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くまごろうのひとりごと

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『ローマ人の物語』を読んで。その4

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ローマ帝国の盛衰はキリスト教の歴史でもある。

ユダヤ教徒だったイエス・キリストはユダヤ教の教条主義を嫌い、神のもとで人類は皆兄弟という神の国運動を展開するが、ユダヤ教の長老はイエスの運動をユダヤ教の権威を揺るがす脅威ととらえ、紀元33年にローマの後ろ盾のもとイエスを処刑する。イエスの処刑後、キリスト教の使徒たちは布教活動を一層積極的に行うが、はじめはユダヤ人コミュニティの中だけの布教であった。しかし神のもとで人類は皆平等という思想に基づき、やがて布教の対象がユダヤ人の枠を超えて多神教を信じるローマ人やギリシャ人のような他民族にまでもおよび、それが軋轢を生むようになる。キリスト教徒にとってキリスト教の神を信じない者は宗教に目覚めない気の毒な人たちだから、何とか救ってやりたいと熱心に布教するが、ローマ人にとっては余計なお世話となる。その上、ローマ人は神々に捧げるために牛や羊を神殿の前で焼き、それを人々が分けて食するが、被支配民族の文化に寛容なローマ人もカルタゴやケルト民族の宗教が人身御供を行うことを嫌悪していたのに、キリスト教の習慣であるパンはイエスの肉、ぶどう酒はイエスの血として食することは、野蛮人の風習としてローマ人が忌み嫌うものであった。

ネロが皇帝だった紀元64年にローマ市内で大火が発生したが、普段から多神教を信じるローマ市民に嫌われていたキリスト教徒の放火によるものとの噂により、多くのキリスト教徒が残酷な方法で殺害された。この弾圧により今日に至るまでキリスト教徒から最も強く弾劾されている皇帝ネロだが、キリスト教徒の弾圧はローマ市内に限定されておりこの1回だけであった。その後も98年から117年におよぶトライアヌス帝の時代、キリスト教徒はローマ帝国の東方を中心に秘密結社のような活動を行っていたが、社会の治安を乱す狂信として弾圧される対象であった。キリスト教に関するトライアヌス法では告発者の名前が記された告発のみが逮捕の対象となり、棄教を認めれば無罪、拒絶すれば死罪とされた。また161年から180年の哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝の治世には飢饉、厄病、蛮族の襲来などローマ帝国をゆるがす出来事が多発したため、皇帝が先頭に立ってローマの神殿で祭儀を執り行うことが多かったが、キリスト教徒はそれらに参加しないばかりでなくローマ市民なら当然参加する社会貢献に関するボランティア活動にも参加しないため、ローマ市民からは白眼視されていた。それでもキリスト教を信じる者たちが孤立した集団を作って反社会的な活動を行った場合には聖職者は斬首刑に処せられているが、単なるキリスト教の信徒に対しては反ローマにならない限り信仰の自由は認めている。

キリスト教徒に対する迫害がローマ帝国全土に及ぶのは3世紀に入ってからである。212年にカラカラ帝が勅令を発し属州民にもローマ市民権を与えるようになったが、250年、皇帝デキウスはローマ市民権所有者に対し、キリスト教徒ではないという証明書を発行する法律を施行した。トライアヌス帝の時代にはキリスト教徒を逮捕するのに告発者の名前が必要だったのに対し、この法律では告発なしでも弾圧しなければ治安が維持出来ないという政策への方針変更であった。多くのキリスト教信徒は証明書の発行の際に非キリスト教信者と偽って証明書を取得したが、信仰の上で偽ることがはばかられる聖職者たちの一部は逃亡した。しかし251年にはゴート族がドナウ河を越えてトラキアに侵入したため、キリスト教徒の迫害どころではなくなった。

253年、蛮族対策が一段落した時の皇帝ヴァレリアヌスはデキウス帝の非キリスト教徒証明書の発行を再開し、さらに257年にはキリスト教会の聖職者を対象とした暫定措置法を発布してキリスト教徒の祭儀と集会を禁止し、この禁令を犯したものは死罪かまたは追放された。258年には暫定措置法が強化され、禁令違反者の財産を没収することとした。キリスト教の拡大を防ぐには、金の流れを断ち切る必要があるとの判断であった。多神教のローマでは神の教えを伝える聖職者は不要だが、一神教のキリスト教では聖職者が信徒からの寄進により教会を運営し祭儀を執り行っており、宗教に金が集まることに気づいたからである。しかし259年、ペルシャがローマ帝国を侵略しアンティオキアを占領するに至り、皇帝ヴァレリアヌスはこの戦闘に出馬したためキリスト教対策は緩和されることとなった。

その後の40年間はキリスト教徒にとっては比較的平和な時代であったが、この時期のローマ帝国にとっては相次ぐ蛮族やペルシャの襲来により不安の時代であった。そのような時代に非ローマ的な不寛容である一神教のキリスト教は、将来に不安を持ち精神的に病んだローマ市民や社会的弱者に静かに受け入れられていった。またそのようなローマ市民にはキリスト教コミュニティに参加することで経済的な利点もあったのだ。この傾向は帝国東部で特に顕著であった。ローマ帝国再建を目指していた東方正帝であるディオクレティアヌス帝は303年、ローマ的な伝統と規律を回復するために、皇帝の周辺にも目に付くようになったキリスト教徒を排除する勅令を発して教会を破壊し、集会を禁じ、聖書や祭儀に使用する器具を焼却し、教会の資産を没収した。この勅令に対し特に帝国東部では反対する暴動が多発したが、ローマ軍が鎮圧した。これらのキリスト教徒弾圧は309年まで続いたが、勅令が厳しい内容の割に殉教者は意外に少なかったようである。309年に勅令が取消されると棄教者はキリスト教に復帰し、司祭階級は教会やキリスト教コミュニティの再建に尽くし、結果的にキリスト教は勅令が発せられる以前の状態に戻った。勅令が取消されたのはローマ人が多神教を信じ、他民族の文化に対して寛容であったため、キリスト教を迫害するのはローマ的な精神に反するという気持ちが常にあったためだと言われている。311年に東方正帝ガレリウスが信仰の自由やキリスト教コミュニティを認める勅令を発布したのもその現れと思われる。
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在外選挙

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くまごろうは今日、シアトル総領事館に赴き海外在住邦人のための衆議院在外選挙を行った。在外選挙は2000年から比例代表制だけが行えるようになったが、2005年以降は小選挙区でも投票が可能となり、2007年の参議院選挙が最初の小選挙区と比例代表の両方の投票が行える選挙であった。2007年、アメリカに移住するまで居住していた東京都大田区選挙管理委員会にくまごろうは在外選挙の申請手続きを開始し、翌年在外選挙人証を交付されて2009年8月の衆議院選挙が初めての在外選挙となった。

在外選挙では、先ず本人確認のため旅券と在外選挙人証の提示を求められる。次いで投票用紙申請書および投票用紙を封入するための大田区選挙管理委員会宛の封筒に必要事項を記入し、誤りがないことが確認されてはじめて投票用紙などが交付される。投票所は日本のそれと大差ないが、記入台の上には2冊の日本全国の立候補者名簿が置かれているため、かなり狭い。ここで投票する人は北海道から沖縄までいる可能性があるための処置だ。小選挙区の投票用紙に候補者の名前を書き、それを小さな封筒に入れ、この封筒を更にやや大きい封筒に入れて在外選挙人証の13桁の番号とくまごろうの名前および署名を行ってから封を閉じる。同じことを比例代表の投票用紙でも繰り返すのでかなりの手間だ。封を閉じたふたつの封筒を領事館の係員に渡すと、その係員はそれぞれの封筒に記載された番号、名前、署名を確認の後、隣席に陣取っている立会人に渡し、立会人が封筒に署名してから最初に宛名書きした大田区選挙管理委員会宛の封筒にふたつの封筒を入れて封が閉じられ、投票が終わる。

シアトル総領事館では投票期間は12月5日より8日までだが、投票期間が終了後確実に日本の選挙管理委員会に届けるために郵送や特別便で送るのではなく、領事館員がすべての投票を持って日本に行くそうだ。シアトルでは何人が投票するのか知らないが、今日は5人の館員が対応しており、万全を期すためにかなりの労力がかかっているように感じられた。在外選挙は海外にいる日本人として選挙権が行使出来る重要なことではあるが、現在海外に居住する日本人は120万人位とのこと、国にとっては金のかかることではある。
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ゴルフ

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数週間前までとはうって変わって最近のシアトルは雨が多い。記録的な日照りと言っていた頃が夢のようだ。おかげでシアトルのゴルファーは昨今、雨対策が必須となる。昨日の土曜定例ゴルフもレインシューズにレインパンツにレインジャケットにレインハット、ゴルフバッグは専用レインコートでカバーし、傘を持っての完全雨対策のラウンドだ。それにしてもナイキのレインシューズは優れものだ。これについては2011年1月24日のくまごろうのひとりごとに書いたが、ナイキがシアトルと似た気候のオレゴンに本社を持ち、おそらく冬でもラウンドしている経営者または社員がいるおかげだろう。もしもナイキがマイアミやサンディエゴの企業なら決してこのような商品を開発しなかったと思っている。パシフィックノースウェストで雨季にラウンドするには、Foot JoyのDryJoy程度の防水性では間に合わないからだ。

しかしThanksgiving Dayを間近に控えたこの頃から少なくとも2月末までは、かなりの根性がないと土曜定例ゴルフは出来ない。12月に入れば寒さ対策も必要になるだろう。

シアトル周辺では今年のゴルフスコアのポスティングは11月15日で終了した。今年は一時GHINが目標の15.0を下回る14.8まで下がったが、それは9月1日よりわずか2週間の間だけだった。その後15.0の期間が2週間、15.2の期間が2週間あり、10月15日には16.3まで落ち、11月1日には16.1まで戻してそのままシーズン終了となった。三日天下に近い目標達成だ。来年は何とか15.0を維持出来るようにシーズンオフの間、鍛錬に励もう。
#スポーツ

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皇居一周ラン

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10月下旬より2週間、久し振りに日本を訪問した。主たる目的は法事だったが、今回は皇居のまわりを走ることを計画し、事前に入念な調査を行っていた。皇居一周は丁度5キロで、反時計回りの場合は竹橋から半蔵門までの区間が登りだが、高低差は26メートルと比較的平坦なコースだ。100メートルごとに各都道府県および地元千代田区の花が示されており、走る目安になる。東京のど真ん中であり、加えて世界有数の景色がとても良いコースだ。

コース近くにはいくつものランニングステーションと呼ばれる施設があり、ロッカーやシャワーが完備されている。くまごろうは東京駅から徒歩2分程度の新丸ビル地下にある丸の内バイク&ランを利用したが清潔で良心的な利用料のため、とても満足した。新丸ビル正面玄関を出て新駅舎がまぶしい東京駅中央口を西に行くと和田蔵門があり、更に進めば内堀沿いの桔梗門の近くに出る。ここは皇居一周ランの基点である桜田門広場からは約800メートルの地点だが、くまごろうのスタートポイントとなる。

走り始めてまもなく新たに高層ビルとなったパレスホテルが右手に、更に少し走ると大手門が左手に見えてくる。暫く走ると木製の平川門の橋が見えてくる。ここに限らないが皇居一周ランでは左手の歴史的な建築と右手の近代建築のコントラストが面白い。石造りの竹橋をわたるといよいよ登りとなる。堀がだんだん深くなり乾門近くでは水面が道路からかなり離れて低くなってくる。代官町を過ぎて内堀通りに突き当たり、春は桜の名所である千鳥ヶ淵を過ぎてもまだ緩やかな登りが続く。英国大使館前を過ぎるあたりからお堀越しに日比谷や丸の内の高層ビルが望まれ近代都市東京が美しい。半蔵門まで来れば登りは終わり、後は下り坂だけとなる。右手には国立劇場が見え、少し先で大きくふり返れば国会議事堂が眺められる。半蔵門から桜田門までは緩やかな下りで走りやすく、スピードも出る。桜田門は現在工事中で防護幕がかかっていたため、全景を眺めることは出来なかったが、その門を通過し皇居前広場に出るとオフィシャルスタートポイントの目印である時計台がある。ここから内堀通りまで直進し、左折して内堀通り沿いに走ると二重橋前広場を通過して桔梗門近くのスタートポイントに戻る。

くまごろうはランニングステーションが混みあわない週末の朝8時やウィークディの皆が働いている時間に走ったが、それでもかなり多くの人々が走っていた。外国人ランナーも少なくない。ごく一部のランナーはくまごろうの2倍位のスピードで追い越していったが、大半のランナーはゆっくりで、自分のスピードが速く感じられた。因みに4回走ったタイムは28分48秒、29分5秒、26分56秒、28分34秒であった。
美しい観光名所を見物しながら空気の澄んだ皇居一周ランは快適なエキササイズだ。
#スポーツ

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『ローマ人の物語』を読んで。その3

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古代国家ローマがカルタゴを滅ぼし地中海周辺地域の覇権を確立しつつあった紀元前63年、地中海東岸にあるシリアの南、エジプトの北に位置したユダヤ王国はポンペイウスによる攻撃で敗退し、ローマの覇権を認めた上でローマとの同盟関係に入った。多神教のローマと異なりユダヤ人は一神教であるユダヤ教を信仰していたが、他文化や宗教に寛容なローマ人はローマに敵対したり社会的な問題を起こさない限りそれを認めた。

ユダヤ人は通商に長け、金融の才にも恵まれており、また優秀な民族であるため医師や教師も多く輩出し、ローマの諸都市や他の属州に進出して他民族と交流する機会が多かったが、神に選ばれた民という選民思想を持つユダヤ人はローマの同化政策には従わず、ユダヤ人による閉鎖的な社会を形成していった。

紀元前47年にカエサルはユダヤ人の要望に答え、ギリシャ人と同等の経済的な権利と、ユダヤ教徒が軍務を含む公職に就かない特権を与えた。後者はユダヤ教が一神教の神のみを信仰し、司令官や執政官に忠誠を誓うことが出来ないからだ。カエサルの帝政を引き継いだアウグストゥスもこの政策を継続し、約30年にわたりユダヤ王国は平穏だった。しかし神権統治を求めるユダヤ人急進派はユダヤ王国に住む他民族を追放したり暴動を起こしたため、ローマは軍団を派遣し紀元6年にはユダヤを属州とした。暴動制圧後、ローマはユダヤを急進派の多いイエルサレムと穏健派が多く住む海港都市に分割統治し、イエルサレムでの神権政体は認めなかったがユダヤ教の司祭階級による自治を認めた。

しかしローマ人とユダヤ人はあまりにも違いすぎた。塩野七生さんに言わせれば、ユダヤ人にとっては神が与えたものを人間が守るのが法であるのに対し、ローマ人には法は人間が作るものであり、現実に即して改めてゆくべきものである。すなわちユダヤ人は法に人間を合わせ、ローマ人は人間に法を合わせたのだ。そのためユダヤ人の法はユダヤ人にしか通用しないが、ローマの法はローマ人だけでなく属州となった諸民族にも通用するものであった。

一神教を信ずるユダヤ人にとってカエサルに与えられた特権は妥協の産物であるとは言え十分ではなかった。神権政体の樹立こそが彼らの望む自由であったのだ。紀元6年よりローマの属州となって60年後の紀元66年、ユダヤ人の鬱積した不満が些細な出来事によりついに炸裂した。ユダヤ人の急進派はユダヤ人の穏健派とローマ守備隊を虐殺し、更に暴動鎮圧のためにイエルサレムに侵攻してきたローマ軍が冬の到来で撤退し始めると彼らを急襲し多大な損害を与えた。この事変によって時のローマ皇帝ネロはユダヤの制圧を決意し、紀元67年春、6万の兵を送った。この戦役は途中でネロが自死したため中断するが、ヴェスパシアヌス帝統治の紀元70年、ローマ軍の攻撃によりイエルサレムにあるユダヤ教の神殿が炎上して陥落し、ローマに反抗するユダヤ人の残党が立てこもった最後のマサダの要塞も3年後の紀元73年に平定された。

トライアヌス帝時代の紀元116年、皇帝率いるローマ軍がパルティアに遠征する際、ユダヤの過激派はローマ軍の背後を襲ったが、直ちにローマ軍に制圧される。しかし反ローマの行動はこれ以来断続的に発生し、紀元134年、時のハドリアヌス帝はユダヤ全土を軍事的に制圧しただけでなく、イエルサレムからすべてのユダヤ人を追放し、イエルサレムに入ることを禁じ、更にユダヤの属州名をパレスチナに変更した。この時からユダヤ人はユダヤから離散し、亡国の民となったのである。

しかしローマが制圧したのはローマに反抗するユダヤの急進派であり、ローマや属州に住みローマに反抗しないユダヤ人に対してはカエサルが与えた特権をそのままとし、ユダヤ教の信仰も認めた。ユダヤ人は各地に離散したままでユダヤ教の信仰を続けたが、キリスト教が勢力を持ち始めるとキリスト殺しの罪を背負うようになり、ローマ帝国が滅びた後も中世に至るまでキリスト教世界では迫害を受け続けることになる。迫害は土地・店舗所有の禁止やギルドからの締出しなどを含み、ユダヤ人の農業・小売業・工業などへの従事が困難になったことから金融業が主たる職業になった。ユダヤ人に対する宗教的迫害が減少してきた18世紀以降になると優秀な民族性により科学者、企業経営者を多く輩出している。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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オスプレイ

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オスプレイ
日本ではオスプレイの沖縄配備をめぐって安全性の議論が盛んである。オスプレイについて日本のマスコミが配備反対をあおっているように思うのはくまごろうだけだろうか。日本のマスコミは今年2回事故が発生したことを度重なる事故と表現し、さもオスプレイが危険極まりない航空機であるかのごとく扱っている。また基地周辺での反対運動でも、岩国基地ではわずか50名程度の反対派をさも多くの岩国市民が反対しているように報道している。

BellとBoeingの共同開発により生産されているオスプレイの歴史は意外と長く、1960年代からアメリカだけではなく日本でも使用されているBoeing Vertol CH 46/47大型輸送ヘリコプターの後継機として1989年には原型となるモデルが初飛行している。ヘリコプターと飛行機の両方の機能を併せ持つティルトローターのオスプレイはその後多くの技術開発が行われ、アメリカ軍の実戦に配備されたのは2007年であり、最初はイラク戦争、更に2009年からはアフガニスタンにも配備されている。これまでに160機が生産されており、2012年には最大年間48機を生産することになっている。

オスプレイは巡航速度446 Km/hr.、航続距離1,627 Km、標準的なペイロードは20,000 Lbs. (9,080 Kg)で、CH 47大型輸送ヘリコプターの巡航速度265 Km/hr.、航続距離612 Kmに比較して有事の際の機動性に優れている。軍事に限らず災害出動などにおいてもオスプレイの優れた機動性は威力を発揮することだろう。

オスプレイは実戦配備からまだ日が浅いため、既に半世紀以上にわたって使用されてきたCH 47大型輸送ヘリコプターに比較すれば経験不足の感は否めず、ティルトローターという難しい機種のために試作段階では2回の重大事故を起こしているが、改良を加えた量産機での事故率は10万時間あたりの平均事故率は1.93である。因みにCH 46E大型輸送ヘリコプターの平均事故率は1.11、CH 46/47の改良型であるCH-53D大型輸送ヘリコプターでは4.51、またアメリカ海兵隊所属の全航空機では2.45である。

オスプレイが沖縄基地に配備されると困るのは誰だろう。基地の撤去を求める沖縄県民には不満があると同情するが、これまで普天間基地に配備されている大型輸送ヘリコプターに比較すれば事故が格段に増える恐れはなく、また騒音もアメリカのデータによれば大型輸送ヘリコプターより低いといわれている。オスプレイの配備に最も懸念を持つのはオスプレイの航続距離の範囲内となる中国および北朝鮮である。民主党政権により亀裂の深まった日米の同盟関係を再構築するためにも、日本はアメリカが重視する東アジア戦略を支援しオスプレイの配備に協力すべきであろう。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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虹
今朝は曇り空。朝7時頃西の空を見ると、きれいな虹が出ていた。

暫くしたら雨が降り出したが、通り雨ですぐに雨は上がった。
#ブログ

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くまごろうのサイエンス教室 『1メートルの長さ』

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アメリカでは物の長さや距離を測るのに今でもインチやフィートなどの単位を使うが、もともと1インチは成人男性の親指の幅(爪の付け根付近)、1フィートは親指からかかとまでの足の長さに由来している。古代中国でも親指の幅を基準に1寸、手を広げた時の親指から中指までの距離を1尺と定義しており、古代ではこのような人間の体を基準とした長さである身体尺が使われていた。しかし身体尺では個人差があり色々と不便を生じるため、文明の発達に伴い国ごとに長さを測る基準が制定された。

大航海時代を経た1790年代、長さの単位を国際的に統一しようということになり、フランスを中心とした当時のヨーロッパ諸国がメートルという単位を採用した。この単位は地球の北極から赤道を直交する南極までの線、すなわち子午線の長さの20,000,000分の1を1メートルと定義している。逆に言うと北極から赤道までの長さは10,000キロメートルとなる。そして白金とイリジウムの合金でメートル原器と呼ばれる基準となる器具を作り、メートル原器に刻まれた二つの目盛り線の間の距離が1メートルになった。くまごろうが小学生の頃に教わった1メートルはこれである。しかしその後の厳密な測定によりメートル原器は熱により伸縮し、また合金の腐食によっても長さが変動することがわかってきた。

そのため19世紀後半から主張されていた光の特定波長をメートルの基準とすべきだ、という議論が主流となり、1960年に開催された国際会議ではクリプトン-86が真空中で発する電磁スペクトルの波長をメートルの基準とするように改められた。しかしこの方法でもばらつきがでてしまうことが明らかになり、1983年の国際度量衡総会において光の速度を基準とすることになった。すなわち1メートルとは光が真空中を299,792,458分の1秒に進む距離、ということに定義された。

この新基準が採用されるためには正確な時間の測定が重要だが、昔は地球の自転を1日とし、その24分の1を1時間、更にその60分の1を1分、更にその60分の1を1秒と定義したが、地球の自転は一定ではないことがわかり、より正確な時間の定義が必要になった。その後の科学の進歩により、1967年以後はセシウム原子の放射する電磁波の周波数に基づく1億年に1秒の誤差という高精度のセシウム原子時計による1秒の定義が採用されている。

1メートルの長さは子供の背丈くらい、また3階建てのビルの高さは約10メートル、今話題の東京スカイツリーの高さは634メートル、富士山の高さは3,776メートル、地球の半径は6,378キロメートルである。宇宙規模で見ると、地球から最も近い天体である月の半径は1,737キロメートル、月までの距離は平均384,400キロメートル、太陽までの距離はおよそ1億5,000万キロメートルある。宇宙の他の天体までの距離をメートル単位とすると数字が大きくなりすぎるので、光が1秒間に進む距離を1光秒、1分間に進む距離を1光分、1年間に進む距離を1光年と呼ぶ。これによれば地球から月までの距離は1.28光秒、太陽までの距離は8.34光分となる。更に太陽から地球までの距離を1天文単位(AU)とも呼び、太陽から地球のすぐ外側を回る火星までの距離は1.52AU(12.68光分)、木星までの距離は5.20AU、更にその外側を回る土星までの距離は9.54AUとなる。すなわち太陽から土星までの距離は14億3,000万キロメートルになる。

宇宙飛行士が長期間滞在している国際宇宙ステーションは上空約400キロメートルのところを飛行しているが、太陽からは地球の表面を動き回っているように見えていることだろう。
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『ローマ人の物語』を読んで。その2

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カルタゴとのポエニ戦役が終結すると主食である小麦がシチリアなどから安価かつ大量に流入し、それまでの小麦の生産者であった中産階級を無産階級に転落させた。平民階級出身の執政官マリウスはローマ軍の資質が低下していた状況を打開するため、軍制改革を行い有産階級への直接税とみなされる徴兵制であった兵役を志願制とする。これにより無産階級層が兵役を志願することとなり、ローマ軍の強化とともに失業対策ともなった。失業者や低所得者問題を福祉の充実では解消出来ないのは、福祉では人間の生存理由を与えることが出来ないからだ、という塩野七生さんの指摘は現在の日本における生活保護システムや低所得者対策にも通じるように思える。

遅咲きの執政官となったユリウス・カエサルは紀元前58年に執政官を退任後、北イタリア、ガリア、イリリア、および南仏ガリアの属州総督となる。カエサルは征服された民族が反旗を翻すのはその指導層が扇動するからであることを理解しており、ガリアで征服した部族の指導層を温存するだけでなくそれぞれの部族が持つ言語や文化も尊重する。8年かけてライン河以南、ピレネー山脈以北のヨーロッパを平定したカエサルに対し、元老院は強大な兵力と広大な領土を手中にしたカエサルを危険人物視し、武装解除を求める元老院最終勧告を行う。これに反し紀元前49年、カエサルは軍勢と共にルビコン川を超え、元老院が擁立したかつての盟友ポンペイウスとの戦いが始まる。浮き足立った元老院とポンペイウスの軍勢はイタリア半島を離れてギリシャに逃れ、戦いに敗れたポンペイウスは逃避先のアレクサンドリアで殺害される。

ローマの実権を握ったカエサルは広大な属州を支配するには元老院を中心とした共和制では迅速な対応が出来ないと考え、皇帝が支配する帝政へと改革することを目論んだ。そのために自身は終身独裁官となって権力を手中に収め、また元老院には軍務を共にした者を大勢送り込み、従来の元老院の勢力を弱めた。急速な改革を進めるカエサルに反対する守旧派元老院議員は紀元前44年にカエサルを暗殺する。カエサルが残した言葉『人間ならば誰にでも現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない。』は人間の本質を見抜いたもので、現代社会でも通用する。

カエサルが指名した後継者オクタヴィアヌスはカエサルを暗殺したグループを粛清し、更にアントニウスとの戦いに勝利して、紀元前29年にローマで盛大な凱旋式を行いローマ帝国の絶対権力者となる。しかしその2年後、オクタヴィアヌスは軍団と法とローマの覇権下にあるすべての属州を元老院とローマ市民の手に戻すという、共和制回帰宣言を行う。但し現実はオクタヴィアヌスが連続して執政官となり、第一人者およびインペラトール(皇帝)という尊称を持ち続け実権は放棄しない。その後執政官を辞任するが、護民官特権を得てローマ帝国で唯一の拒否権を持つ立場となる。国の安全保障、通貨改革、税制改革、食料保障を推進し、既にローマ化が進んだ安全な属州は元老院属州とするものの、外敵に対峙する属州は皇帝属州として皇帝の指名した将軍が統治する方法でローマ軍団を支配下に置き権限を強固なものとする。かくしてオクタヴィアヌスはカエサルが標榜した帝政を元老院からの強力な反対もなく実質的に推進してゆく。

オクタヴィアヌスが再編し、約300年継承された税制はローマ市民権を持つものには直接税はなし、奴隷解放税および相続税は5%、またローマ市民権を持たない属州民には安全保障費として収入の10%を属州税とした。但し補助兵として兵役勤務の属州民は属州税が免除される。またローマ市民であるとないとにかかわらず間接税として1.5-5%の関税と1%の売上税を課している。

ローマ帝国はカエサル以降、属州の部族指導層にローマ市民権を与え、属州でも街道、水道、競技場などのインフラ整備を進め、更にはローマ軍団を除隊満期まで勤め上げた軍団兵を属州に土地を与えて入植させるなどして属州のローマ化を推進し、属州の平和維持に努める。また25年の軍務を満期除隊した属州民出身の補助兵にローマ市民権を与え、その権利は世襲することを可能にした。医療や教育の分野でもローマ市民権を活用し、医者や教師には出身を問わずローマ市民権を与えた。ローマ市民権を利用して知識階級を招聘し、属州民に国防意識を浸透させると共に軍事費を低減させたローマのやり方は現代国家も見習うべき点が少なくない。

ヨーロッパ系移民が国の中核をなしているとは言うものの、現在も移民を受け入れているアメリカはローマにならって知識階級や医療・芸術・スポーツなどの分野で優れたものに永住権や市民権を与えている。日本もインドネシアやフィリピンより今後需要が増大する介護師を移住させる計画を立てているが、概念は悪くないものの日本人でも容易ではない介護の専門用語が羅列された日本語による試験に合格しなければならず、ハードルが高すぎ仏作って魂入れずの観がある。

日本でも少子化が問題となり、担当大臣まで置き諸施策を行って久しいが効果が上がったという話は聞かない。ローマでも紀元前1世紀も後半になるとローマ市民は平和を享受して快適な人生を送れるようになり、また共和制の時代のように縁戚関係を作って出世する必要性が薄れ、独身を通す男女が増えてくる。オクタヴィアヌスはローマ帝国指導層の少子化対策として政治、経済、行政担当の上流および中流階級に対し正式婚姻法を定め、子のいない独身者には直接税課税や公職就任が不利になる制度を作るとともに離婚手続きをより煩雑とし、姦通罪も制定して健全な家庭の保護と育成を図る。健全な国家は健全な家庭が不可欠という概念である。塩野七生さんは『自由と秩序は互いに矛盾する概念である。自由を尊重しすぎると秩序が破壊され、秩序を守ることに専念しすぎると自由が失われる。だがこのふたつは両立していないと困るのだ。自由がないところには進歩はなく、秩序が守られていないと進歩どころか今日の命さえ危うくなるからだ。』と述べている。ローマ帝国は一見不自由に思える法律を作っても、その運用の妙により法律の本来の目的である少子化問題を解決したのである。日本もローマ帝国に学ぶべき点があると思うのは私だけだろうか。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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ゴルフ

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ゴルフ
昨日Washington State Golf Associationから送られてきた9月1日付 GHIN (Golf Handicap Index)は14.8であった。昨年来のNew Year Resolutionのひとつであった念願のGHIN15達成である。

最近は相変わらずドライバーが比較的安定しており、飛距離も去年より10ヤードほど伸びているように感じられる。これも宮里藍さんのゆっくりスウィングを真似しているおかげだと思っている。ティーショットが良いと、セカンドショットが楽になる。パー4ではグリーンを狙え、グリーンをミスしても3打目でピンそばに狙うことが可能になる。かくしてパーの確立が高まり、ミスしてもボギーで収まることが増えてくる。

パットも悪くない。昨年に較べ距離感がかなり良くなったように思われる。ボールを送り出すようにパットし、またボールの赤道よりも上を打ってボールの転がりがスムーズになるように心がけている。ダウンヒルでは逆にボールの赤道より下を打つことも、グリーンの速いホームコースではスコアメイクに貢献している。

9月になって今シーズンも残すところあと2ヶ月あまり、このハンディキャップを維持するよう1打を大切にプレイするよう心がけよう。
#スポーツ

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