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イスラエルと教会11〜その④

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カイザリア カイザリア


「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)

この聖句を真に理解するために
ローマ2:17-3:9 の文脈を確認している作業の第三回目である。

⑶外側の従順と内なる従順さとの対比  ローマ2:25-29

「25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。
しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、
あなたの割礼は、無割礼になったのです。
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、
割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、
律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、
さばくことにならないでしょうか。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
(Rom 2:25-29)

ここでパウロが論じているのはパリサイ的な視点、
つまり「全て割礼を受けた者には神の国へ入れる保証があるとする神学」
についての反駁である。

確かにパウロは割礼が特権であると言及するが、
割礼が契約を完成させるものであるとは認めていない。

むしろ、割礼はすでに成就している契約のしるしなのである。

割礼は契約を成就するものではなく、従順に基づく祝福を与えるに過ぎない。

もし律法の全てを守っていないのなら、
割礼を受けているだけで裁きを間逃れることはできないのである。

割礼そのものがユダヤ人を救いに至らせないのはちょうど、
洗礼が異邦人を救いに至らせないのと同様である。

洗礼はイエスを信じたゆえのしるしであり、
それに従うことで祝福に与るのも相似形にある。

預言者エレミヤは
実体のない割礼は無割礼と何ら変わらないと指摘している。

儀式が人を神の義に至らせないので、割礼が人を救うことにはならないのである。

そこで28-29節で、
なぜ割礼そのものが役に立たないものかを論ずるのである。

肉体の誕生だけでは人は救いに至らない。
肉体に割礼を受けただけでも救いに至らないのである。

割礼は外形上のことに過ぎないが、
神が要求しているものは内なる心に施術される割礼である。

肉体に施術する割礼は外形上の儀式に過ぎないが、
肉体と心に割礼が施術されるなら
外形上も内なるものも双方に割礼が施術されることになる。

そして「その誉れは、人からではなく、神からくるものです。」と言うのである。

ユダヤ人の原意は「誉まれ」である。

そこで「ユダヤ性は、人からではなく、神からくるものです。」
とも置き換えられるのである。

真のユダヤ人とは、内側も外側も割礼を施術された者達のことである。

ここの箇所で、
異邦人が霊的なユダヤ人になったとは教えていないことに注目しよう。

異邦人についてはすでに1:18-2:16で論じており、2:16で結論を出しているのである。

2:17-3:20ではユダヤ人に関する質問を扱っている。

ここでしていることは、やがて9ー11章で彼が論じている手法と同じである。

信じたユダヤ人と信じていないユダヤ人を区別しているのである。

それはユダヤ人と異邦人の区別でもなく、
ユダヤ人と教会の区別でもない。

それはレムナントとノン・レムナントの区別であり、
信仰のあるユダヤ人と信仰のないユダヤ人の区別である。

信仰のないユダヤ人とは、そのユダヤ性が外側だけのものであり
神の義に至らないゆえに神の裁きから逃れることが出来ない。

このところは文脈で理解されねばならない。

彼が論じている点は、ユダヤ人であるだけでは完成されたユダヤ人では無いこと。

完成されたユダヤ人とは、外側にも内側にも両方割礼を受けたものであるという点。

アブラハム契約に従って外側の割礼を受けて後に、
新しい契約に従って心に内なる割礼を受けた者のことを言うのである。

本当のユダヤ人、完成されたユダヤ人とは、
外側にも内側にも割礼を受けた者のことである。

外側の割礼とは、肉体に施術されたもので、文字と思考に関するものに過ぎない。

内側の割礼とは、心に施術されたもので、聖霊と神とに関わる事柄である。

外側というのは、律法の文字をどう理解してそれに従順に従うかという点であり、
内側というのは、律法の精神に関してであり、
律法が要求している義に内なる従順をもって対応することである。

外側で人は理解した律法を表面的に遵守することはできる。

しかし内側に施術されて初めて人は聖霊の力により神に仕える者とされるのである。

#救済

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