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「誰とでも仲良く」ではなく「誰とどうかかわるか」

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「誰とでも仲良く」ではなく「誰...
私たちは社会の中で生きる以上、他者との関係は避けて通れない。
 
そう考えると、全てのつながりを維持しようとか、拡大しようとかすると、自分のエネルギーや心の健やかが少しずつ損なわれていく機会がしょっちゅうやってくる。
 
 
特に、無理に合わせたり、気を遣いすぎたりといった「頑張る交流」は、知らず知らずのうちに自分を削ってしまう。
 
自分にとって健やかで自然な人間関係を見極める感度は、意識して磨いていきたい。
 
 
ボクがそうであったが、
 
無理な交流を続けていると
 
「誘いを断れない」
 
「場の空気を壊したくない」
 
といった理由で、自分の本音を後回しにしてしまいがちになる。
 
その結果
 
休日でさえ心が休まらない、何かに疲れているのに理由がわからなという状態に陥ってしまう。
 
 
そうならないように
 
まずは無理な交流を一つ手放すことで、自分にとっての「本当に必要な余白」を少しずつ戻したい。
 
その空白こそが、自分の感情や欲求と向き合う余裕を生んでくれ、また次に向かうエネルギーが湧き出すキッカケを作ってくれる。
 
 
そもそも
 
人付き合いに疲れるのは
 
「合わない相手」そのものよりも
 
「合っていないのに合わせようとする自分の行動パターン」
 
であることが多いのではないか。
 
要は無理するっていうのは、この辺のことかと。
 
そうした癖に気づき、少しずつ距離や関わり方を調整することで、「本当に無理をしなくていい関係」の自分なりの見極め方が磨かれていく。
 
 
また、不自然な付き合いを見直すことで、自分らしくいられる関係や安心できる場所のありがたさにも、より敏感になれる気がしてる。
 
 
無理な交流を手放す行為は
 
「嫌われるかもしれない」
 
「気まずくなるのではないか」
 
という不安と常に隣り合わせ。
 
 
ただ
 
その「恐れ」に対して、丁寧に越えるプロセスを進むのは、自分に対しても相手に対しても、実は誠実であろうとする姿勢だと思う。
 
しっかりとそこと向き合えた時
 
「自分の気持ちを信じ、尊重してよい」
 
という自己信頼が固まっていくようにも思っている。  
 
 
自分の基準で人間関係を築いていくことは、他者と心地よく距離をとれるということでもあり、より気持ちに自由度が増す。
トレーニング次第で誰もが手にいれるものだと思うから、少しずつ始めてみることをオススメしたい。
 
 
 
私たちは、すべての人に好かれる必要はないし、すべての人を好きになるなんてこともできない。
 
だからこそ、無理な交流を手放すことは「相手を切り捨てること」ではなく、「自分を大切にする選択」として「線引き」することで、自分を大切にする行為になっていくのだと思う。  
 
 
それは結果的に、その選択が関係性における誠実さや透明さを育み、より豊かな人間関係を築いていく土台になる。
 
たぶんこれからはますます「つながりの総量」よりも、「つながりの質」を大切にする時代になると感じている。
 
そこに意識を向けて、心をより自由に、そして穏やかでいたい。
 
そのためにも
 
「誰とでも仲良く」ではなく、「誰とどう関わるか」を心に掛けていきたい。

ワオ!と言っているユーザー

「型にはめる」ではなく「個を拓く」営みを心掛ける

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「型にはめる」ではなく「個を拓...
ポンコツだが、縁あって3つの部署でマネージャー職をさせていただいた。
 
この経験は、私の人生に大きな影響を与えてくれて、そして自分の家族経営や子育てにも、とても大きい力をくれた。
 
子育ての話しになると終わりがなくなりそうなので、マネージャーとしてサポートしてきた経験を少しだけ書き留めておきたい。
 
 
 
経験を積むにつれて、まだ若い人に対して
 
「こうあるべき」
 
といった期待や理想像をついつい押し付けがちになることがある。
 
ただ、自分の経験則のみの、その『型』が強すぎると、お互いに苦しくなっていく。
 
誰かを特定の型にあてはめようとするほど、「その人らしさ」は見えづらくなり、自分自身も「思い通りに育たない」ことへのストレスに、少し翻弄される。
 
 
  
本当に大切なのは、型にあてはめることではなく、目の前のその「人」という『いまここにある存在』と向き合い、その方らしい芽が育つ土壌を整えること。
 
 
その視点を持つことで、コントロールの連続ではなく、対話と発見の積み重ねへと変化していくように思う。
 
 
先輩として
 
「きちんと育てたい」
 
「(チームの)社会性を身につけさせたい」
 
と願うのは当然のことだと思う。
 
 
しかしその思いが増した時
 
「こうすれば安心」
 
「これができなければ不安」
 
という思考と結びつくことがあって、そうなった時に以前経験した『型』にはめる育て方へと変わっていくような気がしている。
 
 
「言わなくても動ける」
 
「誰とでも仲良くできるように」
 
といった差し支えなく誰とでも良いコミュニケーションがとれる『理想像』が強まると、静かに自分を表現するタイプの人や、慎重に関係を築くタイプの人は、少しずつ「できない自分」「ダメな自分」として周りからばかりではなく、自分が自分をそう思うようになり、そしてつぶれていく。  
 

こうした先輩としての『善意の型』みたいなものこそ、経験の少ない人にとっては自分の自然な表現を封じられる苦しさとなり、リーダー自身にとっても「うまく育たない」ことへの焦りを生みはじめる気がする。
 
 
 「よかれと思って」の期待が、知らぬ間に圧力になっているんだろうな、きっと。
 
 
  
経験の若い人を型にはめたくなる背景には、リーダー自身の不安や恐れがあるんだと思っている。
 
それは今も日々感じる(笑)
 
 
「(チームの中で)人と違うのはかわいそう」
 
「きっと困るよな」
 
そういった思いが、無意識に
 
「こうあってほしい」
 
「こうすべき」
 
という型を生み出しているのだと思う。
 
 
 
これは、『若い』という存在を「未熟」と捉え、「変えられれば、安心できる存在になる」という、勝手な盲信があるんだろうなと。  
 

ただ現実には
 
経験の若い人は自分の思い通りには育たないし、それが自然なことなんだとも思っている。
 
 
そのうえでリーダーが
 
「なぜ伝わらないのか」
 
と思い悩み、そして若い人は
 
「どうして自分はわかってもらえないのか」
 
と感じ、静かな断絶が生まれはじめた時を感じられるかどうかは、その後に大きな影響を及ぼすことも、多くの経験から学んだ。
 
「型」を求めようとするのは、安心感を得て、そしてコントロールしたいと思う気持ちの裏返しなのかもしれない。
 

型にはめることから抜け出すためにできることといえば
 
まず 
 
「その人は、自分とは別の『他者』である」という前提に立ち、そしてその人を深く見つめる姿勢を持つことだと思っている。
 
 
 
若い人=若い頃の自分
 
ではなく
 
自分とは異なる価値観・気質・感性をもつ、独立した存在として認識すること。
 
型にはめるのではなく、その人の型、つまり『自然な姿』をまずは尊重し、活かすかかわりを考えてこそ、育てる土壌が作られるのではないのか。
 
たとえば
 
安心が第一の人には、注意よりもまず共感を示す。
 
好奇心で動く人には、ルールで縛るよりも、可能な範囲で自由な探索の余地を持たせる。
 
 
『ちがい』を問題視するのではなく、「どうかかわれるか」に想像力を全集中させる。
 
それが、お互いの苦しさを減らし、ともに育つ喜びを増やすアプローチのような気がしている。
 
 「個」としてのその人を尊重すること。  
 

型にはめる育て方は、リーダーの意図が強くなればなるほど、双方にとって苦しさを生む構造を持っている気がする。  

それは愛情がないからではなく、
 
「不安」
 
「比較」
 
「理想」
 
などの感情がそこにあり、そしてそれは無意識の反応として、相手に届ける。
  
だからこそ
 
必要なのは『正しい型』ではなく、その人とかかわるための『見つめ方』の質を問い直すことだと思っている。  
 

「この人はどんなときに自然体で動けているのだろうか?」
 
「どんな瞬間に楽しそうにしているのか?」
 
という問いに立ち戻ることで、その人の理解が深まっていき、リーダーはコントロールから信頼へと歩みを進められるような気がする。  

そして何より、リーダーの期待をよそに、自分自身と向き合うその時間こそが、若い人が枠を広げる学びの機会でもあること、そしてそれはリーダーも一緒だということを、いつも心に掛けておきたい。

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キャパを超える意識を持つ大切さ

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キャパを超える意識を持つ大切さ
以前、転職を考えていた時のこと。 
 
 
とある経営者に
 
「自分の器以上のことはしない方がいい」
 
「私は自分の器の大きさを知っている」
 
と言われたことがあった。
 
 
 
人は誰しも
 
自分の「キャパ」(容量・許容範囲)
 
というものを持っている。
 
 
ただ
 
 
その枠の内側だけで生きていると、成長や変化の機会は限られてしまうことに、ボクはずっと違和感を感じていた。
 
そんな当時のボクは
 
「キャパを超えるかもしれない」
 
と感じる領域に、あえてイタズラに踏み込んでみることに面白さを感じていたのかもしれない。
 
 
思考や行動の枠を広げようとすることに興味があったんだと思う。
 
 
一方で
 
無理や背伸びを推奨するかと言ったら、決してそうではない。
 
今の状況を踏まえて、アクセルを踏み込むタイミングをうかがうのは、得意な方だと、自分では思っている。
 
 
そこを無理して踏み込んだと思える経験が、一度だけあったな(笑)
 
 
 
「キャパを超える『意識』を持つこと」
 
は、むしろ自分の限界を丁寧に見つめ、そのギリギリに触れることで、成長を刻もうとする勇気のあらわれだとも思う。
 
 

人は、やってみて初めて「どこまでなら大丈夫で、どこから苦しくなるか」を知ることができる。
 
 
つまり
 
『少しの背伸び』
 
をしてみることではじめて、キャパの正体を自分なり言語化できる。  
 

これはたとえるなら
 
少しだけ重い荷物を持ってみることで「これ以上は腰にくるわー」とわかるのに似ていている(笑)
 
 
日常の中で自分をあまりにも守りすぎていると、逆に「自分の限界がどこなのか」が不明瞭になり、突発的なストレスに弱くなってしまうと、ボクは思っている。
 
 
自分のキャパに向き合い、時にそこをあえて越えてみようとすることで、自分にとっての『エネルギー配分』や『休息の取り方』をより的確に調整できるようになっていく。
 

そうやって
 
キャパの外に出る経験を繰り返すと、今まで「無理」「自分には向いていない」と思っていたことにも、『やってみる価値があるかも』と感じられるようになる。
 
 
 
つまり
 
 
未知=不安ではなくて「まだ慣れていないだけの領域」と捉え直す力も育ってきているような気もする。  
 

たとえば
 
これまで避けていたプレゼンや新しい人間関係をつくろうと踏み出したとき、
 
「思ったより大丈夫だった」
 
「これなら次もやれるかも」
 
と、良くも悪くも、それは小さな成功体験として積み上がっていく。
 
 
それは自己効力感やチャレンジへの充実感を通して、結果的に人生の選択肢を広げるものになっているように思う。
 
 

そして皮肉なことに
 
人は「キャパを超えたとき」に初めて、「ひとりではどうにもならない」という現実と向き合う。
 
 
そこではじめて
 
『助けを求めたい自分がいる』
 
という、誰かを頼る行為が選択肢に入ってくる。
 
 
助けを求めることは、弱さではなく「持続的に自分を扱う力」だと思っている。
 
 
それは、自分の限界と対話したことのある人にしか育たない資質でもあるとボクは思う。
 
 
キャパを超える体験は苦しさや混乱を生むようでいて、一方で実は「自分らしく成長するために何が必要か」を考えるきっかけとなっているような気がする。
 
 
失敗や後悔を積み重ねるのもまた、自分に合った仕組みや支えを設計するための力を養っているのだと、自分に言い聞かせてみる😊

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外向型か内向型か、の前に大切にしたいこと

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外向型か内向型か、の前に大切に...
私自身も様々学んできましたが
 
「〇〇タイプ」
 
「□□キャラ」
 
「~~型」
 
「外向型か内向型か」
 
のような分類は、自分や相手の性格傾向を理解する手がかりとして、とても有効なもので、学んだことでとても生きやすくなった。
 
 
それと同時に
 
それらの枠に縛られるような感覚もあって、「本来の自分」みたいな感覚や「思い込みによる可能性の制限」があるような気がするのもまた、現実。  
 
 

ボク自身が本当に大切にしたいのは
 
「どちらの型か」
 
よりも
 
「どんなふうに人と関わり、どう生きたいか」
 
という自分なりの価値のある意図と感受性。
 
 
その視点を持つことで、分類を超えた自己理解と、穏やかに受け止められるようになった他者理解が育まれているように思っている。
 
 
 
外向型・内向型という言葉はなんとなく便利な気がして、ただそれは、あくまで「傾向」であって、「定義づけるもの」ではない。
 
 
人は誰しも、外向的な要素も内向的な要素も両方持ち合わせており、それは状況や心の状態によって流動的に変化するものだと思っている。
 
 
たとえば
 
普段は内向的で静かな人が、安心できる仲間の中ではやたらとおしゃべりになったり、逆に外向的な人が、人前に立つプレッシャーで言葉に詰まることもある。  
 
 
後者はめちゃくちゃ自分に当てはまる(笑)
 

つまり、重要なのは「私は◯◯型だからこう振る舞う」ではなく、「今の私は、どんな状態にあるか」という自己観察と、「だとしたらどうする?」という選択の自由を自分なり持つことなんじゃないかと。
 
 
固定的な分類に自分を閉じ込めない方が、可能性を広げてくれる気がする。
 

また
 
「内向型だから一人でいたい」
 
「外向型だから多くの人と関わりたい」
 
などとよく聞くが、それはその人の「癖」や「心地よさ」を示しているだけで、常にそう在り続けているわけではない。
 

関係性によって常に「化学反応」が起こっていて、ある人といるときは落ち着けるのに、別の人といるときには神経が張り詰める、そんなことも日常茶飯事のこと。
 
 
自分がどの型かよりも、「この関係の中で自分はどう感じ、どんなふうに関わりたいのか」といった、「関係の質」を意識する感度の方がずっと大切なのだと思う。  
 
 
そして

ボクが性格のタイプ以上に重視したいのが
 
「自分はどんな場に身を置きたいか」
 
「どんなつながりを育みたいか」
 
という自分にとって心地の好い、「在りたい世界への意図」みたいなもの。
 
 
たとえば、人と深く関わりたいという気持ちがあっても、それをどう表現するかは人によって異なるはず。
 
 
外向的に盛り上げながら場づくりをする人もいれば、外向的であっても静かに一人ずつの対話を大切にする人もいる。  
 

つまり
 
「外向型の方が社交的で価値がある」
 
「内向型だから共感力がある」
 
といった一面的な評価ではなく、自分の在り方が「何を育もうとしているか」という意図を軸に据えることが、結果的にその人の魅力を最大限に育ててくれるような気がしている。
 
 
これはある意味、「外に出るか中にこもるか」ではなく、「どんな世界と、どう関わりたいか」という問いなんだと思う。
 

外向型か内向型か、という分類は「便利な地図」みたいなものかと思うけど、それを「目的地」にしてはいけない。
 
本当に大切にしたいのは、自分自身との正直な対話と、在りたい方向への感性。  
 

「今の私はどう感じているか」
 
「誰と、どんな場をつくっていきたいのか」
 
 
そう問い続けることで、タイプを超えた生きた関係性が育まれていく。
 
そしてその柔らかくしなやかな在り方が、自分にも他者にも心地好い居場所をつくってくれるのだと思っている。

ワオ!と言っているユーザー

生きる気持ちが全く湧かない時の切り抜け方

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生きる気持ちが全く湧かない時の...
「生きる気持ちが湧かない」
 
 
ここしばらくそんなことを感じる時が何度もあった。
 
 
無理に前を向こうとするほどに、より深い疲労や孤独に包まれてしまうことがあった。
 
 
そんな時に必要なのは
 
「頑張らない切り抜け方」
 
という選択肢を、自分に許すことだと思う。
 
 
最低限やらなければいけないことは、やる。
 
これだけは放っておけないということは、やれる範囲でやる。
 
でも
 
それ以上はやらない。
 
「走る時期」もあれば「とどまる時期」も必要だ。
 
大切なのは
 
無理に生きる理由を探すことではなく、まずは「ただ、ここにいてもいい」ことをまず肯定することかもしれない。
 
 
それだけ頑張ってきた反動だと、言い聞かせてあげてもいいのかもしれない。
 
 
生きる気持ちが湧かないとき、そんな時でも、いくつか切り抜け方があったように思う。
 
 
 
未来のことも、周囲との関係も、何ひとつうまくいく気がしない
 
 
そんなとき、頭の中の思考にどんどん飲み込まれ、身体の感覚からどんどん離れていく感覚がある。
 
 
まず試したいのは、
 
「空を見上げる」
 
「美味いものを食べる」
 
「しっかり寝る」
 
ごく基本的なことかもしれない。
 

これは、生きる意欲を取り戻すというより、「生きている」という事実に自分を繋ぎ止めるための、最小限で最大の手段だった気がする。  
 

考えすぎるのではなく、感じること。
 
 
心の飽和状態を少しだけ和らげてあげたい。
 
 

生きる気持ちが湧かない状態は、決して「意志が弱い」からでも「甘え」でもない。
 
むしろ、これまで必死に頑張ってきた心が、限界を超えて静かにSOSを出している状態ともいえるかもしれない。
 
 
助けてくれる人がいるなら、お願いしたい
 
そんな気持ちだった。
 
 

そのとき
 
「もっと前向きに」
 
「ちゃんとしなきゃ」
 
と自分を責める言葉は、さらに心を追い詰める。
 
 
そうではなく
 
「今はエネルギーをためる時期」
 
「何もしないことが必要な時期」
 
と捉えてみる。  

これはあきらめるのではなく、自分が自分との信頼を壊さない選択でもあるような気がする。
 
何もできない自分を見捨てず、そっと隣にいてあげること。
 
その姿勢が、何より大切だったように思う。
 

すべてを語らなくてもいい。
 
べつに完了させなくてもいい。
 
 
たった一言
 
「今日はしんどい」
 
「何もしたくない」
 
だけでもいいと思う。
 
 
もっと具体的に
 
 
「〇〇はやりたくない」  
 
「□□はいや」
 
などなど。
 

そして
 
信頼できる相手にほんの少し気持ちをこぼせるときは、
 
「ひとりきりではない」
 
としっかり感じてみる。
 
 
もし周囲に話せる人がいないと感じたら、日記やスマホのメモ、あるいはAIとの対話でもいいと思う。
 
 
まずは言葉にすることで、感情を外に出すこと。
 
それは心の中で静かに沸騰していた何かの温度を下げ、呼吸をしやすくしてくれる行為でもあると思うから。
 
 
 
生きる気持ちが湧かない時、「回復すべき問題」ばかり見るのではなく、「今はそういう状態なんだ」と静かに隣にいるような気持ちを向けてあげる。
 
 
そして
 
無理をしないこと
 
小さな感覚に戻ること
 
誰かとつながる可能性を閉じないこと
 
そうした積み重ねが、やがて次の一歩に新しい風を送り込む力となってくれる気がする。
 
 
今日を生き抜いたこと、それ自体が尊い。
 
それだけで、もう十分に意味のあることと、自分に言ってあげたい。

ワオ!と言っているユーザー

感情の言語化が人生を楽にする

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感情の言語化が人生を楽にする
感情をうまく言葉にできないと、曖昧なモヤモヤを抱える。
 
そんな時
 
感情を言語化できる力があれば、自分の内面を整理し、相手との関係も滑らかにすることができると思う。
 
個人的にこれは
 
「心の技術」
 
とも言い換えられる気がして、ただそれは特別な才能ではなく、誰もが日常の中で少しずつ育てていけるものだとも思っている。
 
 
そしてこの力があると、人生の重たさがほんの少し軽くなる場面が増えていくのようにも思う。
 
 

ボクたちは
 
「イライラする」
 
「何か不安」
 
「ちょっとモヤモヤ」
 
といった感覚は持ちながらも、それを放置したまま日々を過ごしがちだと思う。
 
 
けれど
 
その感覚の正体を具体的な言葉にしようとすると
 
「あー、自分は寂しかったのか」
 
「期待していたんだな、だから傷ついたんだ」
 
と、それまで見えていなかった本音に出会える瞬間がある。
 
 
言葉にしようとするプロセスは、自分を一歩外から見て、他者として見つめ直すような作業にも思える。
 
そこは「自己理解の入り口」でもあり、感情に振り回されるのではなく、感情と丁寧につきあう自分がいるような気がする。
 
 

感情をうまく言葉にできないと、怒りや涙といった表現でしか伝えられず、誤解やすれ違いが生まれやすくなる。
 
それを
 
「自分はこう感じた」
 
「○○が心にひっかかった」
 
と伝えられることで、相手は非難ではなく「思い」としてそれを受け取ることができるようになる。
 
 
それは自分自身もそう。
 
 
たとえば
 
「忙しいのに、また頼まれ事か」
 
と怒るのではなく
 
「今はいっぱいいっぱいで、頼られるのが少し苦しいんです」
 
と表現できたなら、対話は全く違うものになる気がする。  
 
 
素直に受け止めてくれる場合もあれば、もしかしたら相手は気分を悪くするかもしれない。
 

ただ
 
感情の言語化は、相手との「関係の質」を静かに底上げしてくれる気もする。
 
(このように思っている)
 
それをしっかり伝えられるからこそ築くことのできる関係があるようにも思う。
 

感情にフタをしてばかりいると
 
「自分が本当は何を感じているのか」
 
がわからなくなり、自分の判断や直感すら信じられなくなることがある。
 
逆に
 
「私は今、こう感じている」
 
と明確にできると、心の中に一本の軸が通るような感覚が得られる。
 
 
(これこそがボクの真意なんだ)
 
 
それは、自分の感情に「ちゃんと気づいてるよ」と声をかけてあげるようなもの。
 
 
その積み重ねが、自己信頼を支える静かな土台になっていく。
 
 
だからこそ、不安定な状況の中でもぶれずに立ち続けることができるのかもしれない。
 
 
 
感情を言語化することは、ただの“表現”ではなく、自分を理解し、他者とつながり、人生に穏やかにするための尊い技術と言える気がしている。
 
 
「どうせ伝わらない」
 
とあきらめず
 
「まずは自分に伝えてみる」
 
 
 
たとえ完璧な言葉でなくても、その試み自体が人生を少しだけ優しく、そして生きやすくしてくれるのだと思う。

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過去の経験には未来を照らす種がある

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過去の経験には未来を照らす種が...
「これからどう生きる」
 
時々未来ばかりを見つめがちになる。
 
 
でも
 
 
未来を切り拓くうえで最も確かな手がかりは、すでに自分が体験した「過去の経験」の中に眠っていることが少なくない。
 
 
とくに
 
「なんとなく印象に残っている」
 
「なぜだか繰り返し思い出される」
 
そんな経験には、今の自分に何かを問いかけてくる力があるように思える。
 
 
過去の一場面を「振り返る」ことで、未来への「進み方」が見えてくることも少なくない。
 
 
 
過去を意味づけする、なんていうこともあるが、過去の出来事はその瞬間には理解できなかった意味を、あとから植え替えることができるような気もする。
 
 
たとえば
 
失敗と思っていた経験が、後の出会いや選択に影響を与えていた
 
そんなことは珍しくない。
 
 
 
重要なのは
 
「何が起きたか」
 
ではなく
 
「そのとき自分が何を感じ、何を学んだか」
 
という視点で記憶を読み直すこと。
 
 
過去を再読するというか、振り返ることで自分の価値観や行動原理の輪郭が、たしかに浮かび上がってくる。
 
過去は、解釈し直すことで「未来資源」になるんだろうな。
 
  
そして、記憶に残っている経験の中には「強い感情」をともなった場面がある。
 
悔しさ
 
感動
 
怒り
 
驚き
 
そうした感情は、自分が何を大切にしているのかを教えてくれている。
 
 
たとえば
 
「誰にも頼れずに頑張った」
 
という経験からは
 
「孤独を理解できる人でありたい」
 
という想いが湧き起こっているのかもしれないし
 
「誰かに救われた」体験には
 
「今度は自分が支えたい」
 
という使命感が宿っていることもあるように思う。
 
 
感情は、過去と未来を橋渡ししてくれている。
 
 
さらに、せっかく得た気づきも、言葉にとどめるだけでは変化は起こりにくい。
 
 
過去の経験に込められた意味を、しっかりと今の自分の選択に落とし込むこと。
 
 
過去の「聴いてもらえた安心」が印象に残っているなら、「人の話に耳を傾けることを仕事に活かす」などの形で具体化できることもたくさんありそう。 
 
また「当時の自分にかけてあげたかった言葉を、今の仲間に届ける」というアクションも、自分にとっても相手にとっても力になりそう。
 
自分の過去は、ただ懐かしむ対象ではなく、今の行動にエネルギーを注ぎ込む「記憶の資源」といえるかもしれない。
 

「将来につながる経験」は、どこか遠くにある特別な出来事ではなく、これまでの人生にすでに刻まれている経験の中に存在している。
 
 
それを思い出し、意味づけし、感情をすくい取り、行動に変えていくことで、未来はより自分らしい輪郭を帯びて立ち現れてくる気がする。  
 

未来に迷ったときこそ、立ち止まり、少し過去に目を向けること。
 
 
 
それは決して後ろ向きなことではない。
 
 
 
自分という存在の「軌跡」を礎にして、次の一歩を踏み出すためのしなやかな力となるものを、私たちはすでに持っているんだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

やりたいことが見つかった時に、まずやるべきこと

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やりたいことが見つかった時に、...
やりたいことが見つかった瞬間は、人生の中でも特にエネルギーに満ちた、何とも言い難い喜び感じる。
 
 
と同時に、その熱をどう扱うかによって、夢が実現に向かうか、遠のいていくかが分かれることもたびたび。
 
 
「やりたいことを見つけたら、まず何をするか」は、その後の行動の質を決める土台になっているようにも感じる。
 
 

見つけた“やりたいこと”に対し、まず最初に取り組むべきことは「動機の言語化」ではないかと。  
 

どうしてそれをやりたいと感じたのか?
 
どんな価値をそこに感じているのか?  
 

こんな問いを自分に投げかけて、感情や直感だけにとどまらず、自分なりの言葉で「動機」を整理することが大切。
 
それによって、やりたいことが単なる「願望」から「意思」へと変わり、他者に共有したり、自分の判断軸に組み込んだりできるようになる。
 
たとえば
 
私の経験を述べると、「人の話を聴く仕事がしたい」という想いが生まれたなら、それは「人の力になりたい」からなのか、「心のしくみに興味がある」からなのか――その動機の違いによって、そこからまた歩んでいく方向性も異なっていくような気がする。
 
 

そして動機が言語化できたら、次はできるだけ小さく、現実的な一歩を踏み出す準備を考える。
 
 
「その分野の本を一冊読む」
 
「関係者に話を聞いてみる」
 
「仮のスケジュールを立ててみる」
 
など、準備段階でできることを行動に落とし込むことで、行動のハードルを下げ、自然とエンジンがかかってくる。
 
大きな夢ほど「準備が整うまで待つ」姿勢を取りがちですが、実際には「とりあえずやってみる」ことでしか得られない発見や修正がある。
 
 
完璧な計画よりも、まずは頭だけでなく「手を動かす」ことこそが、やりたいことを「実体化」させる鍵なのかもしれない。
 

そして最後に、やりたいことを自分だけの内側にとどめていると、日常の中で埋もれてしまう。
 
そこで有効なのが、信頼できる人に話したり、SNSなどで少しだけ表明するといった「外への発信」が自分を後押しする。
 
 
というか、進まざるを得ない環境になる(笑)
 
 
人に話すことで、応援者や仲間が現れたり、偶然のきっかけが生まれたりすることが多々あった。
 
また、自分が口にした言葉が「約束」や「動機づけ」となり、行動の促進力になることもたくさんあった。
 
 
つまり、やりたいことは、環境との関係性の中で育っていくんだろう。
 
 
 
やりたいことを見つけた瞬間は、心が開き、未来への可能性が広がる貴重な時間だったりする。
 
そしてその想いをかたちにするには
 
「なぜやりたいか」
 
を言葉にし
 
「できること」
 
から動き始め、環境とつながっていくというステップがとても重要。
 
やりたいことは、静かに温めておくだけでは叶わない。
 
そして温めておくだけだと、もったいない。
 
 
だから、自分の意思と具体的な行動で「秘めた願い」をまずは「生きた願い」にしていく必要がある。
 
 
まずは、未来を分ける最初の一歩を踏み出してみよう。

ワオ!と言っているユーザー

問い続けながら育てる本当の自分

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問い続けながら育てる本当の自分
「本当の自分」がわかる心理学
 
という本が置かれていたのを見て、本当の自分を考えざるを得なくなった(笑)
 
 
本当の自分とはなんだ
 
本当の自分とは誰だ
 
 
「本当の自分」とは、生まれながらに決まっている「何か」ではなく、環境や経験、選択を通じて少しずつ形づくられていく、実にか弱い存在のように思っている。
 
 
そして、他者や社会との関わりの中で、よく見失う。
 
 
が、そのたびに自分の「核」に立ち戻ることがあるので、内にある一貫性や納得感を少しずつ得て、今の自分があるように思う。
 
 
つまり、本当の自分とは、変化の中でもぶれない指針を持っていて、同時にそれを育てていくプロセスそのものなのかもしれない。
 
 

私たちは日々、他者の期待や役割のなかで生きている。
 
「いい人でいなければ」
 
「成果を出さなければ」
 
といった社会的な仮面を身につけるうちに、自分自身が何を感じ何を望んでいるのか、見えなくなることが多い。
 
 
本当の自分を知る第一歩は
 
「こう思われたい」
 
ではなく
 
「自分は本当はどう感じているか」
 
を問い直すことのような気がする。
 
 
たとえば、何かに対してイライラした時、「自分はこの価値観に違和感を覚えているんだ」と丁寧に内省することで、自分の大切にしたいものが浮かび上がってくることが、今までたくさんあったような。
 
ありきたりな感じかもしれないが、他者の眼ではなく、自分の「内なる声」に耳を澄ますことが、やはり大事なんだと思う。
 
 

そして、人は孤立した存在ではなく、他者との関係性の中で自分自身が照らし出されるような気がする。
 
ある人といるときの安心感、ある場で見せる素直さ...そうした「自然に自分らしくいられる関係や場所」こそが、本当の自分を教えてくれる鏡になるとも思う。
 
 
また、信頼できる他者との対話によって、言語化されていなかった自分の想いに気づかされることも少なくない。
 
 
だからこそ、自分を表現できる安全な場づくりも、本当の自分を育むために欠かせない要素なのだと。
 
 
本当の自分は「関係性の中」で浮かび上がってくるんだろうね。  
 
 

そしてもう一つ
 
自分らしさは、何か特別な瞬間に突然あらわれるものではない。
 
 
むしろ、日々の小さな選択の中に
 
たとえば
 
どう挨拶をするか
 
誰と時間を過ごすか
 
どの言葉を口にするか
 
その中にこそ、本当の自分が映し出されているような気がする。
 
 
自分の内側と一致した選択ができた時には、静かな満足感が残っている自分に気づく。
 
その感覚を手がかりに、選択と行動を一致させていくことで、自己信頼を育んでいったらいいようにも思う。
 
本当の自分は「日常の選択」の中に、いつも現れているだろうね。
  
 

本当の自分は、固定された「正解」があるのではなく、人生のプロセスの中で少しずつ言葉になり、かたちになっていく存在なんだろう。
 
 
内なる声に耳を傾け、信頼できる人と関わり、自分らしい選択を積み重ねる。
 
そうした日々の営みこそが、「自分自身とつながりつづける」ことを可能にしていってくれるんだろうね。  
 

そして何より大切なのは
 
 
本当の自分を「探す」だけでなく、まずは「ありのままを尊重する」視点を自分の中に持つこと。
 
 
その姿勢こそが、外側に振り回されない穏やかな軸を育ててくれるように思う。
 
そうやって、問い続けながら自分を育てていこう。

ワオ!と言っているユーザー

陰口は自分の心に静かに傷を刻む

スレッド
陰口は自分の心に静かに傷を刻む
私が一番嫌いな場所が、誰かのことを攻撃的に責める場所。
 
 
そう言いながらも、自分も会社の上役についてついつい喋ったりしてるけど(笑)
 
 
そういった役職レベルでのぶつかり合いとは別に、人として相手のいないところでその人の人格を否定的に語る場所からは、1秒でも早くいなくなりたい。
 
 
決して自分は品行方正な人間でもありませんがね(笑)
 
 
陰口は一見、他人への批判に見えても、実はその言葉は自分自身への信頼や心の安定を少しずつ蝕んでいくように思っているんですね。
 
 
陰口を言うことは、一時的な発散や共感の獲得につながるように思えても、その代償は予想以上に大きいものだと。
 
 
そして、そういう場に出くわしたとしたら、それはもう間違いなく自分のことも言われていることと(笑)
 
 
 
 
陰口を言うことで、自分に与えるダメージも小さくはないですよね
 
 

陰口を聞いた相手は「この人は、いない人の悪口を言うのだから、自分のこともどこかで言っているのでは?」と感じていることと。
 
たとえ内容が事実であったとしても、陰口そのものが信頼を損なう言動となり、自分自身の信用を落としてしまう。
 
そしてその印象は、思っている以上に長く残るから、結果的に自分が傷つくことになるような気も。
 
 

また陰口が習慣化している人をみていると、思考が「評価する・裁く」方向に偏ってしまっている気もする。
 
「○○さんはまたこうだった」
 
「あの人はだめだ」
 
というフィルターをかけて人や出来事を見るようになると、本来感じられたはずの感謝や学びが見えづらくなる。
 
せっかく素晴らしい人間性があった人でも、視野や感性が狭まり、相手を見下すようになっていく様を、見たくないけどもたくさん見てきた。
 
 
これは他人を否定する言葉で自分の内面に曇りをかけているようなものなのかもしれない。
 
できることなら、本当はどうしたいのか、どうなっていきたいのか、そのためにどうしたらよさそうか、提案してみたり、考えを聞いてみたり。
 
成功事例を持ち寄って話をしてみるとか、できることは実はたくさんあるのですが、そういったことに意味はないとバッサリ切ってしまうのもまた、考えものですよね。
 
お互いの考えを聞き合いたいなと。
 

そして、皮肉なことに陰口を言った後には、一時的な高揚感のあとに自責や虚しさが残ることもあるよね。
 
 
「どうして自分はこんなことを言ってしまったのか」
 
「言ったところで何が変わるんだろう」
 
と、自分を小さく感じてしまう……
 
それは、陰口が本来、自分の理想や誇りと食い違う行為だからなんじゃないかと。

つまり、陰口は他人へのダメージ以上に、自分の心を静かに削っていく行為なんだろう。
 
 
ただ、それを感じられているうちはまだマトモな状態で、それすら感じられなくなってしまっている人も、悲しいかな、たくさんいるような気も。
 
 

陰口を言わないことは、他人のためというより自分の尊厳と信頼を守ることに他ならないと思う。
 
もしモヤモヤした気持ちがあるなら
 
「建設的に対話する」
 
「信頼できる人に相談する」
 
「感情を紙に書き出す」
 
など、別の方法で扱うことができる。
 
 
陰口を選ばない生き方は、結果として自分の心の透明さや対人関係の質を保つことにつながる。
 
 
 
「言いたいヤツには言わせておけばいい」
 
 
と思いながらも、そうやっておさめられない時もあると思うから、身近に建設的に対話ができて信頼できる人がいたとしたら、そんな人にお話聞いてもらうのが、いいかもね^^

ワオ!と言っているユーザー

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