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<大石内蔵助>妻<りく>の父に宛てた書状発見

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<大石内蔵助>の書状(画像:赤... <大石内蔵助>の書状(画像:赤穂市立歴史博物館)
赤穂義士47人が<吉良上野介>(こ邸に元禄15(1702)年12月14日討ち入る約11カ月前、<大石内蔵助>が京都・山科に隠せいしていた時期に妻<りく>の父に宛てた書状が見つかっています。

<りく>の懐妊(三男の大三郎)が分かり、兵庫・豊岡の実家に帰す日程を相談しており、討ち入りに至る過程の裏側を示す内容として貴重な資料です。赤穂市立歴史博物館(兵庫県赤穂市)が入手し、12月13日~来年2月4日に開く開館30周年記念の特別展「元禄赤穂事件展」で公開されます

書状は元禄15(1702)年1月27日の日付で、<りく>の父で豊岡藩京極家の筆頭家老だった<石束源五兵衛>宛て。「大石内蔵介」の署名と花押が残る。本紙は縦約15センチ、横約248センチ。

赤穂藩が改易になった後、浪人として山科に仮住まいしていた<内蔵助>は、討ち入りを決行した場合、家族に累が及ぶことを心配し、妻子らを実家へ戻すことを決めたとされています。書状では、<りく>が身ごもっていることが分かったと記述。出産予定日が7月ごろのため、2、3カ月以内に豊岡に向かわせなければならないなどと相談しているとか。豊岡に帰すことは召し使いにも口外していないのに、大坂(大阪)で最近評判になっていて驚いたとも記されています。

書状は湊川神社(神戸市中央区)の元禰宜(ねぎ)で義士研究家だった故<林尚右(なおすけ)>氏が著書「大石内蔵助秘話」で1992年に紹介していましたが、「原文は散逸」とされていました。同館は京都の古書店が売りに出していると知って取り寄せ、<内蔵助>の自筆であることを確認しています。
#ブログ #書状

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