あるレストランにあった壁掛絵画
「最も住んで見たい街」全米ベスト10から
3-4ほどの街はベイエリアから選ばれている。
サウスベイに群居しているお馴染みのFacebookやGoogleなどのIT関連企業は
若い技術者たちを惹きつける。
それが最大の理由であるようだが、
この地域の住宅不動産価格は高率での上昇が続いている。
昨年同月に比べること14%を超える上昇率。
数年前の不動産の冷え込みはどこへ行ったのだろうか。
「持てるもの」には景気の良い話になっても、
賃貸生活者には厳しいばかりである。
友人のSさんはPaloAltoで一軒家を賃貸しているが、
大家から突然$500の家賃値上げを突きつけられたという。
やむなくも出て行くことしかなく、
現在は引越し作業の中にいる。
その多忙の間隙にともに夕食する機会を得た。
この地域の高騰の波は、
いつかシアトルにも押し寄せて来るのだろうか。
この日もまる子お母様は食べ切れないほどのご馳走を作って待っていてくださった
サンマテオの吉田邸にお邪魔する。
夕方に上がり込むと、ご夫妻と夕食を囲むのが恒例のパターンとなっている。
ご夫妻には3女の素敵な娘さん方がいらっしゃって、
すでに皆さん家庭を持っておられる。
先日の年末年始にご夫妻はご長女のご一家を伴い、
総勢6名で故郷の熊本へ一時帰国された。
そのお土産話に花が咲く。
ご夫妻の3女は私の年代である。
息子がいないことから、
そのようにして私が息子代わりとなって甘えさせてもらっている。
長女の13歳の誕生日を祝う。
レントンにあるCheese Cake Factory という流行りのファミレスへ行く。
道中の車内で、愛娘に語る父親からの訓辞を思いついた。
「明美、13歳の誕生日おめでとう。
13歳といえば、ユダヤでは成人式なんだ。」
「オー、ウィー、エー ´д` ; 」
嗚咽とも悲鳴ともつかないような感嘆詞が後部座席から漏れている。
「またイスラエルの話〜」という干からびたタタミイワシのような声が続いた。
なるべく威厳の響きを感じてもらう音色を装いながら、
私は構わずに続けた。
「13歳の成人式は「バル・ミツバ」と呼ばれ、
それは「律法の子」という意味がある。
つまり、もはや霊的に神の前に独立した人としてみなされるんだ。
聖書の言葉を自ら読んで従う年齢に達したということなんだよ。………」
後方からの「すでに聞いたよ〜、知ってるよ〜」などの声に妨げられながら
そのようなあらましを語るが、どうもうまく事が運ばない。
「丁重に父上の訓辞を拝聴する大和撫子」
といった当初の想定は早くも崩れ去ってしまった( ̄▽ ̄)
苦し紛れにしゃべってしまった最後の一言が余計であったようだ。
「もっともバル・ミツバは男子だけのものだけどね。
女子は人数に入っていなかったんだ。」
「ウオッ〜 (u_u) 」
悲鳴の声は、1オクターブ高くなっていた。
「繊細な女性の気持ちは分かっていないわね」
と隣からも横槍が入る。
お祝いの誕生会が一体どこへ行ってしまうのか、
ヒヤヒヤのドライブとなった。
古代イスラエルの風習(今日までも続いている成人式様式だが)を
ウーマンリブのお国柄と比較したのが土台間違えであったような、、、(≧∇≦)
夕暮れのエルサレム
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/14246-62
「延期された神の国」
マタイ21章42~ 46節
~マタイ福音書連続講解説教62~
❶パリサイ人サドカイ人
サンヘドリンの主な構成員であり、
当時のユダヤ人の二大派閥であったこの両者について整理してみよう
1.パリサイ人
•紀元前2世紀頃からハスモン王朝(BC166~63)期に誕生
•モーセ律法と同程度の霊感と権威を口伝律法に認めた
•OT39巻全巻を正典であると認めた
•天使や悪霊の存在とその序列を認めた
•死後の世界を信じた
•霊魂の不滅と死後の報酬、裁きとを信じた
•民族的な特異性と優越意識を抱いていた
•現在まで続く正統派と呼ばれているユダヤ人たちの源流
2.サドカイ人
•ハスモン期に生まれて、AD70エルサレム崩壊とともに消滅している
•口伝律法の権威を認めていない
•トーラー(モーセ5書)のみが霊感を受けた正典であるとした
•レビ人、祭司の清めの儀式を厳重に重んじ実践した
•神殿を基盤とする祭司たちが主な構成員
•死者の復活も死後の命も信じていない現世主義者
•天使や悪霊の存在と認めない
•霊的な世界を認めない
❷彼らユダヤ人はイエスを拒絶した
この日、主イエスはパリサイ人達やサドカイ人達との論争のただ中にある。
彼ら指導者達の神に対する真の信仰のない姿勢や、
その結果として神の裁きを刈り取らねばならないことを
二つのたとえ話を使って明らかとされた。
それは先回学んだ。
第一のたとえ話:ユダヤ指導者たちはB.ヨハネやメシアを信じなかった
第二の たとえ話:ゆえにさばきを受ける。罪の刈り取りをしなくてはならない。
このように、
主がたとえ話でお語りになられた指導者たちとその運命に対しての論述は、
実は詩篇118:22ですでに預言されていたのである。
『家を建てる者たちの見捨てた石。 それが礎の石になった。
これは主のなさったことだ。 私たちの目には、 不思議なことである。』
「礎の石」:コーナーストーンが、
建物の位置と規模とを決定する最重要アイテムであることや、
それがメシアである主イエスを指していることは先回確認した。
今回はこの詩篇の預言を主がどのように理解され、
そしてユダヤ歴史に適用されているのかを学ぼう。
❸イエスによるこの詩篇預言の適用(43~44)
•「神の国はあなたがたから取り去られた」
~当時のユダヤ人世代から、メシア王国は取り去られた、という意味である
•「神の国の実を結ぶ国民に与えられる」
多くの人はこの「国民」を「異邦人」や「教会」と考えている。
そのように教える聖書の解説書、注解書がほとんどである。
西洋の契約神学と呼ばれる大きな潮流から
置換神学が不動の位置を占めるものとなった。
イエスを拒否したユダヤ人に代わり、
いまや異邦人で構成されるキリスト教会が「神の国」を
相続するものとなったのである、とする神学体系である。
ここで、「国民」のギリシア原語ἔθνει (Mat 21:43 BGT) について考察しよう。
•このギリシャ語は3つの訳が可能である。
①「国民・民族」
nation, people Mt 24:14; Lk 12:30; Ac 8:9(単数); 10:22(単数); 13:19
②「異邦人」Mt 6:32; 10:18; Ac 11:1, 18; 14:5; Ro 3:29.
③パウロ書簡による「異邦人クリスチャン」 Ro 16:4; Gal 2:12; Eph 3:1.
•「異邦人」と訳されるときは必ず複数形である。 ②と③
単数の時には決まって「ひとつの民族、国民、人々」を意味する。 ①
•ここでは単数形が使われている。 ἔθνει (Mat 21:43) = a people, a nation
•聖書では、「教会」や「異邦人」が単数であるとする概念はあり得ない。
地上の全ての民族や国民からやがての教会が構成されるようになる
と黙示録は預言する。
「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。
あなたは、ほふられて、その血により、
あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、
神のために人々を贖い、 」
(黙示録 5:9)
天で召集された教会が地上のすべての「部族、国語、民族、国民」
から成っていると黙示録は繰り返し教えている。
黙示7:9、11:9、13:7、14:6.
•ゆえにここの「一つの国民」とは
教会でも、異邦人でもなく、
ユダヤ民族であると理解しなくてはならない。
それは、大艱難時代を通過する後の日のユダヤ民族のことである。
彼らは宣教師となって世界で神のために活躍する(実を結ぶ)
•当時の石打刑のモチーフ(44)
「石の上に落ちるもの」
~罪人を高所から突き落とす。
そこには石が敷き詰められてあり、
罪人は足や全身を強打されて身動きができない状態となる。
「石が人の上に落ちる」
~それで死なない場合は心臓めがけて二人が持ち上げた巨石が投げ落とされる。
「その人を粉みじんに飛ばす」
~罪人の血肉は周囲に飛散する。
これらは、エルサレムの破壊とユダヤ人の世界離散を預言した言葉となっている。
確かにメシア拒否の裁きをその世代のユダヤ人は刈り取った。
だが、それで神のユダヤ人に対する計画はご破算になったわけではない。
将来の世代のユダヤ人が
やがてイエスをメシアとして崇めるときが来るのである。
13歳の誕生日を控えていた長女には、二つの歌唱コンクールがあった。
RJC最終日と重なったため、
私は午前に一つのコンクールに出席することにした。
昨年と比べて、大きく飛翔した感があった。
歌いながら、彼女はその世界(ゾーン)に間違いなく入っていた。
Reaching Japanese for Christ のカンファレンスに終日参加してきました。
日本人伝道に重荷を持つ方々の研鑽とネットワーク作りを主眼とした集いで、
毎年この時期に開かれています。
今年のメイン講師は、松岡和広牧師。
以下は松岡先生のメッセージ備忘録となります。
趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。
かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。
そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。
イエス様によって私の内側も変えられました。
実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。
高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。
そこでお坊さんの道にはいることになった。
父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。
天台宗に属するが、その特徴は総合であり、
どんな宗派の教えでも取り入れるところ。
山にも登って厳しい修行を始める。
3000回の礼拝をする苦行、
それは「5体投地」というもので
一日に1000回身を投げ出すような拝礼を
3日間連続して行うものが最もきつかった。
しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。
やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。
勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。
日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。
それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。
仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。
ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。
そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、
自由時間があっても、
好きな韓国語に関わっていても
それだけでは幸せとはなれないこと。
1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」
と同様の悩みを持つようになっていた。
クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。
韓国にいるしクリスマスだからと、
日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。
「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに
翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。
宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。
そこで創世記1:31 の教えに出会う。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。
見よ。それは非常に良かった。
夕があり、朝があった。第六日。」
(Gen 1:31)
神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に
「すばらしい」と書いてあった。
仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。
それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。
イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?
そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、
その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。
心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。
「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、
私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」
というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。
集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、
涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。
帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。
すると、天からの声が聞こえて来た。
「あなたの名前は天国に書き記されている」
その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。
神は存在するという確信である。
その後、仏教の大学でもその授業中でも、
内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、
イエス様を信じたこと、
神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。
母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。
ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、
私はびくともしませんでした。
神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。
どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。
「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。
「それでいいですよ。問題ないですよ。」
と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。
神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。
RJCにこの日も終日参加。
この日も講師として活躍したタイ人のSteveの話は凄い。
仏教に造詣の深い彼が、アジア人に福音を語る時に陥りやすい、盲点となっている点を実に整理して語ってくれた。
ユダヤ人にとって律法が人々をキリストに導く養育係であったように、
アジア人にとってはそれが仏教であったのだ、という視点。
その数千年の文化的蓄積を無視して突然、新約聖書の救いという「回答」を指し示しても人々は確かに戸惑うばかりであろう。
早速、彼が持ち込んだ書籍と講演DVDを購入。
出席できなかった彼の講演もRJCのウエブで視聴しようと思う。
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