『ローマ人の物語』を読んで。その4
12月
18日
ユダヤ教徒だったイエス・キリストはユダヤ教の教条主義を嫌い、神のもとで人類は皆兄弟という神の国運動を展開するが、ユダヤ教の長老はイエスの運動をユダヤ教の権威を揺るがす脅威ととらえ、紀元33年にローマの後ろ盾のもとイエスを処刑する。イエスの処刑後、キリスト教の使徒たちは布教活動を一層積極的に行うが、はじめはユダヤ人コミュニティの中だけの布教であった。しかし神のもとで人類は皆平等という思想に基づき、やがて布教の対象がユダヤ人の枠を超えて多神教を信じるローマ人やギリシャ人のような他民族にまでもおよび、それが軋轢を生むようになる。キリスト教徒にとってキリスト教の神を信じない者は宗教に目覚めない気の毒な人たちだから、何とか救ってやりたいと熱心に布教するが、ローマ人にとっては余計なお世話となる。その上、ローマ人は神々に捧げるために牛や羊を神殿の前で焼き、それを人々が分けて食するが、被支配民族の文化に寛容なローマ人もカルタゴやケルト民族の宗教が人身御供を行うことを嫌悪していたのに、キリスト教の習慣であるパンはイエスの肉、ぶどう酒はイエスの血として食することは、野蛮人の風習としてローマ人が忌み嫌うものであった。
ネロが皇帝だった紀元64年にローマ市内で大火が発生したが、普段から多神教を信じるローマ市民に嫌われていたキリスト教徒の放火によるものとの噂により、多くのキリスト教徒が残酷な方法で殺害された。この弾圧により今日に至るまでキリスト教徒から最も強く弾劾されている皇帝ネロだが、キリスト教徒の弾圧はローマ市内に限定されておりこの1回だけであった。その後も98年から117年におよぶトライアヌス帝の時代、キリスト教徒はローマ帝国の東方を中心に秘密結社のような活動を行っていたが、社会の治安を乱す狂信として弾圧される対象であった。キリスト教に関するトライアヌス法では告発者の名前が記された告発のみが逮捕の対象となり、棄教を認めれば無罪、拒絶すれば死罪とされた。また161年から180年の哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝の治世には飢饉、厄病、蛮族の襲来などローマ帝国をゆるがす出来事が多発したため、皇帝が先頭に立ってローマの神殿で祭儀を執り行うことが多かったが、キリスト教徒はそれらに参加しないばかりでなくローマ市民なら当然参加する社会貢献に関するボランティア活動にも参加しないため、ローマ市民からは白眼視されていた。それでもキリスト教を信じる者たちが孤立した集団を作って反社会的な活動を行った場合には聖職者は斬首刑に処せられているが、単なるキリスト教の信徒に対しては反ローマにならない限り信仰の自由は認めている。
キリスト教徒に対する迫害がローマ帝国全土に及ぶのは3世紀に入ってからである。212年にカラカラ帝が勅令を発し属州民にもローマ市民権を与えるようになったが、250年、皇帝デキウスはローマ市民権所有者に対し、キリスト教徒ではないという証明書を発行する法律を施行した。トライアヌス帝の時代にはキリスト教徒を逮捕するのに告発者の名前が必要だったのに対し、この法律では告発なしでも弾圧しなければ治安が維持出来ないという政策への方針変更であった。多くのキリスト教信徒は証明書の発行の際に非キリスト教信者と偽って証明書を取得したが、信仰の上で偽ることがはばかられる聖職者たちの一部は逃亡した。しかし251年にはゴート族がドナウ河を越えてトラキアに侵入したため、キリスト教徒の迫害どころではなくなった。
253年、蛮族対策が一段落した時の皇帝ヴァレリアヌスはデキウス帝の非キリスト教徒証明書の発行を再開し、さらに257年にはキリスト教会の聖職者を対象とした暫定措置法を発布してキリスト教徒の祭儀と集会を禁止し、この禁令を犯したものは死罪かまたは追放された。258年には暫定措置法が強化され、禁令違反者の財産を没収することとした。キリスト教の拡大を防ぐには、金の流れを断ち切る必要があるとの判断であった。多神教のローマでは神の教えを伝える聖職者は不要だが、一神教のキリスト教では聖職者が信徒からの寄進により教会を運営し祭儀を執り行っており、宗教に金が集まることに気づいたからである。しかし259年、ペルシャがローマ帝国を侵略しアンティオキアを占領するに至り、皇帝ヴァレリアヌスはこの戦闘に出馬したためキリスト教対策は緩和されることとなった。
その後の40年間はキリスト教徒にとっては比較的平和な時代であったが、この時期のローマ帝国にとっては相次ぐ蛮族やペルシャの襲来により不安の時代であった。そのような時代に非ローマ的な不寛容である一神教のキリスト教は、将来に不安を持ち精神的に病んだローマ市民や社会的弱者に静かに受け入れられていった。またそのようなローマ市民にはキリスト教コミュニティに参加することで経済的な利点もあったのだ。この傾向は帝国東部で特に顕著であった。ローマ帝国再建を目指していた東方正帝であるディオクレティアヌス帝は303年、ローマ的な伝統と規律を回復するために、皇帝の周辺にも目に付くようになったキリスト教徒を排除する勅令を発して教会を破壊し、集会を禁じ、聖書や祭儀に使用する器具を焼却し、教会の資産を没収した。この勅令に対し特に帝国東部では反対する暴動が多発したが、ローマ軍が鎮圧した。これらのキリスト教徒弾圧は309年まで続いたが、勅令が厳しい内容の割に殉教者は意外に少なかったようである。309年に勅令が取消されると棄教者はキリスト教に復帰し、司祭階級は教会やキリスト教コミュニティの再建に尽くし、結果的にキリスト教は勅令が発せられる以前の状態に戻った。勅令が取消されたのはローマ人が多神教を信じ、他民族の文化に対して寛容であったため、キリスト教を迫害するのはローマ的な精神に反するという気持ちが常にあったためだと言われている。311年に東方正帝ガレリウスが信仰の自由やキリスト教コミュニティを認める勅令を発布したのもその現れと思われる。