ウエイトレスの皆さんもサーヴィス満点。
ポートランドで是非ともお勧めな日本レストランは、
しげぞう。
これは文句なし一番。
とにかく寿司もラーメンもうまい。
米国で作ったものでないみたい。
この日の夕食もここで楽しみました。
時々大きな太鼓の鳴る音が店内に響きます。
入り口においてある大太鼓を客が勝手に鳴らすのです。
運勢を稼げる太鼓だそうで、
その度に従業員たちの 「いらっしゃいませ」という
威勢のいい返答があります。
なぜ「いらっしゃいませ」なのだろう?
ダウンタウンにある郵便局
暮れなずむべリングハムの町並み
今週のシアトル地元のフリーペーパー「ソイソース」は
べリングハム特集です。
べリングハムはシアトルを北上すること、約1時間半ほどにある小さな町。
「小さな」といっても、一応国際空港もあり、夏になれば日本人留学生数百人で賑わうところでもあります。
先日行ってきましたが、
どこがよいランチの店か、
海岸を散歩できる所はどこかなど不案内なところが多くて
かなり困ってたんです。
これから特集を読んで、よい情報を集めようと思います。
家内はそこにある州立大学へ行きました。
彼女にとっては懐かしい学生時代の町でもあります。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4112-36
「バプテスマのヨハネの斬首」
マタイ14章1~ 12節
~マタイ福音書連続講解説教36~
バプテスマのヨハネとヘロデ・アンティパスとは、
対極にいる人物として本章に書かれています。
それはマタイ福音書2章で、
東方からイエスを拝みにやってきた博士たちとヘロデ大王が対極にありますが、
そのパターンに似ています。
• 権力者と市井の一般人
• 不信者と信仰者
• 己の欲に振舞わされた人と神の使命の道に忠実であった人
• 人を恐た人と神を畏れた人
• 殺人者と礼拝者
などなど。
メシアの道備えをしたヨハネは獄中で数年間を過ごしますが、
最期は斬首されるという悲惨な結末を迎えます。
彼は、
1. ヘロデ・アンティパスの虚栄心・メンツの犠牲となりました。
ヘロデ自身はヨハネの語る真理に納得するところもあり、ヨ
ハネを保護したほどでしたが、「誕生日祝いに集まった重臣、千人隊長、ガリラヤの名士たち」の前で自分の約束を守らねばならない状況に陥った。
彼自身のメンツがより大事なものでした。
2. ヘロデヤの憎しみの犠牲。
夫ピリポと離縁し、アンティパスのもとに駆け落ちしたヘロデヤ。
この罪をヨハネから糾弾されて以来、心穏やかではいられなくなりました。
密かにヨハネ殺害の機会を狙うようになったのです(マルコ6:19)。
3. 娘サロメの冷淡さと無関心の犠牲。
彼女は感心される踊りを披露した見返りに、
母親の言いつけ通りに殺人を所望しました。
預言者ヨハネの働きの価値を何ら理解しないまま、
冷酷で気まぐれな判断をして、
母親に気に入られようとしたのです。
ヨハネの死には一体どんな意味があったと言うのでしょうか。
信仰を曲げなかったがゆえに、損と見えるクジを引き当ててしまった?
そのような例は聖書で他にも多く出現しています。
バテシェバの夫などがその代表です。
神が奇跡を起こして彼を救出されずに殉教を許されたのには、
人智を越えた深い神のお考えがありました。
それは、その当時においてはとうてい理解できることではありませんでした。
長い時を経てから分かることが多いです。
ヨハネは先駆者としての使命を全うしました。
その殉教は、イエスに最期の時に対する認識を新たにしました。
彼の殉教は彼の栄誉となり、その名声は広くエペソまで伝わって行きました。
そして、将来は主イエスから「いのちの冠」(黙示2:10)を受け取ることでしょう。
「すべてが相働いて益となる」(ロマ8:28)とは、
神に従うもの、神を愛するものに対する変わらない約束です。
そしてこの頻繁に語られてきた聖句は、
永遠という時間の流れの中で、
私たちの救いが完成する将来における「栄化」を教えている文脈(ローマ8:18-39)
に位置してます。
殉教や迫害、試練が「益」となるなんて、
現段階ではとうてい考えられない重たく、辛い現実でもあります。
そこで忘れてならないのは、
現段階だけが私たち信仰者の土俵ではないということ。
神の言葉が真実その通りであるのを実感・体験できるのは、
将来の主イエスによる裁きの時まで待たねばならないことを教えているのです。
昨夜からこの日の母の日を迎えるための
子供たちのプロジェクトが始まりました。
家中の掃除。
掃除機、床磨き、ふき取り、洗濯、皿洗い、、、、
彼らの出来そうにないところは
もちろん私が手伝いました。
他にも、
花を飾り、特別な朝食メニューを準備したり、部屋をデコレーションしたり、、、
良くぞここまで、と感心するほどです。
この日旅行会社からの緊急Eメールがあり、
6月限定で日本行き往復の格安チケットの案内が届きました。
これはトラブルで検査のため使用不可となっていたボーイング787が
就航を再開することによるキャンペーンだそうです。
成田・シアトル間の最安値が、$898だそうです。
あ~、残念。
既に数週前に羽田・シアトル間を買ってしまいました。
これからの方、早速問い合わせてみては。。
彼の遺骨が収用収容される直前、お墓の前で。
奥様のKさんによって、白い鳩が解き放たれ、
天へと羽ばたいて飛んでいきました。
タコマでの家庭集会(聖書を学ぶ集い)に毎回奥様と出席されておられた
S.さんが癌との闘病生活の後、天に召されました。
ご近所の教会での葬儀があるので行って来ました。
S.さんはイエス様から平安をいただいた方で、
常に穏やかで優しい笑顔を絶やさない方でした。
いつも奥様と仲良くて、私の隣にお座りになられては聖書を熱心に学ばれた方でした。
旧約聖書時代に、
それを執筆した預言者たちは新約聖書時代をどのように理解していたのでしょうか。
聖書を書いた預言者たちは、
神の霊に導かれて真理を書き残しました。
その神の霊の働きのことを、
「霊感」と呼んでいます。
この神の霊(聖霊)によって、
真理が明らかにされることを「啓示」といいます。
啓示が与えられた彼らは、当然その啓示の内容まで良く理解していたはずだ、
と私たちは考えやすいのです。
メシアが来られる啓示、
そのメシアがイスラエルのものだけでなく
異邦人を含めた全世界へ伝えられていくという啓示、
その異邦人時代(教会時代)の後に、
メシアが地上を統治される王国が始まるという啓示。
実は、彼らはこれらを神様から啓示されましたが、
現在その時代に生きる私たちほどには理解できていなかったのです。
それが以下の聖書で教えられているところです。
Ⅰペテロ1:10-12
「10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
以下は、この聖書の解説です。
10節にある、「恵みについて預言した預言者」には、例えばダニエルがいる。(7:15-16,9:1-3,12:8-9)。
これは預言全般に渡って言えることであるが、
預言者は、NT時代の信者の救いについて預言し、参加し、語っている。
11節ではその預言の内容がある。
ただしその二つの矛盾してると思われる点は最後まで彼らの中で調和できないままであった。
その二つのうちの一つというのが、キリストの「苦難」。
これはメシアが初臨において経験することで、
複数形になっているのは十字架を含めた地上生涯でメシアが通過するすべての困難を意味しているからである。
「栄光」が苦難に引き続きメシアに与えられるものである。
それも複数形であるのは、メシアの復活、昇天、右の座への着座、再臨、千年王国の樹立を含む複合概念だからである。
ここでペテロが言っている点は、
聖霊が彼らに内在して預言のことばを与えていても、
彼らの理解は十分でなかったということである。
この節の完了形用法は、
聖霊が預言者たちに継続して啓示を与え続けたことを示唆している。
旧約時代の長期にわたり、預言者たちに啓示を与え続けたのである。
この苦難と栄光の、矛盾とも見えるメシア理解は、
ユダヤ文学で「二人のメシア」観を作り上げて行った。
ラビたちも、預言者同様にこの苦難と栄光の相反する概念が、
一人のメシアに調和・体現されるとは考えていなかった。
新約聖書になって明らかに教えていることは、
二人のメシアではなく、一人のメシアが2回に渡り地上に来られることである。
12節では、預言者への啓示に焦点をあてている。
その新約時代の読者になって始めてこれら二つの矛盾点が理解できるようになった。
「啓示を受けた」と受動態で書かれているのは、
彼らに働いた聖霊を強調するためである。
しかしながら、その意味については当時の預言者たちは理解できていなかった。
預言者達は旧約の彼らと同じ世代のためでなく、
新約聖書の読者世代のための働きをしたのである。
そういった例は、ローマ15:4,Ⅰコリント10:11にもある。
聖霊が使徒たちに働き、
その使徒たちが福音を説教して、
はじめて預言者達の預言が理解できるようになったのである。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
「奥義としての王国―その④{2回目}:御国の変遷」
マタイ13章44~51節
~マタイ福音書連続講解説教34~
{メッセージの抜粋}
13章に記された後半の4つのたとえから、
「奥義としての御国時代」(13:11)の特徴を学びましょう。
それは現在のキリスト教世界を理解する上で役立ちます。
前回に引き続いて、たとえの解説です。
Ⅰ 畑に隠された宝 (44)
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、
持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 (マタイ 13:44)
「宝」とは、OTでたとえとして使われる場合、
イスラエルを指します(出エジプト19:5、詩篇135:4)。
「畑に隠された宝」とは、信仰のユダヤ人(レムナント=メシアニック・ジュー)
「その宝を発見した人」とは誰か?
たいていの場合、それはキリストのうちに宝を見出した信者で、
それゆえに全てを犠牲にしてまで神の国のためにささげよ、
との適応が教えられているようです。
ところが、「宝」が聖書文脈からイスラエルになるのなら、
その適応は変ります。
「大喜びで、持ち物を全部売り払ってその畑を買う」人とは、
宝のために自発的に全てを犠牲にする人のことで、
それはメシアなるイエスの十字架での犠牲を表します。
Ⅱ 海にある真珠 45~46
「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、
行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
(マタイ13:45-47)
「海」とはここには現れません。
しかし、真珠が採取される場所として検討されねばならない理由があります。
先述のたとえとの並行性です。
「海」とは、聖書の黙示文学にて異邦人世界の象徴として使われています。
ダニエル7:2~3
「真珠」とは何か
これはOTには出現ませんので、直近のたとえの用法から類推するほかありません。
海(異邦人世界)から捕れる価値高いものとは、異邦人クリスチャンです。
「持ち物を全部売り払ってその畑を買う」
~その犠牲を払った商人とは主イエスであるに他なりません。
主が命をささげられた対象は、メシアニックジューばかりでなく異邦人信者でもあります。
Ⅲ 地引網 47~50
「また、天の御国は、
海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、
良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。
御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。
彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 (マタイ 13:47-50)
1. 世の終わりの様子=奥義の御国時代の終焉を教えるものです。
「あらゆる種類の魚」が網にかかるまで終わりは来ないのです。
「 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、
すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
(マタイ24:14)と教えられています。
毒麦のたとえと酷似してます。
「良いものは器に入れる」=信者は千年王国へ入る
「悪いものは捨てる」=火の燃える炉に投げ込まれる(50)のが不信者です
2. 羊と山羊の選別のたとえと同じ終末の様子を教えるもの(マタイ25:31~46)。
この箇所は、「弱い者に善行をするのは、神への奉仕」であるとする
「靴屋のマルチン」神学を教えているところではありません。
もしそうなら、聖書は良い行いが救いを得ると教えていることになります。
艱難時代に苦難を通過する神の民、ユダヤ人を助けるかどうかは、
信仰のある・なしで決定されることが前提となっています。
「羊」~信仰ゆえに迫害下にあるユダヤ人に良いことをする信者のことです。
「山羊」~迫害下にあるユダヤ人をさらに苦しめる不信者のことです。
Ⅳ 倉から物を取り出す一家の主人 51~52
「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」
彼らは「はい」とイエスに言った。
そこで、イエスは言われた。
「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、
自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
(マタイ13:51-53)
1. 主イエスの問い「これらのことがみな分かりましたか」
奥義の王国時代の特徴を理解したか、と弟子たちに尋ねます。
先の神政政治時代にも、後のメシア的王国にもないものなのです。
「ハイ」と答える弟子たち
2. 奥義の王国時代の学者とは、取り出し自由の倉を持つ一家の主人です。
「新しい物」~その王国時代になってから啓示されたもの。
たとえば、教会とイスラエルの関係、それらが一体となることなどは、
NTになってはじめて啓示された奥義であり、新しい教えです。
「古い物」~御国に入る条件、すなわち神の約束に与る条件はいつの世でも変わりません。
イスラエルと異邦人の区別もありません。
信仰と恵みによる救いを聖書は一貫して啓示していて、それは古い真理です。
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