バンクーバー
これは米国のパーキングメーター。
バンクーバーでは15分で4倍の1ドルがざら。
バンクーバーは入り江に囲まれた島の上に建設された街。
畢竟、人の居住空間は限られている。
人は上空に向かってしか居住地を広げるよりほかない。
狭い場所に林のようにコンドやオフィスビルがニョキニョキしている所以である。
ニューヨーク・マンハッタン島の縮図版と言っていい。
故に人の繰り出している数も、
車の数も単位面積比で言えばシアトルとは比較にならない程大きい。
それに比例するかのように
駐車違反の取締サービスも充実しているようだ。
わずか2分間、人と立ち話をしている間に
窓の向こうでそのサービスが開始されたのに気が付いた。
慌てて戻ったものの彼いわく、
「(決済が)もうおわったんだ」と言って取り付く島もない。
実際にはサービスは終わってなく、
パーキングメーターやナンバープレートを証拠としての写真を撮り続けている。
米国の事例ではそんな場合、
キャンセルしてくれていたのに、、、、
誠心誠意のサービスに敬服!
カナダのリッチモンドはバンクーバーの南、
車で20分ほどの距離
中国人街として発展して来た
神は人それぞれに賜物を与えられた。
時に異能と思えるほど
ある人に特別の才能や特技を与える場合もある。
本日お会いした日本人の青年男性。
流暢な中国語を中国人と交わしていた。
「もしや?」と思って聞いてみると
やはりそうだった。
彼は学校で中国語を勉強したわけではない。
中国人の友人と連んでいるうちに、自然と身につけてしまったと言う。
リッチモンドに3年間滞在した際に
多くの中国人と会う中でいつの間にか、会話のレベルに至ったのだと言う……
未だに英語で苦労している私には
羨ましいこと限りなし!!!
いや、あえて「羨ましい」とするのを撤回しよう。
神は私には必要でないから、その語学の賜物を与えられなかった。
また語学の天才と言われる人が、他の賜物ことで通常の人を羨望することもあるに違いない。
全ての賜物を持っていて、一人だけで完結している人は皆無。
全ての人には何かが欠けているので、他者の助けが必要なのである。
相互扶助するようにと、人は造られている。
教会内には異なる賜物を持った人がいて、互いに賜物を発揮して仕え合うことにより、
「キリストのからだ」が一つの有機体として
神の栄光のために機能するよう神は意図されていると第一コリントでは教えている。
「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
(ガラテヤ6章5節)
「神は真実であり、
その方のお召しによって、
あなた方は神の御子、私たちの主イエス・キリスト
との交わりに入れられました。」
(Ⅰコリント1章9節)
キリスト者の交わりとは何か?
「交わり」の原語は「コイノス」であるが、
それは共有、共存、共通などの意味がある。
キリスト者とは
イエスとのコイノスを保っているものであると聖書は告げる。
❶それは生命的なコイノス
先ほど家族とのビデオ通話をした。
カナダにいながらリアルタイムで映像通信ができるとは便利な時代になったものだ。
妻の笑顔や子供らの日常の様子を視聴するだけで元気をもらった。
それは何ら変哲のないモノにすぎないが、
単なる業務連絡や知識の伝達を超えた
豊かさがある。命がある。
私たちが神の家族として受け入れられ、
私たちを活かす命のやり取りを始めるために
主は十字架の死による贖いを成し遂げ
復活による勝利を果たされた。
神との和解と
完全な赦しとがコイノスの土台となっている。
❷それは人格的なコイノス
私たちの主イエスは物言わない偶像や夢世界の虚像・フィクションではなく
現在も生きていたもうお方で、人格を持って交流される方である。
・知的な交流〜イエスの教えを知り、世界や将来、歴史の遺産などを知って主の御心がどこにあるかを知り得る。
・情緒的な交流〜詩篇のことばや賛美の音楽などによって喜怒哀楽を共有するのである。
・意志的な交流〜知的、感情面のコミュニケーションが深まるほど、私たちの主に対する献身は深まって行く。主と同じ願いや希望、憂慮や痛み、動機と目的を抱くようになっていく。
❸それは統治的なコイノス
主との交わりが深まるにつれて
主の栄光に満ちた世界を共有するようになる。
主の所有されている権威や富、
これらを分有する世界の共同相続人としての地位にあることに目が開かれていく。
先週、私の卒業した神学校の元院長
蔦田公義(ただし)師が召天された報が届いた。
遠国ゆえ、葬儀に出席出来ないもどかしさ。
享年75歳は今の時代、早すぎるお別れでなかろうか。
約30年前、19歳で全寮制のインマヌエル聖宣神学院に入学が許された時、
元インド宣教師であった蔦田院長は、精鋭バリバリの40代半ばであられた。
何も分かっていないはな垂れ小僧を
忍耐の限りをもってご指導下さった私の恩師であられる。
教室ではギリシャ語、ヨハネ福音書、完全論などを教えていただいた。
クリスマス・ヴェスパーの神学生コーラス隊での情熱溢れる指揮のお姿も忘れられない。
祈りの人であり、かつビジョンの器であられた。
学究的でありながらも、全身からほとばしるような熱心さを保たれた説教者。
いつの間にか、当時の院長先生の年齢を超えてしまった自分が信じられない。
未だ遠く及ばないが、牧師としてばかりか信仰者としての模範であってくださった元院長。
ある日のチャペルでのメッセージで
ある召天された同僚の牧師のことに触れた際、
「いいなぁ、あの先生は。すでに天に凱旋されて……
今はイエス様とともにあられるのだから」
と実感を込めて語られたのを覚えている。
今振り返れば、
院長として、教会の主任牧師として、
さらに神学院の隣接する土地買収の複雑な戦いの中にあって、
激務の連続の中を通っておられたようだった。
激痛の伴った闘病生活だったとも聞く。
憧れていらっしゃった天に
ようやく凱旋された恩師。
これまでありがとうございました。
ゆっくりとお休みください。
春休み中の投稿を長い間サボってしまいました。
1週前のことを振り返りながら書き出します。
先ずはユタ州・アリゾナ州ロードトリップからの
無事の帰宅をご報告。
総計でこの間、3022マイルを走行しました。
それがどんな距離なのか、日本地図上で翻訳して見ると、
鹿児島駅から北陸自動車道を通り青函トンネルを抜けて
北海道北端の宗谷岬までを走行した距離が1770マイル。
宗谷岬を折り返して3022マイルに到達する地点は
簡単に大阪を抜けてしまう……
この10日間ほどのロードトリップは
日本列島を往復縦断するに近いものとなった。
行けども行けども変わらない荒野を走りながら
家内とつぶやきあったのは、
「アメリカは広いねぇ」
「ここは大陸だったんだ」
日本の国土面積は
カリフォルニア州のほぼ半分でしかない。
「日本がこの国と戦争して勝てるわけないよなぁ」
戦時中、日系人が強制収容されたミネドカ収容所近くを走りながら
そんなことを考えたりしました。
モアブと言う地名は
聖書に出てくる地名である。
イスラエルから死海を挟んで反対側に広がる地方を
聖書時代、モアブと言った。
そこはペトラで有名な岩山が連なる地で
巨大な一枚岩が天を切り裂くように垂直に屹立している。
ユタ州にあるモアブに来て
開拓民たちがその名を付けた理由が良く分かる。
全くと言って良いほどに同じ光景が広がっている。
数年前の聖地旅行でペトラを訪れたが、そこの地形と何ら変わっていない。
気温や湿度、高度ゆえの低い酸素濃度といった気象条件、
岩の色や形、岩山が果てしなく地平線の彼方まで続く広大さ、
どれもがユタのあるモアブと
イスラエルに隣接するモアブとが瓜二つなのです。
シアトルからモアブに至るには
ソルトレイクシティを通過する。
名前の通り、
そこの湖の塩分濃度は高く
幼少期に湖に浸かった妻の体は
ポッカリと浮かんだという。
いっその事、
その湖を「死海」と名付ければ良かったものを…
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ