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「最後の子羊吟味」

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/23446-66


「最後の子羊吟味」
マタイ22章34~46節
~マタイ福音書連続講解説教66~

主イエスは、神の子羊としてその十全性を
ユダヤ人の各派閥から吟味させられている。

第一グループ(サンヘドリン)、
第二グループ(ヘロデ党)、
第三グループ(サドカイ人)からの挑戦・吟味を終えて、
今回はいよいよ最後の第四グループ・律法の専門家からの挑戦である。

それはパリサイ人の中で最も博識あると認められた、トップバッターであった。

専門的な聖書知識があったとしても、
真の宗教に至らない場合がありえることをこの箇所は教えている。

私たちは、

•分断された知識に対して、統合された聖書理解が必要であり、
•無機質の字句主義から、有機的・生命的な神把握が必要とされる。

言わば「論語読みの論語知らず」、
「聖書読みの聖書知らず」
に陥ってはならないのであり、

聖書はその書かれている主題と
目的を把握しながら統合したものとして理解せねばならない。


  1.旧約聖書と新約聖書の関連性

 主イエスは旧約聖書を最も大切な教えとして、 
二つの聖句にまとめられた。 

それは新約聖書の教えとなんら矛盾するものではない。

では旧約と新約との教えの違いとは何か?

その「最も大切な教え」(=愛)に到達するための方法なり、
到達の程度が異なるのである。

*教えを成就させる力は新約において初めて可能となった
*旧約時代には教えがあっても、人々にとり達成不能のことであった
*ゆえに「新しい契約」が待望された~ヘブル8:10、エレミヤ31:33
*すなわち「心に書き付け、律法を思いの中に入れる」ことである
*それは主イエスの復活と十字架を通じて
神が人との新しい契約を結ばれたがゆえの成就である

  2.主イエスの人性と神性の関連性

 メシアは「ダビデの子」であり、
同時に「ダビデの主」であると聖書が啓示している。

それは人として肉体を持ったダビデの子孫として誕生すると同時に、
人の存在を超越した神ご自身であられるとの預言でもあった。

「主」とは神ご自身を表しているものであり、
ダビデは未だ見ていないメシアをそのように読んだのである。

パリサイ人たちはメシアの人としての側面を認め政治的解放者として期待したが、
人を罪から救うところの神としての側面はなおざりにしていた。

  3.ユダヤ教とキリスト教との関連性

 しばしば一般的に、
ユダヤ教を凌駕する普遍的な宗教としてキリスト教が対峙され、説明されてきた。

ところが、主イエスは旧約の預言者の系譜に属し、
その契約を履行し、その預言を成就されたのである。

この両者もまた質の異なるものでなく、
連続された有機的な繋がりがあるのを見逃してはならない。

当時のパリサイ的ユダヤ教は逸脱したものであり、
本来の聖書的なユダヤ教ではない。

そして今日の一般的なユダヤ教もまたパリサイ派の流れを汲むものであり
聖書本来の教えから遠く離れている。

「聖書的ユダヤ教」(パリサイ主義でない旧約聖書の公正な理解と解釈)
がキリスト教であり、

「普遍的ユダヤ教」(ユダヤ人を超えて異邦人への福音宣教開始の時代)
がキリスト教であるといえる。
#救済

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「屋根の上のヴァイオリン引き」第2回公演

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迫力の開演、Tradition 迫力の開演、Tradition アマチュアとは見えないキャスト... アマチュアとは見えないキャストの迫真演技と生の40名オーケストラによるミュージカル。

昨夜に続いての2回目の公演。

この日は数百台収容の教会駐車場が満車状態。

もちろん上演会場は満員御礼で、おおよそ六百名ほどは集まっていただろうか?

早めに座席を家内が確保してくれたため、
最前列の中央席というこれ以上はない特等席を得た。

長女はこの日、村人の一人としての役をおおせつかっていた。
#アート #伝統 #文化 #芸術

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「屋根の上のヴァイオリン引き」公演中

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開幕は全キャストによるTrad... 開幕は全キャストによるTraditionコーラスから始まります ユダヤ教の強固な伝統を歌い上げ... ユダヤ教の強固な伝統を歌い上げるものです 長女は主人公の子役で登場 長女は主人公の子役で登場 結婚式では村全体のお祝いとなる 結婚式では村全体のお祝いとなる ロシア兵から突然、強制立ち退き... ロシア兵から突然、強制立ち退きを言い渡されて
翻弄されるユダヤの流浪の民
結束固いユダヤ人家庭・コミュニ... 結束固いユダヤ人家庭・コミュニティはその危機を乗り越えて行く 長女の中学校の教師3名も来てく... 長女の中学校の教師3名も来てくださった 長女にとって力強い応援団 長女にとって力強い応援団
「屋根の上のヴァイオリン引き」ミュージカルの初回公演。

1904年のロシアを舞台に
ユダヤ人の小さな村で繰り広げられる日常の喜怒哀楽。

ユダヤ教の伝統・しきたりが色こく演出されている。

時にはコミカルに表現されるそれがユダヤ人に躓きとならないだろうか、と気になる点もあった。

シャトルバスをチャーターして来場されたユダヤ人思しき人々が大勢いたので。
#アート #伝統 #文化 #芸術

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聖書教える死後の世界〜序論

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聖書教える死後の世界〜序論
序論


人は死んだらどうなるのであろう?
存在を失ってしまうのだろうか。

それとも霊魂(非物質的な部分)は肉体を離れて生き続けるのだろうか?

ある人は、見てきた人がいないのだから結局の所は明瞭には証明出来ない、
と結論付ける。

それは各宗教によって異なる見解・教えに過ぎず、
各宗教人による創作(フィクション)だ、と言う。


もし聖書がフィクションであるとすると仮定するなら
上に書いた推論は正しい。

しかし
もし聖書が神が人に与えた啓示の書であるとするなら
フィクションとしてでなく、多少は襟を正して聞くことも必要であろう。


約1500年間に40人程の著者によって66巻の書が記されて来た聖書。

その膨大な分量に加えてバラエティ富む文学形式満載の書。

その各66巻が互いに調和を保ち、
一つだけのテーマに貫かれ、
矛盾点や誤りが一点でも見出されていないとしたら、

どうであろうか。

聖書が神の霊感による誤りのない啓示の書であると科学的に弁証出来るが
それが本稿の目的ではない。

いずれ項を改めてそれを記すこともあるかもしれない。

今回は、
その聖書が
人の死後の世界についてどう語っているかをまとめて見たく思っている。


本稿はハーベストタイムが2012年に開催したフルクテンバウムセミナー
「聖書が教える死後の世界」
をテキストとして多いに参考・抽出させていただいている。

ハーベストタイムが発行している同セミナーのテキストブックや
CDや DVDを用いればより詳細な学びに益するはずである。


聖書の前提 : 不滅

人が死んだらそれっきりでは無いと聖書は教える。
「不滅」であると明確に教えてくれている。

死とは、霊魂(非物質的な部分)と肉体との分離のことで
その霊魂自体は消滅しない。

不滅を定義すればこうなる。

「霊魂が肉体から分離した後、
永遠に、継続して、意識を持って存在することである。」


「 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、
死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。」
(1コリント 15:53-54 )


ここでは人の肉体が不滅であるとの教えである。

この文脈では、
死後に失われていた肉体が、「朽ちないもの」「不死」のものとして
霊魂に与えられるそのときが
主イエスの再臨・教会の携挙の時であると教えている。

#救済

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大和なでしこが来訪

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我が家自慢のすき焼きを召し上が... 我が家自慢のすき焼きを召し上がってくれました この裏庭で次の機会にはサッカー... この裏庭で次の機会にはサッカーを ワシントンと大和の両なでしこ?... ワシントンと大和の両なでしこ?!
桜の薫る季節、
その桜のような爽やかなお客様がわが家においでくださった。

先週の土曜に日本からシアトル入りしたばかりであっても、
すでに彼女は車の運転を始めている。

一人で宇和島屋までの行き方も探し出し、
自炊のためのキッチン用品はじめ食料品、日用雑貨を買い揃えた。

そして、今日はシアトルからベルビューまでの高速道路を自ら運転。

家内の先導ではあるが、初体験を果敢に挑戦して満足気のご様子。

神奈川県大和市出身と自己紹介されたのを聞けば、
彼女こそ正真正銘の「大和なでしこ」となる。

#スポーツ

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ミュージカルがこの週末に開演

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ミュージカルがこの週末に開演 ミュージカルがこの週末に開演
「屋根の上のヴァイオリン引き」

ベルビュー・ニューポート地区の恒例ミュージカルがいよいよ今週から開演。

http://www.nsoarts.com/Pages/default.aspx

3月28日、29日、30日。4月4日、5日、6日。

70人ほどのキャスト、40人ほどのオーケストラによるライブ演奏です。

長女は毎夜出演しますがShprintzeという主人公の4番目の子役としては、
3月28日、30日、4月5日の出演となります。

入場は無料で任意の自由ドネイションがあります。

本日も彼女は放課後の5時から教会へリハーサルに駆けつけ、
帰宅は10時半を回ってました。

#アート #伝統 #文化 #芸術

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桜の開花

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通学路にある桜は三部咲きといっ... 通学路にある桜は三部咲きといったところ 毎日ここを通るのが楽しみ 毎日ここを通るのが楽しみ
今朝のNHKニュースで横浜での桜の開花宣言を知った。

東京ではその宣言を報じるための報道機関各社のカメラマンたちが
代々木公園(だったと思う)の桜並木に数百人集まっているのを生中継していた。

1本の木に6輪ほど開花していれば、その宣言が発せられるという。

こちらワシントン州べレビューでは先週から開花している。

小学校への通学路にも幾らかの吉野桜があって
毎朝楽しませてもらっている。
#自然

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横浜の年会会場へ闖入

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COGの教職者たち COGの教職者たち
この日、COGの総会・年会が日本の横浜・東戸塚教会で開かれた。

私はスカイプ参加。

初日は礼拝のために参加出来なかったが、
その日の総会では任期満了に伴う理事長選挙が開かれ、
高橋富三先生が再選を果たされたとのこと。

小僕もホサナ教会へ再任命を頂いた。

今年は川崎教会が新会堂の建設中とのことで、
短期間での会場を東戸塚教会に変えての年会。

東戸塚教会ではインターネットアクセスがなくスカイプ利用は無理かなと
諦めていたところ、駄目元で川崎のM先生にメッセージ送信。

つながってしまった(^o^)

M先生には「ポケットWi-Fi」なるものがあって
どこにいてもインターネット環境を携帯出来るらしい。

日本に帰国する度に旅行者用のHot Spotがなくて苦労するが、
そのような便利なものがあるとは初耳。


米国の自宅オフィスに居ながらPC画面イッパイに年会会場が映し出され、
親しくさせていただいている懐かしの先生方の横顔も拝見できる。

もちろんそれぞれの発言も良く届いて、
さながら数十センチ四方の窓から横浜に闖入しているかのような感覚。

私もご挨拶をさせていただいた。

皆さん、私の声聞こえましたか??


会議終了後、準備されている昼食に行くという先生に手を差し出して
「僕も連れて行ってください」と嘆願したが、
そこまではさすがのインターネットでも不可能のようだった。

川崎教会の新会堂建設進捗状況についてはこちらをクリック:
https://www.youtube.com/watch?v=LjGeJgMeYZ8&feature=youtu.be
#PC #テクノロジー #ネット

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「サドカイ人からの挑戦」

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ゴラン高原に咲くアイリス ゴラン高原に咲くアイリス

ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://hosannamin.org/whatsnew/view/22333-65

「サドカイ人からの挑戦」
マタイ22章23~33節
~マタイ福音書連続講解説教65~

主イエスが神の子羊としての十全性を吟味させられている場面が続いている。

すでに第一グループ(サンヘドリン)
第二グループ(ヘロデ党)からの挑戦・吟味を終えて、
今回は第三グループ・サドカイ人からの挑戦である。

サドカイ人についてまとめてみる。

1.その教理の特徴
•口伝律法の権威を認めていない
•トーラー(モーセ5書)のみが霊感を受けた正典であるとした
•死者の復活も死後の命も信じていない現世主義者
•天使、悪霊の存在や霊的な世界を認めない

2.その職種
•神殿を基盤とする祭司たちであり、貴族階級
•神殿境内での両替商やいけにえの動物販売で巨利を得ている
•少数であるが、サンヘドリンの有力な構成メンバーであった

3.その運命
•紀元前二世紀のハスモン期に起こった
•神殿のあるエルサレムにしか活動の基盤がない
•それゆえ主のガリラヤ伝道においては姿を現していない
•AD70エルサレム崩壊とともに消滅した


 サドカイ人らの質問(23~28)

 「23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、
イエスのところに来て、質問して、
24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、
その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。
長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、
その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
27 そして、最後に、その女も死にました。
28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。
彼らはみな、その女を妻にしたのです。」 (マタイ22:23-28)

これはレバリット法といわれるもので、
死んだ長男の名前を残し遺産相続を分散させないために
広く他の東洋民族も踏襲していた慣習でした。

復活を認めていないサドカイ人が
パリサイ人をやり込めていた問いでもあったのです。

主イエスはサドカイ人らに対して
「思い違いをしている」と単刀直入で答えられ、
その質問自体の前提に誤りがあるのを指摘されました。


①  「神の力を知らないゆえ」に思い違いをしている。

復活は神の力によるもので、
人の想像や常識を超えるものである。

その際には結婚、出産、死亡はもやはなく
天の御使いたちのようなものであるという。

ここで人間の女たちと結婚してネフィリムというアイノコを生んだ
創世記6章に出現する堕落した天使たち(すわなち悪霊たち)と
「天の御使いたち」とを区別しなくてはならない。

彼らは、
「自分の領域を守らず、自分のおるべきところを捨てた」(ユダ6節)
ものたちで、

現在では「暗闇の下」(タータルス)永遠の束縛をもって閉じ込められている。

やがての主の再臨が起こる時、
人間や世界のありようは根底が変えられるのであり

そこには推し量られない神の力が働いているのを見ることになる。

② 「聖書を知らないゆえ」に思い違いをしている。

復活を教える聖書を読んだことがないのか
と主はサドカイ人たちに問われた(31)。

復活を教える旧約聖書の代表的な聖句が3つある。
   ダニエル12:2
   イザヤ26:19
   ヨブ19:25~26

サドカイ人らはモーセ律法しか権威を認めていないので
これらの聖書箇所には触れられずに、出エジプト3:6を引用された。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

当時のモーセ時代、3人の族長たちは死後400年程が経過している。

ここで神は現在形で
「わたしは⃝⃝⃝⃝の神である」ということは

神が「生きている者の神」であらねばならない前提があるので
彼ら族長たちには永世が与えられている論理的な結論に至る。

そして死後の永世は、やがての地上での復活に通じるのである。

③ サドカイ人の「パン種」に注意せよ

かつて主は弟子たちにそのように訓戒を与えられた(マタイ16:6)が
その「パン種」とは何のことであろうか?

  1.現世利益の宗教
   •サドカイ人らは神殿宗教から利益を吸い取っていた祭司・貴族階級であった。
   •私たちの宗教とは利益、成功、自己願望、自己実現のための信仰であるのか?
   そうであるなら、サドカイ人と変わらないものである。

  2.理性中心の宗教
   •自ら経験、認識できることしか信仰しない態度が彼らの宗教であった。
   •今日の自由主義神学者たちも人間理性中心の聖書理解にとどまり、奇蹟、主の復活も、再臨も信じることができない姿勢を貫いている。

  3.真の宗教は生ける神との体験である
   •霊感された神の言葉を通じて神に出会うことができる。そこには理性的に認知できる段階から信仰による飛翔が必要とされる世界である。
   •仲介者であられるメシア(神人)を通じて、私たちは神に至る事ができる。


「19 こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、
私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
(ヘブル10:19~20)


#救済

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コロンビアの大河

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コロンビアの大河 コロンビアの大河


ポートランドからシアトル方面に向かうのに難関が一つある。

大河コロンビアに掛かる橋である。

車線が制限されているわけでもなく、高速5号線を走っていれば
いつの間にか橋を通り越してしまのであるが、そこが大難関なのだ。

難関の理由は渋滞。

ワシントン州とオレゴン州を結んでいるこのあたり唯一の橋なので、
常に交通が密集している。

特に3時以降から7時ころまではひどいものとなる。

週末の土曜だから大丈夫かな、と思っていかが甘かった。

時速10マイルほどのノロノロ運転が続き、
オレゴン州を脱出するまでに40分ほどかかってしまう。

橋を超えればタコマドームまでは渋滞はない。

この地域が州として合衆国に編入された150年ほど前は、
道なんてなく、荒野を幌馬車が進むしかなかったのだから

それと比べたら、文句は言えない。

今日も無事に帰れて感謝。
#バイク #ボート #車 #鉄道 #飛行機

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ベイデン教会ドン牧師が召天されました

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ドン先生と奥様のデビー ドン先生と奥様のデビー
COGベイデン教会(セントルイス)のドン牧師がこの水曜日に召天されました。

私がドン先生とはじめてお会いしたのは10年以上も前の成田空港でした。

1歳にも満たない明美を連れて初めて家族3人で帰国したときです。

たまたまセントルイスからのドン先生ご夫妻と同時間の成田着フライト。

確かあの時はCOG50周年の記念会出席のための帰国。

落ち着いた風情にも温かみのある器でした。

私の両親宅にもお出でくださり、夕食をともに囲んだことを懐かしく思い出します。

今は天にてシェルホン先生と主イエス様とご一緒に
楽しく過ごしておられることでしょう。

ベイデン教会のニュースレターを
COG名誉理事長の伊藤先生が翻訳してくださった文書を載せます。

英語本文はその後に続きます。


ダン牧師主イエス様のみもとに凱旋

 ダン牧師がイエス様のみもとにお帰りなられたことを知らせなければならないことは、私にとつて実に心痛む思いです。ダン牧師とお交わりを持った者であればだれでも先生はイエス様と人々を心から愛しておられたことを知っていることでしょう。
 先生は、今やその生涯にわたった信仰が真実であり、私たちの神の驚くべき栄光を見ており、そして私たちと再会する日を待ち望んでおられます。
 私たちが心から愛していた者が突然去って逝くことはとても悲しいことです。しかし、その悲しみは私たちにとってはしばらくの間のことであり、また再び一緒になるまでのことであるとダン先生がよく言われていたことです。
 昨晩、私たちはダン先生のお宅で火曜日の聖書研究会を持っていました。私たちはマタイ24章について話し合いました。主イエス様の再臨についてでした。それは私たちにとって「目からうろこ」のような衝撃で、その日には驚くような速さてこの世が新しい世に移り変わるということでした。そしてきょう、私たちにとって驚きの展開となったことは目もくらむばかりの事でした。
 しかし、神様の恵みは私たちの理解を超えています。私たちはこの世に生きている限り神様に全く委ねて生きてゆくことこそが神の恵みであります。また、そのように心に深く覚え、そのような思いをお互いに抱くことのできることは神様の愛であります。ダン先生はそのように生きておられました。私はそのような霊をいままで以上に私たちに注いでくださるようにと祈っています。
 ダン先生の証しは力強いものでした。先生は気力、知力に優れた人でした。先生は神様の恵みによって救われました。ちょうど私がそうであるように、またあなたがそうであるように、先生の心は貧しい者、助けを必要とする者たちに向けられていました。それは閉ざされた者たち、ホームレスの者たち、障害者、麻薬耽溺者、そして飢えている者たちにまで及んでいました。彼らに対する愛はチャーチ・オブ・ゴッド、ベイデン教会を変えました。それは「いと小さき者」を求めて愛する教会へと変えたのです。
 ベイデン教会はこれからもこのようなミニストリーを継続してゆきます。それは神様がわたしたちにお与えになったミッションだからです。私たちはこれからも人々を愛し、助け続けて行きます。それはダン先生が望んでおられたからと言うのではなく、神さまがそうするようにと私たちに教えているからです。(マタイ23章32~46節)
 ダン牧師は花束のようなもので飾るむなしい言葉で彼の地上での栄光の生涯を書くことを私に望んでおられないと思います。それよりも先生はあなた方に尋ねたいと思っていることを私に書くようにと望んでおられると思います。それは、あなたは救われていますか。あなたはイエス・キリストが神の子であると信じていますか。イエスさまは罪なきお方であるにもかかわらず、あなたの罪のために十字架の上で死なれたことを信じていますか。そしてイエス様は死者の中からよみがえられたことを信じていますか。あなたが自分が罪人であることを認めて、イエス様が提供している救いの賜物を必要としておられますか。あなたは心からイエス様に従う用意がありますか。どうかこの問題を真剣に考えてみてください。私たちのいのちはゆらめくキャンドルのようなものであり、私たちはいつ私たちの息が閉じるかを知らないのです。あなたが救われているか否かはもっとも重要な問題です。
 お葬式の一切についてはベイデン教会のウエブサイト(www.cogab.net)からご案内があると思います。今はデビー夫人とご家族、そして教会のためにお祈りください。

 主の平安と愛 リック・メスター


 ダン牧師のお別れ会と葬儀(ベイデン教会のウエブページより)

Pastor Carvin “Don” Sharp Jr. went home to be with Jesus on Wednesday, March 19, 2014 at 10:45 am.

  Funeral services are as follows:
 葬儀については下記の通りです。
Visitation on Sunday, March 23rd from 3PM – 8PM
お別れ会 3月23日(日)午後3時~8時まで

Funeral Service on Monday, March 24th at 11AM
葬儀 3月24日(月) 午前11時

会場 下記の通り
Stygar Florissant Chapel
13980 New Halls Ferry Road
Florissant, MO 63033



Pastor Don Has Gone Home To Jesus

It is with a bittersweet heart that I write these words. Pastor Don has gone home to Jesus. Anyone who has had any interaction with him knows that he absolutely loved Jesus. And he loved people.

He is now living the realization of his years of faith. He’s seeing the awesome glory of our God right now. And he’s waiting to see us all again.

It is such sorrow to have someone we all love so dearly taken from us. But that sorrow is for us, the living. Pastor Don would tell us all now that he’s doing just fine and we’ll be together again in a little while.

Last night we had our Tuesday night Bible study at Pastor Don’s house. We were discussing Matthew chapter 24 and talking about the coming of our Lord. It will be in the blink of an eye. It’s amazing how quickly our world can change. Today, in the blink of an eye, our lives were turned over.

But the grace of God is beyond our comprehension. It is this grace that we must lean on while we are still on earth. It is the love of God that we must embrace and share. Don was so very good at that. I pray that Jesus pour out that spirit on us now more than ever.

Pastor Don’s testimony was a powerful one. He was a tough, intelligent man who was saved by grace. Just like me, and I hope, just like you. His heart for the poor, the needy, the shut-ins, the homeless, the dysfunctional, the drug addicts and the hungry was contagious. This love transformed the Church of God at Baden into a down and dirty, ministry minded church who sought to love ‘the least of these’.

The church will carry on in this ministry. It is the mission that God has given to us. We will continue to love people and help them, not because it’s what Pastor Don would have wanted. But it’s what God has instructed us all to do (Matthew 25:32-46).

Pastor Don wouldn’t want me to write a bunch of flowery stuff that would glorify his life on earth. But he would want me to ask you something…

Are you saved? Do you believe that Jesus Christ is the Son of God and that He was sinless but died on the cross for YOUR sins? Do you believe that He was raised from the dead? Do you recognize that you are a sinner and that you need this gift that Jesus is offering you? Are you willing to follow Jesus? Please think about these things seriously. Our lives our just flickering candles and we never know when our last breath will be drawn. It is of the utmost importance that YOU ARE SAVED.

Funeral arrangements and other church related items will be posted at the church’s website (www.cogab.net) when they are available. For now, please pray for Deb, the family and the church during this time.

Peace and Love,
Rick Mester
#お知らせ

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オレゴン誕生と日本の開国

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ポートランドダウンタウンの長老... ポートランドダウンタウンの長老教会 組織化は1854年とある 組織化は1854年とある
ポートランドにて、歴史を感じる教会堂を発見。

今日、ダウンタウンのAlder通りを歩いているときだった。

これまでその壮麗な教会堂の目前を何度も通ってきたが、
壁に掛かる碑文に注意を向けたことはなかった。

その教会の設立は1854年とある。

その年、数百年間の鎖国を破り日米和親条約が締結された。

前年からのペリー艦隊による砲丸外交によって
江戸幕府は無理やりに開国を余儀なくされた。

時に、二十歳前の坂本竜馬は江戸の千葉道場で剣術修業中である。


「歴史を感じる」と冒頭に書いたがこの州の、
そしてこのアメリカという国の若さを改めて実感してしまう。

長い平安王朝貴族の時代が終わって武士の世となり、

鎌倉から武士政権が誕生して以来650年ほど続いた
「刀とちょんまげ時代」が終焉を迎えようとするころ、
このオレゴン州が産声を上げることになる。

オレゴンがアメリカ合衆国の州に昇格したのは、1859年2月14日である。

ついでにもう少し遡ると、
ジェファーソン大統領の時
ルイスとクラークの二人が陸路北西部の探検に派遣されて、
ロッキー山脈を超えて太平洋岸に達するのが、1805年であった。

当時英国もクックらの探検家を送っていてこの北西部の領有を主張していたため、1818年の米英協定で、共同領有とされた。

当時のオレゴンとは、オレゴン州、ワシントン州、アイダホ州の北西部一体を指している。

1830年代には、ミズーリ州インディペンデンスから
ロッキー山脈を越えてオレゴンに達する「オレゴン街道」が開かれると、
西部に移り住む開拓民が後続するようになる。

1846年、オレゴン条約によって国境問題が平和的に解決される。

アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカの国境が北緯49度線に設定されたもの。
これは現在のカナダとの国境線になっている。

1848年にはオレゴン準州が公式に組織化され、
再度記すが合衆国33番目の州に昇格するのが1859年である。

ちなみにワシントン州の昇格は、
さらに送れること1889年11月11日であり、
大日本帝国憲法が公布されるとの同年である。

#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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豊臣秀吉と黒田官兵衛の対話

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高松城を湖に沈めんがために長大な堤防を建設中に

秀吉が黒田官兵衛に次のように言っている。






「世を動かすのは、これだ」

と、秀吉は言った。これ、というのは人間の欲望を指している。

秀吉は人間の欲望を刺激した。

すると水が低きへ流れを変えるように、
秀吉の思うがままの方向に人間どもは動き出した。

世を動かすの原理は人間の欲望である、ということを、
秀吉は年少のころから勘づいていたが、その証拠として、
これほど壮大な規模で目の前にくりひろげてくれた光景は
彼自身もはじめて見た。興奮しきっていた。

「官兵衛。デウスは愛であるというたな」

「申しました」

官兵衛はうなずいた。
この切支丹宗徒の発想では宇宙には唯一神デウスがおわす。

その唯一神の作用は愛であるという。

愛をもって万物を創造し、生かしめておられる。

これほど巨大な力の存在を、
天竺人も唐人も日本人もかつての発見したであろうか。

東洋の神仏は幾千幾万も存在し、それぞれ小さな機能をもつに過ぎないが、
このデウスという造物主、
絶対者、唯一神は、天を蔽い、地を蔽い、
人間を創造し、人間に君臨し、
善悪をただし、善は天国へ、悪は地獄へ送る。

何とすばらしい力であろう。

その唯一神が人間を統一している作用は、愛である。

もし人間の帝王にして唯一神の愛を身につけるとすれば、
唯一神と同様の作用を人間どもにおよぼすことができるのではないか。

つまり、愛という神の原理さえ身につければ
この地上を統一できるのではあるまいか。

官兵衛は宗徒としての立場からそのように秀吉に説いてきた。

聡明な秀吉は、それをよく理解した。

もっともその理解の仕方は秀吉流の、
ひどく非宗教的な、
いわば形而下的で現実くさい理解のしかたにすぎなかったが。


その証拠に秀吉はいま、ーーー世を動かすのは欲望だ。

と、官兵衛に異を立てるようなことをいった。

愛よりも欲望ではないか、と秀吉はいうのである。


「さに候わず」

と、官兵衛はいった。

愛でござる。

原理は愛でござる。……………


(司馬遼太郎・太閤記)
#エッセイ #コラム #本 #詩 #読書

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「カイザルのものはカイザルへ」

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イスラエル・オファキームにかか... イスラエル・オファキームにかかるダブルの虹
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/21522-64


「カイザルのものはカイザルへ」
マタイ22章15~22節
~マタイ福音書連続講解説教64~


当時のローマ帝国はユダヤ人に対して人頭税を徴収していました。

ユダヤ人にとって異邦人の政府に納税せねばならないのは屈辱です。

そこには金銭的搾取という政治・経済的理由ばかりでなく
宗教的嫌悪感がありました。

納税の際に使われるコインはデナリ貨であり、
それには皇帝ティベリウスの頭像とラテン語で次の銘が刻まれてあったのです。

「神として崇められるアウグストスの子、カイザル・ティベリウス」

神として祭られているカイザルに税を支払うことは
聖書が堅く禁じている偶像崇拝につながるのではないかとの危惧感から、
パリサイ派を始め保守的ユダヤ人は納税を毛嫌いしていたのです。


❶カイザルものはカイザルへ

この納税問題においての主のお考えはここにある短い言葉に要約されています。

時の地上権力が法令で定めた納税義務を課すなら、
それを果たしなさいというものです。

神の国の国籍を持つクリスチャンは、
地上の権威の下にも置かれているとパウロやペテロも教えています。

神の権威の下に服し、
地上政府の権力の下にも服しているのが信仰者だと言うのです。

地上政府は、
人民の平和と秩序のために神から権力の委託を受けたものであると
聖書は教えます。

それであるなら、政府はその神からの委託に応じなくてはなりません。

無条件の白紙委任ではないのです。

その委託を正しく行使しているかを監視しなくてはならない責任が
我々人民の側にあるし、

もし神からの委託に応えず神の御心に反する政策を政府が行使するなら、
権力乱用でありそれに従ってはならないことなります。


❷神のものは神に返しなさい

この主の言葉を聞いて彼らは「驚嘆した」とあるので、
その言葉の持つ重みを彼らが十分に理解ていたことが分かります。

旧約聖書文化の蓄積のない我々異邦人には説明が必要です。

そこには、人間とは神の刻印が押された存在であり、
神が真の人間の所有者であるとの共通理解がありました。

彼らは創世記にある人間創造の記事を熟知していました。

人は土地のチリを原材料にして造られたとあり、
さらに「神のかたち」に造られたとあるのです。

ここで主が言わんとしていることは
パウロがローマ12:1で言っていることと同じです。

「 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
きよい、生きた供え物としてささげなさい。 」
(ローマ 12:1 )

「からだ」とは全身全霊、あなたの存在の全てを意味しています。

神の御心を知りながらも因循姑息な口伝律法に凝り固まり、
自己義を捨て切れないでいる彼らは
「神の所有」という立ち位置から相当かけ離れた所にいる現実を自覚させられて、
そこから逃げるようにして立ち去ったのでした。


❸ ささげものについて

地上政府や神に対しても返すべき負債・義務を負っているとの教えの原則は、
教会でのささげもの(献金)についてもそのまま当てはまります。

私たちが日常所有していると認識している
私の財産、
私の時間、
私の賜物、、、
どれ一つ取ってみても実は自分のものでなく神の所有物なのです。

地上生涯のしばらくの間、私たちはそれらを委託されているに過ぎません。

真のオーナーは神であり、我々はマネージャーです。

やがて神の前に立つ時に、
それらの委託物をどのようにマネジメントして来たかの収支報告書を
提出しなくてはならないと聖書は教えます。

政府への納税義務には強制力が伴っています。

義務を履行しないのなら懲罰されます。

ところが、教会には強制の献金や懲罰は今日ありません。

それは私たちが神の前における自由人として判断を任されている分野です。

献金は強要からでなく一人ひとりが心で決めるものである、
と聖書は明快です。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
Ⅱコリント9:7

ここで、
自由裁量に任されているものこそが、
やがて神の前での評価の対象となり、
報酬が決定される選考基準となると言えるでしょう。



#救済

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イスラエルと教会11~その⑦

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プリムの祭りの日に子供の入院し... プリムの祭りの日に子供の入院している病院に現れたサプライズ
⑸結論 ローマ3:9

 「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。
決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、
すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

私たち(ユダヤ人)は特権を持っているので、
他の異邦人達よりも優れているというのか、という論点。

そんなことは決してない、と言うのが答えである。

ユダヤ人も異邦人も神の義には到達しなかったのを確認してきた。

それゆえ、全ての人は信仰を通じてのみの恵みによる救いという
同じ方法が必要なのである。



(まとめ)
ここまで2:17-3:9を長く扱って来た目的は、
2:28-29を正しい文脈に位置付けて理解するためであった。

この文脈では、パウロは
異邦人クリスチャンが霊的なユダヤ人になったと教えているのでなく、
全てのユダヤ人が真のユダヤ人になったのではない
と教えるのである。

ここにある区別とは
ユダヤ人と異邦人ではなく、
イスラエルと教会でもなく、

それは
レムナントとノンレムナントの区別であり、
信仰のあるユダヤ人と信仰のないユダヤ人の区別なのである。



#救済

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イスラエルと教会11~その⑥

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イスラエルでは3月16日にプリ... イスラエルでは3月16日にプリムの祭りがありました。
エステル記に起源を持つ祭りで大人も子供も仮装します。
⑷ユダヤ人に与えられた約束   ローマ 3:1-8

「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。

2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。

5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。

6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。

8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」


❷ユダヤ人の不信仰は神の約束を無効とするのだろうか。 3ー4節

言葉を言い換えるなら、

ユダヤ人が信仰に欠如したら
神の真実性までもが疑うものとなってしまうのか
という点である。

ここでパウロは全てのユダヤ人が不信仰に陥ったとしてるのでなく、
彼らのうちのあるものたちが不信仰に陥った点をあげているのに注目しよう。

ユダヤ人の中には救いに至る信仰を持つものたちが
これまでにいつの時代にも存在していたし、
今後も少数であるが存在し続けるであろう。

それでは、不信仰なユダヤ人ゆえに、
神の約束の真実性が損なわれるのだろうかという点はどうであろう。

答えはNOであり、
ギリシャ語の中で最も強い否定形の用例が用いられている。

「絶対そんなことはあり得ない」というもの。

神の真実性は人間の不信仰によって左右されるものでないのである。

パウロがここで言っている「神は真実な方であるとすべき」とは、
神はご自身の約束の言葉をお守りになられる方であると教えるものである。

「全ての人を偽り者としても」とは、
ユダヤ人に対する神の約束は成就しないと教える
全ての人の事を指摘した聖句である。


❸人々の不信仰にも関わらずに神の真実性が保たれるなら、
神は人を裁くことが出来るだろうか。5-8節

神の真実性がいよいよ現されるために
人は罪を犯し続けても許されるのではないか、
という論点についてパウロは再び厳しい調子で否定している。

その議論の行き着く結論は、
神は誰をも裁かれないことになる。

その教えは、全ての人がやがて世の終わりに神の裁きに服するという
古からの明瞭な聖書の教えと明らかに矛盾することになる。

7ー8節は人間の視点からの論点であり、
ある人々がパウロ神学を誤解して攻撃しているところである。

彼らはパウロがモーセ律法とは異なる義を伝えている道徳廃棄論者
であると結論づける。

それは誤解であり、ここでの答えは次のようになる。

律法を守ろうとしてもそこに至らない点で裁かれるのと同様に、
道徳廃棄論ゆえの積極的な悪行もまたもちろん裁かれるのである。

神はとにかく罪を公正に裁かれるお方であられる。


#救済

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イスラエルと教会11~その⑤

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ヘルシーなイスラエル料理 ヘルシーなイスラエル料理


⑷ユダヤ人に与えられた約束   ローマ 3:1-8

「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。

2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。

5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。

6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。

8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」


この箇所は、
パウロが2:17-29で展開してきた
ユダヤ人もまた神の義に至らずに裁きの下にあるという論を踏まえている。

もしそれが正しいとすると、
当然予想される反論とそれに答えたパウロの言葉の箇所である。

もし罪深い異邦人と同じレベルに罪深いユダヤ人がいて
ともに神の怒りの下にあるというのなら、

神がユダヤ人達に与えてきた特権はどうなってしまうというのか?!
という反論に答えるのである。

ここでの答えとは大変短いものであるが、
9ー11章にては、相当詳細な分量の答えとなっている。

ここでの基本となる答えは次のように要約できる。

パウロはユダヤ人と異邦人との区別の全てが
帳消しとされてしまったとは教えていない。

彼が教えているのはそうでなく、
救いの方法に関してのみ、
両者の違いがもはや存在しないということである。

ユダヤ人は異邦人が罪深いのと同様に罪人である。

両者ともに神の義の基準に達することはあり得ない。

ゆえに両者は同様の救いに至る方法が必要となってくる。

人の付け入る隙のない、ただただ神の側における恩寵による救いである。

すなわち、信仰による恵みが身代わりの死において現されていること、
イエスの死と復活がメシアとしての人を救う根拠となっている点などである。

この箇所でパウロは予想される3つの反論と
それに対する答えをそれぞれに3つ用意している。


❶ユダヤ人の契約の民としての立場はどうなってしまうのか? 1ー2節

もはや契約の民族としての特権を失ってしまったのか。
こたえはNOである。

ユダヤ人に対しての神の約束は
現在でも多くの点で有効であるとパウロは告げている。

ここでは1つだけを上げているが、
9ー11章にかけてはさらに多くの特権を論じている。

ここでの主な特権とは、ユダヤ人には神の言葉が委ねられている点である。

神はご自身を啓示するためにユダヤ人だけを選ばれた。
ゆえに聖書記者は全てがユダヤ人なのである。

時に医者ルカが異邦人であったと見なされることもあるが、
その論拠とするものは弱いものだ。

この特権性からして、彼もまたユダヤ人であると見なされるのが適当である。

救いに関する以外の領域では
キリストの体の中(教会)においても
ユダヤ人と異邦人には明確な区別が存在している。

未だ成就していないアブラハム契約の土地条項については
ユダヤ人だけに与えたれているものである。

物質的なこの祝福は彼らだけのものであり、
異邦人が共通して参与できる祝福とは
ユダヤ人に約束された霊的な祝福の分野のみである。





#救済

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人生の達人

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吉田花さん。 幾つに見えますか... 吉田花さん。
幾つに見えますか?
美容師のJUNさんに毎週、整髪... 美容師のJUNさんに毎週、整髪してもらいます。

最初の写真に映る初老のご婦人。

一体何歳に見えるだろうか?

彼女は昨日、95歳の誕生日を迎えられた。

タコマに住む
吉田花(ハナ)さん。

現在ではお一人で生活されながら炊事、洗濯、買い物、
そして週一度の美容院までの運転も全てやってのける。

長寿の秘訣を聞いてみると、
「クヨクヨ悩まないことだ」と言っておられた。

困ったことが起きたとしても
「大丈夫よ、それもOKよ、何とかなるわ」
と全てを肯定して積極的に受け入れるのだそうです。

食生活については納豆を毎日食べる他、
野菜を多く採っているとのこと。

広島出身の両親の家庭でタコマで生まれ、育てられました。

もちろん太平洋戦争中は、家族皆でミネドカ収容所送り。

父親はタコマの中心街にホテルを所有していたが、
その時に失い、現在そこにはシェラトンホテルが建っている。

そんな苦労のどんでん返しに遭っても
まるで子守唄を歌うように
柔和に楽しそうにお話くださった。

人生の達人って、
こんな人のことを言うのだろう。





#健康 #美容

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パッキンと人の心

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今日のシアトルは快晴 中華街入... 今日のシアトルは快晴
中華街入り口とスミスタワー
キッチン流し台の下水パイプからまたもや水漏れ。

数ヶ月に一度は繰り返されるトラブル。

重たい水量に耐えられなくなると
プラスチックのパイプどうしのつなぎ目が外れるだけのことで
スクリューを調整して直して来た。


ところが今回は何度調整しても、
そのジョイント部からの水漏れが収まらない。

原因は、ジョイント部のパッキンが破損していたのだ。


すでに家内が新品のパッキンを用意してくれていて
取り替えるだけで問題解決。

問題の根本に手を入れなくては
真の解決につながらない。

それは神が人間を扱う方法と同様である。

人が大きな家に住み、便利な生活と高い教育だけでは外側を取り繕うのに等しい。
社会から憎悪や窃盗、詐欺や殺人などの罪の行為の濁流はなお流れ続ける。

力任せにスクリューをどんなに締め付けても水はポタポタと漏れてくる。

神のなされる問題解決法は
人間の心という根本のところにメスを入れることにある。

罪深い人の心は治療不可能なので
神がキリストの心というものと入れ替えてくださる、というもの。

主イエスだけが罪のない完全な生涯を送り
神の前に「義」であられることが出来た。

その義を私たちに転用してくださるというのが、キリスト教の救いの極意である。



「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」
だれが、それを知ることができよう。」
エレミヤ17章9節


「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、
律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
(ガラテヤ 2:16)

#暮らし #生活

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シアトル地区の牧師会

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シアトル地区の牧師会 シアトル地区の牧師会

本日はシアトル圏で日本人伝道に携わるリーダー会が
市内のバプテスト教会で開かれた。

本日で最後の出席となる先生あり、
赴任直後の初顔合わせとなった先生あり。

また、それぞれが担っている働きの重荷や課題を分かち合いながら
ともに考えたり、悩んだり、アドバイスしたりしながら貴重な時が流れて行く。

最後は少グループに別れて祈りの時を持つ。

3ヶ月に一度のこの集いから、大きな励ましと力とを頂いている。
#暮らし #生活

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ホットなイスラエル情報を入手

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テルアビブ テルアビブ

シアトル長老教会の中西牧師との朝食会。

中西先生は先月イスラエル旅行から帰って来たばかり。

イスラエルのホットな情報を伺う。

これまで私の参加したツアーではエルサレム滞在の場合、
城壁外に位置する近代的な巨大建物のホテルを利用した。

中西先生達は少人数のこともあって、
城壁内でヴィアドロローサに面しているかつてのアントニア要塞敷地内に宿泊。

そこは巡礼者用のホテルとなっていて、
神殿の丘までも目と鼻の先の距離。

その建物地下はローマ人達が過ごした居間であり、
彼らが残したゲームの痕跡が床に残っているとのこと。

次回のイスラエル旅行のための戦略拠点?となりそうである。
#暮らし #生活

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「招待された宴会」

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死海南部。年に数日しか雨の降ら... 死海南部。年に数日しか雨の降らない地域に雨雲が広がっているのは実に珍しい。

ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/2114-63

「招待された宴会」
マタイ22章1~ 14節
~マタイ福音書連続講解説教63~


サンヘドリン「祭司長、民の長老たち」(23)からの吟味・論争に
主がたとえ話を持って答えている箇所が続いている。

彼らの問いを再度確認して見よう。21:23。

①一体何の権威があって
神殿から両替商やいけにえ用動物を追い出したりしたんだ!

②お前にその権威があるというなら、それを与えたラビとは誰なんだ!

主は彼らからの詰問を直接答えるのを拒否された。
しかし、たとえ話から間接的に答えておられる。

本日はその3回目、最後のたとえ話である。

この3回目は、第1と第2のたとえ話の展開後の時系列順としてのものである。
つまり連続小説の最終回と言える。

さらに、第1と第2のたとえ話を包括してまとめているとも言える。
この第3のたとえ話も、内容から3つに区分される。


❶ 第一のたとえ:ユダヤ人のメシア拒否の罪とその結果(2~7)

  •「王」は父なる神、「王子」はイエス、「招待しておいたお客」はユダヤ人

  •「披露宴」が原語で複数形なのは、約7日間ほど続くユダヤ式披露宴ゆえ

  •宴会の準備が整うとしもべを遣わして招待客に伝えるのがユダヤの習慣

  •最初のしもべたち(3)とは、B.ヨハネとその弟子たちであろう

  •別のしもべたちとは、その後の12弟子たちであろう

  •宴会の準備が「何もかも整いました」とは、
メシア的王国が樹立されるためのあらゆる準備が完了されたことを示す。

  •B.ヨハネも、主イエスの宣教メッセージも同様に
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であり、
それは旧約聖書預言成就としてのメシア的王国(千年王国)が
今や到来しようとしている緊迫感の中でのものであった。

  •ところが招待客(当時のユダヤ人)は畑や商売に多忙で、
メッセージに応答しない。
それは既得権益や自己保身のために神の言葉を受け止めなかった、
パリサイ人やサドカイ人達の姿であった。

  •「王は怒って、兵隊を出して、人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払った」
とはAD70年エルサレム陥落を預言している。

  •ここまでは、第1と第2のたとえ話が教えている
ユダヤ人指導者の歩みとその結果の裁きとを描いているところと重複する。


❷ 第二のたとえ:神の国への招待が異邦人へ及ぶ(8~10)

  •「大通り」とは町の境界線にある四方へと伸びる道の分岐点。
そこは各国へと連なる幹線道路のジャンクションであり、
色取り取りの民族が行き交っている。

  •「出会ったものをみな宴会に招け」とは、
選民だけでなく全ての異邦人への宣教が始まる預言となっている。
その時代は使徒10章から開始される。

  •「良い人」でも「悪い人」でも、とにかく道端で出会った者達をみな集めた。

  •聖書には、信者が「悪い人」であると言及される箇所は一つもない

  •それは不信仰者のことであり、「毒麦」のことである(マタイ13:25)

  •ここで信者の中で善人・悪人と二分するものではないことに注意。
良い行いがどれほど積まれたか、といった人側の功績が救いを与えるのではない。

  •人は、信仰により誰もが義とされる。

  •そこに行いの入り込む隙間はない。

「 こういうわけで、
ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、
ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、
いのちを与えられるのです。 」(Rom 5:18 )


❸ 第三のたとえ:王が祝宴会場に到着する場面:最後の審判(11~13)

  •今や披露宴が始まろうとするその時、
それまで見えなかった王が宴会場に姿を現す。
それは千年王国成就直前に、
人は神の前に立って裁きを受けねばならないことを教える預言である。

  •そこには「礼服を着ていない者が一人いた」
~当時の宴会会場には礼服が客人のために備えられていた。

  •それを拒否したとは、侮蔑行為である。
神の備えられた救いを拒んだ不信仰者の行為である。

  •「礼服」とは、イエスへの信仰による義の衣であると言える(イザヤ61:10)

  •また、天においてはメシアとの婚礼の場で聖徒らに
「光り輝く衣」が与えられると約束されている。(黙示19:8)

  •「外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」とは、
不信者達が最後の審判を受けて後、火の池に投げ込まれること。マタイ8:12

  •それは信仰のない者(義の衣を着ていない者)の結末であり、
救いをどこまでも拒んだパリサイ人たちの行く末である。


主はパリサイ人らとの問答の中で、
これら第1から第3までのたとえを即興で作られて教えられた。

そこにはユダヤ人によるメシア拒否の今日的事象、
近未来に異邦人宣教が開始せられること、
そして歴史の最後の終末預言までが網羅されてある。

その現実把握力、
数十年後の未来予測術、
世の最終章を預言したメシアとしての知恵と力。

一流の作家なら、
一晩かけて一つのたとえ話を組み立てられることもあるかもしれない。

しかし主は、数十分の短時間内にこれら全てを淀みなく話された。

それによりご自身の権威とその出処とを明らかとされた。

つまり、神殿の主としてのメシアの権威であり、
父なる神から託された権威であった。




#救済

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ユダヤ人との出会い

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ユニオンスクエアでのウガンダ子... ユニオンスクエアでのウガンダ子供達によるダンス ユダヤ人との出会い


この日のサンフランシスコは快晴で暖かい。

1時間以上も市内を徒歩で徘徊し続けると顔から汗も吹き出て来る。

タオルを持参してこなかったのが悔やまれる。

10年以上にもなる友人に会いに行く。

私の頭を見て、
「ヘアカットが必要だね」と言ってくれて、
その場でカットをしてもらう。

$50以上はチャージするであろう彼のようなサロンを
自ら利用することはない。

高額料金にはそれなりの理由もある。

格安の美容チェーン店では、バリカンだけで済ましてしまうとことを
彼は数十本の髪の毛を束ねてはハサミを入れて行く。

もちろん結果が違う。

高級チェアに腰掛け極楽気分に浸っていると
これまで話したことのないようなディープな領域に会話は流れて行く。

60代前に思しきそのサロンオーナー男性はユダヤ人であるという。

ともに働いている奥様はクリスチャンであるので、
彼にしばしば改宗を勧めてくると言う。

「改宗という必要はないと思う。
同じ神なのだから」

そう私は答えたが、これには誤解を避けるための説明が必要だった。

聖書的なユダヤ教はキリスト教であること、
現在のユダヤ教はパリサイ派のものであり、
旧約聖書の教えから逸脱したものであることを伝えねばならなかった。

今回は時間もなくその機会を逸してしまったが、
今後彼とお会いする楽しみが一つ増した。
#旅行

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イスラエルと教会11〜その④

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カイザリア カイザリア


「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)

この聖句を真に理解するために
ローマ2:17-3:9 の文脈を確認している作業の第三回目である。

⑶外側の従順と内なる従順さとの対比  ローマ2:25-29

「25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。
しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、
あなたの割礼は、無割礼になったのです。
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、
割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、
律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、
さばくことにならないでしょうか。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
(Rom 2:25-29)

ここでパウロが論じているのはパリサイ的な視点、
つまり「全て割礼を受けた者には神の国へ入れる保証があるとする神学」
についての反駁である。

確かにパウロは割礼が特権であると言及するが、
割礼が契約を完成させるものであるとは認めていない。

むしろ、割礼はすでに成就している契約のしるしなのである。

割礼は契約を成就するものではなく、従順に基づく祝福を与えるに過ぎない。

もし律法の全てを守っていないのなら、
割礼を受けているだけで裁きを間逃れることはできないのである。

割礼そのものがユダヤ人を救いに至らせないのはちょうど、
洗礼が異邦人を救いに至らせないのと同様である。

洗礼はイエスを信じたゆえのしるしであり、
それに従うことで祝福に与るのも相似形にある。

預言者エレミヤは
実体のない割礼は無割礼と何ら変わらないと指摘している。

儀式が人を神の義に至らせないので、割礼が人を救うことにはならないのである。

そこで28-29節で、
なぜ割礼そのものが役に立たないものかを論ずるのである。

肉体の誕生だけでは人は救いに至らない。
肉体に割礼を受けただけでも救いに至らないのである。

割礼は外形上のことに過ぎないが、
神が要求しているものは内なる心に施術される割礼である。

肉体に施術する割礼は外形上の儀式に過ぎないが、
肉体と心に割礼が施術されるなら
外形上も内なるものも双方に割礼が施術されることになる。

そして「その誉れは、人からではなく、神からくるものです。」と言うのである。

ユダヤ人の原意は「誉まれ」である。

そこで「ユダヤ性は、人からではなく、神からくるものです。」
とも置き換えられるのである。

真のユダヤ人とは、内側も外側も割礼を施術された者達のことである。

ここの箇所で、
異邦人が霊的なユダヤ人になったとは教えていないことに注目しよう。

異邦人についてはすでに1:18-2:16で論じており、2:16で結論を出しているのである。

2:17-3:20ではユダヤ人に関する質問を扱っている。

ここでしていることは、やがて9ー11章で彼が論じている手法と同じである。

信じたユダヤ人と信じていないユダヤ人を区別しているのである。

それはユダヤ人と異邦人の区別でもなく、
ユダヤ人と教会の区別でもない。

それはレムナントとノン・レムナントの区別であり、
信仰のあるユダヤ人と信仰のないユダヤ人の区別である。

信仰のないユダヤ人とは、そのユダヤ性が外側だけのものであり
神の義に至らないゆえに神の裁きから逃れることが出来ない。

このところは文脈で理解されねばならない。

彼が論じている点は、ユダヤ人であるだけでは完成されたユダヤ人では無いこと。

完成されたユダヤ人とは、外側にも内側にも両方割礼を受けたものであるという点。

アブラハム契約に従って外側の割礼を受けて後に、
新しい契約に従って心に内なる割礼を受けた者のことを言うのである。

本当のユダヤ人、完成されたユダヤ人とは、
外側にも内側にも割礼を受けた者のことである。

外側の割礼とは、肉体に施術されたもので、文字と思考に関するものに過ぎない。

内側の割礼とは、心に施術されたもので、聖霊と神とに関わる事柄である。

外側というのは、律法の文字をどう理解してそれに従順に従うかという点であり、
内側というのは、律法の精神に関してであり、
律法が要求している義に内なる従順をもって対応することである。

外側で人は理解した律法を表面的に遵守することはできる。

しかし内側に施術されて初めて人は聖霊の力により神に仕える者とされるのである。

#救済

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イスラエルと教会11〜その③

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ハイファでのランチ ハイファでのランチ


「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)

この聖句を真に理解するために
ローマ2:17-3:9 の文脈を確認している作業の第二回目である。

⑵神の義の基準にまで至らないユダヤ人の行い  ローマ 2:21-24

「21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。
偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。
24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」
と書いてあるとおりです。」
(Rom 2:21-24)

ここでパウロが発している質問はすべて修辞的で、
全てにYESと答えが用意されねばならない文法構造となっている。

これらの質問を発しながらパウロが言っているのは、
先に指摘したユダヤ人としての数々の特権に伴う
責任を彼らは果たしてこなかったというもの。

彼はユダヤ人が特権を持った民族であるのを否定はしなかった。
事実、特権は彼らのものだ。

特権には責任がとなうのであるが、
その責を果たしてこなかったというのである。

ユダヤ人であっても異邦人と同様に神の義に達するに成功しなかったのである。

ここでパウロが論じているのは、エゼキエル36:20-21を土台としている。

「20 彼らは、その行く先の国々に行っても、
わたしの聖なる名を汚した。
人々は彼らについて、
『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。
21 わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。」



#救済

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不動産価格上昇中のベイエリア

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あるレストランにあった壁掛絵画 あるレストランにあった壁掛絵画



「最も住んで見たい街」全米ベスト10から
3-4ほどの街はベイエリアから選ばれている。

サウスベイに群居しているお馴染みのFacebookやGoogleなどのIT関連企業は
若い技術者たちを惹きつける。

それが最大の理由であるようだが、
この地域の住宅不動産価格は高率での上昇が続いている。

昨年同月に比べること14%を超える上昇率。

数年前の不動産の冷え込みはどこへ行ったのだろうか。

「持てるもの」には景気の良い話になっても、
賃貸生活者には厳しいばかりである。

友人のSさんはPaloAltoで一軒家を賃貸しているが、
大家から突然$500の家賃値上げを突きつけられたという。

やむなくも出て行くことしかなく、
現在は引越し作業の中にいる。

その多忙の間隙にともに夕食する機会を得た。

この地域の高騰の波は、
いつかシアトルにも押し寄せて来るのだろうか。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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サンマテオのご両親宅に

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この日もまる子お母様は食べ切れ... この日もまる子お母様は食べ切れないほどのご馳走を作って待っていてくださった


サンマテオの吉田邸にお邪魔する。

夕方に上がり込むと、ご夫妻と夕食を囲むのが恒例のパターンとなっている。

ご夫妻には3女の素敵な娘さん方がいらっしゃって、
すでに皆さん家庭を持っておられる。

先日の年末年始にご夫妻はご長女のご一家を伴い、
総勢6名で故郷の熊本へ一時帰国された。

そのお土産話に花が咲く。

ご夫妻の3女は私の年代である。

息子がいないことから、
そのようにして私が息子代わりとなって甘えさせてもらっている。

#旅行

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バル・ミツバと大和撫子と

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バル・ミツバと大和撫子と バル・ミツバと大和撫子と



長女の13歳の誕生日を祝う。

レントンにあるCheese Cake Factory という流行りのファミレスへ行く。

道中の車内で、愛娘に語る父親からの訓辞を思いついた。

「明美、13歳の誕生日おめでとう。
13歳といえば、ユダヤでは成人式なんだ。」

「オー、ウィー、エー ´д` ; 」

嗚咽とも悲鳴ともつかないような感嘆詞が後部座席から漏れている。

「またイスラエルの話〜」という干からびたタタミイワシのような声が続いた。

なるべく威厳の響きを感じてもらう音色を装いながら、
私は構わずに続けた。

「13歳の成人式は「バル・ミツバ」と呼ばれ、
それは「律法の子」という意味がある。

つまり、もはや霊的に神の前に独立した人としてみなされるんだ。
聖書の言葉を自ら読んで従う年齢に達したということなんだよ。………」

後方からの「すでに聞いたよ〜、知ってるよ〜」などの声に妨げられながら
そのようなあらましを語るが、どうもうまく事が運ばない。

「丁重に父上の訓辞を拝聴する大和撫子」
といった当初の想定は早くも崩れ去ってしまった( ̄▽ ̄)

苦し紛れにしゃべってしまった最後の一言が余計であったようだ。

「もっともバル・ミツバは男子だけのものだけどね。
女子は人数に入っていなかったんだ。」


「ウオッ〜 (u_u) 」

悲鳴の声は、1オクターブ高くなっていた。

「繊細な女性の気持ちは分かっていないわね」
と隣からも横槍が入る。

お祝いの誕生会が一体どこへ行ってしまうのか、
ヒヤヒヤのドライブとなった。

古代イスラエルの風習(今日までも続いている成人式様式だが)を
ウーマンリブのお国柄と比較したのが土台間違えであったような、、、(≧∇≦)
#子育て

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「延期された神の国」

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夕暮れのエルサレム 夕暮れのエルサレム
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/14246-62

「延期された神の国」

マタイ21章42~ 46節
~マタイ福音書連続講解説教62~


❶パリサイ人サドカイ人

サンヘドリンの主な構成員であり、
当時のユダヤ人の二大派閥であったこの両者について整理してみよう 

1.パリサイ人
  •紀元前2世紀頃からハスモン王朝(BC166~63)期に誕生
  •モーセ律法と同程度の霊感と権威を口伝律法に認めた
  •OT39巻全巻を正典であると認めた
  •天使や悪霊の存在とその序列を認めた
  •死後の世界を信じた
  •霊魂の不滅と死後の報酬、裁きとを信じた
  •民族的な特異性と優越意識を抱いていた
  •現在まで続く正統派と呼ばれているユダヤ人たちの源流

2.サドカイ人
  •ハスモン期に生まれて、AD70エルサレム崩壊とともに消滅している
  •口伝律法の権威を認めていない
  •トーラー(モーセ5書)のみが霊感を受けた正典であるとした
  •レビ人、祭司の清めの儀式を厳重に重んじ実践した
  •神殿を基盤とする祭司たちが主な構成員
  •死者の復活も死後の命も信じていない現世主義者
  •天使や悪霊の存在と認めない
  •霊的な世界を認めない

❷彼らユダヤ人はイエスを拒絶した

この日、主イエスはパリサイ人達やサドカイ人達との論争のただ中にある。

彼ら指導者達の神に対する真の信仰のない姿勢や、
その結果として神の裁きを刈り取らねばならないことを

二つのたとえ話を使って明らかとされた。
それは先回学んだ。

第一のたとえ話:ユダヤ指導者たちはB.ヨハネやメシアを信じなかった
第二の たとえ話:ゆえにさばきを受ける。罪の刈り取りをしなくてはならない。

このように、
主がたとえ話でお語りになられた指導者たちとその運命に対しての論述は、
実は詩篇118:22ですでに預言されていたのである。

『家を建てる者たちの見捨てた石。 それが礎の石になった。
これは主のなさったことだ。 私たちの目には、 不思議なことである。』

「礎の石」:コーナーストーンが、
建物の位置と規模とを決定する最重要アイテムであることや、
それがメシアである主イエスを指していることは先回確認した。

今回はこの詩篇の預言を主がどのように理解され、
そしてユダヤ歴史に適用されているのかを学ぼう。

❸イエスによるこの詩篇預言の適用(43~44)

•「神の国はあなたがたから取り去られた」
~当時のユダヤ人世代から、メシア王国は取り去られた、という意味である

•「神の国の実を結ぶ国民に与えられる」
多くの人はこの「国民」を「異邦人」や「教会」と考えている。
そのように教える聖書の解説書、注解書がほとんどである。

西洋の契約神学と呼ばれる大きな潮流から
置換神学が不動の位置を占めるものとなった。

イエスを拒否したユダヤ人に代わり、
いまや異邦人で構成されるキリスト教会が「神の国」を
相続するものとなったのである、とする神学体系である。

ここで、「国民」のギリシア原語ἔθνει (Mat 21:43 BGT) について考察しよう。

•このギリシャ語は3つの訳が可能である。
①「国民・民族」
nation, people Mt 24:14; Lk 12:30; Ac 8:9(単数); 10:22(単数); 13:19

②「異邦人」Mt 6:32; 10:18; Ac 11:1, 18; 14:5; Ro 3:29.

③パウロ書簡による「異邦人クリスチャン」 Ro 16:4; Gal 2:12; Eph 3:1.

•「異邦人」と訳されるときは必ず複数形である。 ②と③
単数の時には決まって「ひとつの民族、国民、人々」を意味する。 ①

•ここでは単数形が使われている。 ἔθνει (Mat 21:43) = a people, a nation

•聖書では、「教会」や「異邦人」が単数であるとする概念はあり得ない。

地上の全ての民族や国民からやがての教会が構成されるようになる
と黙示録は預言する。

「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。
あなたは、ほふられて、その血により、
あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、
神のために人々を贖い、 」
(黙示録 5:9)

天で召集された教会が地上のすべての「部族、国語、民族、国民」
から成っていると黙示録は繰り返し教えている。
黙示7:9、11:9、13:7、14:6.

•ゆえにここの「一つの国民」とは
教会でも、異邦人でもなく、
ユダヤ民族であると理解しなくてはならない。

それは、大艱難時代を通過する後の日のユダヤ民族のことである。

彼らは宣教師となって世界で神のために活躍する(実を結ぶ)


•当時の石打刑のモチーフ(44)

「石の上に落ちるもの」
~罪人を高所から突き落とす。
そこには石が敷き詰められてあり、
罪人は足や全身を強打されて身動きができない状態となる。

「石が人の上に落ちる」
~それで死なない場合は心臓めがけて二人が持ち上げた巨石が投げ落とされる。

「その人を粉みじんに飛ばす」
~罪人の血肉は周囲に飛散する。

これらは、エルサレムの破壊とユダヤ人の世界離散を預言した言葉となっている。

確かにメシア拒否の裁きをその世代のユダヤ人は刈り取った。

だが、それで神のユダヤ人に対する計画はご破算になったわけではない。

将来の世代のユダヤ人が
やがてイエスをメシアとして崇めるときが来るのである。




#救済

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13歳誕生日を目前にして

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13歳誕生日を目前にして 13歳誕生日を目前にして 13歳誕生日を目前にして 13歳誕生日を目前にして 13歳誕生日を目前にして 13歳誕生日を目前にして


13歳の誕生日を控えていた長女には、二つの歌唱コンクールがあった。

RJC最終日と重なったため、
私は午前に一つのコンクールに出席することにした。

昨年と比べて、大きく飛翔した感があった。

歌いながら、彼女はその世界(ゾーン)に間違いなく入っていた。

#子育て

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Reaching Japanese for Christ 第一日目

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Reaching Japanese for Christ のカンファレンスに終日参加してきました。

日本人伝道に重荷を持つ方々の研鑽とネットワーク作りを主眼とした集いで、
毎年この時期に開かれています。


今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下は松岡先生のメッセージ備忘録となります。




趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。

天台宗に属するが、その特徴は総合であり、
どんな宗派の教えでも取り入れるところ。

山にも登って厳しい修行を始める。

3000回の礼拝をする苦行、
それは「5体投地」というもので

一日に1000回身を投げ出すような拝礼を
3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。

勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。

それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、
自由時間があっても、
好きな韓国語に関わっていても
それだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」
と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、
日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに
翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。
見よ。それは非常に良かった。
夕があり、朝があった。第六日。」
(Gen 1:31)

神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に
「すばらしい」と書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、
その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。
「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、
私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」
というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、
涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、
内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、

イエス様を信じたこと、
神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、
私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」
と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。

神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。

#救済

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RJC第一日

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RJC第一日 RJC第一日


Reaching Japanese for Christ のカンファレンスに終日参加してきました。

日本人伝道に重荷を持つ方々の研鑽とネットワーク作りを主眼とした集いで、
毎年この時期に開かれています。


今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下は松岡先生のメッセージ備忘録となります。

趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。
天台宗に属するが、その特徴は総合であり、どんな宗派の教えでも取り入れるところ。
山にも登って厳しい修行を始める。
3000回の礼拝をする苦行、それは「5体投地」というもので一日に1000回身を投げ出すような拝礼を3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。
勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。
それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、自由時間があっても、好きな韓国語に関わっていてもそれだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に「すばらしい」と書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。
「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、イエス様を信じたこと、神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。
神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。
#救済

ワオ!と言っているユーザー

RJCに参加して来ました

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RJCに参加して来ました RJCに参加して来ました
Reaching Japanese for Christという日本人伝道に関わる人々のためのカンファレンスに終日参加してきました。

今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下が全体集会でのメッセージ備忘録です。


趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。

天台宗に属するが、その特徴は総合であり、どんな宗派の教えでも取り入れるところ。
山にも登って厳しい修行を始める。
3000回の礼拝をする苦行、それは「5体投地」というもので一日に1000回身を投げ出すような拝礼を3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。
勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。
それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、自由時間があっても、好きな韓国語に関わっていてもそれだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に「すばらしい」と書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。

「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、イエス様を信じたこと、神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」
と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。

神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。
#救済

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RJC最終日

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RJCにこの日も終日参加。

この日も講師として活躍したタイ人のSteveの話は凄い。

仏教に造詣の深い彼が、アジア人に福音を語る時に陥りやすい、盲点となっている点を実に整理して語ってくれた。

ユダヤ人にとって律法が人々をキリストに導く養育係であったように、
アジア人にとってはそれが仏教であったのだ、という視点。

その数千年の文化的蓄積を無視して突然、新約聖書の救いという「回答」を指し示しても人々は確かに戸惑うばかりであろう。

早速、彼が持ち込んだ書籍と講演DVDを購入。
出席できなかった彼の講演もRJCのウエブで視聴しようと思う。
#救済

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