ホサナキリスト教会・「聖書広場」からの抜粋です
7月
28日
マタイ16章21~28節
「弟子への受難予告」
~マタイ福音書連続講解説教43~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6212843
{メッセージの抜粋}
「その時から」(21) という言葉はカギとなるフレイズです。
マタイ福音書では、重大な転機を意味する言葉として用いられています。
4:17にも出現していますが、
そこでは主が公の生涯に入られた転機を示すものとして使われています。
マタイ福音書を「その時から」で3つに区分すると、以下のようになります。
メシアの準備期間 ~4:16
メシアの宣教期間 4:17~16:20
メシアの受難期間 16:21~
さて、16章は弟子訓練の章でした。
弟子たちや一般民衆のメシア理解とイエスとの間には大きなギャップがありました。
主は今まで言及されなかったのですが、
訓練の進み具合を見ながら、
いよいよここで弟子たちが仰天するようなことを開陳され始められます。
❶ 受難の予告(21節)
主の弟子訓練もいよいよギアが入って来ました。
先回はペテロが満点のメシア告白をしました。
これを受けて主は初めて教会設立や、
その経緯や教えの正統性などにも言及され始めます。
そしてさらに、ご自分の受難について預言されたのが今回です。
そこには4つの側面があります。
エルサレムにて起こることである
長老、祭司長(サドカイ人)、律法学者(パリサイ人)たち、これらサンヘドリン構成員たちから受けるものである。
多くの苦しみのあと殺されることになる。
三日目によみがえる。
❷ ペテロの反応(22~23節)
主が死を遂げられると聞いて、
ペテロは不吉な事と感じたのでしょう、師である主を「引き寄せて、
いさめ始めた」とあります。
そこには主への愛情や守りたいとの熱情が見て取れますが、
同時に彼自身の願望や都合も見え隠れしています。
主は、「下がれ。サタン」と厳しく譴責されました。
それはかつて荒野で悪魔の誘惑に会われたときに使われた断定のお言葉と同じものです(4:10)。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 (16:23)
❸ 弟子としての道(24~28節)
主は弟子となる道を解き明かされます。
それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:24-25)
気をつけなくてならないことは、
この聖句は救いにいたる条件を教えているのではないことです。
信者となることと、弟子になることとは異なります。
恵みに応答する信仰により私たちは救いをいただきますが、
もし救われた者が弟子として歩みたいのであれば、
それは自己犠牲の道を覚悟せねばなりません。
ここで動詞の時制に注目してみましょう。
アオリスト時制(決断・ある瞬間に完成される行為)が、
「捨てる」(=自己否定であり自己中心をやめること)と
「十字架を負う」(=神に自己意思を全面的に承服させること)に使われてます。
そして、現在形時制(継続・現在も繰り返される行為)が、
「ついて来なさい」(=日々の実践で神の御心を歩むこと)に使われています。
これら動詞の使い方から教えられることは、
自己の意思や願望などの執着を全面的に主におささげする献身の行為は、
生涯のどこかで明確に決断せねばならないというものです。
その後は、
生活の至る場面でその献身の選択を繰り返すのが弟子の歩みであることです。
人は、たとい全世界を手に入れても、
まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。 (16:26)
この聖句は、
日本へ宣教にやって来たフランシスコ・ザビエルが若い時に神への献身を決意するに至ったものとして有名です。
彼が上陸した鹿児島の港には御影石の記念碑が置かれてあり、
その石碑にこの聖句が刻まれてありました。
彼が万里の波濤を越え来日し、いのちを捧げたがゆえに、
戦国時代の多くの日本人がまことのいのちを見出したのです。
歴史に名を残したからでなく、
主に従った献身の生涯ゆえに、
来たる世にあっても彼には大いなる報いが約束されていることでしょう。
使徒パウロは、殉教する直前に次の言葉を残しています。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現れを慕っている者には、
だれにでも授けてくださるのです 」(2テモテ4:8 )
「義の栄冠」という報いは、
ザビエルやパウロといった功労者だけに備えられたものではないのです。
「主の現れを慕っている者にはだれにでも授け」られるものです。
栄光の報いを目指して、弟子としての道を進もうではありませんか。