この日は家族総出のサッカー観戦日。
長女の女子サッカーチームの監督をしている家内は朝から気合が入っている。
そのゲームを見ながら、娘に言いたかったことをここで放言します。
我が娘よ。
センター・フオアードを毎回任せられるだけあって、
瞬時の状況判断力、躊躇ないシュートへの決断力は大したものだ。
自陣ゴール前から奪ったボールを一人でドリブルして
そのままシュートへ繋げた時は、マラドーナを彷彿とさせた。
相手プレーヤーを何人もごぼう抜きした見せ場では、
ついにオヤジも大きな歓声を挙げてしまった。
貴方がそのあとに見せた私へのしかめっ面はいただけない。
せっかく応援に来ているんだ。
我が子が活躍すれば親として喜ぶのは当然ではないか。
その辺りの十代の子供としての複雑な心境は、
オヤジには分からない。
いや、分からない訳でもない。
オヤジの日本語アクセントが奇妙に聞こえ、
友人たちの手前恥ずかしいのであろう。
年頃の君には無理もない。
だが、オヤジは何時もお前の背中を見守っているのを知っていて欲しい。
広い芝生の上で、安心してサッカーの試合を毎週できるなんて、
どれほど望んでも夢のまた夢でしかない現実が世界のほとんどであり、
貴方に与えられた環境は傑出したものであるのを知っておいてもらいたい。
その貴重な時間を、ボールを追うことだけに集中して欲しい。
土曜日の明日は、子どもたちのサッカー観戦の日。
子どもたちの手前、大きな声で歓声を上げることもできず、
お前たちに直接こんなことを言っても、説教くさいとして
聞く耳を持たないだろう。
そこでストレスの溜まったオヤジは、
不特定多数の仮装空間へ向けて発言させてもらおう。
先ず、息子よ。
サッカーの前に身体を作り上げる事だ。
君はどんなフルーツも決して食べないという天然記念物の偏食者だ。
どれだけラーメンを食べたところで、
ビタミンをはじめとじてバランスある栄養を摂らなければ大きくなれない。
見たところ、君はチームで最も痩せていて体重もない。
毎回試合では、センター・ミッドフィルダーを任されるだけあって、
状況判断力もスルーパスのコースも、
ドリブルも他のプレーヤーを凌いでいる。
だが1対1の接戦となった時、
常に相手の身体的プレッシャーに押されてボールを奪われてきた。
サッカーはある程度、身体どうしが凌ぎを削る格闘技でもある。
針金のような肢体では、君が本体持っているスキルが活かせないはずだ。
好き嫌いをなくして、バランスの良い食事を心がけることだ。
(長くなるので、長女への苦言は明日に)
マディソン・パークすぐ前にある介護ホーム
向こうに見える橋は、520です
夏は多くの海水浴客で賑わう、マディソン・パークの沖合
この日、人生で初めての経験があった。
Reading Glassを購入して、初めて利用した。
Reading Glass を平たく、思い切ってダサく言うと、
それは老眼鏡である。
ついこの前まで、自分の年がそこまで進むとは信じられなかった。
「あなたも直ぐにこれが必要となるよ」と、
数年先行く友人から言われた時は、
「まさか、私に限って」なんて思ったりしていたものだ。
今や、市販の地図の小さな文字が読めなくなってしまった。
そのメガネをかけて見れば、新しく世界が広がっていた。
もう目を凝らさずとも、遠くに離さずとも、灯りを捜さずとも、
楽に読めてしまう!
この先、腰が曲がるとか、歯が抜けるとか、
物忘れがひどくなるとか(これは現在進行中でした)が
やってくるのだろうか。
人である限りそれも止むを得ないだろう。
同時に、もう一つの現実があることも聖書は教えている。
幸いなことに、その現実を日々体験できるのである。
「私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、
内なる人は日々新たにされています。」
(Ⅱコリント4章16節)
ベルビュー、140とMain st.の交差したあたり
この数日間の冷え込みには応えてしまった。
暖かい晩夏が終わり、秋の訪れが本格的に忍び寄ってきている。
朝靄が真っ白なカーテンで家の周囲を覆うようになった。
やせ我慢をしてスイッチを入れなかった暖房も、
ついにこの日からゴーという快音を鳴らしてまわっている。
夜の帳が降りるのも、一日づつ早くなっているのを感じる。
活動の夏を置き去りにして、
色彩鮮やかな味覚の秋がやって来た。
特大ラーメンのドンブリ
この日はシアトルで古くからの友人と会食。
韓国人の経営・運営するレストランではあるが、
変わらない日本食をサーブしてくれるレストランへ行く。
ベルビュー8thと110thにある、Kobe Restaurantである。
http://www.koberestaurantwa.com/
この辺りでは珍しく、ラーメンもメニューにあるのだが、
グロテスクな宣伝インセンティブがあるのに気がついた。
洗面器ほどの特大ラーメンを30分以内で平らげると、
$100のレストラン商品券が与えられるのだという。
カウンターにあったそのボウルの大きさは並大抵ではない。
恐らく通常の5倍ほどの麺が入るのではないか。
「20代だったら、挑戦したかもね」
そんな会話もあったが、そのサイズを見て一気に戦意喪失。
いや、むしろ嫌気が刺してきた。
お店の人に聞いてみるとこれまでに100名以上が挑戦して、
商品券に辿り着けたのは5名ほどだと言う。
食べ物をゲームのネタにして、無駄に浪費するのはいただけない。
食事が無くて命の危険にさらされている人が、
今この瞬間にも数十万人単位で存在する。
その人たちに対する想像力はどこへ行ってしまたのだろう。
名声や金銭のために、自分の胃袋の数倍もの量を詰め込んで、
何が楽しいのだろう?
ニューヨークで毎年ホットドッグの早食い競争があり、
とある日本人が連続優勝しているらしいが、
日本の恥である。
「結婚関係について」
マタイ19章1~ 12節
~マタイ福音書連続講解説教50~
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/911250
さて、主と弟子一行は、
「ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた」
とありますが、
そこはヨルダン川の東側の川に沿った南北に長い地域で、
ペレヤと呼ばれていました。
• ヘロデ・アンティパスの領土でした。
• ガリラヤ伝道を終えられ、
エルサレムへのゴールの途上にあっての出来事です。
• 約6ヶ月前後をペレヤで過ごされています。
• マタイ19~20章がペレヤ伝道の記事。
• へロデ・アンティパスの離婚問題を取り上げたバプテスマのヨハネは
ここで捕縛されて、斬首されました。
ここでは先ず、その地域性ゆえにパリサイ人等の質問から始まっています。
パリサイ人たちがみもとにやって来て、
イエスを試みて、こう言った。
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
(マタイ 19:3 )
❶今日の離婚問題と聖書
米国でおおよそ50%
日本ではおおよそ25%
これは離婚率の数値である。
それは年々上昇しているのに加えて、
さらに今日的な切実な問題は他にもある。
結婚するカップル自体が減少していること、
晩婚化、
米国で広がる同性婚の合法化などである。
この錯綜し、かつ倒錯した21世紀社会は
紀元1世紀の主イエスの社会とは大きく異なる。
そこでは、
・ 結婚は双方の親同士がアレンジしたものであった
・ 故に独身は稀に見るケースであった
・ 女性で13歳前後、男性で16歳前後が平均の結婚年齢であった
・ 女性の権利はないに等しいものであり、
離婚は男性側の訴えしか許されていない
離縁された女性ややもめとなった女性は社会保障のない当時、
極貧を意味した。
それゆえ他の男性に身を寄せる(再婚)他、
生活の糧を得る手段がなかった。
女性が仕事を得る機会は稀で、ほとんどなしと考えて良い。
これらの社会的背景を考慮した上での、
つまりは文脈に添った釈義をしない限り、
聖書を正しく解釈したことにならない。
「だれでも不貞のためでなくて、
その妻を離別し、
別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」(9節)
との主のお言葉を直接引用して、
不幸にして離婚に至った者を断罪することは短絡すぎる。
今日の離婚に至る経緯はそれぞれ千差万別で、
当時の世界にはあり得なかった状況であり、
主のお言葉は、その複雑さを前提として語られているものではない。
❷1世紀の離婚観
当時のユダヤ教パリサイ派にはの2大派閥があり、
離婚を合法化する「理由」を巡り大論争をしていた。
旧約聖書が示す離婚の条件とは以下に教えられている。
「人が妻をめとり夫となり、
妻に何か恥ずべき事を発見したため、
気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、
彼女を家から去らせ…」 (申命記 24:1)
この「恥ずべき事」とは何か?を巡る論争である。
• ヒレル派は、広義に解釈。家事の出来具合も離婚に至る正当理由とした。
• シャマイ派は、狭義に解釈。不貞のみが離婚の正当理由とした。
主イエスのお答え(8~9)から、
主が離婚の正当理由となるのは不貞のみとするシャマイ派と同じ見解を持っておられるのが分かる。
それだけではない。
さらに、夫側の責任も問うている。
当時は夫だけに妻を離別する権利があったが、
その夫も他の女性を娶ったら姦淫罪が問われるというのだ。
これは当時の結婚観からして飛躍しており、
相当革新的に聞こえて、弟子たちを驚かせた。
弟子たちはイエスに言った。
「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、
結婚しないほうがましです。」 (マタイ 19:10)
❸主の教えは革新的でも独創的でもなく創世記からの本来のものである
時代が変わっても、変わらないものがる。
それは人の尊厳性であり、結婚の神聖さである。
これを教えるために、
そもそもどのようにして人が創られたかを主は確認された。
人間創造の際、
神にとって離婚は想定外であった。
「ふたりの者が一心同体」であり、
もはやふたりではなく、ひとりである、
とある。
そして、「人(その都合や勝手な理由で)は、
神が結び合わせたものを引き離してはなりません」とあり、
結婚の神聖さが教えられている。
人の意志だけに依らず、
神の神秘的な導きがあって結婚が成立したのに、
人のわがままな理由からその神意を踏みにじってはならないとするのである。
ヒレル派が離婚理由として挙げている家事の出来具合等で妻を去らせることは、
女性の人権侵害につながるであろう。
最初の女性はアダムの肋骨から造られたゆえに、
アダムをして
「私の骨からの骨、肉からの肉」
と言わさしめ、
二人の一体性、
かつ、それぞれの独自性と尊厳とが描写・保持されている。
結婚・離婚問題は創世記から、
以下のような基本を確認できる。
①創造主なる神を認めること
②男性・女性のそれぞれの神聖な尊厳性、
③そこから派生する権利を尊重すること
言い換えるなら、創世記なくして、
人の尊厳も、結婚の神聖さも守ることはありえない。
偶然の繰り返しで人間が下等動物から進化したと教える妄想には
希望も未来もない。
結婚とは、
キリストと教会の一体化のひな形となっている(エペソ5:32)程に、
神意に基づく神秘であることを知るのである。
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。
妻もまた自分の夫を敬いなさい。
(エペソ 5:31-33)
主は斬新的な結婚観を示したのでも、
新しい宗教をキリスト教として創始されたのでもない。
すでに存在している本来の聖書的ユダヤ教の系譜に連なる神&人であられる。
パイセイズパークに建つ米国第一号となった従軍慰安婦・記念碑。公共の場所に建つ碑は、
地域住民に関わるものであるべきで、日韓関係を持ち出すこと自体が疑問である。
ニュージャージーのPalisades Park と言うところにあるモニュメントを見に行って来た。
第二次大戦中、日本軍によって韓国人女性を強制的に性的奴隷として扱ったという従軍慰安婦制度を糾弾するものである。
今年に入って、従軍慰安婦の銅像がロスの郊外にあるグレンデール という街に設置された。
韓国人ロビー活動により、遠い昔の歴史が再編成されて日本弾劾の道具となっている。
全米の街にその従軍慰安婦像や記念碑を建てたいと声明を出している韓国人運動家の最初の成功が、
ここパイセイズ・パークのもので、設立が2010年。
普段は大人しい日本人&日系人もこの時は、
とばかりに立ち上がってグランデール市の公聴会は議論の応酬に盛り上がったとか。
その除幕式には物々しい警戒体制も敷かれたことから、
大きなニュースとなったのも記憶に新しい。
図書館敷地に立つそれは、隣にコミュニティーセンターの併設されている静かな住宅街にあった。
その街の人口の約半分が韓国人で占めらているそうである。
どういう歴史観を自身の内に構築させていくかは、
立場により左右されるところがあるのは確かだ。
日本人であるのか、韓国人であるかによって、
この従軍慰安婦問題を初めとする歴史観が異なるのは止むを得ないことであると考える。
ところが、さらに重要なことがあるのを確認したい。
それは歴史に対する見方、認識という己の歴史観をひとまず側に置き、
歴史の史実そのものを真摯に見つめる姿勢である。
次の動画は米国人によって編集・作成されたもので、史実がどうであったかを知るのに役立つ。
「米軍報告書1944年」というもので、
テキサスおじさんが、
ワシントンDCにまで資料を取り寄せて事の真相を明らかとした。
「慰安婦=性奴隷」という
プロパガンダから米国一般市民を守るための、このような真摯さを買いたい。
動画は
http://www.youtube.com/watch?v=ggQaYD37Jm4
報告書はこちら
http://texas-daddy.com/comfortwomen.html
ブエナパーク市フェイスブックページもまた、参考にどうぞ。
(この街も記念碑設立にかなり動いたのですが、良識ある米国人によって阻止されています。)
https://www.facebook.com/BuenaParkMemories
錦織先生と末っ子のサラさん。
この日はニュージャージー日本語教会牧師の錦織先生宅にお邪魔となる。
閑静な住宅街に住居を構えておられる先生の家では、
奥様と3人のお子様方からの熱烈な歓迎をいただいてしまった。
末っ子のサラちゃんは私の長女と同じ年。
ジャスティン・ビーバーの大ファンであることから、長女とも話が合うであろう。
今年の初夏にアトランタにある大学を卒業したご長男は、
タイムズスクエア正面にあるオフィスに自宅から通勤しておられる。
ご次女も自宅から徒歩で通える大学に通っておられる。
3人のご子息がそうして両親と同居できるとは羨ましい限り。
今の私にとって、我が子が巣立っていくとは、考えたくもない悪夢に思える。
ところで、
錦織先生とは昨年、ニュージャージーのFort Leeで30年振りの再開を果たした。
始めてお会いしたのが、
伊豆の大島でのホーリネス教団主催の高校生キャンプの時であった。
私が高校2年、先生が高校3年であった。
集会中に豪雨と落雷のために突然停電となり、自分の手すら見えない暗黒世界に置かれながらもメッセージの応答を求められて、私が信仰決心に至ったこと、
ボイラー故障でキャンプ場風呂場が使えずに、ゴルフ場の風呂を使用したことなど、
懐かしい当時の話に花が咲きました。
(当時の集会で語られ、私の信仰決心となった聖書のみ言葉です)
「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。
光の子供らしく歩みなさい。」 エペソ5章8節
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