「三千世界の烏を殺し
ぬしと朝寝がしてみたい」
高杉晋作が作ったという、
謡曲の歌詞である。
ごろつきの様に箱根の関所破りまでしでかした晋作は
「狂」の境地にいた。
数週ぶりに「花燃ゆ」を見たのは
その晋作の狂を見物したかったから。
都大路を賀茂まで天子が行幸する際に
第14代将軍の徳川家茂背後からお供を仰せつかっていた。
京都の民衆は顔を上げることすら恐れて土下座し、ひれ伏しているとき、
晋作だけは顔を上げていたという。そして、
「いよう。――」
花道を進む役者に大向こうから声をかけるように叫んだという。
「――征夷大将軍」
「家康以来、天下の主に対してこれほどの無礼の挙動をとった男もない。
そういう事件も、徳川3百年間、一件もなかった」と司馬遼太郎は書いている。
そんな晋作の「狂」振りを見て見たかったのだが、
ドラマを見る限り常人の域を脱していない。
オークランド空港のチケットカウンターで
「貴方のフライトは1時間前に出立してしまってますよ」と言われた。
あれ~、、やってしまったぁ~
シアトル到着時間を勘違いして
当地離陸時間と思い込んでいた。
この後のフライトは本日はない。
あきらめて、空港近所のホテルで一泊することに。
すでに400回以上はフライトをして来たが、
こんな勘違いは初めて。
これも老化の兆候だろうか??
サンフランシスコ市内を走る観光バス
ここサンフランシスコ・ベイエリアでは
今週から子供たちの夏休みが始まっている。
街中をスケボーで闊歩したり
アイスクリームを頬張ったりしている子供らの姿を目にする。
平和を謳歌してる人々。
この自由、この豊かさ、この陽気さ、、
一方、同じ地球上にありながら生命の危険と隣り合わせの厳しい現実もある。
イラクでISからイエスへの信仰を捨てるよう脅された4人の少年がいた。
「私はイエスを信じています。
いつもイエスに従います。
イエスは私たちとともにおられます」と告白。
少年たちの決心が変わらないことを知ったIS戦闘員は
その場で彼らの首を刎ねたと報じられている。
信仰ゆえに迫害され、苦しめられている方々のために
熱心に祈らせていただこう。
事故のため渋滞の南方面の高速880。
下方の島がアラメダ。
サンフランシスコからベイブリッジを通り、
オークランド空港に至るいつものコース。
手元のIphone で道路状況を知ることが出来る。
これを見ると、どうも行く先が渋滞!
アラメダという空港の隣に位置している島を抜け、
渋滞の拘束を回避することにした。
高速880からアラメダへの進入路は2か所ある。
その最初の進入路のかなり前から渋滞が始まっている。
これもI phoneで地図を見ると海底トンネルから島へ抜ける
さらにもう一つの道があった。
初めてではあったが、
そこを通ることに。
結果は大成功!
どこも滞りなく、スイスイ。
I phoneでの現地情報、
役に立ってます。
今晩もサンマテオにお住いの
Yさんご夫妻を訪問。
90才近くになるというご主人。
彼は大のサンフランシスコ・ジャイアンツファンである。
3人で夕食を囲んでいても
ご自分の食事が終わると、食卓から立ち上がり、
TV観戦を続ける。
その甲斐もなく、其日は4-3でジャイアンツは負けてしまったが。
もう一つ驚いたこと。
帰り際にドライブウエイに止めてある車を見せてもらった。
ピカピカの新車である。
ホンダの新しいモデルの洒落たデザイン。
それはなんと、ご主人の買い物であるという。
友人に会うため、ロサンゼルスへ旅行するためにも必要だったようです。
普段は物静かな方なのに。
あと10年は運転しないと新車の元がとれないと思うのですが。。
3枚の駐車違反チケットはドネイションと心得るべし
見るのも嫌だった駐車違反の反則切符。
この日、まとめて処理しました。
先日、ロスで3枚もチケットを受け取ってしまったのです。
それぞれ、$60以上の出費。 痛い!
そのうちの2回は、
その場で取締官がターミナルを捜査しているときのもの。
つまり、1分もその差はなかった。
3枚目はホテル近くの路上で、16分差。
日曜日だった。教会へ行く際の悲劇。
これもロスアンゼルス市へのドネイション(献金)として
おささげしましょう。
現在のエルサレムの城壁
死海
「メシアの復活」
マタイ28章1~10節
~マタイ福音書連続講解説教 105~
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8110105
イエス様が復活されました。
明け方早い時間に地震が起こり、墓石が転がされ、入り口が開きました。
天使たちが現れて、ローマの番兵たちはあまりの恐怖に腰を抜かし、
死人のようになって硬直したと記録されています。
❶ 4福音記事の調和について
4つの福音書にある復活物語を比べると、
一見して矛盾しているような場面があります。
朝早く墓に訪れに行ったのは、
マタイ28:1では、二人のマリヤの名が記されています。
マルコ16:1では、その二人にサロメ(ヨハネとヤコブの母親)が加わり、
ルカ24:10では、サロメがいない代わりにヨハンナの名前があります。
ヨハネ20:1では、マグダラのマリヤだけが墓に行ったことになっています。
聖書の霊感(神の霊によって書かれ、それゆえ誤りははい)を信じない人たちは、
これらの相違が矛盾であると指摘して、霊感を否定するのです。
それは「編集者の自由裁量の原則」
を見逃している短絡的な見解です。
福音書記者たちは、
それぞれの視点からそれぞれの印象に残ったことを選択しているのです。
そこには編集上の省略や総合的な記述など、
各人に任された記述手法があります。
4つの福音書を突き合わせてみると、
次のような順序で復活したイエスが女性たちにお会いしているのが分かります。
⊛先ず、マグダラのマリヤだけが一人で墓に向かっている
⊛墓石が動いているのを見て、弟子たちのところに走って戻って報告した
⊛ヨハネとペテロが確かめに墓まで走っている
⊛後から再び訪れたマグダラのマリヤは諦めきれずに墓の入り口で泣いている と、二人のみ使いに出会う。
⊛続いてイエスに出会う。その時はイエスにすがりつくことは許されていない。
ヨハネ20:17
⊛そのあとで、ほかのマリヤ、サロメ、ヨハンナの3人の女性たちが墓を訪れている。
⊛そこでみ使いとイエスに同様にして合っている。
⊛その時は彼女たちはイエスの足を抱き、礼拝をささげている。マタイ28:9
❷ 大祭司としてのイエス
初めに会ったマグダラのマリヤはイエスの体に触ることが許されなかったのに、
その後にお会いした他の女性たちに許されているのはどうしてでしょうか。
その時間に何があったと考えられるでしょうか。
レビ記の16章には、大祭司が贖罪の日(ヨム・キプール)に行う
年に一度の贖いの儀式規定が記されています。
その日、至聖所に入って民全体のために贖いの血を注ぎかけるのです。
その際、儀式が始まってから終わるまでは誰も大祭司に触れることは許されていません。
人から触れらると汚れたものとされ、
至聖所での清めの儀式が出来なくなるとされていました。
ここでイエスは天そのものにお入りになり、
私たちのために動物の血ではなく、ご自身の血を携えて
父なる神の御前に進み出られ、
私たちのために贖いを成し遂げてくださったのです。
Mマリヤからその他の女性たちにお会いするまでのその時間内に、
これらの贖いの務めを天において果たされたと考えられます。
地上生涯において主イエスは預言者としての働きをされました。
イスラエルの系譜に属する預言者として、
人々から拒否され、最後は十字架の死を遂げられたのです。
それ以後の主の働きは主に大祭司のそれとなります。
私たち信者のためにとりなしの祈りを神の右の座において
常時していてくださっています。
そして将来、地上に再臨される際には
全世界をエルサレムから統治される王として君臨されます。
❸ ガリラヤでお会いできる
復活の主イエスと弟子たちとはガリラヤで会うことになるとみ使いが告げています。復活の主もそこで弟子たちと会うと約束されています。マタイ28:7、10
どうしてわざわざ「ガリラヤで会う」ことが強調されたのでしょうか。
弟子たちも女性たちも全てガリラヤ出身の人たちです。
そして主イエスの働きのホームもガリラヤでした。
エルサレムでの宣教は、祭りのときに都上りをした場合でしかなく、
いわばハレの日の非日常体験です。
つまり彼らにとっての日常生活の場がガリラヤであったのです。
そこで主イエスにお会いする、と約束されています。
私たちのイエス様は
日曜日に教会に来ている時だけ神なのではありません。
月曜からの週日、あなたの仕事場や家庭生活、
そのありふれた日常生活の場においてあなたとお会いし、
あなたに語り掛け、
あなたと同行される神なるお方であられます。
エルサレムにて復活の主に初めてお会いし、
やがて聖霊降臨もそこで50日後に経験した弟子たちでした。
その特別な霊的祝福は、
ありふれた彼らのガリラヤでの生活において日常化されていくのです。
私たちも同様に、変哲のない日常生活の場に
主イエスをお迎えしようではありませんか。
池田小学校の無差別殺傷事件から14年。
TVでの特集を見る機会がありました。
当時小学2年生の娘を殺されたご婦人はしばらく生きる気力を失い、
「生きることも死ぬことも出来ない」脱力感と失望にありました。
事件のあった教室を訪ねた。
教室で刺された娘さんが廊下まで歩いた血痕が残っている。
68歩の血痕。
パパ、ママ、助けて !
そう叫びたかったかもしれない、娘さん。
血痕は明らかによろめきながら、壁にもたれそうになっているのが分かる形で続いている。
……娘は最後まで自分の命を、最後の一歩まで振り絞るようにして生き抜いた……
……どれほど生きたかったか、どれほど母親に会いたかったか………
それを知った時、無気力だった彼女に
我が子のためにも生きよう、との新たな力が備わってきた。
彼女は今、犯罪被害者の遺族や災害被害者の方々のために働いている。
彼らの「心に寄り添う」働きは
その痛みを知る彼女にこそ出来ることで、
希望の見えない人に光を灯している。
KAIが12歳になる。
この金曜、仲良しの友人らをわが家に招いてのスリープ・オーバー。
下校してから、
近所のコミュニティーセンターにあるプールでその仲良しと遊び
夕食はピザ。
プールが終われば我が家に戻ってのTVやゲーム。
彼らに居間が占領されているので
こうして書斎でのブログ執筆が進む。
もうしばらくすれば持参した寝袋を広げて
居間で雑魚寝となる。
こうして仲良しと時を共有するのが一番の楽しみのようだ。
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