日本バプテスト教会にて中本卓志 さんのメモリアルサーヴィスがありまして、
行ってきました。
中本さんとは、シアトルオーナー会に私が所属するようになって
4年ほどのお付き合いだったと記憶します。
長年、シアトル日本語補習校の校長として活躍され、
多くの人たちに親しまれて来られた方でした。
サーヴィスは、そんな中本さんのお人柄が良く映し出されたような、
アットホームにさせられる和やかな時となりました。
弔辞では、大企業の商社マンとして
イエメン駐在時のご苦労を分かち合われたご同僚の方が立たれ、
中本氏がその不便と孤独の中を、いかに堅忍不抜の意志もって貫かれて来られたかを語って下さいました。
一方で、柔和な笑顔が一瞬で相手を味方に引き寄せてしまう、
その温和で包容力あるお人柄については、
中本氏とお会いする誰もが認めるところで、口々に語られていました。
エバーグリーン・グリー・クラブという
日本人男性コーラスにも属しておられた氏を偲んで、
同クラブが合唱された
箱根の山、ふるさと、君といつまでも、の3曲は良かったです。
特に氏の愛唱歌であったという、
君といつまでもの熱唱には涙を禁じえませんでした。
まだまだこれからも活躍できたお年でありましたのに、
地上での一時の別れであると知りつつも、さびしい限りです。
中本さん、もはや病の痛みも恐れもない神様のところで
平安に包まれゆっくりとお休みください。
テルアビブの夕焼け。
地中海に沈む夕陽は、聖書時代から変わらない景色。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1314694
「最も小さいものたちのひとりに」
マタイ25章31~46節
~マタイ福音書連続講解説教94~
「まことに、あなた方に告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。」(25:40)
今回の聖書個所も多くの場合、誤解されて解釈されてきました。
「最も小さな者たち」である、
貧者や病人、旅人や牢獄にある人たちに対する援助をするのは
神に対する奉仕であり、
その善行いかんによって救いが決定されてしまうと誤解されやすいのです。
最後の46節に
「この人たちは永遠の刑罰に入り、
正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」
とあることからしても、一見するとそのような善行が
神の裁きの判断材料となると受け止められやすいのです。
私がこの個所を高校時代に初めて読んだ時もそのように受け止めていました。
トルストイの書いた「靴屋のマルチン」にあるように、
知らずに困っていた少年や老婆を助けたマルチンが、
実は神ご自身に奉仕していたという物語と重なって読めました。
しかし、正しい聖書理解は文脈を捉えなくはならないという大原則を
ここでも強調しないわけにはいきません。
1)マタイ25章は3つのたとえ話から、
終末時代の教えを授かった者たちへの適用を教えているところです。
1.十人の娘のたとえ
2.タラントのたとえ
3.羊と山羊とを選り分けるたとえ
2)それぞれのたとえ話での中心となるポイントは、
1.聖霊を宿しているか?
2.タラントを活用しているか?
3.迫害に耐えたか?
これらのたとえ話は、
主イエスの携挙から始まる再臨を舞台にした神の裁きであり、
その時二つの結果を生む選り分けが行われると教えるものです。
よって、現在の教会時代にそのまま当てはめて、
貧者や病人たちの困窮者たちを助けることが
天国への条件のように解釈してはならないのです。
31節にある本たとえ話の導入部をご覧ください。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、
人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます」
ここを読んだだけでも主イエスが地上再臨された後に
行われる裁きが教えられているのが分かります。
1)地上再臨の時に行われる裁き
①大艱難時代においては「戸口まで近づいていた人の子」(24:33)
②ついに地上に立たれる(黙示19:11~15)
③裁きは再臨から千年王国樹立までの
75日間のインターバル時に行われる(ダニエル12:12~13)
2)栄光の位に着く
①エルサレム神殿において世界の王として着座する
②その時にダビデ契約が成就する・
永遠の王座、王朝、王国が一人のメシアによって確立
裁きの内容を見てみましょう
1)全ての異邦人に対する裁き
①大艱難時代を生き残った異邦人が全世界に存在している
②彼らはエルサレムに集められ、メシアの前に立つ
2)裁きにおいて二分される全世界の民
①ご自分の右に置いた羊-
千年王国を受け継ぐ。つまりそのまま地上での生存が許されます。
②ご自分の左に置いた山羊―永遠の刑罰に入る。
正確にはハデス(シェオール)という苦しみの場所に死んで移される。
3)裁きの基準点はどこにあるのか
①「最も小さなものたち」=「わたし・イエス様」をどう扱ったか?
②「わたし」が置かれた状況ゆえに「最も小さなもの」であった
空腹、渇き、旅人、裸、病気、獄中にある人たち
大患難時代の特殊環境を黙示録から理解せねばなりません。
その時には、反キリストの世界統一政府による組織的なキリスト信者や
ユダヤ人への迫害・撲滅運動が激しく展開されているのです。
その時に彼らをかくまい、助ける人たちが起こされます。
それは反キリストを神と認めない信仰ゆえに、
迫害のリスクを冒しながらその「最も小さな人たち」を助けるのです。
一方、彼らの窮状を目撃しながらも助けなかった人たちは、
親切心がなかったのではなく
主イエスへの信仰がなかったゆえにしなかったのです。
彼ら不信者たちは、
①反キリストの世界統一政権側の立場についた人たちである
②666の刻印を受けた人々である
大患難時代においては、
主イエスへの信者・不信者に全人間が二分されていく特殊な時代となります。
その結果は、主イエスの再臨時に明らかとなります。
ランチはソーテルにあるカレーハウス。
ここのカレーは日本食と言って良いほど美味い上にリーゾナブル。
ランチメニューはデザートまで付いてきた。
7年ぶりの旧友達との再会です。
ほとんどの方々は継続して同じお店においでになられていて
私のことを覚えていてくれていました。
友人には日本人、韓国人、ベトナム人、米国人、、、
いろいろいらっしゃいます。
どうしてもお名前を思い出せない方もいて、
密かにフロントまで行ったりして聞き出したりもしました。
元気に励んでいらっしゃる姿をお見受けできてとても嬉しく感じました。
お互い7年間の積もり積もった話が始まると終わるところがなく、
どうしても次の訪問先のために切り上げるのが辛かったです。
5人ほどの仲良しグループがいたあるお店はすでに解散していて、
それぞれがバラバラとなって近隣のお店に散っていたり、
「歳月は人を待たず」とは良く言ったもので、
歳を感じさせる方、
引退した方、
子供さんに引き継がせた方、
いろいろです。
ロスアンゼルスにお住いの高校同級生たちと夕食を共にしました。
まりこさんとは高校時代には面識なく
今回お会いするのは初めてです。
ソーテルという日本人界隈にある、日本食レストランにて。
お住いの所から1時間以上もかけてお越しくださって、まりこさんありがとう!
当時の学校生活や渡米に至った経緯やらを交換しながら話に花が咲き続け
気が付けば4時間ほどが飛び去ってました。
まりこさん、
次回の同窓会は高校時代には短期留学したというシアトルでどうでしょう?
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1143093
「タラントのたとえ」
マタイ 25 章 14~30 節
~マタイ福音書連続講解説教 93~
マタイ 24章は、終末時代に関する主イエスの教説 であり、
世界の終り、携挙、再臨、千年王国についての預言が満載されていました。
続く25章では、3つのたとえ話が主によって語られていますが、
それを理解するためには、
24章との関連の中で
終末時代に限定されている時代設定であることを抑えねばなりません。
聖書文脈を無視してある特定箇所取り上げ、
私的に解釈してはなりません。
本日の箇所では、「忠実なしもべ」とは誰かを教えています。
それは、
①主人の帰りを待っているものである
②与えられた仕事に励んでいるものである
③主人の心を知っていたものである
文脈から旅に出た主人とは、地上から天へと帰っていかれる主イエスであり、
その主人が帰って来る時とは、主が地上に再臨される時であるのがわかります。
3人のしもべたちにそれぞれ異なるタラント授け、
帰還した主人はどれだけ商売で儲けたかの報告を受けます。
最大の5タラントを儲けたしもべを最大評価し、
何も儲けなかったしもべからは元金の1タラントをも取り上げています。
一見すると、どれだけ収益を上げているかが
主人の評価基準のように見受けられるのです。
伝道や宣教の成果でやがて評価され、改心者を一人も得なかった者は
「外の暗闇に追い出しなさい」(30節)と捨てられてしまう……恐ろしい話です。
それが本当であるなら私など天国へ入れる希望はありません!
しかし、嬉しいことに天国への入国審査は
どれだけの働きをしたかによらないで、
信仰の有る無しというのが聖書の一貫したメッセージです。
そう、唯一の救いのための条件は、信仰です。
それならここのたとえ話はどの様に解釈するのでしょう?
主が結論として言われた29節に注目です。
「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、
持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」
神の国の原則(29)
「持っているものは、さらに与えられて豊かになる 」というのは、
神の国の原則です。
現在経済界で流行っている
「資本主義が進むと貧者と富者の二分化が進み、格差が広がって行く」
というのと似ているかもしれません。
それならそんな原則を保つ神は不公平ではないか、
何ていう声も聞こえて来そうです。
そこで注意深く学んでみましょう。
①「持っている者」とは、忠実なしもべたちのことです。
②「さらに与えられるもの」とは、将来受け継ぐ千年王国です。
③さらに現在においては、聖霊が結ばせてくださる実であると言えます。
(ガラテヤ 5:22~23)
ここで「持っている者」とは
果たして何を持っているのかを解明せねばなりません。それは、
①主の言葉に対する信頼です。
主人が帰って来るという言葉を信じ、
たといその時期が分からずとも、帰還を期待して待ちました。
②主との愛の関係 です。
主人不在の間、どうして忠実に働いて
期待されていた成果を上げることが出来たのでしょうか。
主人が恐かったのですか?
3人目の働きもしなかったしもべの言葉はこうです。
「ご主人様。あなたは、蒔かないところから刈り取り、
散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました」(24節)。
この人には正しい主人理解がないばかりか、
信頼関係がないことが分かります。
働いて成果を上げた1番目、2番目との対照的な相違です。
つまり「持っていた」とは、信仰を持っていたと言えます。
③一方、持たない者は、
「持っているものまでも取り上げられる」 とありましたが、
これは
@現世での天与の賜物 がやがての審判で取り上げられる。
@千年王国での相続地はなく、火の池に投げ込まれる(30)
@つまり「持たないもの」とは、不信者のことです。
主の言葉を聞いてもそれを受け入れようとはしないで、
己が道を突き進もうとする人たちの厳粛な最期の姿が描かれています。
結論 として「信仰」と「行為」の関係について 考察しましょう。
救いについて=千年王国を相続するための条件は何か
それは、忠実な働きぶりであるとたとえ話から教えられることがありますが、見事な誤解 です。
主人の心を知り、これに応えたいとする愛の動機が
しもべをして5タラント、2タラントを稼ぐ働きにつながったのです。
=そこは、信仰が先にあったゆえの働きであったのを見落としてはなりません。
「主人の喜びをともに喜んでくれ」(21,23)。
主人はリターンを喜んでいるのではなく、
信頼と愛とを失わなかったしもべたちを喜んでいると言えます。
それなら救いを一旦得たのなら、
良い行為はなおざりにしても構わないのか?
清算時に行為に応じた報酬があることを教えています。
救い自体は失われないが、
与えられている賜物をどのように生かしてきたかは、
メシアの審判の前で問われる時が来ることも教えています。
野山獄跡
野山獄に繋がれている松陰はだいぶご機嫌らしい。
この若者にとっては、塞ぎこむということがないらしい。
天命の中にいるなら、
天が何時も自分を味方に着いてくれると楽観している。
それゆえ鎖国破りの国禁も屁のカッパ。
獄につながれていようとも、その魂は未知の世界をすでに逍遥している。
先達の囚人を捕まえてはそれぞれの得意分野を見つけ出し、
互いに教授となって授業を始めてしまった…
聖書の教えている「創造者」なる方は人格を持った生ける神であるが
それほどの認識までは進んでいないものの、
当時の志士たちも儒教的な「天」を論じる時、
信仰を抱いていたらしいことを司馬さんは次のように書いている。
……………………………………
「この時代、読書人たちはみな天という概念の信者であった。
天とは絶対者というべきであろう。
さらにいえば、松陰らの教養である朱子学にあっては
宇宙のげんりそのものを天といい、
人生もまた天という大いなる原理の中につつみこまれていた。
松陰はようやく天の意思を感じた。」
……………………………………………
ペリー艦隊での密航が失敗に終わってしまったことが惜しまれてならない。
もし成功して外国の諸事情を吸収して帰国出来ていたら………
そのような「もし」があてがわれる惜しい人材が
次々に死を遂げて逝ってしまった革命期。
松陰は鎖国日本の閉ざされた情報管理社会の中で
「天」に対する信仰に生きたが、
もし聖書の真理に接する機会が与えられたなら
人格的な「天」に帰依していたと言っていいと考えます。
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