イスラエルと教会11~その②
2月
23日
「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)
この聖句を真に理解するためには、
ローマ2:17-3:9 という大きな文脈の中で論じなくてはならないことを先回指摘した。
この箇所を5つに区分して見て行きたい。
⑴ユダヤ人としての特権について 2:17-20
「17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、
律法を持つことに安んじ、神を誇り、
18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
19 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため
、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、
幼子の教師だと自任しているのなら、
20&21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」
(Rom 2:17-21)
17-18にはユダヤ人が持っている5つの特権が列挙される
・ユダヤ人という名前そのもの。栄誉という意味であり、
神を褒め称える民という特権。
・律法を授けられた特権。
それは神の最大の啓示を内蔵するものであり、
ユダヤ人とは啓示を受けて来た特別の民族である。
・神を誇る(栄光を帰す)民。
異邦人は神々や偶像を拝んでいるが、
ユダヤ人だけが民族全体としてまことの神を礼拝し、栄光をお返ししてきた。
・神の御心を知っている民。
言語では「御心」に定冠詞があり、
ユダヤ人だけが神のお考えを知りわきまえる事が可能であったのを示している。
・律法によって何が優れた事であるかをわきまえている民である。
律法はユダヤ人に事の善悪を明瞭に語ってきた。
確かにこれらはユダヤ人に与えられてきた特権に違いないが、
それら特権が彼らを神の義に至らせたものではないのである。
特権には責任が伴うのである。
ところが彼らにとっては、その特権が民族的な優越感となって現れてしまった。
律法という特別な特権の基盤を与えられた彼らは、
異邦人世界の中で神を宣教する役割を担うはずであったが、
出て行って証するよりも優越的な立場を主張して終わってしまったのであった。
その彼らの優越感溢れる主張点もまた5つある。
・盲人の導き手
・闇の中にいるものたち(それは旧約聖書から異邦人を意味する)にとっての光
・愚かな者たちを教導する。
旧約聖書によれば、「愚か者」とは神を認めない者たちのことを言う。
・幼子の教師。ユダヤ教に転向した異邦人を教える立場にある。
・知識と真理の具体的な形としての律法を手にしている。
律法が真理を啓示したものであるとの主張はその通りである。
問題は、パリサイ的なユダヤ教が律法を曲解してしまい
もはや本来意図された教えがそこから抽出されないことにある。
(次回に続く。一連の投稿は「救済」タグをクリック)