『ローマ人の物語』を読んで。その3
10月
20日
ユダヤ人は通商に長け、金融の才にも恵まれており、また優秀な民族であるため医師や教師も多く輩出し、ローマの諸都市や他の属州に進出して他民族と交流する機会が多かったが、神に選ばれた民という選民思想を持つユダヤ人はローマの同化政策には従わず、ユダヤ人による閉鎖的な社会を形成していった。
紀元前47年にカエサルはユダヤ人の要望に答え、ギリシャ人と同等の経済的な権利と、ユダヤ教徒が軍務を含む公職に就かない特権を与えた。後者はユダヤ教が一神教の神のみを信仰し、司令官や執政官に忠誠を誓うことが出来ないからだ。カエサルの帝政を引き継いだアウグストゥスもこの政策を継続し、約30年にわたりユダヤ王国は平穏だった。しかし神権統治を求めるユダヤ人急進派はユダヤ王国に住む他民族を追放したり暴動を起こしたため、ローマは軍団を派遣し紀元6年にはユダヤを属州とした。暴動制圧後、ローマはユダヤを急進派の多いイエルサレムと穏健派が多く住む海港都市に分割統治し、イエルサレムでの神権政体は認めなかったがユダヤ教の司祭階級による自治を認めた。
しかしローマ人とユダヤ人はあまりにも違いすぎた。塩野七生さんに言わせれば、ユダヤ人にとっては神が与えたものを人間が守るのが法であるのに対し、ローマ人には法は人間が作るものであり、現実に即して改めてゆくべきものである。すなわちユダヤ人は法に人間を合わせ、ローマ人は人間に法を合わせたのだ。そのためユダヤ人の法はユダヤ人にしか通用しないが、ローマの法はローマ人だけでなく属州となった諸民族にも通用するものであった。
一神教を信ずるユダヤ人にとってカエサルに与えられた特権は妥協の産物であるとは言え十分ではなかった。神権政体の樹立こそが彼らの望む自由であったのだ。紀元6年よりローマの属州となって60年後の紀元66年、ユダヤ人の鬱積した不満が些細な出来事によりついに炸裂した。ユダヤ人の急進派はユダヤ人の穏健派とローマ守備隊を虐殺し、更に暴動鎮圧のためにイエルサレムに侵攻してきたローマ軍が冬の到来で撤退し始めると彼らを急襲し多大な損害を与えた。この事変によって時のローマ皇帝ネロはユダヤの制圧を決意し、紀元67年春、6万の兵を送った。この戦役は途中でネロが自死したため中断するが、ヴェスパシアヌス帝統治の紀元70年、ローマ軍の攻撃によりイエルサレムにあるユダヤ教の神殿が炎上して陥落し、ローマに反抗するユダヤ人の残党が立てこもった最後のマサダの要塞も3年後の紀元73年に平定された。
トライアヌス帝時代の紀元116年、皇帝率いるローマ軍がパルティアに遠征する際、ユダヤの過激派はローマ軍の背後を襲ったが、直ちにローマ軍に制圧される。しかし反ローマの行動はこれ以来断続的に発生し、紀元134年、時のハドリアヌス帝はユダヤ全土を軍事的に制圧しただけでなく、イエルサレムからすべてのユダヤ人を追放し、イエルサレムに入ることを禁じ、更にユダヤの属州名をパレスチナに変更した。この時からユダヤ人はユダヤから離散し、亡国の民となったのである。
しかしローマが制圧したのはローマに反抗するユダヤの急進派であり、ローマや属州に住みローマに反抗しないユダヤ人に対してはカエサルが与えた特権をそのままとし、ユダヤ教の信仰も認めた。ユダヤ人は各地に離散したままでユダヤ教の信仰を続けたが、キリスト教が勢力を持ち始めるとキリスト殺しの罪を背負うようになり、ローマ帝国が滅びた後も中世に至るまでキリスト教世界では迫害を受け続けることになる。迫害は土地・店舗所有の禁止やギルドからの締出しなどを含み、ユダヤ人の農業・小売業・工業などへの従事が困難になったことから金融業が主たる職業になった。ユダヤ人に対する宗教的迫害が減少してきた18世紀以降になると優秀な民族性により科学者、企業経営者を多く輩出している。