イスラエルと教会11~その⑤
3月
15日
⑷ユダヤ人に与えられた約束 ローマ 3:1-8
「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。
2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」
この箇所は、
パウロが2:17-29で展開してきた
ユダヤ人もまた神の義に至らずに裁きの下にあるという論を踏まえている。
もしそれが正しいとすると、
当然予想される反論とそれに答えたパウロの言葉の箇所である。
もし罪深い異邦人と同じレベルに罪深いユダヤ人がいて
ともに神の怒りの下にあるというのなら、
神がユダヤ人達に与えてきた特権はどうなってしまうというのか?!
という反論に答えるのである。
ここでの答えとは大変短いものであるが、
9ー11章にては、相当詳細な分量の答えとなっている。
ここでの基本となる答えは次のように要約できる。
パウロはユダヤ人と異邦人との区別の全てが
帳消しとされてしまったとは教えていない。
彼が教えているのはそうでなく、
救いの方法に関してのみ、
両者の違いがもはや存在しないということである。
ユダヤ人は異邦人が罪深いのと同様に罪人である。
両者ともに神の義の基準に達することはあり得ない。
ゆえに両者は同様の救いに至る方法が必要となってくる。
人の付け入る隙のない、ただただ神の側における恩寵による救いである。
すなわち、信仰による恵みが身代わりの死において現されていること、
イエスの死と復活がメシアとしての人を救う根拠となっている点などである。
この箇所でパウロは予想される3つの反論と
それに対する答えをそれぞれに3つ用意している。
❶ユダヤ人の契約の民としての立場はどうなってしまうのか? 1ー2節
もはや契約の民族としての特権を失ってしまったのか。
こたえはNOである。
ユダヤ人に対しての神の約束は
現在でも多くの点で有効であるとパウロは告げている。
ここでは1つだけを上げているが、
9ー11章にかけてはさらに多くの特権を論じている。
ここでの主な特権とは、ユダヤ人には神の言葉が委ねられている点である。
神はご自身を啓示するためにユダヤ人だけを選ばれた。
ゆえに聖書記者は全てがユダヤ人なのである。
時に医者ルカが異邦人であったと見なされることもあるが、
その論拠とするものは弱いものだ。
この特権性からして、彼もまたユダヤ人であると見なされるのが適当である。
救いに関する以外の領域では
キリストの体の中(教会)においても
ユダヤ人と異邦人には明確な区別が存在している。
未だ成就していないアブラハム契約の土地条項については
ユダヤ人だけに与えたれているものである。
物質的なこの祝福は彼らだけのものであり、
異邦人が共通して参与できる祝福とは
ユダヤ人に約束された霊的な祝福の分野のみである。