「天の御国の恵み」
1月
13日
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「天の御国の恵み」
マタイ20章29~ 34節
~マタイ福音書連続講解説教57~
① 天の御国は、恵みと信仰とによる
4つの福音書には、時に一致しているとは見えない共通記事がある。
今回の盲人のいやしの記事においても、
マタイでは、エリコを出た時(20:29)のことであるとしているのに対して、
ルカでは、エリコに近づかれたころ(18:35)であるとしている。
聖書の権威を認めない人達は調和がないとしてその無誤性を攻撃して来るが、
むしろそれは異なる目撃者情報をソースとして取り入れた記者がいる事を示し、
歴史的史実を裏付けるものである。
観察者の視点によって異なる描写がなされるのは通常の事であり、
むしろ全く同様の文書ならフィクションをコピーしたものであると見なされてしまう。
それでは、ルカが「エリコに近づかれたころ」とした編集上の理由とは何か。
学者達が多くのものを紹介しているが、
その中から最も説得力あると思えるものを紹介したい。
ルカ19:1~27は、ザアカイ物語を初めとするエリコ市内での記録であり、
ルカにしかない二つの独自記事が記されている。
その後に今回の盲人いやし記事を持ってくるよりも、その前に配置することで、
エリコ入城直前の物語との関連性を重要視したかったのではないか、
との推論である。
エリコ入城直前のルカ18:15~43には、
マルコやマタイ共に共通している3つの記事がある
•18:15~17:幼子たちが神の国に入ること
•18:18~30:裕福な役人は神の国に入れなかった
•18:31~34:受難予告と弟子たちの無理解
邪魔者扱いされた幼子達の純真な信仰こそが神の国に入る手段となるものであり、
一方神の国エリートと目されていた金持ちの役人や
出世競争を意識していた弟子たちは遠いもの達であるとされた。
そして道端に座り込んで物乞いをしている盲人の物語である。
宗教民族ユダヤ人の考える最右翼でなく、
主と旅を続けていた弟子たちでもなく、
この捨てられたかのような盲人が、神の国の恵みを最も重厚に体験したのである。
何というどんでん返しであり、皮肉であろうか。
② 主の働きの転換点
そのいやしのプロセスを見るならば、
主は彼から信仰を引き出しているのが分かる。
イエスがメシアであるという信仰があるのを確認し、
その告白に至ってからいやしの奇跡が行われている。
この順序は初期のガリラヤ伝道にはなく、
その際には相手の信仰あるなしにかかわらずに奇跡を行っている。
一体、何がその方針を大きく変えるものとなったのか?
福音書の中で明らかに主の働きの性格が一変している時点がある。
それは、マタイ12章でのユダヤ人による正式なイエスのメシア性拒否の時点。
•それは彼らにとって、「赦されない罪」となった
•Point of no returnであり、AD70のエルサレム崩壊とユダヤ人の大虐殺は不 可避となった
•メシア的な王国は将来の世代へ延期された
•「奥義としての王国」時代(ほぼキリスト教界時代と時を同じくする)が始まった。
ここで主の働きが劇的に変化した4つの点を挙げてみよう。
❶奇跡の目的が変化
メシア性を証明するために群集を相手にしていたところから、
→個人の必要のために、また弟子訓練のための奇跡となった
❷相手の信仰が要求されるようになった
信仰のない群集にいやしを行っていたのに対して
→先ず信仰を確認してからいやしを行うようになった
→さらにいやされたことを他言しないよう戒められた
❸メッセージ自体も変化
主イエスがメシアであることをご自身も弟子たちもイスラエル国内で告知した段階
→沈黙を守るように戒められた
→ペテロの信仰告白後にも、メシアであることを他言するなと命じている(マタイ16:20)。これは復活後の大宣教命令まで続く。
❹教えの形態が変化
誰もが聞いても理解できるわかりやすい教え。(例)山上の垂訓
→たとえ話の多用。群集から真理を隠すために。それ自体が彼らへの裁きとなった。これはイザヤ6:9の預言の成就である。