遊ぶときは全力疾走、
登校となると足が前に出ない。
私に良く似てしまったらしい。
学校4年になる長男は毎朝、
車で学校まで送迎してもらおうと要求してきます。
級友のほとんどはそうしてもらっているし、
そうでなければスクールバス登校。
「忍者は鍛えなくっちゃならない」
「忍ぶ者と書いて忍者だ」
「日本の子供達はどんな遠くても歩くんだ。山形で体験したろう?」
そんな風に言いながら、
納得しない彼を連れて歩くのが毎朝の日課となっている。
徒歩で12、13分かかるので一人で歩かせるわけにもいかない。
せめて集団登校ができれば親は必要ないが、
そんなのはどこの町でも聞いたことがない。
親の出勤時間にあわせて登校させるとなると、
それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。
個人主義のこの国では待ち合わせての集団登校はマッチしないのか?
集団であっても子供だけの登校は危険視されているからなのか?
本日は二人して家を出たところで、
雨が降っているのに気がつく。
急遽、車で送ることとなり、
長男はご機嫌。
傘をさせばいい、
と普通の日本人ならお考えでしょうが、
傘は使わないのがシアトル流。
傘はダサイと思われていて、
子供も使いたがらない。
私もそこまでさせたくなかった。
これはサムライの子孫ゆえか(濡れて歩きませんでしたが、、)
シアトルに染まったものだけのことか、
自分では分かりません。
サーヴィス精神旺盛で、ミニカーのオンパレードまで
ベルビューの本局であるベルビュー・ウエイにある郵便局に行って来ました。
気が付いたこと二つ。
❶priority mail にトラッキングサーヴィスが付随するようになりました。
これまではそのサーヴィスを別個に購入していたのですが、便利になりました。
もっともサーヴィス料金込みに価格が上昇してたので、「チャッカリ」(^○^)
米国の郵便局も赤字続きだと聞いてますので、その対策の一貫かも。
❷私に対応してくださったのは50代のメガネをかけたおじさん。
気の優しい方で、これまでにも配送料や配達日のことで
丁寧にアドバイスを頂いてきました。
この方の窓口に、たくさんのミニカーが駐車してあるのに気付きました。
「これ集めるのが、趣味なのですか?」
「お客さんが持ってきてくれたんだよ」
「へえー、こんなにたくさん?」
「ここに置いてから1年と半年にはなるよ」
やはり気さくなおじさんのファンが多いようです。
窓口の一画を占拠する「遊び」が許されてしまうのも
気さくな米国流と言えましょう。
誕生日の日、登校直前のとき。
本日は長女の12歳の誕生日です。
12年前、まだアパートに住んでいた時、
家内から突然の破水の告知。
3日の夕刻でした。
二人でベルビューのOverlake病院に急行しました。
途中、ケンタッキーフライドチキンで食料を買い込み。
ドクターより長期戦に備えて食料準備を勧められたからです。
付き添いの私のために言ったのだと勘違いをしていた私。
実際は家内の体力維持のためのアドバイスでした。
自分では欲しくもないフライドチキンにどうして寄り道をするのか、
彼女は分からなかったらしい(^ ^)
病室では
陣痛に10時間以上も耐えながらも、
長女は産道に姿を現しません。
家内の血圧は下がり、
長女の心拍数は上昇。
危険値まで達した明け方、
ドクターは帝王切開を決断。
手術室に移送されお腹をメスで切られている家内のすぐ横で
その一部始終を目撃。
写真撮影も許されたのでパチパチ。
切開された腹の中に片手を突っ込んだドクターは、
胎児の頭部を探し当てると
鷲掴みにして引き上げました。
白い蝋のようなものに覆われた長女。
口から異物が拭き取られると
「ウンギャ〜」
火がついたように泣き出しました。
「明美ちゃん、ダディだよ」
そう隣で呼びかけると、
泣き止んで私の方に顔を向けるではありませんか*\(^o^)/*
その日まで毎日のように日本語で話しかけていたのが功を奏した瞬間でした。
長女を抱いたとき、世界が変わって見えました。
この先何があってもこの子を守り抜く。
この子を育てて、やがて神様にお返しする。
神様が私たち夫婦に授けて下さった宝物。
私たちのものでなく、神様のもの。
私たちは一時的にお預かりしたに過ぎない。
こんな者達に信頼して授けて下さり、
主よ、ありがとうございます!
新しい世界が広がった瞬間でした。
マタイ福音書連続講解説教29
マタイ12章38~50節
「メシアとの論争―その③:しるし論争」
{メッセージの抜粋}
先回のパリサイ人らとの決定的な対立の後、
主は彼らから距離を置き、
弟子訓練に集中するようになります。
すると、パリサイ人らは寂しく感じたのでしょうか?
さらに「しるし」を求めてきました。
それに対して主は、
もうしるしは「ヨナのしるし」以外に与えられないと宣告。
これはご自身の、死と埋葬、復活が
貴方が信じるためのしるしであり、
それ以外のしるし(証拠としてのもの)は与えられない
との教えです。
1) 律法主義(口伝律法)との対立
これまでに何度も見てきたように、
主はパリサイ人や律法学者たちの律法主義と対立されました。
それは口伝律法とも言われているもので、
聖書(律法)には書かれていない、
先祖たちからの伝承が口で伝えられた教えです。
例えば安息日の律法一つに対して、
何と1500もの細則をぶら下げて
「何をしたら仕事になり、禁忌事項となるか」
を規定しています。
そのような彼らの律法解釈に対して、
メシアとしての解釈、
本来聖書が教えいるもの
を説明したのがマタイ5章でした。
主イエスはこうして律法主義は排斥されましたが、
律法自体(つまり旧約聖書)は神聖であると認め、
尊重されました。
律法に書かれていることの一つだに主は破られたことはありません。
主イエスが新しい宗教を創始したのではなく、
アブラハム、ヤコブ、イサク、
そしてモーセやダビデ、
イザヤやエレミヤなどの預言者たちの系譜を
継承したレムナント(残りのもの・真の信仰者)の一人です。
2) 主は律法を成就するために来られた
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 」(マタイ 5:17 )
主は、律法と預言者(旧約聖書)を「廃棄」でなく、
「成就」するためにお出でになられました。
人が守りきれなかった律法を、
はじめて新約(十字架の購い)を通じて
完成できるようになったからです。
これはOTにおいても預言されています。
31 見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。--主の御告げ--
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。--主の御告げ--わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。--主の御告げ--わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
(エレミヤ31章31~34節)
3) 主は律法を破棄された
「一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
--律法は何事も全うしなかったのです--
他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。
私たちはこれによって神に近づくのです。 (ヘブル7:18-19)」
マタイ5章では旧約聖書が「廃棄されない」と言われていましたが、
一方ヘブル書では「廃止された」と過去完了で教えられています。
一見矛盾するようですが、
文脈を考慮すれば紐解かれます。
マタイ5章は山上の垂訓の教えで、
メシアとして律法を再解釈したところです。
当時の人々は、主が律法を破るように教えたとして誤解しました。
しかし口伝律法こそ律法の精神を見失い、
人間の教えに汲々とした形式主義です。
主はこの文脈を踏まえて律法を「廃棄でなく、成就」と言われました。
つまり律法が書かれた精神、動機、目的を
成就するのが新しい神の国運動であり、
それは十字架と復活による新しい契約により達成されたのです。
ヘブル書の論理は、
メルキゼデク系のメシアが新しい祭司となったので、
古い律法(アロン系の祭司制度)が廃止されたのだ、
というものです。
また、ここでの「廃止」は律法の精神ではなく、
祭司職や礼拝の方法、規 定などの外側の諸々の規則
であることが文脈から明らかです。
もし祭司が変わるなら、
これに付随して法律も変わらなくてはなりません。
「 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、
--民はそれを基礎として律法を与えられたのです--
それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、
メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません。」
(へブル7:11~12)
ここで「廃止された」:(アセテーシス){ヘブル7:18}は、
聖書で2回だけ使われているギリシア語です。
他にはヘブル9:26のみに見出されます。
「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、
ご自身をいけにえとして罪を取り除く(アセテーシス)ために、
来られたのです。」 (ヘブル 9:26)
メシアの死が罪の咎や責めを無効としたのと同様に、
律法を無効としたのです!
さらにヘブル7:18には、
律法を無効とした二つの理由があると教えます。
① 律法は人に戒めを守らせる力を与えられない「弱い」ものである。
また、神の義を与えられない「弱い」ものである
② 律法は人に命を与えない「無益なもの」である。
4)「 安息日」も、「聖日」も過ぎ去ったものである
今やメシアの律法が
新約時代に生きるクリスチャンに適用される法体系になりました。
新しい契約により、
安息日規定をはじめとしたモーセ律法は
ことごとく廃止されています。ガラテヤ3:25、4:9
イエスは死と復活、天に上げられ父なる神の右の座に着いて
大祭司の職務に着任されました。
メシアが新しい祭司職に就任するためには
古いモーセ律法が廃棄されてなくてはなりません。
もしその律法が今も有効だとすると、
メシアは祭司の働きができないことになります。
旧約時代の祭司制度が廃れてないところでは、
新しい契約は機能しないのです。
この視点は、
「現在でも安息日の土曜日に礼拝を持つのが聖書の教えだ」
「いや新約時代の安息日は日曜なのだから、その日が聖なる日なのだ」
という考えが聖書の教えと合致していないことを明らかとしてしまいます。
つまり安息日に変わる日曜日を
礼拝のために守るようにとは教えられていません。
また場所(旧約時代はエルサレムの神殿だが今はありません)も、
その方法も(旧約は血を流しましたがいまや無用)、
日時ばかりでなくどうこうせよとの外側を規定する教えは
無効(廃棄)されたのです。
繰り返しますが、
新しい契約により律法の精神が成就されたので、
形式はことごとく廃棄されたのです。
今や無用のものとなりました。
ただ、「一緒に集まることをやめたりしないで」(ヘブル10:25)
と教えられていますので、
新しいキリストの律法は、
集会を守り続けることであるのが分かります。
つまり最低週一回の会合が、
新約時代に生きるわれわれ信者の律法です。
が、それを何曜日にせよと命じる指定は聖書にありません。
教会がそれを教えたら、本来の聖書にない「口伝律法」となります。
ただし、主が日曜朝に復活され、
以後も日曜毎に弟子たちの前に顕現されたことから
初代教会の信者たちは日曜礼拝を守り続けてきました。
それが数千年間のキリスト教会の伝統となったのです。
良い伝統であるなら、これを尊重するのは良いことです。
私たちのホサナキリスト教会も日曜礼拝を行っています。
が、それを「聖日」とは呼んでいません。
律法にあった特別な「聖なる日」、「聖なる器」、、、
すべては新約にあって無効となったからです。
ただ、長くそのような伝統の中にあった方達には、
日曜日が礼拝のための特別な日であるという感覚は
すぐに抜け切らないものです。
聖書はそれを「弱い信仰」とした上で、
強い信仰を持っている人が、批判することを禁じています。ローマ14:1~7.
日本のクリスチャンは少数ですので、
がんばって信仰生活に励もうとのあまり
子供たちの日曜部活の課題、
農作業や会社での日曜出勤に無理してしまい
「聖日厳守」との「現代の口伝律法」に縛られたきた傾向が認められます。
どうしてもこれが厳守できないとき
そこで罪責感を抱いてしまい、
健康な信仰生活が損なわれているとしたら、
「聖日」律法主義から脱却されなくてはならない
と私は考えています。
主は、
その束縛からも解放を与えてくださる方であるのを知るのも
新約時代に生きるわれわれの特権です。
4曲歌いました。
英語歌詞が聞き取れればよいなと思いました。
この日の朝、ポートランドから急いで帰宅。
長女の大切な歌唱競技会が午前10時半から始まるのです。
「ダディはいつも私の誕生会や大切なステージにいない。いつも、いつも!」
そんな風に咎められていますので、
この時ばかりは多少無理して帰りました。
声楽を学んでいる子たち5名ほどが1セッションでそれぞれ数曲を披露し、
それぞれの曲についてプロ2名からの評定をいただくというもの。
セッション中は教室が外部から完全遮断され、
物音一つしない静寂となります。
ピーンと張り詰めた空気。
生徒の家族ら総勢30名ばかりと、
目の前にデーンと大きな机を構えて評定のペンを走らせている審査員を向こうに回して
一人で立ち、
一人で歌わねばならない子供たち。
すご〜い度胸。
我が娘ながら感心(^O^)
やはり鷹を産んでしまったようですね。
動画は以下のリンクから見ることができます。
私の操作ミスで、角度を修正できませんが。。
http://www.youtube.com/watch?v=AM8UqFdUIHk&feature=youtu.be
この曲は以下からのものです。
Can You Feel the Love Tonight? from The Lion King
"Can You Feel The Love Tonight"
There's a calm surrender to the rush of day
When the heat of a rolling wind can be turned away
An enchanted moment, and it sees me through
It's enough for this restless warrior just to be with you
And can you feel the love tonight
It is where we are
It's enough for this wide-eyed wanderer
That we got this far
And can you feel the love tonight
How it's laid to rest
It's enough to make kings and vagabonds
Believe the very best
There's a time for everyone if they only learn
That the twisting kaleidoscope moves us all in turn
There's a rhyme and reason to the wild outdoors
When the heart of this star-crossed voyager beats in time with yours
河の向こう側がオレゴン州、ポートランド。
鉄橋はI 5です。
今回のポートランド遠征では
コロンビアの河畔に位置するホテルに滞在。
レストランからの眺望が
幅広いコロンビア河を見渡せて良かったです。
毎朝、朝食後にそこで執筆や読書。
自宅よりも作業効率がUPしているように感じます。
場のもっている力のようなものがあるのでしょうか?
家人から要求されるものがないのは確かですが、
周りに余計なものが一切なく、持ち込んだ原稿・図書案件に集中しやすいのが大きいようです。
そうなると、その場から腰をあげるのが難しくなりますね。
サッカーを始めた親子
やがてタックルが始まりました。
ラグビーの発祥も熱狂したサッカーの試合から始まったのと同じですね。
数日前、
このブログを更新しようかと頭をひねらせていたとき
窓の外が賑やかになってきました。
書斎の窓は裏庭に面していて、そこで遊んでいるものがいたのです。
これまで冷たい雨に阻まれて
私が誘っても決して外に出ようとしなかった子供たちでした。
緩み始めた冷気に
冬眠から目覚めたようです。
ホサナキリスト教会
「聖書広場」からの引用です
http://wdx.hosannamin.org/
「メシアとの論争―その②:ベルゼブル論争」
マタイ12章22~ 37節
~マタイ福音書連続講解説教29~
⑴歴史の分水嶺
マタイ12章は歴史の分水嶺となった出来事が記されてあります。
これを聞いたパリサイ人は言った。
「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、
悪霊どもを追い出しているだけだ。」 (マタイ 12:24)
ここで、正式にユダヤ人がイエスを拒絶したために、
❶神の国の到来プログラムが変更しました。
メシア的な王国は将来実現…主の再臨にまで延期となりました。
「教会」が誕生することになった~「奥義」(OTでは明らかでなかった啓示)
❷ユダヤの歴史が二分された
AD70年のエルサレム崩壊の裁きを受けて、世界離散の運命
約2000年間の流浪の生活が始まりました。
やがてユダヤ人は将来の艱難時代にイエスをメシアと仰ぐようになります。
すなわち、神の選民計画はユダヤ人の失敗によって終わっていません。
❸主イエスの働きが激変した
説教は直接話法からたとえ話を多用するようになり、一般群衆には理解できないものとなりました。
奇跡は公に行われず、個人対して、しかも信仰を抱く者たちに限定されるようになりました。
群集からは身を引かれるようになり、時間のほとんどを弟子たちの訓練に使うようになりました。
⑵ルールを作る人とルールを守る人
ここで話は飛躍するようですが、
日本と欧米のポジショニングを比較して見ましょう。
昨日、日米首脳会談を終えた安部総理が帰国しました。
日本の最大課題は次の2点です。
①尖閣諸島問題でのアメリカの協力を引き出す。
②TPPで例外品目の余地を残すのを認めてもらう。
大きな成果を残せたと、日本中はお祭りムード。
一方、米国内ではニュースの片隅に小さく取り上げられたに過ぎません。
なぜいつも日本は、米国に対して下手に出るしか無いのでしょうか?
①太平洋戦争に負けたから
②東京裁判で断罪され戦争加害者の烙印をおされた
③以後、日本人が自虐史観の歴史観を植えつけられている
④米国の核の傘に守られている
⑤安保条約なくして日本の独立は守れないのだから
衛星国のような立場にいる他ない…など。
何れもその通りなのですが、
最近さらに問題の根源に踏み込んだある論文に遭遇しました。
それによると、日米では
「戦略の階層」
が異なるからだ、というもの。
日本の得意なことは物作りであり、技術です。
さらに均一された価値観のもとで和合、協力し、
創意工夫によって集約的な成果をあげることです。
これらは狭い国土での稲作農業によって
培われてきた特質と言えます。
ところが、欧米の生産形態は長い間、狩猟や放牧でした。
そこから身につけた技能とは
「管理」
することです。
家畜を管理し、天候や土壌を管理してきました。
植民地主義の中で現地民を家畜のように使役するのにも長けて、
自国民が最大の収益を生み出すシステムを構築させたのです。
それに対して、欧米の作り上げたシステムを
常に日本は後追いしてきました。
産業革命と植民地経営がセットとなった帝国主義に江戸日本が遭遇した時、
慌てて明治維新を起こしてその後を追いかけた。
植民地主義で欧米の利害と対立して
止む無く大戦に引きずりこまれた時
(あえて日本から先制攻撃をし掛けたとは記しません^o^)、
すでに彼らは民族自決や平等、人権という価値観に軸足を移し変えようとしていた。
卑近な例では、日本の得意芸の家電製品。
ソニーのウオークマンは、
大きなラジカセを携帯サイズにしたことが画期的で世界に広がりました。
コンパクトにまとめ上げる技術力!
が、今やアップル社を始めとした端末機に
その役割が取って替えられています。
アップル社は端末機を作り上げただけでなく、
iTunesという音楽配信システムまで作り上げてしまったのです。
この世界制覇システムによって、市場独占はゆるぎないものとなりました。
ルールを作る人がいる。
また、そのルールを守りその範囲内で活躍を目指す人がいる。
どちらが先行するかは明らかです。
戦勝国が押し付けた憲法を今もありがたがって貴び、
無理な解釈を重ねて辻褄を合わせるが、
改正はタブーであると自らを呪縛する
これまでの平均的な日本人がその良い例でないでしょうか。
「戦略の階層」では、7つのヒエラルキーが紹介されてあります。
①Vision. 世界観
②policy. 政策
③Grand Strategy. 大戦略
④Military Strategy. 軍事戦略
⑤Operation. 作戦
⑥Tactics. 戦術
⑦Technology. 技術
ここで日本人が得意とする「技術」が最も下にある。
米国人が価値を認める「世界観」が最上階にあります。
(3)聖書の世界観
多くの日本人が一般的に宗教に期待しているものは
即物的で現世的なご利益です。
商売繁盛、家内安全、受験祈願、、、今年も8割以上の日本人が 初詣で祈願したようです。
ところが、聖書には是等のご利益は約束されていません。
健康や繁栄が欲しくてクリスチャンになるものでもないのです。
それら大切なものを失って始めて
永遠に変わらない
普遍的な価値に目覚めて
信仰に導かれた方は多くいます。
聖書の教えは、貴方に世界観の逆転を求めるものです。
貴方は偶然の繰り返しでサルから生まれ出たものでなく、神によって造られた存在である。
その神の存在と人への関わりを啓示するため、神はアブラハムを先祖にもつユダヤ民族を選ばれた。
「神の国」はユダヤ人から生まれ出る一人の子孫、メシアによって成就する。
メシアが2000年前に来られた時、ユダヤ人はこの方を排斥した。
よって当時のユダヤ人から神の国(メシア的王国)は取り去れて、教会時代が始まり、神の国の福音は全世界に広まって行った。
神がアブラハムと交わした契約は片務契約である。それゆえその契約はユダヤ人の失敗にもかかわらずに成就される。
現段階でその成就の片鱗を見ることができる。
①土地所有に関する契約条項ーユダヤ人の約束の土地への帰還
②子孫に関する契約条項ーユダヤ民族を始めアラブ民族など多くの国々が誕生した、メシアであるイエスが生まれ出た
③祝福に関する契約条項ーユダヤ人を迫害するものはより大きな裁きを受けてきた。
メシアを通じて全ての異邦人が救いの祝福を受けるようになった。
この契約の完全成就は将来、
主イエスが再び地上にお帰りになられる時(地上再臨)であり、
世界の歴史はそこに収斂されつつある。
聖書は明日、明後日の貴方のご都合を約束しない。
数千年単位で俯瞰する世界歴史が
聖書預言の通りに推移していることを教えており、
そこに神の視点で歴史を理解する世界観がある。
そこには神の約束に立ち続ける忍耐と
今日の課題に立ち向かう力とがある。
ポートランドで今や最もホットな日本食レストランと言えば、
しげぞう。
そのしげぞうからサウスイースト地区に姉妹店が
この1月にオープンしたと聞いて行ってきました。
その名は、「屋台村まる」。
コンセプトは日本の「屋台」
広い店内に3箇所の屋台が設置され、
それぞれすし、ラーメン、炉端焼きセクションとなっている。
日本での屋台経験はゼロの私で、それで
望郷を感じることはなかったですが、
ユニークな店舗アイデアに楽しくなりました。
メニューも豊富なので、いつか家族も連れてきたいです。
あっ、味ですか?
もちろんよかったです。
しげぞうさんは本格的な日本の味とサービスにこだわっています。
この週の金曜夜の話ですが、SALMON STにある本家のしげぞう店は満席で行列ができていました。
仕方ないので、2ブロック先のBROAD WAYにあるこうじ大阪屋に行きました。
テーブル数で20ほどあるお店に2組しか客がいませんでした(涙)。
ホサナキリスト教会「聖書広場」からの引用です。
http://wdx.hosannamin.org/
「メシアとの論争―その1:安息日論争」マタイ 12 章 1~ 21 節
~マタイ福音書連続講解説教 28~
マタイ 12 章には3種類のイエスに対する論争・挑戦があります。
1. 安息日に関する論争 :1~21 節
2. 悪霊を追い出す権威に関する論争 :22~37 節
3. メシア的しるしに関する論争 :38~50 節
安息日は、ユダヤ人・ユダヤ教を最も特徴付けている、
最重要の戒律です。
私達は神により造られ、
神の栄光を現すために今を生きています。
これが聖書が教える生きる目的であると言えます。
ところが、ユダヤ人は違うようです。
「ユダヤ人は安息日を守るために造られた」
という格言があるほど
安息日は絶対的な位置を占めていたのです。
現在でも正統派は
そのような理解を保ち続けています。
マカベア戦争で、
安息日に進入してきたアンティオコス軍勢に応戦せず、
彼らはみすみす敗北しています。
ローマ・ポンペイウスにも、安息日だからと言って反撃せず、
エルサレム入城を許してしまっています。
安息日の神聖を汚すよりも、
命を落とした方が潔いと考えたのです。
そんなに大切な「安息日」とは、そもそも何でしょうか?
❶律法と口伝律法
安息日についての教えは、
旧約聖書にあります。
「8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。--あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も--
11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
出エジプト 20:8~11
ここに「どんな仕事もしてはならない」とありますが、
これだけなら、何をもって「仕事」と定義するのか定かではありません。
そこで彼らが定義したものが口伝えで先祖代々から伝えられてきました。
これを「口伝律法」(ミシュナ)といいます。
モーセがシナイ山で神から授かった律法は、
成文法として旧約聖書に収められていますが、
その際、文書にならなかったものがあって、
それらが口伝律法になったと彼らは考えたのです(事実ではありません)。
この論理から、律法と口伝律法とは同等の権威をもとものと考えられていました。
安息日にしてはならない口伝律法が、
驚くべきことに、1500 ほどあるのです!
それらすべては、たった一つの「安息日」に関しての細則です。
そしてメシアが出現したら、
メシアは当然ミシュナを尊重し、
遵守すると信じられていました。
イエス様は口伝律法を否定されました。
当然、体制側のパリサイ派、律法学者たちから激しい反感を買うことになります。
❷パリサイ派の糾弾
「1そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」
(マタイ 12:1-8)
麦畑にて
イエス様は弟子たちが穂を摘まんで食べたと言って
パリサイ派から訴えられました。
ここで、誰でも麦畑で穂をつんで食べることは許されていたのです。
「隣人の麦畑の中に入ったとき、
あなたは穂を手で摘んでもよい。
しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」 (申命記 23:25)
パリサイ人たちにすれば、
安息日にこれらを行ったことが問題となったのです。
以下が彼らの告発理由です。
①手で穂を摘まんだ ~収穫の労働を行った!
②手の中で、穂ともみ殻のふるい分けをした~ 脱穀の労働を行った!
③そのもみ殻を息で吹き飛ばした ~食事の準備(ふるいわけ) の労働を行った!
④実を食べた(胃の中に納めた)~貯蔵の労働を行った!
❸主イエスの回答
①歴史的事例
かつてダビデとその部下たちは律法を破った。
祭司しか食べてはならないはずの捧げられたパンを
空腹だからと言って食べたのが律法違反である。
それでも神は咎めておられない。
生命の維持は律法に優先されるものだから。
ここに「ダビデの子」=メシアとしての
イエスとその弟子たちが同様のことをして、
何の問題があろうか。
②神学的事例(礼拝は律法に優先されるもの)
祭司たちは礼拝を維持するため、
安息日でも神殿で多くの仕事をしている。
つまり、礼拝と安息日遵守とをユダヤ教で比較すると
どちらが優先されるのだろうか?
答えは、礼拝であると明白に旧約聖書が認めている。
メシアはその礼拝対象のお方であられる。
ゆえにメシアは、神殿自体よりも偉大な方である 。
③聖書的事例
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(ホセア 6:6 )
外面的な儀式の遵守よりも、
神が内面的な愛、哀れみを重視されることを
聖書から学んでいないのか?との問い。
弟子たちが生命維持する上で必要だった「食べる」行為を糾弾して、
不必要な禁止事項を設ける姿勢は
聖書が明白に咎めているではないか。
これらの主イエスの反論に彼らは完敗します。
答えることすらできません。
そこで「だめなものはだめ」「ならぬものはならぬものです」
となり、論理なしで主を拒絶していきます。
これが次回のベルゼブル論争へと繋がります。
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