久方ぶりにシアトルのダウンタウンへ行ってきました。
青い空に摩天楼が良く映えています。
冬季に青空が望める日はほとんどなく、
今日はとても珍しいです。
おかげで早朝から寒い日となりました。
ところで、今年になって初めてお会いする知人たちに
Happy new year!
と挨拶をしまくってきたのですが
相応しかったものかどうか……?
どうも、場違いな空気を感じた。
小正月とされている松の内は15日までだから
明日まで正月気分を味わおうと自分一人で無意識のうちに決め込んでいたみたい。
近く、日本人グループでの新年会もあることだし…
しかし、米国人にとって正月とは元旦の一日だけのことだったみたい。
FB読書会で交わした神学的な意見交換を紹介しています。
現在の私たちの生きている時代は聖書が教えている救済史的な視点からすると
「キリスト教界時代」と言われるものです。
それについて旧約聖書が一言も触れられておらず、
新約聖書で始めて明らかとされた概念であることから
「奥義」と呼ばれています。
聖書が意味する「奥義」とは一般世界の意味とは異なり
「今まで隠されていたものが明らかとされた真理」
を指している専門用語です。
「万物を創造された神の中に世よ隠されていた奥義」(エペソ3:9)
神学議論の公開は今回で最後となります。
これまでのものは「救済」タグをクリックするとまとめて読むことが出来ます。
(T様が投稿されました)
高橋京太様
ディスペン神学の分類の議論については、僕の知識ではほとんどついて行くことはできませんでした。
でも、分類の仕方にその人の神学的枠組みが明確に現れるということだけはわかりました。
ですから、他の人の分類を受け入れることに注意深くある必要があるのですね。
僕も患難期前けいきょ、中けいきょ、後けいきょとかいう分類、千年王国前、後、再臨、無千年などという枠組みには悩まされ続けました。今は、そんな分類自体がひとつの神学傾向の枠組みの反映だとわかって、なるべくそのような枠組みを無視するようにしています。
僕にとって、どうしても納得できないディスペン神学の基本とは、高橋様が書いてくださっている以下のポイントです。
・・・・・・・・
旧約聖書にはなかった奥義としての「教会時代」が始まります。
主イエスがエルサレムにて王として全世界を統治されるのは将来に「延期」されて、教会と言うものが歴史に「挿入」してきたのです。
・・・・
28年前に現在の教派に入り、このような神学の枠組みがあることを知り、違和感を感じ続け、その中でライトさんに出会いました。
違和感を感じた結果ライトさんに出会ったので、そう簡単に高橋さんの神学には同意できないでしょうが、いろいろお教えくださったことは心より感謝します。
(私からの投稿です)
T様
ご感想をありがとうございました。
オシメ洗いに躍起となっている私がいる一方で、赤子の可愛さを常に忘れないように諭して下さいました。
ライトの終末論には先述したように同意出来ない点がありますが、聖書をナレーティブとして捉えている点には教えられること多く、今後も学んで行きたいと存じています。
書籍からの学びを今後もアップして下さいませ。
蛇足ですが、教会時代が「奥義」としての王国であるとの根拠はマタイ13章11節に見出せます。
ヨハネもイエスも、宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」というものでした。その御国が何であるのか説明がないのは、聴衆がその言葉を聞いた途端理解できたからであると考えられます。つまり、彼らが待望していたメシア王国(千年王国)です。
ところがメシア拒否によって、その実現が将来に延期されたため、代わって挿入してきたのが奥義である教会であるとしています。
その奥義の王国、つまりキリスト教界"Christendom”時代はどんな特徴があるかを例え話で解説しているのがマタイ13章であるとの枠組みには大きな説得力があると思います。
http://wdx.hosannamin.org/page/seishohiroba-11
教会が挿入してきただなんていう概念は誤解を生みやすく、
「教会を軽視している」と教団内のある教師からだいぶ批判されました。
ディスペンセイションについての知識がある人ほど、批判が強いものとなりました。
余計なことを書いたようです。
今後ともよろしくお願いします。
早朝の5時過ぎの世界。
ここ数日間、そんなに早い時間帯に外出する機会があった。
厚い霧に世界は閉ざされて、20メートル以上より先が見通せない。
自分の走るレーンを確認するのもやっと。
そんな中でハイウエイを走るのは気が引けたが
濃霧を貫くライトに照らされているためか、返って視界が開けている。
住宅地を走る時が要注意。
歩道との区別がつきにくい。
そんな早い時間帯にジョギングしているツワモノがいたのにも驚いた。
濃霧は日の出と共に去って行く。
「来てみれば聞くより低し富士の山
釈迦も孔子もかくやあらん」
長州の急進的家老であった村田清風が17歳で初めて江戸へ立ったとき
その途中、駿河で富士を見た時の歌であるという。
当時、長州藩では藩財政の改革を推し進めた村田の革新党と
これを嫌う反動勢力の坪井九右衛門らに政治勢力は二分されていた。
高杉晋作によって後日、
その改革派らは「正義党」、保守系は「俗論党」と名付けられるようになるが、
彼らは米国の議会政治のように
両党が互いに抗争しながら藩政権を交代して牛耳るようになる。
幕末になると村田を祖とする改革派は
尊王攘夷を叫んで倒幕勢力の中核をにない、
坪井を祖とする保守派は佐幕派を結成して行く。
長州藩はすでに幕末以前から政治の流動性がこのようにして活況であり、
封建政治打破の起爆性を秘めていたと言っていい。
さて、その村田清風である。
大河ドラマに出てくるか定かではないが、
吉田松陰がその生涯の師と仰ぐ一人である。
司馬遼太郎はその歌を作った村田清風という人物を
「世に棲む日日」の中で次のように描写している。
「つくられた権威というものの化けの皮を剥ぐ洞察眼と、
腕力と捨て身の度胸のようなものがあり、
それが彼の終生の政治的骨格を貫いた。」
その「政治的骨格」というものが
吉田松陰に、高杉晋作に、そして長州全体に遺伝して行き
明治維新への動力となり得たと言っていいのではないか。
「つくられた権威」が当時の幕藩体制であるなら現在のそれは、
日本においては天皇制であろうし、
イスラム原理主義では預言者であり、
ローマカトリックでは教皇制度ということになろう。
無論、善悪のことではなく
創造主によらない
「つくられた」権威のことである。
引き続いてある読書会で交わした神学のお話です。
連載は「救済」タグから読めます。
(K様の投稿)
山崎先生の記事
http://1co1312.wordpress.com/2014/11/30/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%8B%EF%BC%8810%EF%BC%89/
この記事でよりディスペンに関わるな、と思うところは
使徒行伝20章で、・・・、彼は人々に「神のご計画の全体」をあますところなく伝えたと言いました(25節、新改訳)。
「神のご計画の全体」とは何でしょうか?前後の文脈からすると、その内容は福音(24節)と同義であり、罪の悔い改めとイエスに対する信仰(21節)を含んでいますが、それにとどまらず、より広い神の国のメッセージ(25節)を意味していると思われます。
パウロが神のご計画の全体を伝えたという時、3年もの間来る日も来る日も「主イエスを信ずれば罪が赦されて永遠のいのちが与えられる」というメッセージを繰り返していたわけではないと思います。そうではなく、彼は聖書の全体から、人類の歴史における神のご計画の展開について教え、エペソのクリスチャンたちがその中で今どのような段階に生きており、やがて来る終末への希望を持ちつつどのように生きていくべきかを詳しく語り聞かせていたに違いないのです。
「神のご計画の全体」は「聖書をより包括的に読み解くパラダイム」を考える上で、新約聖書自体にあるコンセプトとしても大事なキーワードになると思いますがいかがでしょう。
しかも山崎先生が「福音」と関連付けられて追跡しているように、新約聖書という文書が成立する前に既に定型化・体系化されていた(後に)「信仰の規範」と呼ばれるようになる「使徒伝承」の枠組みでその内容が追跡されるのが相応しいと思います。
(これは多少マクナイトの「福音の再発見」のステマです。まだご購入頂いていない方がおりましたら、このようなラインの思索を助ける一助と思いますので推薦させて頂きます。)
(高橋の投稿)
K様
「使徒たちは〜」のブログのご紹介とアドバイス、ありがとうございました。
6つほどのエントリーを拝読い、大変参考になることがわかりました。今後もシリーズ最後まで注視して行きたいです。
そうなんです。私がフルク氏に感動したのは「神のご計画の全体」像を創世記から掘り起こし、黙示録に至るまで一つのナレーティブとしてパラダイム化している点にあります。その統合された世界観の元に、時代の進展と共に神の契約が漸進的に更新して行く点に注目した概念がディスペンセイションと呼ばれているもののようです。
学者によっては、ディスペンセイション移行期に非連続性をイメージしている方がおられるようですが、私には一つの物語の中で、スムーズに次なる時代区分にステップアップしているように捉えられています。
サタンの誘惑で失ったエデンの園の祝福が人間に回復する約束が実現するのが千年王国。
天地創造(創世記1:1)後に、サタンの堕落によって茫漠として空虚な世界となった世界(創世記1:2)に、新天新地を回復する約束で黙示録は閉じられています。
ヴァンクーヴァーから帰国。
ドライブして3時間以内で帰国できてしまうのだから近いものだ。
今回の越境では10分と待ち時間がなかった。
かつては週末となれば数時間も待たされることがあったのに、
この差は何であろうか?
確かなことは知らないが、
素人考えでは為替相場の違いが影響しているように思える。
現在のUS$.とカナダ $の為替相場は、85:100でUSが強い。
つまりカナダの100ドルで、
アメリカでは85ドルの買い物しかできないことになる。
それなら誰も米国に来て買い物はしようと考えない。
越境に数時間の行列が続いた数年前は相場が逆転して
カナダドルが105:100で強かったときがあった。
そんな時、
米国まで数時間ドライブして買い物しようする人が多かったのではと推察。
帰宅途中、睡魔が襲ってきたので抵抗したのの
勝てそうにないと見て30分ほどレストエリアで仮眠。
家族のいる我が家は、
たといボロ屋であっても良いものである。
新しい朝の習慣を始めてみた。
それは、冷水シャワー(o^^o)
寝起きが悪く、血液が酢のように淀んでいる私にはあり得ない暴挙なんです。
その字を見ただけで血が凍ってしまいそうなほどに苦手なことなんです。
ニモカカワラズ、今週これまで実践できているのには理由があります。
それは「新年の抱負」とか言うありきたりのもではなく、
先ず宿泊環境が大きいでしょう。
ホテルには優れたジムが完備されていて、
そこのトレッドミルを使用し体温を上げ、血液循環を確保しました。
ある作家が毎朝トレーニング後に温水と冷水シャワーを交互に浴びることで
創作意欲が湧き上がると言っていたのも影響したでしょう。
さらに箱根駅伝の優勝校である青学陸上部は、
風呂を改造して水風呂を設置。
それにより選手の故障を抑えてきたとの報道。
その話を家内にすれば、
米国女子サッカー代表団もキャンプでは冷水シャワーが奨励されていると話してくれた。
それならこの私も、とばかりに。
物は試しである。
シャワー後は心身共に引き締まった気になるし、
集中力が増すようにも感じられる。
2ー3倍もある寿司ネタ
ヴァンクーヴァーには日本人がシアトルと比べて桁違いに多い。
畢竟、日本レストランも多くなるし、
日本人シェフによる本物の日本料理が堪能出来るところも数多い。
そのうちの一つが4アベニューにある、ひとえ寿司。
http://www.yelp.com/biz/hitoe-sushi-japanese-restaurant-vancouver
ここの自慢はボリュームある寿司ネタ。
普通の倍はあろうかと思うほどの大きさ。
店内はカジュアルで気兼ねなく入れるところもイイですね。
カナダ・リッチモンドの交通取締官の仕事振りには恐れ入ってしまう。
駐車無料となる時間帯まであと1時間ほどあった。
駐車券販売のブースを探すが見当たらない。
仕方なく、1時間だから…、ということでそのままホテルへ。
(良く警告版を読めば許可証の必要な路上であって駐車券は販売していないはず)
その1時間以内に取締官のが来て反則キップを置いて行ってくださった(≧∇≦)
翌朝、駐車禁止時間帯を8分すぎた段階でさらにもう一枚の反則キップ(≧∇≦)
一夜にして2枚もの反則キップを頂戴する特権に授かってしまった。
この街の交通局の仕事熱心ぶりにはただ驚愕するばかりである。
怠惰な米国交通局の仕事振りに慣らされている身には痛いほどのお灸となった。
米国では午後5時を過ぎれば、
そして朝も9時にならなければ取締官も仕事を始めないとばかりに、
皆さん平気で駐車しているのに。
恐れ入り奉りました(*^◯^*)
早速、反則金をネットにて支払わせていただきます。
ようやく、ようやくお正月が我が家にもやって来た。
なぜって、
クリスマスツリーを片付け
部屋の荷物整理が出来たから。
これまで私の書斎は子供らの使わなくなった本やノートで埋まり、
書棚が塞がり、使えない状態に放置されていた。
4時間ほどかけて物置を整理しスペースを確保してから
子供らの荷物をそこに収納。
書斎は我がアジトとして再機能してくれそう。。
日本で言うところの大掃除を今頃になって終えたことになる。
もう一度御節やお餅をいただこうかしらん?
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