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そうすることに何の意味があるの?

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そうすることに何の意味があるの...
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
一日に35,000回は決断の機会があるといわれるが、その中でもこんなつぶやきが伴う決断が一日に何回かはあるんじゃないだろうか。
 
「それって何の意味あるの?」
 
時に冷たく、時に鋭く響く。
 

けれどもこの問いは、行動の価値を否定するためのものではなく、その行動に『自分なりの意味』を見出すための入り口なんじゃないかなと思っている。
 
 
意味を問うことは、ただの正当化のようにも思えたりするが、自分の選択に納得と方向性を与えるための静かな対話の機会のような気がする。  
そしてその問いを丁寧に扱うことが、日々の営みを『ただの作業』から自分の人生に対する『生きた実践』へと変えていくようにも思う。
 
 
ボクたちは日々、無数の選択と行動を繰り返している。  

けれども、その一つひとつに「なぜそれをするのか?」という意味を感じない時、その行動は「義務」や「惰性」に変わっているのではないか。  
 

「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いを立てることは、自分の行動に対して『納得できる理由』を作るためのプロセスにも思える。
 
 
毎朝の掃除
 
誰かへの声かけ
 
地道な記録作業
 
単純な日課程度のこんな時間も、それらが「意味がある」と感じられるとき、行動は『自分の意志』として力強さを表してくる。  
 

意味を問うことは、行動に魂を通わせることなんだ。  

それは、他人に説明するためではなく、自分自身がその行動に誇りを持てるようにするための問いにも思える。
 
 
 
意味を問うことは、必ずしも「やる理由」を探すことだけではない。
 
 
ときには
 
「それをやらないことに意味がある」と気づくこともたくさんある。  

無理に人に合わせない
 
あえて沈黙を選ぶ
 
何もしない時間をつくる
 
そうした選択にも、自分なりの意味があれば、それは立派な実践なんだ。
 
この問いは、「やるべきかどうか」ではなく、「それをすることが、自分にとってどんな意味を持つのか?」という価値の問い直しともいえる。  
 

意味を問うことで、『やらないこと』にも納得と優しさを与えることができる。
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
 
という問いは、他者との関係性においても、対話の深みを変える力を持っていると思う。  
 
誰かの行動に対して「なぜそれをするの?」と尋ねるとき、それが責めではなく、「その人の大切にしているものを知りたい」という姿勢から発せられた問いであれば、関係性は深まるはず。
 
また、自分自身が意味を問う習慣を持っていると、他者の行動にも「その人なりの意味があるのだろう」と想像することができるようになる。  
 

それは、相手の行動を評価するのではなく、理解しようとする姿勢なんだ。  
 

意味を問うことは、自分との対話であると同時に、他者との対話の質を高める営みでもある。
 
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いは、時に迷いを生むこともある。
 
 
けれどもその迷いの中にこそ、自分が何を大切にしているのか、どんなふうに生きたいのかという本質を浮かび上がらせる。  
 

意味を問うことは、行動を正当化するためではなく、自分の人生に納得と方向性を与えるための静かな実践。
 
 
そしてその問いを繰り返すことで、私たちは「選ばされる人生」ではなく、主体的に『選び取る人生』を歩んでいけるのだと、実感している。
 

ワオ!と言っているユーザー

人間くさくていい

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人間くさくていい
「人間くさい」
 
AIが浸透してきたのを実感するこの頃。
この言葉が妙に心に刺さる。
 
「自分らしさ」
 
によく似た、そんな印象。
 
同じようで違うような、そんな感覚。
 
 
「人間くさい」
 
そこには感情があり、矛盾があり、揺らぎながらも誰かと関わろうとする『生きた存在』を表す言葉のようにも思う。  
 
 

毎日の中で、ついつい正しさや効率、スマートさを求められ、自分の『人間くささ』を隠そうとすることがある。
 
けれども、人間くさくいることは、自分の弱さや未完成さを否定せずに、そのまま抱えて生きるという、静かな勇気の表現にも思える。
 
 
 
 
人間くさくいるとは、感情を持っている自分を否定しないことなんだろう。
 
 

誰かに嫉妬してしまう
 
落ち込む
 
焦る
 
泣きたくなる
 
 
 
そうした感情を「未熟だから」と切り捨てるのではなく、「それも自分だ」と受け止めてみる。  
 

それは、感情に振り回されることとは違う。
 
むしろ、感情を丁寧に言葉にし、扱えるようになることで、自分の内面との信頼関係が深まっているように思う。
 
人間くささを許すことは、自分の感情に居場所を与えること。
 
 
そしてそれは、他者の感情にも寛容になれる土台をつくってくれている気がする。
 
 
人間くさくいたいという願いには、「完璧じゃなくても、誰かと関わっていたい」という想いも込められているんだろう。
  
 
うまく言葉にできないまま誰かに頼ること
 
失敗を認めて謝ること
 
照れながらも感謝を伝えること
 
それらはすべて、不完全な自分をさらけ出す勇気があってこそ。
 
人間くささとは、「弱さを見せられる強さ」でもあるんだろう。
 
 
ただ、それがあるからこそ、関係性は深まり、信頼が育つ。  

「ちゃんとしていない自分でも、ここにいていい」と思える場所をつくること。
 
それは、自分にも他者にも優しい世界をつくる第一歩になる。
 
 
 
人間くさくいることは、効率や成果だけでは測れない「生きることの味わい」を大切にすることでもある。  
 

遠回りしてしまった経験
 
言い過ぎて後悔した夜
 
誰かの一言に救われた瞬間
 
 
そうした出来事の中にこそ、人間らしい温度や物語がある。
 
 
完璧さを求めるあまり、人生が『正解探し』になってしまうと、そこには余白がなくなってしまう。
 
 
でも、人間くさくいることを許すと、失敗も迷いも、すべてが『生きている証』として意味を持ち始めるの。
 
 
それは、人生を丁度よく「整える」ことではなく、「味わう」ことへの変換でもあるのような気もしている。
 
 
 
「人間くさく居たい」という願いは、自分の弱さや揺らぎを否定せずに、誰かと共に生きていこうとする姿勢だ。
 
 
それは、完璧さを手放し、感情を抱きしめ、不器用なままでも関係を築こうとする、静かな強さ。  
 

そしてその在り方は、他者とのあいだに温度を生み、信頼を育て、人生に深みを創ってくれる。
 
人間くささを恥じるのではなく、それを『生きている証』として大切にしてみる。
 
 
そのまなざしが、言葉や行動に温かさと真実味を宿してくれるのだと思っている。

ワオ!と言っているユーザー

孤独は心の声と再会する静かな場所

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孤独は心の声と再会する静かな場...
孤独という言葉には、寂しさや切なさがつきまとう。  
 

けれども、孤独は必ずしも「悪いもの」ではなく、むしろ『自分自身と深く向き合うための時間』として、効能を秘めているようにも思う。
 
 
熱い湯なのか、ぬるい湯なのか、その辺は場合によるね(笑)  
 

誰ともつながっていないように感じるその瞬間こそ、他者の声ではなく、自分の声に耳を澄ませることができる貴重な空間。  

孤独を恐れるのではなく、丁寧に味わうことで、自分の輪郭を取り戻し、他者との関係性にも新たな深みをもたらしてくれるようにも思う。
 
 
 
日常の中で、私たちは多くの「外の声」に囲まれている。  

SNSの情報
 
他者の期待
 
社会的な役割
 
それらに応えるうちに、自分の本当の気持ちがどこにあるのか、わからなくなってしまうことがある。
 
 
そんな時
 
孤独な時間は、それらのノイズが静まり、自分の内側にある『まだ言葉になっていない感情』と出会うための場になっている。
 
たとえば
 
「本当はあの選択に違和感があった」
 
「あの人の言葉に傷ついていた」
 
なんていった感覚が、ふと浮かび上がってくることがある。
 
 
それは、孤独という静けさの中でしか聞こえない『内なる声』
 
その声に耳を傾けることは、自分との信頼関係を築く第一歩でもある。
 
 
孤独を経験することで、「誰かといること」の意味がより鮮明になる気もしている。
 
 
常に誰かと一緒にいると、関係性が当たり前になり、感謝や違和感に気づきにくくなる。
 
しかし、孤独な時間を持つことで、
 
「あの人といると安心する」
 
「この関係は少し無理をしていたかもしれない」
 
といった関係性の質に対する感度が高まっていくのを感じる。
 
孤独は、他者を拒むことではなく、他者との関係をより丁寧に選び直すための『間』なんだと思う。
 
 
その『間』があるからこそ、つながりはより深く、より自由なものになっていく。
 
 
そして孤独な時間は、創造性の源泉でもある。  

誰にも見られていない、評価されていない時間だからこそ、人は自由に考え、感じ、表現する余白が生まれる。
 
こうやってブログを書く
 
絵を描く
 
歌ってみる
 
そうした営みは、孤独という余白の中でこそ、のびのびと息をし始める。
 
また、孤独は「何もしないこと」を許してくれる時間でもあると思う。
 
その『何もしなさ』の中で、心と身体は静かに整い、次に動き出すためのエネルギーが蓄えられていくこともある。
 
孤独は、止まっているようでいて、実は『内なる準備』が進んでいる時間なんだ。
 
 
 
孤独は、ただの寂しさではない。
 
 
それは、自分の声に耳を澄ませ、他者との関係を見直し、創造性を育むための静かな贈り物のようなもの。  
孤独を恐れるのではなく、丁寧に味わうことができたとき、私たちはより深く、より自由に生きることができるようになる。
 
そして何より、孤独を知っている人は、他者の孤独にも優しくなれる。  
その静かな創造性が、世界との関係を少しずつ、やわらかく変えていくのだと思います。

ワオ!と言っているユーザー

まぐれを笑わない

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まぐれを笑わない
「まぐれだっただけ」
 
と、自分の成果を謙遜や照れで片づけてしまうことは少なくない。
 
けれども
 
まぐれであっても、それは確かに起きた「結果」であり、『行動の証』。
 
 
実績とは、必ずしも意図通りに積み上げられたものだけを指すのではないはず。
 
むしろ
 
偶然に見える出来事の中にも、自分の選択や動きが確かに存在していたという事実こそが、実績の本質なんじゃないかと。  
 
 

「まぐれも実績でした」
 
 
 
と言える人は、結果を過小評価せず、偶然の中に自分の輪郭を見出すことができる人なのかもしれない。
 
その姿勢が、次の一歩をより確かなものにしていく気がする。
 
 
 
 偶然の裏には、必ず『動いた自分』がいる。
 
まぐれとは、何もしていない人には起こらない。
 
 
たまたま声をかけた相手との出会いが人生を変えた、そんな話しはよくある。
 
 
偶然応募した企画が通った
 
思いつきで話したアイデアが評価された
 

それらは確かに“偶然”かもしれないが、その偶然を引き寄せるだけの「行動」や「選択」があったからこそ起きたこと。
 
つまり、まぐれとは「運が良かった」ではなく、「動いたからこそ、運が巡ってきた」ということ。  
 

その一歩を踏み出した自分を見落とさずに、「あのとき、なぜ動けたのか」「どんな気持ちが背中を押したのか」とふり返ることで、偶然の中にある『自分の意志』を感じたい。
 
 
 
「たまたまうまくいった」と思っていた出来事も、よく観察してみると、そこには再現可能な要素が含まれていることだってある。  
 

プレゼンの機会なんかで「偶然うまく話せた」という裏には、「前日に誰かと話していたことが良かった」「緊張していたけど、偶然〇さんがいたから丁寧に話せた」といった背景があったりする。
 
このように
 
まぐれを「棚ぼた」で終わらせずに、「なぜ起きたのか」「どんな条件が重なっていたのか」を丁寧にふり返ることで、自分なりの成功パターンや行動の癖を知る貴重な機会になる。  
 

それは、次の実践の機会をより意図的に、より柔軟に設計するためのヒントになる。
 
 
 
「まぐれだった」と言うとき、そこには謙遜や照れが含まれていることもあるが、裏を返せば「自分の力ではなかった」と自分を否定している側面にもなり兼ねない。
 
 
しかし、まぐれもまた「自分が関わった結果」であることに変わりはない。
 
 
それを肯定的に受け止めることは、「自分には、意識しなくとも何かを生み出す力がある」と信じることができるということにつながる気もする。
 
まぐれを認めることは、傲慢になることではなく、自分の中にある“まだ言葉になっていない力”を信じるという、静かな自己信頼の表現なのかもしれない。 
 
そしてその信頼は、次の挑戦を支える『見えない足場』となってくれるはず。
 
 
 
「まぐれも実績でした」と言えることは、偶然を誇ることではなく、偶然の中にもしっかりと自分の存在を見出していることに他ならない。
 
それは、自分の行動や選択を丁寧にふり返り、たとえ意図していなかった結果であっても、「そこに自分がいた」という事実を大切にする姿勢がある。
 
 
そしてその姿勢こそが、次の実践をより豊かに、より自分らしくしていく。
 
まぐれを笑わず、まぐれを恥じず、まぐれを見つめる。  
 

その一つひとつが、自分という存在の『まだ見ぬ力』を信じることにほかならないのだと思う。
 
 

ワオ!と言っているユーザー

自分の好きなところ、言葉にしてみませんか

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自分の好きなところ、言葉にして...
ボクたちは日常の中で、自分の欠点や足りない部分には敏感でも
 
「自分の好きなところ」
 
を意識的に言葉にする機会は、あまりというかほぼないような気がする。
 
 
それだけに
 
自分の好きなところを言葉にすることは、自己肯定感を高めるためのテクニックではなく、『自分という存在』を丁寧に見つめ、信頼関係を築いていくための静かな対話なんだと思う。  
 

それは、自分を甘やかすことでも、過剰に評価することでもなく、「私は私のこういうところが好きだ」と認めることで、自分の輪郭を優しく確かめていく行為のような気もする。
 
 
  
自己理解というと、多くの場合、短所や課題の分析に偏りがちだが、「自分の好きなところ」を言葉にすることで、自分の中にある『肯定的なリソース』に光を当てることができる。  
 

たとえば
 
「人の話を最後まで聴いてみようとするところが好き」
 
「小さなことに気づこうするところが好き」
 
といった言葉は、自分の価値観や行動の傾向を映し出す鏡になる。
 
 
 
ここで大事だと思うのは
 
できているから好き、ではなくて、『そのことに対してひたむくになっている自分』というだけで十分だと思っている。
 
完璧な自分だけを好きにならなくてもいい。
 
不完全で至らなくても、何とかしようとしている自分は、愛おしくさえ思えたりする。
 
何とかしようとしている自分でも、今はそれで💯なんだと思ってもいいのではないだろうか。
 
それは、自己分析ではなく、自己へのまなざしの質を変える作業。  
 

好きなところを言葉にすることで、「自分はこういう人間でありたい」という在り方が、より明確に、より温かく浮かび上がってくる。
 
それを感じてほしい。
 
  
人は誰しも、失敗したときや他人と比べたときに、自分を責めたり価値を見失ったりすることがある。
 
そんなとき
 
「でも、自分にはこういう好きなところがある」と思い出せる言葉があると、自己否定のスパイラルに巻き込まれにくくなる。
 
これは、ポジティブ思考とは異なると思う。
 
 
自分の中に『信じられる部分』を持っているという感覚。  
 

「うまく話せなかったけど、相手の目を見て誠実に向き合えた自分は好きだ」と言葉にしたとしたら、失敗の中にも自分を肯定できる視点を残してくれる。  

好きなところを言葉にしておくことは、心の中に『自分を守る静かな拠点』をつくることなんだ。
 

そして
 
自分の好きなところを言葉にできる人は、他者との関係においても、過剰に合わせたり、過度に遠慮したりすることが減る。
 
 
なぜなら、「自分にはこういう良さがある」と自覚していることで、他者の評価に依存せず、自分らしい関わり方を選べるようになるからだ。
 
 
「私は丁寧に考えるところが好きだから、すぐに答えを出さなくてもいい」と思えたとしたら、焦らずに自分のペースで対話ができるようになる。
 
 
これは、自己主張ではなく、自己尊重のように思う。  
 
 
 

「自分の好きなところを言葉にする」という行為は、自己肯定感を高めるための表面的なワークではない。
 
 
それは、自分という存在に対して敬意を払い、信頼を育てていくための静かな習慣なんだと思う。
 
 
その言葉は、困難なときの支えにもなり、他者との関係性の中で自分らしさを保つ軸にもなる。
 
そして何より、自分の好きなところを言葉にできる人は、他者の好きなところにも敏感になり、世界との関係性をより温かく、健やかで居られるのだと思う。
 
健やかであれ😊

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そういえば、目的があったよね

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そういえば、目的があったよね
私たちは日々、さまざまな行動や選択を繰り返している。
 
 
そのひとつに
 
「目的」
 
があるかどうかは、思っている以上に人生の質を左右しているのを感じる。
 
 
 
目的があるということは、自分の行動に意味があることを自覚し、時間やエネルギーの使い方に納得感をもたらすということだと思う。  
 
それは
 
自分は「なぜそれをするのか」
 
という問いへの答えがあるということ。
 
 
それこそが、自分の人生を尊く、そして自分らしくしてくれるような気がしている。
 
 
  
目的があると、同じ行動でもその意味合いがまったく変わってくる。
 
たとえば
 
「毎日仕事に行く」
 
という行為も
 
「生活のために仕方なく」
 
なのか
 
「誰かの役に立ちたい」
 
「自分の成長につなげたい」
 
なのかによって
 
心構えや疲労感、達成感は大きく違う。
 
 
目的とは、行動に『意味の重み』を与えるものなんだと思う。  

それがあることで、日々の営みが「ただの作業」ではなく、「自分の人生の一部」として感じられるようになった。
 
 
そしてその感覚は、自分の存在を肯定する静かな支えとなってくれている。
 
 
そして

人生には、思い通りにいかないことや、努力が報われないように感じる瞬間が必ずある。
 
そんなとき
 
目的があると
 
「なぜこれを始めたのか」
 
「何のために続けているのか」
 
という問いに立ち戻ることができる。
 
 
それは、嵐の中でも揺るがない『コンパス』のようなものなんだと思う。
 
 
子育てや介護、創作活動など、すぐに成果が見えない環境の中でも
 
「この人を笑わせたい」とか
 
「この表現を残したい」とか
 
目的があることで、やめようと思った時でも、踏みとどまる力が生まれる。  
 

目的は、困難を消してくれることはないが、困難の中に意味を見出し、次の行動を見つけ出す力をくれるのを感じている。
 

目的を持って生きる人の姿は、他者にとっても力になる。
 
それは
 
何かを成し遂げたとかそういうことだけではなく、「なぜそれをしているのか」が伝わるからだと思う。  
 
 

目的は、自分の人生を語る言葉であり、他者とつながるものでもある。  
 
目的そのものがその人の生きてきた物語であり、それはこれから始まる物語でもあると思う。
 
 
だから、目的があるということは苦しくもあるけど、人を豊かにしてくれるものでもあるように思う。
 
 
 
目的があるということは、自分の人生に対して「こう在りたい」と願う意志を持ち、その意志を日々の行動に静かに織り込んでいくこと。
 
 
そしてそれは、他人に見せるためのものではなく、自分自身との対話の中で育まれていくもの。  
 

目的がある人生は、たとえ遠回りに見えても、一歩一歩に納得と意味が宿る、尊い道のり。  

その道を歩む人の姿には、静かな強さと、深い優しさがにじんでいるのだと思う。
 
 
何かがなくても、目的があれば、また始められる。
 
よし、また始めてみよう。

ワオ!と言っているユーザー

「誰とでも仲良く」ではなく「誰とどうかかわるか」

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「誰とでも仲良く」ではなく「誰...
私たちは社会の中で生きる以上、他者との関係は避けて通れない。
 
そう考えると、全てのつながりを維持しようとか、拡大しようとかすると、自分のエネルギーや心の健やかが少しずつ損なわれていく機会がしょっちゅうやってくる。
 
 
特に、無理に合わせたり、気を遣いすぎたりといった「頑張る交流」は、知らず知らずのうちに自分を削ってしまう。
 
自分にとって健やかで自然な人間関係を見極める感度は、意識して磨いていきたい。
 
 
ボクがそうであったが、
 
無理な交流を続けていると
 
「誘いを断れない」
 
「場の空気を壊したくない」
 
といった理由で、自分の本音を後回しにしてしまいがちになる。
 
その結果
 
休日でさえ心が休まらない、何かに疲れているのに理由がわからなという状態に陥ってしまう。
 
 
そうならないように
 
まずは無理な交流を一つ手放すことで、自分にとっての「本当に必要な余白」を少しずつ戻したい。
 
その空白こそが、自分の感情や欲求と向き合う余裕を生んでくれ、また次に向かうエネルギーが湧き出すキッカケを作ってくれる。
 
 
そもそも
 
人付き合いに疲れるのは
 
「合わない相手」そのものよりも
 
「合っていないのに合わせようとする自分の行動パターン」
 
であることが多いのではないか。
 
要は無理するっていうのは、この辺のことかと。
 
そうした癖に気づき、少しずつ距離や関わり方を調整することで、「本当に無理をしなくていい関係」の自分なりの見極め方が磨かれていく。
 
 
また、不自然な付き合いを見直すことで、自分らしくいられる関係や安心できる場所のありがたさにも、より敏感になれる気がしてる。
 
 
無理な交流を手放す行為は
 
「嫌われるかもしれない」
 
「気まずくなるのではないか」
 
という不安と常に隣り合わせ。
 
 
ただ
 
その「恐れ」に対して、丁寧に越えるプロセスを進むのは、自分に対しても相手に対しても、実は誠実であろうとする姿勢だと思う。
 
しっかりとそこと向き合えた時
 
「自分の気持ちを信じ、尊重してよい」
 
という自己信頼が固まっていくようにも思っている。  
 
 
自分の基準で人間関係を築いていくことは、他者と心地よく距離をとれるということでもあり、より気持ちに自由度が増す。
トレーニング次第で誰もが手にいれるものだと思うから、少しずつ始めてみることをオススメしたい。
 
 
 
私たちは、すべての人に好かれる必要はないし、すべての人を好きになるなんてこともできない。
 
だからこそ、無理な交流を手放すことは「相手を切り捨てること」ではなく、「自分を大切にする選択」として「線引き」することで、自分を大切にする行為になっていくのだと思う。  
 
 
それは結果的に、その選択が関係性における誠実さや透明さを育み、より豊かな人間関係を築いていく土台になる。
 
たぶんこれからはますます「つながりの総量」よりも、「つながりの質」を大切にする時代になると感じている。
 
そこに意識を向けて、心をより自由に、そして穏やかでいたい。
 
そのためにも
 
「誰とでも仲良く」ではなく、「誰とどう関わるか」を心に掛けていきたい。

ワオ!と言っているユーザー

「型にはめる」ではなく「個を拓く」営みを心掛ける

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「型にはめる」ではなく「個を拓...
ポンコツだが、縁あって3つの部署でマネージャー職をさせていただいた。
 
この経験は、私の人生に大きな影響を与えてくれて、そして自分の家族経営や子育てにも、とても大きい力をくれた。
 
子育ての話しになると終わりがなくなりそうなので、マネージャーとしてサポートしてきた経験を少しだけ書き留めておきたい。
 
 
 
経験を積むにつれて、まだ若い人に対して
 
「こうあるべき」
 
といった期待や理想像をついつい押し付けがちになることがある。
 
ただ、自分の経験則のみの、その『型』が強すぎると、お互いに苦しくなっていく。
 
誰かを特定の型にあてはめようとするほど、「その人らしさ」は見えづらくなり、自分自身も「思い通りに育たない」ことへのストレスに、少し翻弄される。
 
 
  
本当に大切なのは、型にあてはめることではなく、目の前のその「人」という『いまここにある存在』と向き合い、その方らしい芽が育つ土壌を整えること。
 
 
その視点を持つことで、コントロールの連続ではなく、対話と発見の積み重ねへと変化していくように思う。
 
 
先輩として
 
「きちんと育てたい」
 
「(チームの)社会性を身につけさせたい」
 
と願うのは当然のことだと思う。
 
 
しかしその思いが増した時
 
「こうすれば安心」
 
「これができなければ不安」
 
という思考と結びつくことがあって、そうなった時に以前経験した『型』にはめる育て方へと変わっていくような気がしている。
 
 
「言わなくても動ける」
 
「誰とでも仲良くできるように」
 
といった差し支えなく誰とでも良いコミュニケーションがとれる『理想像』が強まると、静かに自分を表現するタイプの人や、慎重に関係を築くタイプの人は、少しずつ「できない自分」「ダメな自分」として周りからばかりではなく、自分が自分をそう思うようになり、そしてつぶれていく。  
 

こうした先輩としての『善意の型』みたいなものこそ、経験の少ない人にとっては自分の自然な表現を封じられる苦しさとなり、リーダー自身にとっても「うまく育たない」ことへの焦りを生みはじめる気がする。
 
 
 「よかれと思って」の期待が、知らぬ間に圧力になっているんだろうな、きっと。
 
 
  
経験の若い人を型にはめたくなる背景には、リーダー自身の不安や恐れがあるんだと思っている。
 
それは今も日々感じる(笑)
 
 
「(チームの中で)人と違うのはかわいそう」
 
「きっと困るよな」
 
そういった思いが、無意識に
 
「こうあってほしい」
 
「こうすべき」
 
という型を生み出しているのだと思う。
 
 
 
これは、『若い』という存在を「未熟」と捉え、「変えられれば、安心できる存在になる」という、勝手な盲信があるんだろうなと。  
 

ただ現実には
 
経験の若い人は自分の思い通りには育たないし、それが自然なことなんだとも思っている。
 
 
そのうえでリーダーが
 
「なぜ伝わらないのか」
 
と思い悩み、そして若い人は
 
「どうして自分はわかってもらえないのか」
 
と感じ、静かな断絶が生まれはじめた時を感じられるかどうかは、その後に大きな影響を及ぼすことも、多くの経験から学んだ。
 
「型」を求めようとするのは、安心感を得て、そしてコントロールしたいと思う気持ちの裏返しなのかもしれない。
 

型にはめることから抜け出すためにできることといえば
 
まず 
 
「その人は、自分とは別の『他者』である」という前提に立ち、そしてその人を深く見つめる姿勢を持つことだと思っている。
 
 
 
若い人=若い頃の自分
 
ではなく
 
自分とは異なる価値観・気質・感性をもつ、独立した存在として認識すること。
 
型にはめるのではなく、その人の型、つまり『自然な姿』をまずは尊重し、活かすかかわりを考えてこそ、育てる土壌が作られるのではないのか。
 
たとえば
 
安心が第一の人には、注意よりもまず共感を示す。
 
好奇心で動く人には、ルールで縛るよりも、可能な範囲で自由な探索の余地を持たせる。
 
 
『ちがい』を問題視するのではなく、「どうかかわれるか」に想像力を全集中させる。
 
それが、お互いの苦しさを減らし、ともに育つ喜びを増やすアプローチのような気がしている。
 
 「個」としてのその人を尊重すること。  
 

型にはめる育て方は、リーダーの意図が強くなればなるほど、双方にとって苦しさを生む構造を持っている気がする。  

それは愛情がないからではなく、
 
「不安」
 
「比較」
 
「理想」
 
などの感情がそこにあり、そしてそれは無意識の反応として、相手に届ける。
  
だからこそ
 
必要なのは『正しい型』ではなく、その人とかかわるための『見つめ方』の質を問い直すことだと思っている。  
 

「この人はどんなときに自然体で動けているのだろうか?」
 
「どんな瞬間に楽しそうにしているのか?」
 
という問いに立ち戻ることで、その人の理解が深まっていき、リーダーはコントロールから信頼へと歩みを進められるような気がする。  

そして何より、リーダーの期待をよそに、自分自身と向き合うその時間こそが、若い人が枠を広げる学びの機会でもあること、そしてそれはリーダーも一緒だということを、いつも心に掛けておきたい。

ワオ!と言っているユーザー

キャパを超える意識を持つ大切さ

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キャパを超える意識を持つ大切さ
以前、転職を考えていた時のこと。 
 
 
とある経営者に
 
「自分の器以上のことはしない方がいい」
 
「私は自分の器の大きさを知っている」
 
と言われたことがあった。
 
 
 
人は誰しも
 
自分の「キャパ」(容量・許容範囲)
 
というものを持っている。
 
 
ただ
 
 
その枠の内側だけで生きていると、成長や変化の機会は限られてしまうことに、ボクはずっと違和感を感じていた。
 
そんな当時のボクは
 
「キャパを超えるかもしれない」
 
と感じる領域に、あえてイタズラに踏み込んでみることに面白さを感じていたのかもしれない。
 
 
思考や行動の枠を広げようとすることに興味があったんだと思う。
 
 
一方で
 
無理や背伸びを推奨するかと言ったら、決してそうではない。
 
今の状況を踏まえて、アクセルを踏み込むタイミングをうかがうのは、得意な方だと、自分では思っている。
 
 
そこを無理して踏み込んだと思える経験が、一度だけあったな(笑)
 
 
 
「キャパを超える『意識』を持つこと」
 
は、むしろ自分の限界を丁寧に見つめ、そのギリギリに触れることで、成長を刻もうとする勇気のあらわれだとも思う。
 
 

人は、やってみて初めて「どこまでなら大丈夫で、どこから苦しくなるか」を知ることができる。
 
 
つまり
 
『少しの背伸び』
 
をしてみることではじめて、キャパの正体を自分なり言語化できる。  
 

これはたとえるなら
 
少しだけ重い荷物を持ってみることで「これ以上は腰にくるわー」とわかるのに似ていている(笑)
 
 
日常の中で自分をあまりにも守りすぎていると、逆に「自分の限界がどこなのか」が不明瞭になり、突発的なストレスに弱くなってしまうと、ボクは思っている。
 
 
自分のキャパに向き合い、時にそこをあえて越えてみようとすることで、自分にとっての『エネルギー配分』や『休息の取り方』をより的確に調整できるようになっていく。
 

そうやって
 
キャパの外に出る経験を繰り返すと、今まで「無理」「自分には向いていない」と思っていたことにも、『やってみる価値があるかも』と感じられるようになる。
 
 
 
つまり
 
 
未知=不安ではなくて「まだ慣れていないだけの領域」と捉え直す力も育ってきているような気もする。  
 

たとえば
 
これまで避けていたプレゼンや新しい人間関係をつくろうと踏み出したとき、
 
「思ったより大丈夫だった」
 
「これなら次もやれるかも」
 
と、良くも悪くも、それは小さな成功体験として積み上がっていく。
 
 
それは自己効力感やチャレンジへの充実感を通して、結果的に人生の選択肢を広げるものになっているように思う。
 
 

そして皮肉なことに
 
人は「キャパを超えたとき」に初めて、「ひとりではどうにもならない」という現実と向き合う。
 
 
そこではじめて
 
『助けを求めたい自分がいる』
 
という、誰かを頼る行為が選択肢に入ってくる。
 
 
助けを求めることは、弱さではなく「持続的に自分を扱う力」だと思っている。
 
 
それは、自分の限界と対話したことのある人にしか育たない資質でもあるとボクは思う。
 
 
キャパを超える体験は苦しさや混乱を生むようでいて、一方で実は「自分らしく成長するために何が必要か」を考えるきっかけとなっているような気がする。
 
 
失敗や後悔を積み重ねるのもまた、自分に合った仕組みや支えを設計するための力を養っているのだと、自分に言い聞かせてみる😊

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外向型か内向型か、の前に大切にしたいこと

スレッド
外向型か内向型か、の前に大切に...
私自身も様々学んできましたが
 
「〇〇タイプ」
 
「□□キャラ」
 
「~~型」
 
「外向型か内向型か」
 
のような分類は、自分や相手の性格傾向を理解する手がかりとして、とても有効なもので、学んだことでとても生きやすくなった。
 
 
それと同時に
 
それらの枠に縛られるような感覚もあって、「本来の自分」みたいな感覚や「思い込みによる可能性の制限」があるような気がするのもまた、現実。  
 
 

ボク自身が本当に大切にしたいのは
 
「どちらの型か」
 
よりも
 
「どんなふうに人と関わり、どう生きたいか」
 
という自分なりの価値のある意図と感受性。
 
 
その視点を持つことで、分類を超えた自己理解と、穏やかに受け止められるようになった他者理解が育まれているように思っている。
 
 
 
外向型・内向型という言葉はなんとなく便利な気がして、ただそれは、あくまで「傾向」であって、「定義づけるもの」ではない。
 
 
人は誰しも、外向的な要素も内向的な要素も両方持ち合わせており、それは状況や心の状態によって流動的に変化するものだと思っている。
 
 
たとえば
 
普段は内向的で静かな人が、安心できる仲間の中ではやたらとおしゃべりになったり、逆に外向的な人が、人前に立つプレッシャーで言葉に詰まることもある。  
 
 
後者はめちゃくちゃ自分に当てはまる(笑)
 

つまり、重要なのは「私は◯◯型だからこう振る舞う」ではなく、「今の私は、どんな状態にあるか」という自己観察と、「だとしたらどうする?」という選択の自由を自分なり持つことなんじゃないかと。
 
 
固定的な分類に自分を閉じ込めない方が、可能性を広げてくれる気がする。
 

また
 
「内向型だから一人でいたい」
 
「外向型だから多くの人と関わりたい」
 
などとよく聞くが、それはその人の「癖」や「心地よさ」を示しているだけで、常にそう在り続けているわけではない。
 

関係性によって常に「化学反応」が起こっていて、ある人といるときは落ち着けるのに、別の人といるときには神経が張り詰める、そんなことも日常茶飯事のこと。
 
 
自分がどの型かよりも、「この関係の中で自分はどう感じ、どんなふうに関わりたいのか」といった、「関係の質」を意識する感度の方がずっと大切なのだと思う。  
 
 
そして

ボクが性格のタイプ以上に重視したいのが
 
「自分はどんな場に身を置きたいか」
 
「どんなつながりを育みたいか」
 
という自分にとって心地の好い、「在りたい世界への意図」みたいなもの。
 
 
たとえば、人と深く関わりたいという気持ちがあっても、それをどう表現するかは人によって異なるはず。
 
 
外向的に盛り上げながら場づくりをする人もいれば、外向的であっても静かに一人ずつの対話を大切にする人もいる。  
 

つまり
 
「外向型の方が社交的で価値がある」
 
「内向型だから共感力がある」
 
といった一面的な評価ではなく、自分の在り方が「何を育もうとしているか」という意図を軸に据えることが、結果的にその人の魅力を最大限に育ててくれるような気がしている。
 
 
これはある意味、「外に出るか中にこもるか」ではなく、「どんな世界と、どう関わりたいか」という問いなんだと思う。
 

外向型か内向型か、という分類は「便利な地図」みたいなものかと思うけど、それを「目的地」にしてはいけない。
 
本当に大切にしたいのは、自分自身との正直な対話と、在りたい方向への感性。  
 

「今の私はどう感じているか」
 
「誰と、どんな場をつくっていきたいのか」
 
 
そう問い続けることで、タイプを超えた生きた関係性が育まれていく。
 
そしてその柔らかくしなやかな在り方が、自分にも他者にも心地好い居場所をつくってくれるのだと思っている。

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