ガリラヤ湖上での弟子訓練
5月
26日
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「湖上での弟子訓練」
マタイ14章22~ 36節
~マタイ福音書連続講解説教37~
マタイ14章は、主イエスによる弟子訓練が記されています。
その14章冒頭ではバプテスマのヨハネの斬首事件があり、
これを期に弟子たちへの教えから訓練へと、主の働きの主眼が変えられて行きます。
先回の14章半ばは、5千人の給食の奇蹟で、これは弟子たちの丘の上での訓練でした。
今回の14章終盤は、主イエスの湖上歩行の奇蹟として、これは弟子たちへの湖上での訓練となりました。
主と弟子たちとの間には大きな隔たりがあります。
弟子訓練とは、その隔たりを幾分かでも埋めようとの営みとも言えます。
主と弟子たちとの間には、どのような隔たりがあったのでしょうか。
❶ゴールの隔たり。
空腹の1万人以上になる男女を5つのパンと2匹の魚から満腹にした主の奇蹟は、
大きなインパクトを人々に与えました。
食糧問題を瞬時に解決されるメシアとして群衆は大歓迎し、
王として即位させようと計ったのも自然の成り行きです。
弟子たちも「時、到来」とばかりにこれに同調し、
旧約聖書が預言しているメシアによるエルサレムからの世界統治が実現されると、
興奮の渦に巻き込まれて行ったのです。
それが彼らの目標(ゴール)であったわけですが、
それは地上的・物質的な願望に色濃く染められたものでした。
主はそんな彼らを無理矢理に解散させ、
弟子達には強いて舟に乗り込ませて帰途に就かせたのでした。
主のゴールは十字架による罪の贖いの成就であり、
それによって人々の罪の問題を解決されることにありました。
苦難のメシアとして死に向かわれたのです。
その先に勝利者として地上にやがて凱旋され、
メシア王国を樹立されることになります。
❷苦難に対する隔たり
弟子たちを乗せた舟は、間も無く嵐に襲われました。
8時間ほども波・風と格闘しながら漕ぎ続けます。
肉体の疲労と目的地に辿り着けない挫折感の中で、
信仰も弱って行ったことが想像されます。
「主のお言葉通りに舟を出したばかりにこんなことになって、、、
一体どうしてくれるんだ!?」
そんなつぶやきが聞こえてきそうです。
一方その時、主はお一人で山におられました。
「祈るために」(14:23)とあります。
主は霊的な苦闘の中を通られておられました。
同時に、父なる神との慕わしい甘美な時を過ごされていたのです。
センセーショナルな群衆の期待にも流されることなく、
与えられている使命の道を完遂するためには、
神御自身であられるメシアでさえも、祈りの時間が必要とされたのです。
ここに、完全な神であられたお方は、
同時に完全な人間でもあられたという調和を見ます。
私にはこの調和を理性で理解することはできません。
聖書に書かれている通りのことが、啓示された真理として受け入れるのみです。
主でさえも祈りが必要ならば、私たちは尚更のはずです。
「一人で」「山に登る」
そこで下界の騒がしさから離れて、神と語らう祈りの時間が必要とされます。
❸平穏さの隔たり
主は苦闘している弟子たちのところにまで、
波の上を歩いて近づかれます。
人影を見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と錯覚し、
恐怖のあまり「叫び声まで上げた」とあります。
漁師という波の上のプロ集団が、
そこまで取り乱してしまうのも滑稽な話です。
主はしっかりとした声で「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
水や湖、全世界を創造されたお方は、
嵐を瞬時に鎮めることもおできになられますから恐、れるはずはありません。
その平静さと確信の高嶺におられる主を前にして、
ペテロが口出しをします。
「私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(28)。
彼らしい野望が、この言葉の中に見て取れます。
「自分は怯え切っているが、平然とした主のように嵐の波の上を歩いて見たい」
そんな心中は決して軽んぜられるものでありません。
それは聖なる野望ともいうべき、褒められる挑戦でした。
主も同意されて「来なさい」と、彼を招かれました。
私たちも己の実態が、試練の前に揺れ動く小さなものであるのを知る時、
信仰の高嶺への一歩を勇気を持って踏み出そうではありませんか。
それは未経験の一歩であるやもしれません。
しかしながら、「主のように歩みたい」との野望を持って、
挑戦し続けようではないですか。