ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/422-3637
「湖上での弟子訓練」
マタイ14章22~ 36節
~マタイ福音書連続講解説教37~
マタイ14章は、主イエスによる弟子訓練が記されています。
その14章冒頭ではバプテスマのヨハネの斬首事件があり、
これを期に弟子たちへの教えから訓練へと、主の働きの主眼が変えられて行きます。
先回の14章半ばは、5千人の給食の奇蹟で、これは弟子たちの丘の上での訓練でした。
今回の14章終盤は、主イエスの湖上歩行の奇蹟として、これは弟子たちへの湖上での訓練となりました。
主と弟子たちとの間には大きな隔たりがあります。
弟子訓練とは、その隔たりを幾分かでも埋めようとの営みとも言えます。
主と弟子たちとの間には、どのような隔たりがあったのでしょうか。
❶ゴールの隔たり。
空腹の1万人以上になる男女を5つのパンと2匹の魚から満腹にした主の奇蹟は、
大きなインパクトを人々に与えました。
食糧問題を瞬時に解決されるメシアとして群衆は大歓迎し、
王として即位させようと計ったのも自然の成り行きです。
弟子たちも「時、到来」とばかりにこれに同調し、
旧約聖書が預言しているメシアによるエルサレムからの世界統治が実現されると、
興奮の渦に巻き込まれて行ったのです。
それが彼らの目標(ゴール)であったわけですが、
それは地上的・物質的な願望に色濃く染められたものでした。
主はそんな彼らを無理矢理に解散させ、
弟子達には強いて舟に乗り込ませて帰途に就かせたのでした。
主のゴールは十字架による罪の贖いの成就であり、
それによって人々の罪の問題を解決されることにありました。
苦難のメシアとして死に向かわれたのです。
その先に勝利者として地上にやがて凱旋され、
メシア王国を樹立されることになります。
❷苦難に対する隔たり
弟子たちを乗せた舟は、間も無く嵐に襲われました。
8時間ほども波・風と格闘しながら漕ぎ続けます。
肉体の疲労と目的地に辿り着けない挫折感の中で、
信仰も弱って行ったことが想像されます。
「主のお言葉通りに舟を出したばかりにこんなことになって、、、
一体どうしてくれるんだ!?」
そんなつぶやきが聞こえてきそうです。
一方その時、主はお一人で山におられました。
「祈るために」(14:23)とあります。
主は霊的な苦闘の中を通られておられました。
同時に、父なる神との慕わしい甘美な時を過ごされていたのです。
センセーショナルな群衆の期待にも流されることなく、
与えられている使命の道を完遂するためには、
神御自身であられるメシアでさえも、祈りの時間が必要とされたのです。
ここに、完全な神であられたお方は、
同時に完全な人間でもあられたという調和を見ます。
私にはこの調和を理性で理解することはできません。
聖書に書かれている通りのことが、啓示された真理として受け入れるのみです。
主でさえも祈りが必要ならば、私たちは尚更のはずです。
「一人で」「山に登る」
そこで下界の騒がしさから離れて、神と語らう祈りの時間が必要とされます。
❸平穏さの隔たり
主は苦闘している弟子たちのところにまで、
波の上を歩いて近づかれます。
人影を見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と錯覚し、
恐怖のあまり「叫び声まで上げた」とあります。
漁師という波の上のプロ集団が、
そこまで取り乱してしまうのも滑稽な話です。
主はしっかりとした声で「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
水や湖、全世界を創造されたお方は、
嵐を瞬時に鎮めることもおできになられますから恐、れるはずはありません。
その平静さと確信の高嶺におられる主を前にして、
ペテロが口出しをします。
「私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(28)。
彼らしい野望が、この言葉の中に見て取れます。
「自分は怯え切っているが、平然とした主のように嵐の波の上を歩いて見たい」
そんな心中は決して軽んぜられるものでありません。
それは聖なる野望ともいうべき、褒められる挑戦でした。
主も同意されて「来なさい」と、彼を招かれました。
私たちも己の実態が、試練の前に揺れ動く小さなものであるのを知る時、
信仰の高嶺への一歩を勇気を持って踏み出そうではありませんか。
それは未経験の一歩であるやもしれません。
しかしながら、「主のように歩みたい」との野望を持って、
挑戦し続けようではないですか。
お気に入りの娘のドレスもこの通り、黒の斑点が、、、、
この日帰宅するなり、突然非難の声を轟々と浴びせられました。
「あなたのした洗濯に、ハッピーになれないわ!」
家内からも子供たちからも次々に、廃棄物となった彼らの衣服を見せ付けられました。
「一体どうしたんだ? 何があったというんだ?」
状況を飲み込むまで、しばらくのときが必要でした。
たいてい洗濯機を回すのは家内の役目。
かつて色物と白物を混ぜて洗濯してしまい、
白い彼女のドレスにも色を付着させた経験のある私は、
洗濯仕事を首にさせられていたのでした。
区別して洗えばいいんだろう、と分かったつもりになって洗濯機を回したのでしたが、
どういうわけか、黒の斑点がすべての洗濯物に生れています。
家内は洗濯機の底に、
キャップが取れて中身のインクのなくなったボールペンを発見したのだそうです。
私のハーフパンツに忍ばせておいたボールペンのインクが斑点の犯人だったというわけです。
「私のお気に入りのドレスを全部駄目にしてくれたわ!」
「お買い物に連れて行って、それで新しい、もっと良いものを買ってくれるよね!!」
と、娘から厳しいお言葉の数々。。
トホホ、、、
洗濯道も奥が深いものです。
明日から3日間の休日が始まります。
メモリアル・ウイークエンドです。
これが過ぎると、シアトルは夏の季節となります。
この日オリンピアまで行ったのですが、途中、何度も渋滞に巻き込まれました。
すでに仕事を終えた人々が、南部のオレゴン州方面へ旅行へ出かけているためいつもの倍ほどの交通量です。
夕刻のシアトル方面への帰り道がどれほど渋滞となるか、恐怖を感じました。
その日のうちに我が家に着けるだろうか、と。
蓋を開けてみれば、いつもより半分ほどの交通量しかなくて、どこも渋滞なしでした。
都会部からは、人が抜け出しているようです。
Twin Falls へハイキングへ行ったときのもの
日本での滞在のほとんどは山形県での生活となります。
そこで子供たちは地元の公立小学校へ体験入学をするのです。
今年もそのための折衝がその小学校とすでに始まりました。
長男は4年生。長女は6年生のクラスでお世話となります。
1年ぶりにお会いするクラスメイトや先生方との再会を今から楽しみにしています。
同時に、高温高湿度の毎日、長距離を徒歩通学するのにビビッています。
AAAオフィスの隣にハーレー・ダビットソンの店があります。
ここで弟のためのお土産を買うのも毎年恒例となっている行事。
この初夏のシーズン、毎年恒例となっていることがあります。
日本渡航前に、国際免許を取得することです。
AAAオフィスで完了できる、その手続きの簡潔さに当初は拍子抜けしました。
1枚の申請用紙に記入して、運転免許証を見せるだけ。
写真もその場で撮影してもらえます。
トータルでも10分~15分ほどで完了します。
3時間は必要な日本の場合と比べて、この簡易さは感動ものです。
この手続きを終えると、日本行きがさらに現実感を帯びて感じられるようになります。
シアトルでもファンキー色の強い町、フリーモントへ行ってきました。
巨大なおっさんが歩き出している像がこの町を代表しているモニュメント。
その足元で、保育園児たちが休んでいるのが朗らかでした。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew
「5千人の給食」
マタイ14章13~ 21節
~マタイ福音書連続講解説教37~
主はヨハネの殉教を知られ、ご自身の最期が近いこと認識されました。
そこであと残されている1年間の地上生涯を弟子訓練に集中されるようになります。
人々との応対に追われたいた都会のカペナウムを離れて、「寂しいところ」(13)へ行かれたのには、そのような文脈がありました。
ガリラヤ湖対岸へイエスと12弟子が舟で渡られるのですが、その上陸場所が伝承から特定されていて、現在では教会堂が建てられています。
その床にパンと魚のあるモザイク画があることで有名で、聖地旅行では逃せられない訪問地の一つとなっています。
カペナウムから徒歩で30ー40分程の距離ですから、聖書記述通りに、沖に出た舟を肉眼で確認しながら湖岸を歩いてそこまで先行することも可能でした。
舟から上がられた主がご覧になられた群衆とは、「羊飼いのいない羊」(マルコ6:34)の姿でした。
真の指導者に恵まれなかった当世の人々は、聖書の預言を正しく教えられずにメシアを拒絶して、やがてローマ戦争により世界離散への運命を辿るのです。
主は、内臓が突き動かされるような深いあわれみ(スプランクニゾマイ)をお感じになられ、人々を教えられ、また病を癒されます。
時に夕闇が迫り、群衆を解散させねばなりません。
ここから本格的な弟子訓練の始まりです。
「あなた方であの人たちに何か食べるものを上げなさい」と弟子たちに言われます。
自分たちに差し出す何があるか弟子たちの間で相談が始まり、
さらに人々からも提供を求めました。
すると、一人の男の子が自身の弁当を差し出したのです。
それは貧しい庶民の典型的携帯食で、大麦の乾パン5つと、2匹の干し魚でした。
「それをここに持ってきなさい」と言われた主は、
そのパンを取り上げて感謝を捧げると、それを割いて弟子たちに渡しました。
弟子たちはあらかじめ組ごとに別れている群衆に配ると、
男だけで5千人もいた大群落が満腹したというのです。
ここで、どうしてその男の子の弁当が差し出されたのか考えて見ましょう。
先述の距離を歩けることからして、男の子は10歳前後以上の年齢であったと思われます。
弁当持参していたのは他にもたくさんいたはず。彼らが差し出せなかった理由に、
弟子たちと同様の理性が働いていたと考えられます。
つまり、「これが一体、何の役に立てるのか」というもの。
一万人以上の空腹という需要の前に、
一人分の弁当は大洋の一雫、焼け石に水でしかない。
その理性や計算はこの男の子にも出来たはずです。
それにも勝る何かをこの子は持っていた。
それがこの子をして自らの弁当を差し出すこととなったです。
では、その「何か」とはなんでしょうか。
主イエスのあわれみ深い働きぶり、そのお話や癒しの奇跡を目撃して、
この子には感じるところがあったと考えられます。
主が食物を探しておられる。
この子にとって、それだけの理由で充分であったのです。
無駄となるかどうかは自分の知ったことではない。
主イエスの求めに応じたかった。
自分の弁当が役に立つと主がお考えなら、
それを主のもとに持って行き、捧げたかったのです。
主はそれを喜んで受け入れられ、祝福して、何倍にもして用いられました。
私たちの手にしている資源も限りあるものです。
自分の経済力、賜物、時間、、、どれも大きな世界の需要の前にあまりに無力に見えるものです。
主のお声を聞く時に、私たちはその小さなものを主のもとに持って行きたいのです。
ポートランドで感心してしまう高速道路設計は、地面に引っ付いてなく、空中高くにせり出していることです。
これにより街は寸断されることないし、またローカル道路とのアクセスもスムーズ。
ダウンタウンが卵形に二つの高速道路で包まれてます。
その高架橋からの眺めも良いものです。
市街地のどこからでも数分とかからずに、その卵の外輪である高速道路にアクセスすればシアトルまでは3時間を一直線に走るだけ。
このときは睡魔に襲われることもなく、パトカーに追いかけられることもなく、
無事に我が家に到着できて感謝。
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