伐採したツリーを一晩、バケツの水を吸わせてから台座を取り付けた。
そして部屋の中へ。
早速子供たちが飾り付けをしてくれる。
私にも手伝うよう誘われたが、
美術で50点以上とったことのない私は自制した。
数週間前のシアトル・ダウンタウン。本日の記事とは直接関係ありません。
数週間振りの雨となったシアトル。
秋の帳が下りるのも早くなり、暗さとあいまって車の流れは悪くなる。
長女は学校を終えるなり、Everrettまでミュージカル練習に通う日が週に数日ある。
本日のアッシイはアッシが担当。
先回は1時間で行けたが、今回は1時間20分かもかってしまった。
夕刻のI 405の渋滞は凄まじいばかり。
帰路の8時台には渋滞も解消されていて、35分で帰宅。
夕食の弁当はshebellから
腹ごしらえをしてからセミナーが始まります
12月のシアトル・オーナー会の幹事役は私。
初めての幹事役となり、
緊張しながらも会場や夕食の確保、出欠の確認等をしてきた。
会場はホサナ教会にお越し頂いた。
セミナー講師も私自身が務め、
「ユダヤ教・イスラム教・キリスト教について」お話させていく。
活発なご意見や質問が多く寄せられて、実に有意義な時を持たせていただいた。
気づけば、1時間半を超えて話したことになる。
普段は考えることも少ないだろうと思っていた宗教について、
少なからぬ関心を持っておられる方々が多いとは意外な発見であった。
秀吉は棄教しなかった26名のキリシタンを捕えて長崎に連行。
彼らの殉教の地は、長崎駅から歩いて10分程の所にある。
今月4日付き朝日新聞に「恐怖の記憶・精子で子孫に継承」という記事が掲載された。
米国の研究チームが科学誌に発表した論文だそうだ。
オスのマウスにサクラの匂いを嗅がせると同時に脚に電気ショックで苦痛を与える。
やがてそのオスは、サクラの匂いだけで脅える仕草を見せるようになる。
その後メスとつがいにさせて子供を産ませる。
その子供マウスは父親が恐怖を感じたサクラの匂いをかいだ時に、
同様の脅えた反応があったという。
そして孫の世代にも同様の実験結果が得られた。
彼らの精子DNAを調べてみると、
嗅覚を刺激する遺伝子に変化の跡が認められたという。
我々一般の日本人は宗教に対し、特にキリスト教に対して警戒感や恐れの様なものを感じていないだろうか?
それはおそらく豊臣秀吉から始まったキリシタン迫害の277年間と関わりがあるんではないかと。。
先日長崎で出島を訪問して外国人に警戒した仕組み、
踏み絵や5人組制度と言った江戸幕府創出のキリシタン撲滅のための制度、
直視できない残酷極まる拷問から守るために隠れキリシタンとなって潜伏した五島列島、、、
これらに思いを馳せていると、この新聞記事が無関係でない様な気がしてくる。
我々日本人は江戸期の鎖国を通じて
キリスト教信仰に対する抵抗し難い恐怖感を醸成し続けたのだ。
その民族DNAは現代の世代にも引き継がれているのでなかろうか?
そんなことも「日本人のキリスト教に対する一般認識」として
明日のオーナー会でお話することになりそうです。
ホサナキリスト教会・聖書広場から
「ぶどう園のたとえ話」②
マタイ20章1~ 16節
~マタイ福音書連続講解説教54~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011654
聖書学の大原則
「聖書とは、一体何か。
それをどのように読んで、解釈・理解し、
さらにその上で自らに適用・実践すれば良いのか」
という視点からの体系化された学問を「聖書学」と言う。
意識してないかもしれないが、全て聖書を専門的に学んだ者たちは皆、
聖書学を実践しているはずである。
ここでその聖書学の原則について確認して見たい。
❶聖書を文学作品として読む
つまり書かれている通り、字義通りに読む。
あなたの国語で読解力を総動員して理性的に読む。
その点で他の文学書や雑誌を読む時と別段変わらない。
ただし、ユダヤ的な背景を理解し、文脈や文学的手法にも留意する。
聖書は2千年前にユダヤの地で、ユダヤ人によって書かれたものであるから、
その時間的・民族的な壁があることを前提としなくてはならない。
日本文化 の掛かったフィルターで、
貴方の常識や認識方法を前提として解釈するなら
本来意図されているメッセージを失うことになりかねない。
聖書時代の読者が、どういう意味として受け取ったかを探索して行くのが解釈学の王道である。
今日の聖書広場では、
「たとえ話には何が書かれているのか」
を解説してあるポイントⅠがこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
❷聖書のメッセージ(神と聖書記者の意図するもの)は、一つである
聖書は神の霊感によって書かれ、
その66巻が調和と一つの意図を持った完結した書である。
一つの聖句が伝えようとしているメッセージは一つしかない。
二つの聖句が互いに異なって矛盾してしまうかのような解釈は
あり得ない(正しいものでない)。
その一つの箇所の解釈のためには、
その前後の文脈やその書全体、引いては聖書全巻からの裏付けが必要となる。
ゆえに聖書全巻の知識と合わせて、
これをどのように読み取るべきかの
聖書全巻の体系への理解が欠かせないものとなる。
今日の聖書広場では、
「たとえ話からどんなメッセージが引き出せるのか」
を解説してあるポイントⅡがこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
かいつまんで言うと、そこでは、
①憐れみによって召された者の幸い
②自らの行いや実績に頼る者の不満
③神の与える報いは報酬(給料)ではなくて賜物(ギフト)であり、
気前の良いものである
とういうメッセージが引き出せる。
❸聖書の適用はいく通りもあり得る
その内容を正しく把握して解釈し、そこからメッセージを引き出した後に、
その教えの実践のために自らに適用しなくてなならない。
その適用は、状況や時代によりまちまちとなる。
そこに説教者の資質やセンスというものが反映される。
適用のためには❶と❷とに習熟してなくてはならない。
今日の聖書広場では、
「私たちへの適応」を解説してあるポイントⅢ がこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
結論 :
奉仕は「気前のよい」(アガソス)お方に対してのものであり、
他者の評価や自己満足のためのものではない
私たちは多くの場合、この世の(特に儒教的)価値観に慣れ親しんでいる。
そこで教えられてきたことといえば、
「もっと頑張れ」
「もっと働け」
「成果を挙げよ」
という成功志向型の哲学ではないだろうか。
救いは、恵みによってただで与えられたと信じてはいても、
信仰を維持したり、また信仰を評価されるには
働き如何によると考えているのが多くの教会人の現実ではないか。
本来私たちは与えられた賜物で奉仕するよう勧められていて、
頑張りではない。
知識や知恵の言葉、奉仕や癒し、哀れみや献金の賜物、教えや助ける賜物、、、
これらは霊的な賜物でありそれぞれが神から与えられたものだ。
故に、神が貴方に備えられた能力を使い、
教会の中でバランスよく用いることによって教会は建て上がって行く。
もし貴方が頑張りで奉仕するなら、御霊の働きを妨げることになりかねない
頑張りは人を疲れさせ、愚痴や不満が出てくる元になる。
安息日とは、主イエスによって成就された平和・平安・調和
のひな型となるものである。
「信じた私たちは安息に入るのです。
『わたしは、怒りをもって誓ったように、
決して彼らをわたしの安息に入らせない。』
と神が言われたとおりです。
みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
(ヘブル 4:3 )
「休みなさい」、「神に仕えるとはすなわち休むことである」
というのが新約的な安息日理解である。
さあ、リラックスして信仰生活を楽しませていただこうではないか。
長女が出演した教会ミュージカル「屋根の上のバイオリン引き」。
毎年この時期にNewport Covenant Churchではミュージカルを上演して
地域の大勢の方々に喜んでいただいている。
あいにく私は日本行きと重なったため
4回ある公演日のうちで一度も観賞できる機会に恵まれなかった。
この日はそのスタッフやキャストたちが
ポトラック・ディナーを持ち寄っての慰労感謝会となった。
長女は御苦労なことに
ここでもチェロによるBGMを請け負っていた。
バンクーバーにある中華街入り口
居酒屋風レストランでランチ。その名も「ちょっとずつ」
カナダドルとアメリカドルは、
1.07:1.00の割合で
アメリカドルが高くなっている。
リーマンショック後は、カナダドルが高くなっていたが。。
バンクーバーでは不動産の下落もなかった。
いまだに旺盛な食欲で高騰を続けている。
ガソリン価格はかつてから、アメリカのほうがずっと安く入手できる。
これは石油会社が親方アメリカと結びついているからくりがあるからだろう。
満タンにするのにアメリカでは$60ですむのに
この日のバンクーバーでは$78もかかってしまった。
長崎の平和記念公園から浦上天主堂を望む
先日、春日井栄光教会の日曜礼拝でお話させていただいた要旨です。
説教題:「永遠のいのちは得られるか」
聖書箇所: マタイ19:16-26
16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
17 イエスは彼に言われた。
「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。
良い方は、ひとりだけです。
もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
18 彼は「どの戒めですか」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「殺してはならない。姦淫してはならない。
盗んではならない。偽証をしてはならない。
19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
20 この青年はイエスに言った。
「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
21 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、
帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」
22 ところが、青年はこのことばを聞くと、
悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
23 それから、イエスは弟子たちに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。
24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
26 イエスは彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことです。
しかし、神にはどんなことでもできます。」
永遠のいのち(16)=天国に入る(23節)
…それは人の功績によるのか、神の一方的な恵みによるのか?
この箇所は歴史的に教会が「捧げ物や犠牲によって人はその救いを獲得できる」との教理のために利用されて来た。
17節後半、21節、そして23節だけを切り取って何遍もそれだけを読むなら、
そのように解釈してしまうのも無理はない。
聖書は文脈に留意して解釈しなくては、正しく理解したことにならない。
❶永遠のいのちを得たい青年
「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたら良いか」
との青年の問いには彼の立脚しているパリサイ神学、
つまり律法をより詳細に遵守して神に認められようとする
律法主義が露見している。
それに対して主は
「なぜ良いこと(アガソス)についてわたしに尋ねるのか。
良い方(アガソス)は一人だけだ」とお答えになられた。
「アガソス」がユダヤ文化圏で使われた場合、
それは神に関する絶対的な尊さ、善良さ、美しさに
関してのみに用いられてきた。
並行記事で青年は、
「アガソス先生」と主に呼び掛けて質問している。
ここで主は「あなたはわたしを神であると告白するのか」
と問いかけておられのだ。
世辞でしかなかった青年の一言を取り上げて、
彼をメシア信仰へとチャレンジされておられる。
❷永遠のいのちを得る方法
「完全になりたいなら、持ち物を売り払って貧しい人達に与えよ」(21節)
との主のお言葉は、
功績による救いへの達成を教えたものではない。
「小さな時から皆、守っている」と青年が自信ありげに答えたモーセの律法を、メシア(律法の起草者であり付与者)として解釈したものである。
「隣人をあなた自身の様に愛せよ」との律法を実践するとは具体的にどういうことかを明らかとしたのである。
旧約でも新約でも聖書は一貫して人は信仰と恵みによって救われるのであり、
行いによらないと明確に教えている。
本日の箇所の直前、子供達が主の所にやって来た時、
「天の御国はこのような者たちの国である」と教えておられる。
子供達には功績の実績がなかったはずである。
また直後の箇所では
「先の者が後とされ、後の者が先とされる」との教えが、
たとえ話で解説されてある。
ここで「先の者」とは、自他ともにエリートとされた富める青年に他ならない。先の者は神の前では評価されていないのだ。
❸永遠のいのちを与える方
自己流でないメシアの律法解釈の前に、
誰が自己義を確立できよう。
律法は救いを与えるものでなく、
メシアへと導く養育係りの役割に過ぎない。ガラテヤ3:24
ポイント❶にある17節前半の主の質問に再注目して欲しい。
両者の会話の流れが17節の前半と後半では途切れている。
質問に答えられない青年の沈黙が数秒間続いたのだ。
彼は主をメシアと告白できなかった。チャレンジを拒否したのである。
そこで主は、
「もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」(17節後半)
と言葉を続けられた。
繰り返すが、ここから行いによる救いの教理を打ち立ててはならない。
主の真意は真逆にある。
信仰のない彼のパリサイ神学の土俵に降りて勝負しようとされているのである。戒め=律法をメシアが本来の解釈をして人に適応するなら、
誰一人律法を守れる者はいないことを知らせるためである。
「それ(救い)は、人に出来るものではない。
しかし神にはどんなことでも出来る」(26節)
図書館入り口の壁
主に日本人留学生に奉仕しておられるI宣教師
カナダ・バンクーバーへは3時間のドライブで到着してしまう。
パスポートの必要な旅ではあるが、
日本行きと比べたら時差もないことはもちろん、その手軽さは申し分ない。
今回は「霊性の神学」で有名なリージェント・カレッジを訪問。
広大な敷地と設備とを誇るUBCキャンパスの一角に
その私立神学校は置かれていた。
宣教師のIさんにキャンパス内を案内してもらう。
こじんまりとしたキャンパスなのに、
図書館の敷地面積がズバ抜けて大きのに驚いた。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ