーホークス有利のゲーム展開に、
ついに彼女らは泣き出してしまったそうな(^_^)
こうしてアメリカンになるための教育が幼児期から始められる。
私は何年かけても到底アメリカンにはなれそうにない。
この週末、二日間の期間限定・羽田ー成田往復航空チケットが発売された。
通常は$1400もするのが、$960であるという。
この機会に是非とも購入したく、準備開始。
日本の滞在先に電話したり、家内とのディスカッション、夏の子供のスケジュールや彼らの意向を尋ねたり。
中学生となる長女に今夏も体験入学は許されるのだろうか?
そんなことを数時間かけて話し合っているうちに明くる日の土曜日となってしまう。
家内ともようやく意見調整が出来て、訪日の日程が決定。
そこで旅行会社へチケット購入のための電話をしたところ、
昨日でその格安料金は終わってしまい、この日の朝から通常料金に戻っているとのこと(≧∇≦)
「二日間」と言っておいて初日でそのディールを終えたのは、
利用者が多かったためらしい。
デルタ航空の判断によるもので、どの旅行会社も同じ扱いであり、どこも責めることは出来ない。
昨年の場合、2月1日にだけ格安販売が行われて以降、夏までの格安でのチケットは売り出されなかったと言う。
もしこの先そんな販売があったら、迷わずに即刻で購入する事にしよう。
ついにリリース、明美シザーズ!
ハサミに付ける名称は日本的なものでなくてはならない。
今までにも、
「リョウマ」
「バンブー」
「美濃」
そんな名前を付けてきた。
昨年「カイ」と言うのを付けてから、
お姉さまはご機嫌ナナメ。
「私の名前を付けてくれない〜(≧∇≦)」
「今度、今度」と言っていて
その度に彼女をがっかりさせて来たけれど
この度ようやく約束を果たすことが出来た。
また、それとは別に
長女は名案の名前を考えてくれた。
「夕方シザーズ」
これには節があって、彼女の歌を聞かないと意味をなさない。
CMに流せといって、ソングまで作ってくれた。
こんな感じとなる。
「You gotta scissors, You gotta scissors, You gotta!, You gotta sci-ssors!!」
(ユーガタ シザーズ) : (ハサミを買ってよ)
本日も小雨が降り続くノースウエスト特有の空模様となった。
「毎日がどんよりとした曇りで雨ばかり」だなんて贅沢を言っていられない。
米国の南東部はたった今、大寒波に見舞われている。
ハイウェイが凍結していて、あちこちで事故。
何時間待ってもビクとも動かない車列に、諦めて車を乗り捨てて徒歩で帰る人が続出しているとのこと。
ジョージアに住む私の友人も仕事からの帰り道にその渋滞に巻き込まれた。
数時間かけても動かない渋滞に、生命の危険を感じた彼女は意を決して歩くことに。
何と8時間もかけて帰宅出来たとのこと☆〜(ゝ。∂)
彼女は翌日、放置した車のところまで行くのだが、
数千台の規模であちこちに放置されたままの車を見たそうだ。
それと比べたらこちらの雪は、
ままごとのようだ。
積もる程の降雪は年に一度か二度だけ。
数センチの雪は翌日にはスッカリ解けている。
竜巻やタイフーンに遭うこともあり得ない高緯度地方。
マイルドな気候の恩恵をいただいている。
テルアビブの夜明け
イスラエルとキリスト教会❾その2
ガラテヤ6:16
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように 」
この聖句にある二つの組織体・グループとは
異邦人信者とユダヤ人信者の二者であり
二つのグループに祝福を述べたものであると解釈できる
大きな理由は次の通りである。
①解釈学の原則から
新改訳聖書のようにギリシャ語Kaiを「すなわち」と訳すのは
文法上誤りではないが、それは圧倒的に稀なケースである。
ほとんどの場合は、ANDと訳されるのである。
「釈義や神学上の明らかな矛盾がない場合で、
通常訳出される語句が意味をなすものならば、
より稀な語句を訳語として採用してはならない」
この解釈学の原則に立つなら、ANDと訳出されるのがふさわしいことになる。
もし契約神学者が言うように、
「神のイスラエル」が「基準に従って進む人々」と等しいとするなら
パウロは、Kaiをここで記さなかったはずである。
その方が文法にかなっている。
だが、事実は明記されているのである。
②用法と文脈に照らしての釈義から
先ず、用法について検討してみよう。
聖書記述の中で先回確認したように、
「イスラエル」が「教会」の意味として使われたことはない。
「異邦人」は、ノンクリスチャンを指して使われた言葉でなく、
ユダヤ人以外の人々を指したものとして聖書の中では一貫して使われている。
「使徒の働き」書の中では「教会」と「イスラエル」とが調和をもって扱われている。
誕生したばかりの教会は、
歴史的イスラエル のすぐ隣に存在していたのであり、
両者は明確に区別されていた。
契約神学者の一部は、
ローマ9:6をもって霊的なイスラエルがクリスチャンのことである
と主張するのであるが、
注意深くここを読むならば、
信者であるユダヤ人と
信者ではないただの民族的ユダヤ人とが
「霊的」と言う語によって区別されたものである事が分かる。
「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、
「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。」
(Rom 9:6-7)
次に文脈を再度確認して見よう。
パウロはユダヤ主義者によって誤った福音が導入されたガラテヤの教会を
矯正するためにこの書簡を書いているのである。
彼らはモーセ律法に従い、
割礼を受けなければ救われず、
救いの維持もないと教えて、
大きな混乱を与えていた。
パウロはその点を論ずるに当たって、
当時のイスラエルと異邦人という
明確に区別されていた民族グループを
意識しないでおくことはできなかったのだ。
恵みの選びによって教会内にレムナントと呼ばれるユダヤ人信者があった。
パウロは、ユダヤ人とギリシャ人、
女性と男性、
自由人と奴隷、
こうした区別を教会内で認めているし、識別している。
パウロが言っている「キリストにあって一つとなる」というのは、
性別や社会的相違を同化する事でなく、霊的な事柄であったはずである。
同様に、異邦人とイスラエルの民族的相違は歴然と教会時代も存続するのである。
③神学的理由から
イスラエルが教会と同一と見なされた記録は
どこを探してもAD160以前には
一つも発見されていない歴史的な事実がある。
パウロ時代から1世紀も経ているのに、
それらが同じものと考えられていた形跡が無かったことになる。
「神のイスラエル」との表現はおそらく
「肉によるイスラエル」(1コリント10:18)
と対照となっている語であると言えるのではないか。
つまり信仰のイスラエルと
不信仰のイスラエルが対比であり、
ローマ9:6でパウロが論じている二つのイスラエルである。
両者は共に民族としてのイスラエルではあるが。
この見方は文法上の理由から支持される。
Kaiは通常順接接続詞として「〜と」と訳されるべきものであり、
その一般的な用法を無視しなくてはならない理由はここにないのである。
さらに釈義からも支持される見方である。
「イスラエル」の語は、
パウロにとって常に自己を包含している民族的な概念である。
ここでパウロが攻撃型の激しい論調調子の書簡を締めくくるにあたり、
その結論もまた、鋭くユダヤ主義者たちを意識したものとなっている。
彼の通常の書簡の締めくくりには出現する感謝の言葉が
ここで忘れ去られているほどである。
同時にパウロは
忠実な信仰のイスラエル人への祝福の言葉をも忘れることはなかった。
彼らは、
人の功績が何ら役に立たず、
ただ神の恵みのみが贖いを完成させると理解していて、
巧妙なユダヤ主義者に追従し負けることの無かった人々であった。
彼らこそ偽りのイスラエルでなくて、
「神のイスラエル」であり、
他の箇所では
「恵による選びゆえのレムナント」
(ローマ11:5)
とも呼ばれる人々である。
神学的に見ても、
一つの神の民の中に二つの要素(異邦人とユダヤ民族)
があると教えていることから支持され得るのである。
ローマ11章はこの二つの組織体の相互関係を扱ったものであった。
族長達と交わされた偉大な無条件契約が
今日までどのように推移して来て
将来にどのように完成されるかが記されてあるところである。
こうしてみるならば、
ガラテヤ6:16には、
二つの組織体が意識されたものであると結論できる。
つまり、
「この基準に従って進む人々」=異邦人信者
(と=KAI=AND)
「神のイスラエル」=ユダヤ人信者
の二つである。
ゴラン高原
イスラエルとキリスト教会❾〜ガラテヤ6:16ついて
Galatians 6:16
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように 」
全ての契約神学者が、
「教会が霊的なイスラエルとなったのだ」
または
「異邦人信者が霊的なイスラエルである」
と結論付ける根拠としてあげる聖句はこれ一つである。
果たしてこれが正しい解釈であろうか。
先ず、ガラテヤ書全体の文脈を概観してみよう。
そもそもこの書は、
モーセ律法によって救いを得たり、
これを維持しようとしている異邦人信者に関心を払って書かれたものである。
15節では救いに重要なのは信仰であり、
れが「新しい人(直訳)」に至る、とある。
さらにそこに至るには2つの要素があり、
一つが割礼、他が非割礼である。
それは二つのグループを意識したもので、ユダヤ人と異邦人のことである。
「7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、
私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、
私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、
柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、
私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。
それは、私たちが異邦人のところへ行き、
彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」(ガラテヤ2:7-9)
16節では、信仰によってのみ救いが得られるという基準に従う
二つのグループに祝福を述べるのである。
最初が「人々」と訳されているグループで、異邦人のことである。
次が「神のイスラエル」、つまり信仰のあるユダヤ人のことである。
これら二つのグループを新改訳聖書は「すなわち」と訳して
同一グループと見なしているのは、
契約神学の視点からの読込みであると言わざるを得ない。
そこにはKaiという接続詞が用いられてあって、
その主要な意味はANDであり、並列に訳されるべきものである。
口語訳聖書はその点で正しく訳出してある。
「 この法則に従って進む人々の上に平和とあわれみとがあるように。
また、神のイスラエルの上にあるように。 」
(Gal 6:16 口語訳)
ガリラヤ湖
イスラエルとキリスト教会❽〜新約聖書での「イスラエル」用法について
契約神学という流れにある人々は、
新約聖書で教会が新しいイスラエルになったのだと言う。
この二つの用語が相互に交換できるものであるとしている。
果たしてそうであろうか
新約聖書では73回、
イスラエルという語が出現している。
聖書の各書に出現している、代表となる聖句を一つずつだけ取り上げてみる。
Matthew 2:20
「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。
幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」
:家族がイスラエルの土地に帰って来たという地理的な名称に過ぎない。
Mark 15:32
「キリスト、イスラエルの王さま。
今、十字架から降りてもらおうか。
われわれは、それを見たら信じるから。」
また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
:イスラエルの王としてイエスが嘲弄された
Luke 4:25
わたしが言うのは真実のことです。
エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、
全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
:エリヤ時代のイスラエルにいたやもめに対する歴史的な言及である
Acts 2:22
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。
神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で
力あるわざと不思議としるしを行われました。
それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。
これは、あなたがた自身がご承知のことです。
:ペテロは不信仰なユダヤ人会衆に対して呼びかけているもので、
これが教会であるはずがない
Romans 9:6
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
:パウロは二つのイスラエルを対照させている。
一つはイスラエル全体であり、
もう一つがその一部である信仰のイスラエルである。
1 Corinthians 10:18
肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。
供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
:「肉の」イスラエルとは、国家的・民族的イスラエルのことである
2 Corinthians 3:7
もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、
モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、
イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
:モーセ時代のイスラエル人の子供達への歴史的な言及である。
Galatians 6:16
どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
:「神のイスラエル」とあるこの箇所が、
契約神学にある全ての人達に共通して
教会がイスラエルと呼ばれる根拠であるとしている。
Ephesians 2:12
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、
イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
:「イスラエルの国」とは、「異邦人」と区別され、
「新しい一つの人」=教会とも区別されている。
Philippians 3:5
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、
ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、
律法についてはパリサイ人、
:パウロの出身の言及であって、民族的イスラエルのことである。
Hebrews 11:22
信仰によって、ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
:民族的イスラエルの歴史的な出エジプトのことである。
Revelation 7:4
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、
イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、
十四万四千人であった。
:これは、イスラエルの12部族のことである。
「宮きよめ」
マタイ21章12~ 17節
~マタイ福音書連続講解説教59~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1217-59
受難週の二日目、月曜日の出来事である。
主は商売をしている人たちや両替商などの世俗的利益で働いていた者たちを
神殿から追い出した。宮きよめと言われている所以である。
公生涯での最初の過越の祭りにも同様の宮きよめをされているが、
今回の記事は2回目の出来事となる。
宮きよめにはどのような意義があるのだろうか。
❶イエスご自身のメシア宣言であった
主は神殿のことを「わたしの家」と呼ばれた。
ここにご自分が神に等しい存在であるとの宣言がある。
当時のユダヤ教は、パリサイ派による逸脱した形骸化宗教であり
また神殿においては大祭司たちの懐を温める特権ビジネスと化していた。
「強盗の巣」にしていると主が弾劾したのは、
大祭司達が生贄の動物を認証する権限を利用して
金儲けに走っていたからである。
彼らの認証なしに動物を捧げることができなかったし、
シェケル銀貨でしか献金が許されていなかったので
両替商もまた大祭司一家のビジネスとなってぼろ儲けをしていた。
「異邦人の庭」と呼ばれる境内が占拠され、
到底祈りに集中できる場でなくなっていたのである。
主は、宗教を借り物にした偽善や貪欲に激しい怒りを向けられた。
ここでもう1つ注目したいのは、
そのように堕落したユダヤ教であったとしても
その神殿での礼拝を神聖なものと認めておられることである。
主イエスは聖書的ユダヤ教の流れの中に位置付けられ、
連綿と続く預言者たちの系譜に属するお方であると言える。
❷権力者たちとの論争の火種となった
ニサンの月の10日に過越用の羊が選り分けられると、
14日に屠られるまで傷や欠損がないか吟味された。
同様に主は10日のエルサレム入京時に選り分けられた。
そして14日夜の最後の晩餐までの間、
様々なグループから「傷のない子羊=メシア」であるかを吟味されることになる。
その吟味とは、ユダヤ教の各派閥からの論争であった。
その原因を作ったのがこの時の神殿での激しい主の行動であった。
主はすでに金曜日に十字架で処刑されることご存知であられたが、
それに向かっての着実な布石であったともいうことができる。
つまり金曜の午前9時に神殿では過越しの羊が捧げられる時間に、
神の子羊であられる主が十字架に付けられなくてはならない、
そのゴールを定めた歩みがすでに始まっていたのである。
❸預言の成就のために
商売人たちが追い出された後の広大な神殿域には、
「盲人や足の不自由な人々」がみもとに来て、癒されたとある。14節。
こられすべてを見ていたのが子供たちがいた。
彼らは「ダビデの子にホサナ」と言って、
メシアとして主を歓迎したのであった。
それは詩篇8:2の成就となった。
「幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」(16)
幼子は時に鋭利な直感で真実を見分け、率直に表現する特徴がある。
一方、大人たちは権力者・サンヘドリンにはばかって無言を貫いていた。
イエスを認める人は、必ずしも教育があったり力のある人たちではなかった。
幼児のような純真な信仰のあるものによって主は称えられたのだ。
やがて到来する神の国も、このような者たちによって建立されることになる。
ポートランドから約6時間をかけて帰宅しました。
途中、色々と寄る所がありまして。
直行なら3時間足らずです。
夕食を終えてから、今度は北のエベレットまで、
ミュージカル・ステージを終えた長女を迎えに往復1時間ほどのドライブ。
来週の月曜は子供たちの学校が休校で、再び3連休となる。
大きいほうのMt.Siを盗聴してみたいと思っているのですが。。
果たして子供らは着いてきてくれるでしょうか。
同期卒業牧師たちの子息たち
卒業した神学校のある同級生と
卒業以来初めてのコンタクトをこの日にとった。
Facebookを通じてである。
時間や空間の距離が一気に縮まってしまった、妙な感覚。
FB上での交流はかなり発展して行く。
話の中で、同級生達のご子息たちは実際に会っての交流が続いているらしく、
その点羨ましくも感じる。
そのご子息たちが一同に会したという写真を送ってもらい、
「誰がどこの子だか分かる」
とクイズを出された。
子供たちと言っても、
すでに立派な社会人となっている人たちばかりである。
一人にはその子が小学生の時あったきりで、
その他の子供たちは
どれも初めて拝見するツラツラばかりである。
だが、姿形は親のものを実に見事に受け継いでいて、
難なく答えることができた。
採点の結果は100点満点だった(⌒▽⌒)
神学校時代の試験でも、そのようでありたかった。
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