カナダのリッチモンドはバンクーバーの南、
車で20分ほどの距離
中国人街として発展して来た
神は人それぞれに賜物を与えられた。
時に異能と思えるほど
ある人に特別の才能や特技を与える場合もある。
本日お会いした日本人の青年男性。
流暢な中国語を中国人と交わしていた。
「もしや?」と思って聞いてみると
やはりそうだった。
彼は学校で中国語を勉強したわけではない。
中国人の友人と連んでいるうちに、自然と身につけてしまったと言う。
リッチモンドに3年間滞在した際に
多くの中国人と会う中でいつの間にか、会話のレベルに至ったのだと言う……
未だに英語で苦労している私には
羨ましいこと限りなし!!!
いや、あえて「羨ましい」とするのを撤回しよう。
神は私には必要でないから、その語学の賜物を与えられなかった。
また語学の天才と言われる人が、他の賜物ことで通常の人を羨望することもあるに違いない。
全ての賜物を持っていて、一人だけで完結している人は皆無。
全ての人には何かが欠けているので、他者の助けが必要なのである。
相互扶助するようにと、人は造られている。
教会内には異なる賜物を持った人がいて、互いに賜物を発揮して仕え合うことにより、
「キリストのからだ」が一つの有機体として
神の栄光のために機能するよう神は意図されていると第一コリントでは教えている。
「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
(ガラテヤ6章5節)
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