プロの二人の選手に囲まれて
女子プロサッカー選手によるクリニック(練習)があるというので
妻が参加してきました。
チームとしての戦術やスルーパス、そのタイミングなど
これまで思いもしなかったスキルを教えてもらって
収穫も多かったようです。
彼女はこの秋シーズンも長女の女子サッカーチームの監督としても、
自身のサッカーチームの選手としても活躍していることから
スキルアップのための勉強には余念がありません。
この日のコーチは、Stephanie CoxとKeelin Winters
という現役米国サッカー代表選手。
先回のワールド・カップ決勝戦でなでしこジャパンとも
フル出場して戦った選手たちです。
あの日、妻は山形県の教会にいて
子供達と牧師先生達とを叩き起こして
徹夜しながらなでしこジャパンを応援したのでした。
でもそのことは彼女ら二人には秘めたとのことでした。
早朝外に出ると、
車のタイヤがパンクしてるのに気がついた。
アッッ、リャー☆〜(ゝ。∂)
確か半年ほど前、全てのタイヤを交換した。
あの時も高額な費用に悲鳴を上げた。
でも待てよ、、、
あの時オフィスで、
「もし次にパンクした時は無料で修理します。
どの私たちのチェーン店にでも、車を持ってきてください。」
そんなこと言われたような気がする。
まさかそこまでサービスは無いだろうと思いながらも
電話連絡してみると、どうもそのようだ。
自力でスペアタイヤと交換した後にオフィスに行ってみると
「そうです。私たちが無料でパンクを元に戻します。
もし傷が深くて直せない場合は新しいタイヤと交換します。」
夢のようなお言葉に、ウキウキ。
調べてもらうとスクリュー釘が直角にタイヤに刺さっていて修理が不可能。
そこで新調するタイヤが届くまで2、3日待ってくれ、とのことでした。
無料修理や交換の保証期間は一体いつまであるんですか、との私の問いには、
「タイヤがすり減って使えなくなるまでいつまでもです。
またパンクしたらお店に持ってきて下さい。無料修理しますから。」
そのチェーン店は、シアトル圏のほとんどの地域に存在していてとても便利。
こんなサービス、信じられない(^o^)/
第3回目〜聖書は何と教えているか
先回は新約聖書の記述から
初代教会では日曜日に礼拝をしていなかった例を見た。
ここからも教えられることは、
現在のそれぞれの地域教会には
礼拝のための日時を定める自由があり、
一律のものを聖書が定めてはいないということ。
日曜日午前中でももちろん構わないし、
金曜日の夜でも、
いつでも良い事になる。
米国のある有力・巨大なキリスト教団体は、以下のような声明を公表している。
「初代教会では、ユダヤ人も異邦人も、
安息日(土曜日)に代わって主の日(日曜日)に礼拝を行って来た確かな証拠がある。
ゆえにクリスチャンには、
旧約聖書の安息日規定を日曜日に位置変化させねばならない、
嗜好的、都合的、情緒的以上の正当な理由がある」
この声明文は、歴史的に見て誤りと言わざるを得ない。
4世紀までのユダヤ人信者たちは、
日曜日ではなく、
安息日が終わった土曜日の夜に集まって礼拝を行っていた確かな記録が
イスラエルにも、それ以外の地中海諸国のどこからでも見出されている。
異邦人クリスチャンは2世紀頃から日曜日に礼拝をしていたようだ。
初代教会のメンバーは当初、ほとんどがユダヤ人であった。
彼らは主イエスをメシアとして受け入れて以降もユダヤ性を捨てていない。
安息日にシナゴーグに集まり、
日没後のその日の土曜夜に
イエスを信じる者たちの群れに加わっていたのである。
また、神学的に見ても誤りである。
日曜日が「主の日」であると言及されている箇所は、聖書に一つも無いからである。
礼拝の日を変えたり、あるいはそれが特定されるための「確かな根拠」
は聖書のどこにも見い出されないのである。
最後にパウロの安息日に関する教えを紹介したい。
「9 ところが、今では神を知っているのに、
いや、むしろ神に知られているのに、
どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、
再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
10 あなたがたは、
各種の日と月と季節と年とを守っています。」
(ガラテヤ 4:9-10 )
ガラテヤ書全体の文脈からして、
議論の中心はモーセ律法であるのは明らかである。
2:16,19、3:2,5,10-29、4:4-5,21、5:3-4,14、6:13
「月」とは、新月の祝い
「季節」とは、イスラエルの7つの聖なる季節の祝い
「年」とは、安息年、特に50年目のこと
「日」とは、安息日のことである。
ここでパウロは明確にこれらの価値を否定している。
それらは救いのための方法でもないし、信者が守るべき生活習慣でもないのである。
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第2回目〜「主の日」について
先回はキリスト教会の主流が
「旧約聖書の安息日規定は、
新約時代の日曜日と入れ替わった」
と考えていることを紹介した。
それでは、歴史的にキリスト教会が産声を上げた初期の頃を概観してみよう。
2世紀には、キリスト教会が日曜日を礼拝の日としていたのは確かである。
また同時に、パウロが建てあげて行った1世紀のキリスト教会では、
「週の初めの日」に礼拝が行われていたのも確かである。
「7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。
そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、
人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
8 私たちが集まっていた屋上の間には、
ともしびがたくさんともしてあった。
9 ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、
ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、
三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
10 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、
「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。
11 そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、
明け方まで長く話し合って、それから出発した。」
(使徒の働き20:7-11 )
トロアス教会では、
「週の初めの日」にパウロの説教による礼拝を行っていたが、
通常解釈されて来たようにそれは日曜日ではない。
ユダヤ歴では、一日は日没とともに始まり、翌日の日没で終わる。
そこでは人々が安息日を終えた土曜の日没後に教会に集まり、
礼拝を行っていたのである。
聖書記述に採用されているユダヤ暦で、
「週の初めの日」、つまり日曜日となっているのは、
安息日明けの土曜の日没後のことで、
それは、ローマ暦(現在私たちの使用している暦)では土曜の夜に当たる。
この解釈はその集会でパウロが長い話をしたために、
真夜中を超えたという記録にも合致する。
その3階の部屋にランプが必要であったという記述も、
集会が夜であったことを示唆している。
翌日、パウロはそこから旅立つが、それは日曜の朝であった。
これまでの歴史的キリスト教会が主張している
礼拝の日時としての日曜日午前中には
彼らは礼拝の集会をしていなかった。
むしろパウロは旅行へ出掛けていたのである。
「信仰と生活の唯一の規範が聖書にある」
とする立場がプロテスタンティズムであり、
教会の伝統や人間の理性がそれに取って代わるものではないことを
再確認したい。
聖書信仰の立場は教会の長年の伝統と相容れない場合があるが、
(それゆえにカトリックからプロテスタントが誕生した)
人の理性や科学的論証性になんら矛盾するものではないが、
ここではこれ以上進めない。
長いキリスト教会の伝統の中で常識と考えられてきた
「日曜日=安息日」図式も
その正当性を論ずるにあったては
聖書から検証しなくてはならない。
さらに、日曜日は新約聖書で一度も
「安息日」と呼ばれている場所は見出されない。
いつも「週の初めの日」と呼ばれている点に注目。
また、「主の日」と日曜日が呼ばれている箇所も一度も無い。
初代教会の教父達は、
確かにその著作の中で日曜日を主の日と表現した所があるが、
新約聖書でその用例は無いのである。
新約聖書で「主の日」という用語は、
黙示録1:10に見出されるが、
それが日曜日であると推論できる証拠は文脈からは見出されない。
10 私は、主の日に御霊に感じ、
私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
11 その声はこう言った。
「あなたの見ることを巻き物にしるして、
七つの教会、すなわち、
エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ
に送りなさい。」 (黙示録 1:10-11)
ここでの「主」にあたるギリシア語は
名詞ではなく、形容詞であることから、
Lordy Dayと直訳され得る言葉となる。
日本語に無理に意訳すれば、
「主に属する日」
とでもなろうか?
それが意味するのは、
安息日や日曜日などの特定の日ではなく、
ヨハネが聖なる恍惚感に聖霊によって捉えられ、
聖なる啓示を与えられた「特別な日」であるのを示した言葉である。
ヨハネにとって、その日は主に属する日、Lordy Dayとなったのだ。
(つづく〜「救済」タグをクリックしてください)
ホサナ教会のクリスマス祝会には
頬も蕩けるばかりのご馳走が並びました。
礼拝の時を持たせていただいたあとに
舌鼓を打ちながら
主がこの一年間にそれぞれに与えてくださった恵みを分かち合いました。
サンマテオにある日本人教会のクリスマス礼拝&祝会にゲスト参加。
「私が言うもの何ですが、ここの教会の愛さん会の料理は他にはないものばかりですよ」そのようにおっしゃる細見牧師。
過去にもここのは3回ほどおじゃましていてそれは充分に経験済み。
愛さん会前の礼拝時の細見先生のメッセージ、
それに英語部のLee先生のメッセージも料理以上に味わい深いものでした。
私を招待してくださった吉田ご夫妻は、
明日より3週間の日本一時帰国となる。
娘さんご一家と一緒に
東京、京都、広島、そして郷里の熊本を廻られるそうです。
子供達の冬休みを利用しての帰国は2週間取れる。。。
我が家の場合として検討して見よう。
のぶ先生と二人だけのクリスマス会をしました。
焼肉専門の日本食レストラン。
二人用の特別ディールがあったので、それを注文。
味噌汁も、ご飯も、二人分がそれぞれの器に区別されて運ばれて来るのに、
デザートのアイスクリームやあんみつは一つの容れ物に二つのスプーンが付いてきた。
「どうしてデザートだけ二人分くれないんだろうね?」と、私。
「カップルが一緒に食べ合う想定なんでしょ」と、のぶ先生
「それなら、今だけカップルになっちゃおうか?」
「ハーイ、アーンしてちょうだい」と、のぶ先生の口元にスプーンを差し出す私。
「アハハ、、、」
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