お気に入りの娘のドレスもこの通り、黒の斑点が、、、、
この日帰宅するなり、突然非難の声を轟々と浴びせられました。
「あなたのした洗濯に、ハッピーになれないわ!」
家内からも子供たちからも次々に、廃棄物となった彼らの衣服を見せ付けられました。
「一体どうしたんだ? 何があったというんだ?」
状況を飲み込むまで、しばらくのときが必要でした。
たいてい洗濯機を回すのは家内の役目。
かつて色物と白物を混ぜて洗濯してしまい、
白い彼女のドレスにも色を付着させた経験のある私は、
洗濯仕事を首にさせられていたのでした。
区別して洗えばいいんだろう、と分かったつもりになって洗濯機を回したのでしたが、
どういうわけか、黒の斑点がすべての洗濯物に生れています。
家内は洗濯機の底に、
キャップが取れて中身のインクのなくなったボールペンを発見したのだそうです。
私のハーフパンツに忍ばせておいたボールペンのインクが斑点の犯人だったというわけです。
「私のお気に入りのドレスを全部駄目にしてくれたわ!」
「お買い物に連れて行って、それで新しい、もっと良いものを買ってくれるよね!!」
と、娘から厳しいお言葉の数々。。
トホホ、、、
洗濯道も奥が深いものです。
明日から3日間の休日が始まります。
メモリアル・ウイークエンドです。
これが過ぎると、シアトルは夏の季節となります。
この日オリンピアまで行ったのですが、途中、何度も渋滞に巻き込まれました。
すでに仕事を終えた人々が、南部のオレゴン州方面へ旅行へ出かけているためいつもの倍ほどの交通量です。
夕刻のシアトル方面への帰り道がどれほど渋滞となるか、恐怖を感じました。
その日のうちに我が家に着けるだろうか、と。
蓋を開けてみれば、いつもより半分ほどの交通量しかなくて、どこも渋滞なしでした。
都会部からは、人が抜け出しているようです。
Twin Falls へハイキングへ行ったときのもの
日本での滞在のほとんどは山形県での生活となります。
そこで子供たちは地元の公立小学校へ体験入学をするのです。
今年もそのための折衝がその小学校とすでに始まりました。
長男は4年生。長女は6年生のクラスでお世話となります。
1年ぶりにお会いするクラスメイトや先生方との再会を今から楽しみにしています。
同時に、高温高湿度の毎日、長距離を徒歩通学するのにビビッています。
AAAオフィスの隣にハーレー・ダビットソンの店があります。
ここで弟のためのお土産を買うのも毎年恒例となっている行事。
この初夏のシーズン、毎年恒例となっていることがあります。
日本渡航前に、国際免許を取得することです。
AAAオフィスで完了できる、その手続きの簡潔さに当初は拍子抜けしました。
1枚の申請用紙に記入して、運転免許証を見せるだけ。
写真もその場で撮影してもらえます。
トータルでも10分~15分ほどで完了します。
3時間は必要な日本の場合と比べて、この簡易さは感動ものです。
この手続きを終えると、日本行きがさらに現実感を帯びて感じられるようになります。
シアトルでもファンキー色の強い町、フリーモントへ行ってきました。
巨大なおっさんが歩き出している像がこの町を代表しているモニュメント。
その足元で、保育園児たちが休んでいるのが朗らかでした。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew
「5千人の給食」
マタイ14章13~ 21節
~マタイ福音書連続講解説教37~
主はヨハネの殉教を知られ、ご自身の最期が近いこと認識されました。
そこであと残されている1年間の地上生涯を弟子訓練に集中されるようになります。
人々との応対に追われたいた都会のカペナウムを離れて、「寂しいところ」(13)へ行かれたのには、そのような文脈がありました。
ガリラヤ湖対岸へイエスと12弟子が舟で渡られるのですが、その上陸場所が伝承から特定されていて、現在では教会堂が建てられています。
その床にパンと魚のあるモザイク画があることで有名で、聖地旅行では逃せられない訪問地の一つとなっています。
カペナウムから徒歩で30ー40分程の距離ですから、聖書記述通りに、沖に出た舟を肉眼で確認しながら湖岸を歩いてそこまで先行することも可能でした。
舟から上がられた主がご覧になられた群衆とは、「羊飼いのいない羊」(マルコ6:34)の姿でした。
真の指導者に恵まれなかった当世の人々は、聖書の預言を正しく教えられずにメシアを拒絶して、やがてローマ戦争により世界離散への運命を辿るのです。
主は、内臓が突き動かされるような深いあわれみ(スプランクニゾマイ)をお感じになられ、人々を教えられ、また病を癒されます。
時に夕闇が迫り、群衆を解散させねばなりません。
ここから本格的な弟子訓練の始まりです。
「あなた方であの人たちに何か食べるものを上げなさい」と弟子たちに言われます。
自分たちに差し出す何があるか弟子たちの間で相談が始まり、
さらに人々からも提供を求めました。
すると、一人の男の子が自身の弁当を差し出したのです。
それは貧しい庶民の典型的携帯食で、大麦の乾パン5つと、2匹の干し魚でした。
「それをここに持ってきなさい」と言われた主は、
そのパンを取り上げて感謝を捧げると、それを割いて弟子たちに渡しました。
弟子たちはあらかじめ組ごとに別れている群衆に配ると、
男だけで5千人もいた大群落が満腹したというのです。
ここで、どうしてその男の子の弁当が差し出されたのか考えて見ましょう。
先述の距離を歩けることからして、男の子は10歳前後以上の年齢であったと思われます。
弁当持参していたのは他にもたくさんいたはず。彼らが差し出せなかった理由に、
弟子たちと同様の理性が働いていたと考えられます。
つまり、「これが一体、何の役に立てるのか」というもの。
一万人以上の空腹という需要の前に、
一人分の弁当は大洋の一雫、焼け石に水でしかない。
その理性や計算はこの男の子にも出来たはずです。
それにも勝る何かをこの子は持っていた。
それがこの子をして自らの弁当を差し出すこととなったです。
では、その「何か」とはなんでしょうか。
主イエスのあわれみ深い働きぶり、そのお話や癒しの奇跡を目撃して、
この子には感じるところがあったと考えられます。
主が食物を探しておられる。
この子にとって、それだけの理由で充分であったのです。
無駄となるかどうかは自分の知ったことではない。
主イエスの求めに応じたかった。
自分の弁当が役に立つと主がお考えなら、
それを主のもとに持って行き、捧げたかったのです。
主はそれを喜んで受け入れられ、祝福して、何倍にもして用いられました。
私たちの手にしている資源も限りあるものです。
自分の経済力、賜物、時間、、、どれも大きな世界の需要の前にあまりに無力に見えるものです。
主のお声を聞く時に、私たちはその小さなものを主のもとに持って行きたいのです。
ポートランドで感心してしまう高速道路設計は、地面に引っ付いてなく、空中高くにせり出していることです。
これにより街は寸断されることないし、またローカル道路とのアクセスもスムーズ。
ダウンタウンが卵形に二つの高速道路で包まれてます。
その高架橋からの眺めも良いものです。
市街地のどこからでも数分とかからずに、その卵の外輪である高速道路にアクセスすればシアトルまでは3時間を一直線に走るだけ。
このときは睡魔に襲われることもなく、パトカーに追いかけられることもなく、
無事に我が家に到着できて感謝。
ポートランド中心地から10分ほど北に進んだところにある、
Mississippi通りで珍しいものを発見しました。
移動式屋台。
いや、リヤカーではなく、トラックのようでそうでないような、へんてこな車がバーとなってたんです。
その車が現れたと思いきや、私の目の前で客が乗り込んで、酒盛りが始まってました。
それも道のど真ん中で。
キャー、こんなのありですか?
ポートランドはエコの町です。
環境にやさしく、自動車運転も市民が控えるようにあの手この手を使います。
その代表がこのストリートカー。
ダウンタウンでは車と同じ車線を走り、郊外では専用線路を走ります。
ダウンタウン内では無料で、自転車も持ち込めるのですから、ここへの通勤には理想的です。
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