ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートはこちらから:
http://hosannamin.org/whatsnew/view/6143096
「過越しの食事」
マタイ26章17~30節
~マタイ福音書連続講解説教96~
ダビンチ絵画で有名な「最後の晩餐」の場面です。
ユダヤ的な視点からは、
あの長テーブルと椅子に腰かけたスタイルの食事は大いに疑問です。
当時のユダヤ人の風習からすれば
肩肘を床やクッションに乗せながら足を後方に伸ばして食事をしたからです。
それは奴隷でなく自由人となった証のためでした。
さらにその場面はユダヤ人の最大の祭りである過越しの祭りの食事の場面でした。
その食事の際の作法や儀式を知ると
席上で話された主の言葉の意味をや状況を深く理解することができます。
前菜の段階でカルパスと呼ばれている緑色野菜を摂ります。
多くの場合はパセリが使用されました。
数人が塩水の入った鉢をシェアして、そこにパセリを浸して食します。
紅海でのエジプトからの脱出を記念するものです。
この瞬間、主はユダの裏切りを預言しています。
「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
(マタイ26:23~24)
当時、主の右側にヨハネ、左側にイスカリオテのユダが席に着いていました。
主賓に対して上座、次席の位置にあたります。
アフィコーメンの儀式が続きます。
これはマツァ(種無しパン)という3つのパンがありまして、
それぞれ真四角の布製袋3つに区分されたそれぞれの袋に
パンがひとつずつ入っています。
それらのパンには打たれた傷跡と刺された穴が開いています。
ローマのむち打ちで打たれた主の背中の傷跡と、
十字架上で槍で刺された脇腹を象徴するものです。
真ん中のパンは取り出されて二つに割られます。
片方は袋に戻して、もう片方は亜麻布にくるんで部屋のどこかに隠します。
これは主が死なれて三日後に復活され、
弟子たちの前に現れなさったことを象徴するものです。
この隠された半分のパンがアフィコーメンと呼ばれているものでして、
デザートを意味します。
続いてハロセットです。
これは、リンゴ、ナッツ、蜂蜜、シナモンを混ぜ合わせた、
泥を思わせる色と形をしています。
エジプト時代に煉瓦作製した奴隷時代を記念しています。
マツァの上に載せて、マロール(苦菜)と合わせてそれぞれに配られます。
主がそれを配られたとき、
深い悲しみと憂いとに溢れてユダの裏切りを再度預言されました。
ハロセッとをユダに与える場面がヨハネ13:21~30にあります。
「それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・ユダにお与えになった」
主はマツァを取り、ハロセットに浸してから隣のユダにお与えになられています。
そのマツァを受け取った後、ユダは退室して行きます。
ここまでが前菜で、
その後は神殿でささげた子羊のローストをメインディシュとして食します。
子羊ローストの後、
隠されていた半分のマツァ(アフィコーメン)は取り出され、
細かく割ったのちに全員に配られます。
その時、主はアフィコーメンを配りながら「わたしの体」であると告げられています。
そして第三の杯(これは贖いの杯と呼ばれています)が配られますが、
出エジプトの際の子羊の血を象徴するものです。
その時には「わたしの血である」と言われながら配られました。
それは、新しい契約のしるしとなりました。
「記念として」「わたしを覚えて」行う聖餐式を制定された瞬間でもあります。
マタイ26:26~28
最後に第四の杯で賛美の杯と言われているものが配られます(マタイ26:30)。
この時に弟子たちの裏切りを預言しますが、
ペテロのはこれに反して豪語しています。
賛美とはハレル(詩篇117篇、118篇)と呼ばれている詩篇をを賛美するものです。
第四の杯は締めくくりとなるもので、これをもってすべての儀式が終了します。
ジェネラスなサーモンのダブル
大シアトル圏で私のお気に入り日本レストランといえば、
Koharu です。
http://www.koharusushi.com
フェデラルウエイに位置しているので
高速を飛ばしてベルビューから30分はかかる。
タコマ以南に遠出した時でないと立ち寄ることもない。
ポートランドからの帰途、ちょうど夕食時と重なったため
一人で打ち上げを行なう。
どうしてこのお店がお気に入りであるか?
①MSG(化学調味料)を使用せず、毎日だし汁からの味付けにこだわっている。
②サービスが良い。ウエイトレスの皆さんは全て日本人の上にお揃いの着物を召しておられる。笑みを絶やさずにてきぱき。必要以上に待たされたことはない。
③適正価格の上に気前の良い盛り付け。
この日はサーモン弁当をいただいたが、そのサーモンの切り身が二つも付いてきた。
私だけの特別サービスなのかと尋ねると、そうではなく通常のメニューだという。
ベルビューに進出してほしいものです。
以下はクリスチャニティトディからの引用です。
ローマ教皇フランシスコは17日、過激派組織「イスラム国」(IS)系のリビアの武装グループが、21人のエジプト人キリスト教徒を斬首したことを公に糾弾した。
「彼らが、カトリックであろうと、正教会であろうと、コプト正教会であろうと、ルーテル派であろうと、それはどうでもいいのです。彼らはキリスト教徒で、その血はみな同じであり、彼らの血がキリストへの信仰を告白しています」
教皇は声明でこう述べ、「きょう私は、21人か22人のコプト正教のキリスト教徒が殺害された記事を読みました。彼らのただ一つの言葉は、『イエス様、助けてください』だったことでしょう。ただ、キリスト教徒であることを理由として殺害されたのです。キリスト教徒の兄弟姉妹の血は、叫び声を上げる証です」と語った。
(ここまで)
昨日はコプト教会の主教が赦しを強調し、
今回はカトリックの代表が弾糾している。
一体、クリスチャンとしてどちらの姿勢を貫けば良いのだろう?
二つの立場は互いに対立点が際立っているように見受けられる。
それは表層的な見方であり、
それぞれにはそれぞれの視点からの主張なのである。
コプト側は、個人的な復讐心を抱いて、
心に憤りや怒りを溜め込むことの無意味さを解いている。
カトリック側は、正義が蹂躙されて
悪がのさばる事に耐えられない苦痛を表現した。
これら双方の視点からは
聖書がその通りに教えているところである。
人が個人的な復讐感情から報復に走ることを禁じている。
「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それはこう書いてあるからです。
『復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする』と主は言われる」
(ローマ12章19節)
では、どのようにして神は悪に報いるのか?
最後の審判まで、遠くの将来まで待たねばならず、
その間どんな酷い悪行には立ち向かわずに泣き寝入りするしかないのか?
政府が神の代わりの正義の代行者として
神によって建てられているとローマ書13章は教えています。
「彼は(支配者)無意味に剣を帯びてはいないからです。
彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」
時の政府が神の代行者として正義を執行するようになった経緯は
ノアの洪水以後のことです。
それ以前は政府というものがないため、
それぞれがわがまま放題で甚だしい逸脱社会となりました。
それで当時の世界を洪水で滅ぼし
それ以後の世界には地上政府を組織して正義と秩序とを維持するようにしたのです。
それがノア契約と言われるものでした。
「人の血を流すものは、
人によって、血を流される。
神は人を神のかたちにお造りになったから。」
創世記9章8節
現在でもこのノア契約は有効に機能しています。
人権を踏みにじり人命を搾取するテロリストらには
現在の段階から懲罰され、断罪されるべきものです。
詩篇には悪と暴虐が地に満ちた時、
神の介入ゆえの正義が回復する求めが随所に見られます。
「主は仰せられる。
『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから
今、わたしは立ち上がる』」
(詩篇12:5)
祈りを捧げます。
主よ、急いで来てください。
現在もこの瞬間、イスラム国に捕らえられている方々を救出させてください。
そしてあなたの正義が彼の地に執行されますように。
悪に囚われて思いの儘にされているIS戦闘員たちの目を開いてください。
アンジェロス主教
21人の殉教者を描いたイコン(聖像)。コプト教徒のトニー・レズクさんが描いた。コプト正教会の米ロサンゼルス教区もウェブサイトでこのイコンを掲載している。
コプト教会の代表がイスラム国に虐殺された21人のコプト教徒について声明。
クリスチャニティトディは以下のように報じている。
「英国のコプト正教会主教が、過激派組織「イスラム国」(IS)が、21人のエジプト人キリスト教徒を斬首した動画を公開したことを受け、ISの戦闘員のために祈り、赦さなければならないと語った。
「私はキリスト教徒として、このことが私たちの義務で、なすべきことだと考えています。それほど難しいことではないと捉えています」と、アンジェロス主教は述べた。
「もちろん、私たちがなってほしいのと反対に物事が動くこともあります。しかし、キリスト教徒として、私たちは赦さなければなりません。私は、圧政下にある人々の権利を守るよう働き続けますし、自分で発言することのできない人々のために立ち上がります。しかし、それが私たちに対する犯罪という結果に至ってしまったときは、前進する道はただ一つ、赦すことです。もし私たちが赦さないなら、何を持っているのでしょうか。報復、憤り、怒り。そして、解決や終結を見ることはありません」
(引用はここまで)
IS戦闘員らに対して祈り、
赦さねばならないという……
確かに主イエスはそのように命じられた。
「自分の敵を愛し、
迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)
一方で自国民が犠牲となった報復として
エジプトやヨルダンでは即刻の空爆を行い、数多くの犠牲者を出した。
どちらの判断が正しく、
どちらの行為が英雄的で、
どちらの考えが理性的で近代的(進歩的)なのだろうか?
後日、この21人は聖人として列聖されたとの知らせがありました。
本格的なタイの雰囲気の店内
料理まで本場の味らしく、うーん、私には今ひとつ馴染めなかった。
ポートランドでのオスス・ストリートは
Mississippi 通り。
ダウンタウンのすぐ北、
405号線が5号線から分岐する直前に位置している南北に走るトレンドのみち。
新興の開発された街中でありながら、とってもファンキーな街。
2箇所だけだったフード・トラックの集積地がさらにもう2箇所に広がっていた。
最北に位置するフード・トラックの場所には
日本人のお兄さんが一人で運営するラーメン屋台もある。
が、もうラーメンを食べる年齢ではないことを最近自覚。
消化機能が年とともに減退したためかラーメンを食べると胃がもたれてしまう。
ヌードルでありながらスープに入っていなくてアッサリしている
Pad Tai を目指してタイ・レストランへ。
どこの西海岸の街にも日本や中国料理に負けずに
タイ・レストランがあるのは面白い。
そんなにも移民者が多くないと思うのですが。
歯医者の次は緊急治療室(ER)。
妻が自ら運転して夜半の午前3時頃に駆け込んだ。
自分で運転出来るほどなのでご心配には及びません。
皮膚の内部で炎症が広がり、発熱、頭痛も伴ってひどくなるばかり。
眠れずに痛みに耐えかねてERに。
夜半のため、待ち時間も大してなくドクターに診てもらうことが出来ました。
いざという時に駆け込める医療があるのに感謝!
今後送付される医療費請求にも感謝!…………出来るかな?
この日は二人の子供らを歯医者へ連れて行く。
8ヶ月ぶりの検診となろうか。
長女にはまだ抜けていない子供の歯が2本ほどあり
これを抜歯するように勧められた。
合わせて虫歯の治療も。
長男にも子供の歯の数本に虫歯が発見される。
今後の歯磨きの頻度や手法などを指導いただいた。
これらのことは想定されていた。
一つだけ想定外の発見。
長女の歯茎が薄いため
最も柔らかい歯ブラシを使用するようにとのこと。
堅い歯ブラシでは、歯茎も減ってしまうという事か?
地中海に沈む夕日。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートは次のリンクから:
http://hosannamin.org/whatsnew/view/611695
「ベタニア村での憩」
マタイ25章1~16節
~マタイ福音書連続講解説教95~
現在の西側民主主義国家では、
様々なことなる価値観や宗教が共存する多元化された社会です。
平和で自由が享受できる社会では、
信教や思想、表現の自由が尊重されてしかるべきです。
ところが時代が沸騰してきたとき、
そのような多元社会は他者を強要する余裕を失い、
YESかNOを迫る2分化された社会へと変貌せざるを得なくなります。
明治維新の時、開国か攘夷かで国論が二分されました。
太平洋戦争時には、戦争協力するか非国民となるか
二つに一つの道しか選択の余地がなかったのです。
世界の終末時代は究極の沸騰時期です。
このとき、世界が統一されその王であり神格化された反キリストに付き従うか、
キリストに従うかの二つの生き方しか人には与えられないと聖書は預言します。
転機的な「神の時」を迎えたとき、
人類は二分されていくことをマタイ25章から見てきました。
1.携挙の時、二分される全人類~たとえ話・25:1以下から
2.再臨の時、二分される異邦人たち~たとえ話・25:31以下から
主イエスが十字架に至る過程でも
同様に人々は二分されて行きます。
① サンヘドリンとベタニア村の対比
サンヘドリン(3~5)とはユダヤ人の最高権力機関、
つまり国会のようなところでありました。
その議長であるカヤパ(大祭司)の家の中庭にて
イエス殺害の陰謀が密かに進行しています。
一方、ベタニア村のとある家ではイエスを歓待するパーティが開かれ、
質素ながらも愛と平和に満ちたものでした。
ベタニア村はオリーブ山東麓の田舎にあり、
そこにはイエスを愛する3兄弟姉妹がいたのです。
マリヤとマルタ、
それにかつて蘇させられた(ヨハネ11章)兄弟のラザロでした。
彼らは主イエスとの最後の時を
寸秒も無駄にすることの出来ない緊張の中で
心行くばかりにフェローシップ(交友)を楽しんだのでした。
策謀渦巻くサンヘドリンとは真逆に位置していました。
②マリヤと12弟子との比較
マリヤ(ヨハネ12:3)は
結婚式の初夜に使うという高価なナルド油をイエスにそそぎかけます。
誰もがその行為の真意を理解できない中にあって、
「わたしの葬りの日のためにそうしたのです」(ヨハネ12:7)
と主は言われ、彼女の心中にあった動機をご存じであったことを告げられます。
マリヤはイエスの使命が贖いの死にあることを理解していました
それは他の12弟子らの理解できなかった領域です。
彼女は、
献身的な傾聴の姿勢から(ルカ10:39,42)洞察力を得ていました。
3年間ほど主との共同生活による実地訓練を受けてきたにも拘らず、
12弟子には主の死というゴールが受け入れがたいものでした。
これは4回目となる受難の告知の直後の出来事です。
受難のメッセージを彼らが理解できなかったのは、
自己願望や自己計画、いわゆる自我が心中に風船のように膨れ上がっていて、
神の声を聞こえなくさせているからです。
貴方は、イライラと憤慨することがありますか?
その時、あなたの心には神のことを考えるスペースはなく、
自分の都合や願いでいっぱいとなっていて、
それが満たされないので怒りがあふれ出すのではないでしょうか。
③イスカリオテのユダとイエスの比較
イスカリオテのユダは、弟子集団の会計係りであったことから
信頼も厚く、かつ計算能力のある人物であったと推定できます。
彼が最も激しく、マリヤの愛の行為を咎めています(ヨハネ12:4~6)。
過越祭はチャリティー期間でもあるので、もっともらしい理由を並べたが、
真の彼の狙いは会計の不正利用にありました。
彼の自我(願望やら計画)がとん挫した時、
険しさと怒りとにあふれてマリヤを非難しています。
主イエスが彼女を擁護したこの出来事を境にして
ユダは裏切りを決意するに至っています。
主イエスのたどる使命を知ったゆえに
~死なれるなら、自分は王国設立時の重要ポストを得られない。
主イエスの価値観を知った
~主は金銭ではなく、純心の愛をより偉大なものとし見積もっておられる。
一方、イエスの使命と献身(2)を考えてみましょう
①誕生時から背負っていた父なる神からの使命があった
~それが贖罪の死
②使命が成就されるためには二つの条件があった
「二日たつと」:OTから過越しの祭りのゴールとして死ななくてはならない。
「十字架」 :神に呪われたものとして「木にかけられなくては」ならなかった。
主イエスにとり自己の願望や計画に走るよりも、
使命に従順であることが最大の関心事でした。
そのためには、神ご自身の特権から離れることから始まり、
地上に下り、死後の世界にまで降ることを選ばれたのでした。
イスカリオテのユダと主イエスの位置関係も対極にあることが変わります。
その生涯の総決算も、対極にあるものとなりました。
ユダは自殺して、その腸が全て飛び出るというう悲惨なものとなりました。
主イエスは復活して、ご自身が神の子であることを証明されました。
さて、貴方の立ち位置はどこにあるでしょうか。
中間はあり得ま せん。
「己」を優先させるか、
主イエスに従う道を選ぶか、
二つに一つの道しか人には与えられていないのです。
昨日に引き続いて、
ISからの迫害を人々はどのように対処したか、についての報道を紹介します。
海岸の波打ち際に補導された後、黒装束のIS戦闘員たちに
次々と喉をナイフで切られて処刑されたエジプト人の動画には背筋が凍りつきました。
彼らはコプト教徒(伝統的エジプト版キリスト教徒)であるという理由で
テロリストらから命を奪われたのです。
エルサレムの聖墳墓教会の裏側に回った高台に
コプト教会があり、数年前訪れたことがあります。
東方キリスト教聖堂の典型のようなケバケバしい装飾品と
礼拝のための香の香りが充溢していたのが印象に残っています。
聖堂や礼拝形式といった外側の入れ物を見て
当人たちの信仰を吟味・評価しようとするほど浅薄で愚かなことはありません。
プロテスタント教会のようなシンプルで、聖書信仰が高揚されていないからと言って、コプト教徒らがシンプルで純粋な信仰を持っていないと決めつけてはなりません。
家族を支えるために、リビアへ渡って汗を流していた労働者たちです。
彼らが何をしたので虐殺されなくてはならないのでしょうか。
第3者の傍観者に過ぎない私でも怒りがこみ上げてくる中で、
その犠牲者の母親が何と言っているか。
犠牲者の実兄の電話インタビューの肉声からは、
信じられないような話が伝わってきます。
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
と教えられた主イエスを信じる者として、
そのスピリットを内に宿した者の実際はこうも気高くなり得るのか、、、?
正直、私は衝撃を受けました。
さらに、エジプト軍がISを報復攻撃したことに関しては、
次のようにコメントしました。
「犠牲となった人々の消息が分からなかった期間の長さだけが、
空爆を正当化する理由です。もし拘束された日に殺害されたなら、
何の報復も願わなかったでしょう」
このコメントは、大切な家族の消息を知らされないまま捨て置かれた期間は、
彼らにとって拷問を受けているような一刻一秒の連鎖であったのであり、
当事者でなければあり得ないコメントであると感じました。
(以下が「クリスチャニティ・トゥディ」からの引用です。
ビデオでは肉声も聞けます。ぜひご覧ください。)
過激派組織「イスラム国(IS)」により、北アフリカのリビアで殺害されたコプト正教会の信者21人のうちの2人の兄弟である男性が、殺害映像の中で兄弟たちの信仰の言葉が残されていたことを感謝した。
17日に放送されたアラブのキリスト教系テレビ局「SAT−7」の祈りと礼拝の中継番組で、ベシール・カメルさんは、殺害された兄弟のビショイ・エスタファノス・カメルさん(25)とサムエル・エスタファノス・カメルさん(23)を、「キリスト教の栄誉のしるし」として誇りに思うと話した。
この恐ろしい殺害の場面を見た人は世界中にいる。殺された人のうちの何人かの最後の言葉は、「主イエス・キリスト」だった。
番組に電話出演したベシールさんは、キリストへの信仰の言葉を編集で消さなかったことをISに感謝した。それを見て自身の信仰も強められたからだ。そして、犠牲になった出稼ぎ労働者の家族たちは「互いに祝い合い」、絶望はしていないという。「私たちは、私たちの村出身で、犠牲となったこの人たち一人ひとりを誇りに思います」とベシールさんは番組で語った。
ベシールさんは、「ローマ時代から、キリスト教徒は常に迫害の犠牲となっており、自分の人生に起きた全てのことに対処することを学んできています。聖書は私たちに敵を愛し、私たちを呪う者を愛するよう教えていますから、このことはただ私たちの信仰を強めただけです」と語った。
犠牲者たちは昨年12月から今年1月にかけて、ISに拘束された。ベシールさんは、エジプト政府が報復として行った空爆も歓迎している。「犠牲となった人々の消息が分からなかった期間の長さだけが、空爆を正当化する理由です。もし拘束された日に殺害されたなら、何の報復も願わなかったでしょう」とベシールさんは語った。
番組のホストであるマヘル・ファエズ氏が、もしISを赦すよう請われたらどんな言葉をかけるかと尋ねたところ、カメルさんは母親の言葉を引き合いに出し、もし母親が息子を殺した人の一人に会ったなら何をするかを話した。「私の母は60代で、教育を受けていない女性ですが、犯人によって息子は天の御国に入ったのだから、犯人を家に招き入れ、神に彼の目を開くよう願うと言っていました」
兄弟を殺害した者たちのために祈るよう招かれ、ベシールさんはこう祈った。「愛する神、彼らが救われ、無知でいることをやめ、これまで教えられてきた間違った教えから離れられるように、目を開いてください」
SAT−7がこの映像をフェイスブックに投稿すると、数時間のうちに9万6千回も視聴された。21日までの視聴回数は19万回以上に上り、7千回以上共有されている。
■ ベシール・カメルさんが電話出演したSAT−7の番組(英語字幕付)
http://www.christiantoday.co.jp/articles/15387/20150221/islamic-state-coptic-christian-faith-words.htm
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