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Reaching Japanese for Christ 第一日目

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Reaching Japanese for Christ のカンファレンスに終日参加してきました。

日本人伝道に重荷を持つ方々の研鑽とネットワーク作りを主眼とした集いで、
毎年この時期に開かれています。


今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下は松岡先生のメッセージ備忘録となります。




趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。

天台宗に属するが、その特徴は総合であり、
どんな宗派の教えでも取り入れるところ。

山にも登って厳しい修行を始める。

3000回の礼拝をする苦行、
それは「5体投地」というもので

一日に1000回身を投げ出すような拝礼を
3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。

勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。

それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、
自由時間があっても、
好きな韓国語に関わっていても
それだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」
と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、
日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに
翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。
見よ。それは非常に良かった。
夕があり、朝があった。第六日。」
(Gen 1:31)

神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に
「すばらしい」と書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、
その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。
「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、
私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」
というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、
涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、
内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、

イエス様を信じたこと、
神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、
私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」
と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。

神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。

#救済

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