ホサナキリスト教会・聖書広場から
9月
29日
マタイ 18 章 21~ 35 節
~マタイ福音書連続講解説教 49~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8152049
18 章はキリスト教会内での統治原則を教えている章でした。
ここでは、罪の赦しについて主が「天の御国」のたとえで教えておられます。
❶7度を70倍するまで赦しなさい
最近日本のTVドラマにより「倍返し」なんていう言葉が流行っているようです。
理不尽な仕打ちを受けた立場の弱いサラリーマンが復讐を成功させる物語は、
多くの人達の溜飲を下げたようです。
それだけストレスの強い世界に私たちが生きている、ということです。
しかしながら、実際の世界で復讐が問題を解決することはあり得ません。
倍返しされた方は、さらにその倍返しすることになり、
終わりの無い復讐合戦に至り、
双方の被害は取り返しのつかないところまで進んでしまうからです。
現在の泥沼化しているシリア内戦にその例を見ます。
ペテロが主イエスに、
「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきか。7度までですか」
と問います。
当時、限界が3度までと言われている中で、
7度までとはかなりの寛容さを示したと言えるのですが、
主はその7度を70倍するまで、つまり無限に赦しなさい、と教えられました。
「そ、そんな〜」
いぶかしがっているペテロに語ったのが、
王様としもべの負債を巡ってのたとえ話でした。
❷貴方はすでに神様から赦されている
王様から1 万タラント(1 タラントは6千デナリ)=6 千×1 万×1 万円=6 千億円の借金を背負ったしもべは「自分、妻子、持ち物全部を売って」も返済しようがないので、
その債務を全額チャラにしてもらった。
ところが、そのしもべは仲間の百デナリ=百万円の借金を赦せずに、
彼を獄屋に引き渡したという。
対比すれば、6千万円の借金を棒引きしてもらったのに対して、
百円の仲間の負債が赦せなかったのだ。
ここでは私たちの罪の大きさが教えられている。
神に対して膨大な罪の負債を抱えている私は、
いくら善行苦行を積んだところでその罪は帳消しにはならないのである。
それには血潮、つまり生命が必要とされた。
それも罪に汚れていない、純白な血潮でなければ贖いの効力はないのである。
罪のない神の小羊は一人だけ、主なるイエスであられる。
貴方の罪の負債は、すでに主イエスが十字架上で支払い済なのである。
❸「(他者を)赦さなければ、(貴方も神から)赦されない」とは、本当か?
たとえ話の最後は、
しもべ仲間を赦さなかった彼を捕まえて、牢屋にぶち込んだ王の話があり、
「心から兄弟を赦さないなら、天の父も、あなた方にこのようになさる」
との主の結語で終わっている。
似たような箇所としてマタイ 6:14 がある。
「14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」 (マタイ6:14-15)
これらは、これまでに大きな誤解を生んできた聖句である。
あたかも私たちが他者を赦す度合いに応じて、神からの赦しが得られる、
もし赦さないなら赦されたことまで、
つまり救いそのものまでが取り上げられてしまうかのように読み込まれてしまう傾向にある。
聖書の言葉は、そこの箇所だけを取り上げて判断してならない。
どういう状況の下で語られたものかという、文脈を考慮せねばならない。
当時の社会的、歴史的、文化的なあらゆる側面の文脈を見出した上で、
始めて妥当な解釈が成り立つ。
誇張法や倒置法といった文学的手法があることも、わきまえねばならない。
そして聖書の他の多くの箇所で、広いスペースを割いた箇所で
明確に教えている教理と矛盾するかのような解釈を拾い出してはならない。
こられは解釈学の原則である。
この原則を無視してある特異な聖書箇所を取り上げ、
直接現在の自分たちに当てはめようとするのは危険であり、
恣意的解釈に陥る。
その過ちは繰り返されてきた。
たとえは千年ほど前、キリスト教国と言われる欧州諸国の十字軍派遣の根拠に、
また今日では、エホバの証人という異端が輸血を拒否して我が子を死に至らしめる教えも、
聖書の言葉を文脈を無視しての乱用によるものである。
もし人の救いが、上記のように人が他人を赦したかどうかにかかっているとするなら、善行により人は救われることになってしまう。
それは、人はただ神の恵みにより、一方的に救いが与えられるとする聖書全体の教えとは逆行するものである。
人の為せる領域は、その恵みを受け取る信仰だけである。
では、王なる神様が「獄屋に引き渡す」とはどういう意味か?
それは、神が備えておられる祝福に与ることが出来ない、
ということで救いが取り去られることではない。
ルワンダのジェノサイドの際、
暴虐と暴行から逃れた女性が、やがて犯人と和解する場面が先日紹介されていた。
その女性は犯人を赦さない限り、憎しみと怨念に苦しみ続けたという。
自分を解放して自由にさせる唯一の方法は、復讐ではなく、
主イエスによって犯人を赦すことだったと証言してくれた。
その赦しの超自然的な力と恵みとを主からいただいたのだと、証されていた。