この日の上空は快晴。
時に厚い雲に覆われることがあります。
この日のランチはインド料理店にて。
数年前までここは日本料理の店でした。
そのときもここでランチしていたなあ。
今日は、ゴールデンゲイトブリッジを越えて、ミルバレーまで行ってきました。
サンフランシスコのダウンタウン部からブリッジに至る幹線道路の工事も完了していて、走りやすい自動車専用2車線と成ってました。
帰りのToll Gate (料金所)は素通りで、無料となっていたのはどうしてかな?
普段なら5ドルほどとられていたと思う。
山間にあるミルバレーはこじんまりとした、でもおしゃれな町。
安らぎを感じさせるサンフランシスコの日本町
本日は、日本町へやって来ました。
この界隈を歩いただけで、何故か安堵の気持ちが沸いてくるようです。
米国のショッピングモールは、
どこかギラギラしていてシャープで緊張を強いられるように感じます。
日本町にいると、その緊張感が解けていくように感じるのは
やはり日本人の血が流れているのでしょう。
日本のCOOLな品物を売っているお店の店主は、
1年半前までTAKARAという日本レストランでウエイターをしていた方です。
活躍している方を目にするのはうれしいものです。
母の日に、老紳士が奥様に贈ったランの花。
母の日と誕生日には必ず花を贈るそうです。
この日にお会いしたのは、90歳少し手前となる日系人の紳士。
奥様ともご一緒に夕食をさせていただきながら、
生きた歴史の語り部にお会いできた特権のひと時となりました。
日米が開戦したとき、この方はわずか15歳でした。
米国市民権を持ちながらも「敵性日系人」扱いで、
家族そろって強制収容所へ送られます。
やがて思想調査があり、米国に忠誠を尽くすか否かの問いには、
NO, NO, と答えます。
成人扱いされる年齢に達したとき、裁判に懸けられて、
国外退去処分となり、日本へ送られます。
彼には、3歳年上の仲良しだった友人がいました。
その友人は開戦前、米軍に徴兵されるのを避けるため、
彼に別れのあいさつと宝物を渡すと帰国しました。
帰国して故郷の熊本で彼の実家を探し当てました。
彼のその友人は日本軍に徴兵され、南の島で返らぬ人となっていたそうです。
現在の平和な世界からは想像するのが困難ですが、
そのような生死の境界を潜り抜けて来た先達者がいらっしゃることは事実。
その生き証人からお話を直接いただけたこの宵は、
歴史に3D映像を与え、彩を添えることとなりました。
死海での夜明け。昨年11月の聖地旅行にて。
日本帰国後の最初の日曜は、
横浜港南教会で礼拝を守ることになりました。
その日は、特別伝道集会のある日です。
私には、救いの証をするようにとのご依頼。
その原稿も月刊教会誌に掲載するとのことで書かせていただきました。
「どうしてイエスを信じたのか?
信じるとは、あなたにとってどういう意味があり、
その結果どうなったのか」
というのが、
「救いの証」と言うことができるでしょうか。
その原稿を一足早く、皆様に紹介します。
「良くなりたいのか」
ホサナキリスト教会
高橋京太。
私の生家は横浜港南教会の近く、戸塚区平戸町にあります。
私が小学生低学年の頃、
東戸塚キリスト教会が平戸町交差点に開拓伝道を始められました。
近所の友人たちと何度も日曜学校に通い、
関東教区合同での夏季日曜学校キャンプにも参加したりしていたのですが、
その時はお遊びの教会生活で終わりました。
次にその東戸塚教会に足を踏み込んだのは、
高校1年生となった時でした。
「かつて通ってたけど、今でもまだ活動しているのかなあ」
なんて不遜な思いで玄関先にある案内板を見ていた時、
ちょうどそこを通りかかった故シェルホン先生と美智子先生が
「どうぞお入りください」と声をかけて下さり、そのまま会堂内へ。
数年ぶりでお会いした伊東先生ご夫妻は、
かつてのヤンチャ坊主の私とは気がつかないまま歓迎してくださいました。
その数ヶ月後、秋の特別伝道集会にご案内を頂いて、高校同級生と出席。
講師は山形から来られた橋本幸夫先生でした。
聖書箇所は忘れもしません、
ヨハネ福音書5章のベテスダ池の間欠泉に佇む病人の癒しのお話。
「初めてお会いした先生なのに、どうして私のことを知っているのだろう?」
あまりにも的確に私の心中を射抜くようなメッセージに、
人間世界を超えた絶対者の存在に圧倒されるかのような思いで拝聴したのです。
当時の私は、期待や希望を抱いて入学した高校生活が馴染めず、
厚い壁に阻まれていたのです。
その原因を友人や家族のせいにして非難したり、
自分の足りない能力に失望して自己嫌悪に陥ってはもがいていたのです。
丁度あの病人が競争原理の中で挫折しては他者を批判し、
自己憐憫の敗北感に38年間打ちのめされていた姿と、
その時の私の姿とが見事にオーバーラップしたのです。
「病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、
池の中に私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』」
(ヨハネ5:7 )
そんな只中に置かれていた彼に主は、
「良くなりたいか」(6節)と
問いかけられたのでした。
良くなりたいのはもちろんのはずです。
でも38年間という長期間は、その希望を彼から剥ぎ取っていました。
その彼対して、病の現実よりも、他者との競争よりも、
優しく「良くなりたいか」と語りかけられる主に
信仰の目を上げるようにと迫られたのだ、
というメッセージは、私に強烈なインパクトを持って迫って参りました。
さらに主は、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8節)と言われて、
彼の病を瞬時に癒されておられます。
主のお言葉に応答するなら、
それまでの生き方とは違う、
別個の次元の生き方が開かれるのだろうか??
そのような、漠然とはしていましたが、
抗し難い迫りを感じながら、信仰の挙手決心に導かれたのでした。
以来、30年以上の月日が経過しました。
あの時の決断・決心は、生涯で最も大切で意義あるものであったと、
今振り返ることが出来ます。
主はそのお言葉通りに、
信仰を持ってついて行く者に良いことをして下さるお方でございました。
その後の歩みの中でも壁に突き当たる度ごとに、
「良くなりたいのか」と問いかけられて来たようです。
見える現実に失望することから、語りかけられる主のお顔を見上げ、
主が実現してくださる恵みの御業に参与させていただいて来ました。
あの特別伝道集会の結論に語られていた聖句を最後にご紹介します。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。 (マタイ11:28 )」
この約束のお言葉は確かであると、
その後の30年以上の信仰生活から証言できます。
くびきを共にするように、主イエスと共に歩いた30数年間でした。
その歩みは、心地よさと安らぎとに溢れたものでした。
そして重荷を主のもとに降ろすこと、
降ろしても良いことを日々学ばせていただいております。
ヨハネ福音書5章1~8節
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、
ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、
やせ衰えた者たちが伏せっていた。*
5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、
それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、
池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、
もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋
「キリスト教の本質~異邦人との対比から」
マタイ15章21~ 28節
~マタイ福音書連続講解説教39~
聖書本文とメッセージノートはこちらから
http://hosannamin.org/whatsnew/view/521-283
「キリスト教とは、つまるところ何であるのか」についての2回目の学びです。
今回は異邦人の女性との会合を通じて,その本質を垣間見ることができます。
彼女いわく、
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。
娘がひどく悪霊に取りつかれているのです」(22節)
それに対して主は「彼女に一言もお答えにならなかった」
とあります。
さらに、「イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていない」(24節)
とまで言われています。
主もまた当時の特権意識を抱いていたユダヤ人と同様に、
国粋主義で民族主義的な偏見で異邦人を見下していたというのでしょうか?
この箇所を正しく理解するには、
ユダヤ的な視点から聖書を紐解く必要があります。
日本の文化土壌や常識から平坦に聖書を読んでも
到底理解できないものがあります。
聖書の著者が前提としているものは、
数千年間にわたり蓄積されてきたユダヤの文化であります。
主はこの時、初臨のメシアとしてイスラエルに専属的に遣わされているのです。
それが旧約聖書預言の視点であり、
今日21世紀の私たちの視点と異なる点です。
やがて主はユダヤ人に拒絶され、十字架に架かります。
そこで「異邦人の時代」となり、福音が世界中に広がります。
すると救われる異邦人の数が満ちて、
「異邦人の完成」段階へと進む瞬間が将来のある時にやって来ます。
その後にイスラエルの回復と完成がある、
というのが神が人類救済のために計画されているタイムテーブルです。
その全体像からすると、
本記事の段階では未だ十字架前であり、
異邦人が祝福を得られる時代段階ではないのです。
女性は、「ダビデの子よ。」と呼びかけていますが、
それはメシア称号です。
ダビデ契約の成就者として旧約に預言されているメシアは、
イスラエルに回復と繁栄をもたらし、
全世界を統治されます。
これらは、第一義的にユダヤ人に専属的に与えたれている祝福です。
「子供たち(ユダヤ人)のパン(祝福)を取り上げて、
子犬(異邦人)にやるのはよくないことです」(26節)
との主のお言葉は、
そのような聖書預言の歴史的な展開(英語でいうディスペンセイション)
を背景としたものです。
冷淡とも言える主の言動にもめげずに、
その女性は執拗に食い下がります。
「主よ。私をお助けください」(25節)
当初の彼女の言葉がここで変化しているのに注目しましょう。
これは、「メシアがイスラエルを祝福する義務」
を利用しようとしたものではありません。
「ダビデの子よ」との呼びかけには、そんな意味が包含されていました。
ここではただ単に、個人的なあわれみを求めた言葉です。
そこに至ってはじめて主は、彼女に応答ができる局面を得たのでした。
二人の間にコミュニケーションが成立し始めてから、彼女は答えます。
「主よ。その通りです。
ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27節)
ここで主は、「あなたの信仰は立派です」と言われ、
即座に彼女の娘を癒されました。
ところで、「立派です」と主からほめられた信仰は、
聖書に2例しかありません。
そのもう一つは百人隊長の例です。マタイ8:10
彼らはともに異邦人であり、共通項として次の点が挙げられます。
• 主に対する絶対的な信仰があった
• 主の力を引き出すのは自らの立場、熱心、資格によらないことを熟知していた
• 祈りが届けられるのは、主の一方的なあわれみによると理解していた
さて、ここに見られる「立派な女の信仰」とは
• 理解があった~「そのとおりです」:イスラエルへの専有的祝福を理解
• 謙遜があった~「小犬でも」:異邦人としてのわきまえ
• 期待があった~「食卓から落ちるパンくず」:主の力とあわれみはとてつもなく大きく、
それに比べたら自分の願いは小さいものなので、主には不可能でないとの信頼。
現在は、全ての人が信仰により、
主の救いと祝福に漏れなく預かれるよう招かれている時代です。
そして今後も、聖書預言は一つも違う事なく成就して行きます。
ベルビューにあるJubilee Reach Center・正門
Jubilee Reach Center へ行ってきました。
http://www.jubileereach.org/
ここはコミュニティの再生、保護、発展のために尽くしている非営利団体です。
特に人に対するケアが充実していて、ここまでやるの? といった驚くほどのレベルです。
たとえば子供のためには、共働きの両親のための預け保育、学校前や後の児童ケア、宿題の手伝い等。
移民のための英語やPCの教室、職業訓練、ホームレスのための援助や災害被害や失業中の家庭のための家具などの配給などなど。
近く日本人のための図書館もこの敷地に建設される話もあるようです。
これらほとんどの働きは、地域のボランティアが支えています。
Jubileeとは、旧約聖書にある「ヨベルの年」の教えです。
イスラエルでは50年毎に巡って来たこの年に、全ての負債が帳消しとなり、没落して奴隷となった人も解放されて我が家に帰れました。
その開放を告げる合図のために、ラッパを長く吹き鳴らしました。
イスラエルの国中にそのラッパの音が鳴り渡ると、経済破綻者も、債権者もともにリセットされたのです。
それは、彼らに土地の真の所有者、富の真の供給者は誰かを教えるものでした。
どれだけ人が富を所有していたとしても、いや違う、それは富を管理しているだけで所有はしていない。
真の所有者なる神に返すときなのです。
単に貧者救済や偏った富を是正する公平化制度ではありません。
もしそれが人為的になされたのなら共産主義というもので、有産階級が黙っているわけありません。
これは命の創造者にて保持者、富の供給者にて所有者なる唯一の神に対する信仰から実現された行為です。
たとい不幸にも、身を投げるほどの経済的破局に陥ったとしても、その人の価値がそれにより計られるわけではない。
貧しい人も、富める人も、等しく神の前に愛されている神の子供だと聖書は教えます。
その聖書の教えを実践する一つがヨベルの開放だと言うわけです。
イスラエルではかつて50年毎に、この聖書の基本概念を教える大胆な経済政策が採用されていました。
現在のヨベル、神の計り知れない恵みをこの団体は地域に伝え続けています。
以下は旧約聖書にあるヨベルの年の教えの箇所です。
「8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。
9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。
10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。
12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。
13 このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。
14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。
15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。
16 年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。
17 あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。 (レビ記 25:8-17)
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家内手製のB.ケーキ
本日、長男が10歳となりました。
良くもここまで順当に育ってくれたものだと感心しています。
健康に問題があるわけでなし、学校でも普通に勉強して、普通に遊んで、
こんな良い子になったのが不思議なくらい。
この日、仲良しのS君ひとりを誘って、自宅に招いて遊びました。
食事をともにしてから、家内が映画に連れて行きます。
翌日は彼が夢中になっているシアトル・サンダーズ(プロサッカーチーム)の試合を見に行きます。
恒例のケーキは、この時も家内の手作りでした。
彼の将来の夢は、サッカー選手と宇宙飛行士とを同時にこなすことです。
Pacific Place 平日のためかガランとしています。
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■ どちらの道を選ぶべきか
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本日は、シアトルのダウンタウンにあるモール・pacific placeにまでやってきました。
ここに踏み込んだのも、何年振りとなります。
ショッピングはここでしたことはないのです。
ここの地下駐車場を利用するためです。
6番街か7番街に出るか、帰りの出口には二つの選択肢があります。
「あれ、次の目的地へはどちらが良かったかな?」
「一方通行の通りはどちらだったかな?」
出口付近に近づくと、これまでしてきたように頭の中がグルグルと回転を始めるのです。
我が家の洗濯機ほどの高速回転をさせました。
しかし、これまでのように結論が出ない。
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■ とにかく決断しなくてはならないのが人生
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そう、「あれにしようか、こちらにしようか」と
決断できないまま延々と悩み続けていた、
その5分前にお会いした顧客と同じ。
しかし私のそのときの問題は、岐路が数メートル先に迫っていること。
忍耐してその優柔不断さにお付き合いをしている優しい営業マンのようにはいかない。
現実の世界はもっと厳しいぜよ、オバハン。
「イエヤ」
と、当てずっぽうにハンドルを切ったものの、それは正解ではなかった。
あーあ、一方通行のため大回りをしなくてはならない。
これもまた、今までと同じケースであった。トホホ。。
えっ?
件のオバハン顧客はどうしたかだって?
彼女には決断できそうにないので、私のほうから決断して差し上げました。
「貴方にはお売りしません」という決断でした。
私たちの毎日は決断の連続です。
時に失敗もあります。
でもその失敗を繰り返すうちに、学習し、成功精度の良い決断へと磨かれて行くものです。
この私だって、あの駐車場へあと10回も通えば、悩まずに正しい道を選べるようになります。
それには失敗の場数を踏むことも大事です。
決断自体を恐れていたら、前に進めないのです。
ところで、聖書は人にとって最大の決断が何であるかを教えています。
~あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、
また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。~
(伝道者の書 12:1-2)
この聖句の「若い日に」とは、あなたの現在で最も若い日のことです。
それはつまり、今日のことですね。
今日のこの瞬間、正しい決断に導かれますように。
天の父の祝福をお祈り申し上げております。
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小屋に戻ったが慣れない様子のオスのヨシ
運よく庭先にあったローズマリー
我が家にいるウサギ。
オスが求愛を始めたので、しばらく別居させていました。
オスの避妊手術後、再び同居させたのですが、今度はメスが攻撃的にオスを押しのけようとします。
オスの不在時に、小屋のあちこちに自分の匂いを撒き散らしては、自己の占有領土であると宣言しているかのようです。
不当占拠されている北方四島を見るかのようです。
仲裁役として、どうしたら良いものか?
インターネットで調べると解決策が見つかりました。
それは自宅庭にあるローズマリーのキツイ芳香を利用するというもの。
その開花直前の花を両手で擦り合わせてジュースを搾り出し、それを小屋の床や内壁に擦り付ける。
自分の匂いを失ったメスは、独占欲も失うという寸法。
今のところ、この作戦は見事に功を奏しているようです。
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