ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:
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「タラントのたとえ」
マタイ 25 章 14~30 節
~マタイ福音書連続講解説教 93~
マタイ 24章は、終末時代に関する主イエスの教説 であり、
世界の終り、携挙、再臨、千年王国についての預言が満載されていました。
続く25章では、3つのたとえ話が主によって語られていますが、
それを理解するためには、
24章との関連の中で
終末時代に限定されている時代設定であることを抑えねばなりません。
聖書文脈を無視してある特定箇所取り上げ、
私的に解釈してはなりません。
本日の箇所では、「忠実なしもべ」とは誰かを教えています。
それは、
①主人の帰りを待っているものである
②与えられた仕事に励んでいるものである
③主人の心を知っていたものである
文脈から旅に出た主人とは、地上から天へと帰っていかれる主イエスであり、
その主人が帰って来る時とは、主が地上に再臨される時であるのがわかります。
3人のしもべたちにそれぞれ異なるタラント授け、
帰還した主人はどれだけ商売で儲けたかの報告を受けます。
最大の5タラントを儲けたしもべを最大評価し、
何も儲けなかったしもべからは元金の1タラントをも取り上げています。
一見すると、どれだけ収益を上げているかが
主人の評価基準のように見受けられるのです。
伝道や宣教の成果でやがて評価され、改心者を一人も得なかった者は
「外の暗闇に追い出しなさい」(30節)と捨てられてしまう……恐ろしい話です。
それが本当であるなら私など天国へ入れる希望はありません!
しかし、嬉しいことに天国への入国審査は
どれだけの働きをしたかによらないで、
信仰の有る無しというのが聖書の一貫したメッセージです。
そう、唯一の救いのための条件は、信仰です。
それならここのたとえ話はどの様に解釈するのでしょう?
主が結論として言われた29節に注目です。
「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、
持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」
神の国の原則(29)
「持っているものは、さらに与えられて豊かになる 」というのは、
神の国の原則です。
現在経済界で流行っている
「資本主義が進むと貧者と富者の二分化が進み、格差が広がって行く」
というのと似ているかもしれません。
それならそんな原則を保つ神は不公平ではないか、
何ていう声も聞こえて来そうです。
そこで注意深く学んでみましょう。
①「持っている者」とは、忠実なしもべたちのことです。
②「さらに与えられるもの」とは、将来受け継ぐ千年王国です。
③さらに現在においては、聖霊が結ばせてくださる実であると言えます。
(ガラテヤ 5:22~23)
ここで「持っている者」とは
果たして何を持っているのかを解明せねばなりません。それは、
①主の言葉に対する信頼です。
主人が帰って来るという言葉を信じ、
たといその時期が分からずとも、帰還を期待して待ちました。
②主との愛の関係 です。
主人不在の間、どうして忠実に働いて
期待されていた成果を上げることが出来たのでしょうか。
主人が恐かったのですか?
3人目の働きもしなかったしもべの言葉はこうです。
「ご主人様。あなたは、蒔かないところから刈り取り、
散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました」(24節)。
この人には正しい主人理解がないばかりか、
信頼関係がないことが分かります。
働いて成果を上げた1番目、2番目との対照的な相違です。
つまり「持っていた」とは、信仰を持っていたと言えます。
③一方、持たない者は、
「持っているものまでも取り上げられる」 とありましたが、
これは
@現世での天与の賜物 がやがての審判で取り上げられる。
@千年王国での相続地はなく、火の池に投げ込まれる(30)
@つまり「持たないもの」とは、不信者のことです。
主の言葉を聞いてもそれを受け入れようとはしないで、
己が道を突き進もうとする人たちの厳粛な最期の姿が描かれています。
結論 として「信仰」と「行為」の関係について 考察しましょう。
救いについて=千年王国を相続するための条件は何か
それは、忠実な働きぶりであるとたとえ話から教えられることがありますが、見事な誤解 です。
主人の心を知り、これに応えたいとする愛の動機が
しもべをして5タラント、2タラントを稼ぐ働きにつながったのです。
=そこは、信仰が先にあったゆえの働きであったのを見落としてはなりません。
「主人の喜びをともに喜んでくれ」(21,23)。
主人はリターンを喜んでいるのではなく、
信頼と愛とを失わなかったしもべたちを喜んでいると言えます。
それなら救いを一旦得たのなら、
良い行為はなおざりにしても構わないのか?
清算時に行為に応じた報酬があることを教えています。
救い自体は失われないが、
与えられている賜物をどのように生かしてきたかは、
メシアの審判の前で問われる時が来ることも教えています。
野山獄跡
野山獄に繋がれている松陰はだいぶご機嫌らしい。
この若者にとっては、塞ぎこむということがないらしい。
天命の中にいるなら、
天が何時も自分を味方に着いてくれると楽観している。
それゆえ鎖国破りの国禁も屁のカッパ。
獄につながれていようとも、その魂は未知の世界をすでに逍遥している。
先達の囚人を捕まえてはそれぞれの得意分野を見つけ出し、
互いに教授となって授業を始めてしまった…
聖書の教えている「創造者」なる方は人格を持った生ける神であるが
それほどの認識までは進んでいないものの、
当時の志士たちも儒教的な「天」を論じる時、
信仰を抱いていたらしいことを司馬さんは次のように書いている。
……………………………………
「この時代、読書人たちはみな天という概念の信者であった。
天とは絶対者というべきであろう。
さらにいえば、松陰らの教養である朱子学にあっては
宇宙のげんりそのものを天といい、
人生もまた天という大いなる原理の中につつみこまれていた。
松陰はようやく天の意思を感じた。」
……………………………………………
ペリー艦隊での密航が失敗に終わってしまったことが惜しまれてならない。
もし成功して外国の諸事情を吸収して帰国出来ていたら………
そのような「もし」があてがわれる惜しい人材が
次々に死を遂げて逝ってしまった革命期。
松陰は鎖国日本の閉ざされた情報管理社会の中で
「天」に対する信仰に生きたが、
もし聖書の真理に接する機会が与えられたなら
人格的な「天」に帰依していたと言っていいと考えます。
ナイフで斬首するとは残忍で卑劣極まりない蛮行だ。
「人間のすることとはおもえない」との某大臣がコメントしたが、
どんな言葉をもってしても十分に糾弾出来そうにないほどの残虐非道さに怒りを覚えます。
だが、その凶行を「イスラム国が常軌を逸したテロ集団だから出来るんだ」
と帰着させるのには無理がある。
人間は宗教による洗脳理由以外にも、
殺人鬼となり得る恐ろしい生き物であるらしい。
ルワンダで、斧を振るって数十万人が虐殺されたのは10年程前だった。
殺人者は普通の人達であり、
それまで顔見知りの村人を所属民族が違うというだけで
レイプ、手足切断、斬首、、、悪鬼になったのだった。
我々日本人も同様で、悪鬼に変貌して来た歴史を持つ。
先の大戦で捕虜を日本刀で斬首したり、
槍で刺し殺したりした。
この2月5日は
長崎の西の丘にて26人のキリシタンが磔刑にされた記念日であった。
秀吉は、両耳と鼻を削げと命じたが
奉行の石田三成は片耳だけを削いで京都市中を引き回して見世物にした。
真冬の厳寒期に彼らを長崎まである歩かせた上で処刑。
その一行には、12歳、13歳の少年がいたという。
徳川期入って鎖国が完成すると
キリシタン迫害は組織的に、熾烈さを増していく。
雲仙の熱湯を生身の人間に注ぐとは、、、
これこそ人間の出来ることではなかろう。
日本人だけが常識を備えた、
平和と調和を重んじる民だと自惚れることは出来ない。
…………………………………………………
人権意識が広く行き渡っている現代に
イスラム国の非道さが驚愕をもって非難されている。
その信奉しているところのものは中世にあった価値観であるようだ。
欧州社会が幾たびの戦乱を超えて培ってきた原理
ー政教分離の原則ーこれが通用しないのである。
西欧型民主主義とイスラム原理主義との戦いとは、
現代型人権主義と中世にあった政教一致主義との
相克であると言えるのではなかろうか?
東海岸のニュージャージー
サクラメントのパフォーマンスセンター
ここのところ、米国東海岸では大寒波の襲来。
ドライブウエイの雪かきを朝の6時半から励んで出勤しているFB友人がいます。
西海岸のワシントン州とオレゴン州では豪雨と強風の嵐が吹き荒れています。
自宅に張り出している隣の敷地の大木は
その強風で枝払いが進んで半分ほどの大きさになったらしいです。
そんな嵐の中、家内はサッカーの試合があり、
もちろんずぶ濡れで帰ってきました。夜の9時過ぎに。
ご苦労様でございます。
カリフォルニアのサクラメントでは、申し訳ないことに快晴が続いています。
気温も穏やかで、春のような陽気です。
冬季のシアトルは毎日が雨模様ですから、
ここでは良い具合に息抜きとなります。
ついに松陰は野山獄での囚人生活を送ることになる。
同僚の金子が死に瀕していること以外、この若者を気落ちさせるものはなかった。
天性の楽天家か?
人の善性を疑わなかった分だけ、
他人の懐に飛び込んでは幽閉生活を快活なものに創り上げてしまう。
そんな稀に見る気質は母親譲りかも知れない。
ドラマでも、事あるごとに「世話ない」と決まり文句を放つ彼女の屈託なさが目立つ。
松陰の身を案じてオロオロする家族の中にあって
母親だけは笑顔を崩さず悲観しないのは、
痴呆かと思える程である。
司馬遼太郎は天真爛漫な松陰をこんな風に描いている。
「この若者のほとんど生まれつきといえる奇妙さは、事態が悪化し、豪雨の前の空のように陰々として暗くなればなるほど、その密雲の上の固有の蒼天をおもうらしい。
むろんたれの目にも見えないが、松陰の目には網膜が青く染まるほどのあざやかさでおもうようであった。」
〜「世に棲む日日」の「空の青」から〜
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