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安息日と日曜日の考察❸

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第3回目〜聖書は何と教えているか

先回は新約聖書の記述から
初代教会では日曜日に礼拝をしていなかった例を見た。

ここからも教えられることは、
現在のそれぞれの地域教会には
礼拝のための日時を定める自由があり、
一律のものを聖書が定めてはいないということ。

日曜日午前中でももちろん構わないし、
金曜日の夜でも、
いつでも良い事になる。

米国のある有力・巨大なキリスト教団体は、以下のような声明を公表している。

「初代教会では、ユダヤ人も異邦人も、
安息日(土曜日)に代わって主の日(日曜日)に礼拝を行って来た確かな証拠がある。
ゆえにクリスチャンには、
旧約聖書の安息日規定を日曜日に位置変化させねばならない、
嗜好的、都合的、情緒的以上の正当な理由がある」

この声明文は、歴史的に見て誤りと言わざるを得ない。

4世紀までのユダヤ人信者たちは、
日曜日ではなく、
安息日が終わった土曜日の夜に集まって礼拝を行っていた確かな記録が
イスラエルにも、それ以外の地中海諸国のどこからでも見出されている。

異邦人クリスチャンは2世紀頃から日曜日に礼拝をしていたようだ。

初代教会のメンバーは当初、ほとんどがユダヤ人であった。

彼らは主イエスをメシアとして受け入れて以降もユダヤ性を捨てていない。

安息日にシナゴーグに集まり、
日没後のその日の土曜夜に
イエスを信じる者たちの群れに加わっていたのである。

また、神学的に見ても誤りである。

日曜日が「主の日」であると言及されている箇所は、聖書に一つも無いからである。

礼拝の日を変えたり、あるいはそれが特定されるための「確かな根拠」
は聖書のどこにも見い出されないのである。

最後にパウロの安息日に関する教えを紹介したい。


「9 ところが、今では神を知っているのに、
いや、むしろ神に知られているのに、
どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、
再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

10 あなたがたは、
各種の日と月と季節と年とを守っています。」
(ガラテヤ 4:9-10 )

ガラテヤ書全体の文脈からして、
議論の中心はモーセ律法であるのは明らかである。

2:16,19、3:2,5,10-29、4:4-5,21、5:3-4,14、6:13

「月」とは、新月の祝い

「季節」とは、イスラエルの7つの聖なる季節の祝い

「年」とは、安息年、特に50年目のこと

「日」とは、安息日のことである。

ここでパウロは明確にこれらの価値を否定している。

それらは救いのための方法でもないし、信者が守るべき生活習慣でもないのである。


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