記事検索

加藤雄一のブログ

https://jp.bloguru.com/katoyuichi

フリースペース

あなたの魅力や強みを輝かせるお手伝いをしています

孤独は心の声と再会する静かな場所

スレッド
孤独は心の声と再会する静かな場...
孤独という言葉には、寂しさや切なさがつきまとう。  
 

けれども、孤独は必ずしも「悪いもの」ではなく、むしろ『自分自身と深く向き合うための時間』として、効能を秘めているようにも思う。
 
 
熱い湯なのか、ぬるい湯なのか、その辺は場合によるね(笑)  
 

誰ともつながっていないように感じるその瞬間こそ、他者の声ではなく、自分の声に耳を澄ませることができる貴重な空間。  

孤独を恐れるのではなく、丁寧に味わうことで、自分の輪郭を取り戻し、他者との関係性にも新たな深みをもたらしてくれるようにも思う。
 
 
 
日常の中で、私たちは多くの「外の声」に囲まれている。  

SNSの情報
 
他者の期待
 
社会的な役割
 
それらに応えるうちに、自分の本当の気持ちがどこにあるのか、わからなくなってしまうことがある。
 
 
そんな時
 
孤独な時間は、それらのノイズが静まり、自分の内側にある『まだ言葉になっていない感情』と出会うための場になっている。
 
たとえば
 
「本当はあの選択に違和感があった」
 
「あの人の言葉に傷ついていた」
 
なんていった感覚が、ふと浮かび上がってくることがある。
 
 
それは、孤独という静けさの中でしか聞こえない『内なる声』
 
その声に耳を傾けることは、自分との信頼関係を築く第一歩でもある。
 
 
孤独を経験することで、「誰かといること」の意味がより鮮明になる気もしている。
 
 
常に誰かと一緒にいると、関係性が当たり前になり、感謝や違和感に気づきにくくなる。
 
しかし、孤独な時間を持つことで、
 
「あの人といると安心する」
 
「この関係は少し無理をしていたかもしれない」
 
といった関係性の質に対する感度が高まっていくのを感じる。
 
孤独は、他者を拒むことではなく、他者との関係をより丁寧に選び直すための『間』なんだと思う。
 
 
その『間』があるからこそ、つながりはより深く、より自由なものになっていく。
 
 
そして孤独な時間は、創造性の源泉でもある。  

誰にも見られていない、評価されていない時間だからこそ、人は自由に考え、感じ、表現する余白が生まれる。
 
こうやってブログを書く
 
絵を描く
 
歌ってみる
 
そうした営みは、孤独という余白の中でこそ、のびのびと息をし始める。
 
また、孤独は「何もしないこと」を許してくれる時間でもあると思う。
 
その『何もしなさ』の中で、心と身体は静かに整い、次に動き出すためのエネルギーが蓄えられていくこともある。
 
孤独は、止まっているようでいて、実は『内なる準備』が進んでいる時間なんだ。
 
 
 
孤独は、ただの寂しさではない。
 
 
それは、自分の声に耳を澄ませ、他者との関係を見直し、創造性を育むための静かな贈り物のようなもの。  
孤独を恐れるのではなく、丁寧に味わうことができたとき、私たちはより深く、より自由に生きることができるようになる。
 
そして何より、孤独を知っている人は、他者の孤独にも優しくなれる。  
その静かな創造性が、世界との関係を少しずつ、やわらかく変えていくのだと思います。

ワオ!と言っているユーザー

まぐれを笑わない

スレッド
まぐれを笑わない
「まぐれだっただけ」
 
と、自分の成果を謙遜や照れで片づけてしまうことは少なくない。
 
けれども
 
まぐれであっても、それは確かに起きた「結果」であり、『行動の証』。
 
 
実績とは、必ずしも意図通りに積み上げられたものだけを指すのではないはず。
 
むしろ
 
偶然に見える出来事の中にも、自分の選択や動きが確かに存在していたという事実こそが、実績の本質なんじゃないかと。  
 
 

「まぐれも実績でした」
 
 
 
と言える人は、結果を過小評価せず、偶然の中に自分の輪郭を見出すことができる人なのかもしれない。
 
その姿勢が、次の一歩をより確かなものにしていく気がする。
 
 
 
 偶然の裏には、必ず『動いた自分』がいる。
 
まぐれとは、何もしていない人には起こらない。
 
 
たまたま声をかけた相手との出会いが人生を変えた、そんな話しはよくある。
 
 
偶然応募した企画が通った
 
思いつきで話したアイデアが評価された
 

それらは確かに“偶然”かもしれないが、その偶然を引き寄せるだけの「行動」や「選択」があったからこそ起きたこと。
 
つまり、まぐれとは「運が良かった」ではなく、「動いたからこそ、運が巡ってきた」ということ。  
 

その一歩を踏み出した自分を見落とさずに、「あのとき、なぜ動けたのか」「どんな気持ちが背中を押したのか」とふり返ることで、偶然の中にある『自分の意志』を感じたい。
 
 
 
「たまたまうまくいった」と思っていた出来事も、よく観察してみると、そこには再現可能な要素が含まれていることだってある。  
 

プレゼンの機会なんかで「偶然うまく話せた」という裏には、「前日に誰かと話していたことが良かった」「緊張していたけど、偶然〇さんがいたから丁寧に話せた」といった背景があったりする。
 
このように
 
まぐれを「棚ぼた」で終わらせずに、「なぜ起きたのか」「どんな条件が重なっていたのか」を丁寧にふり返ることで、自分なりの成功パターンや行動の癖を知る貴重な機会になる。  
 

それは、次の実践の機会をより意図的に、より柔軟に設計するためのヒントになる。
 
 
 
「まぐれだった」と言うとき、そこには謙遜や照れが含まれていることもあるが、裏を返せば「自分の力ではなかった」と自分を否定している側面にもなり兼ねない。
 
 
しかし、まぐれもまた「自分が関わった結果」であることに変わりはない。
 
 
それを肯定的に受け止めることは、「自分には、意識しなくとも何かを生み出す力がある」と信じることができるということにつながる気もする。
 
まぐれを認めることは、傲慢になることではなく、自分の中にある“まだ言葉になっていない力”を信じるという、静かな自己信頼の表現なのかもしれない。 
 
そしてその信頼は、次の挑戦を支える『見えない足場』となってくれるはず。
 
 
 
「まぐれも実績でした」と言えることは、偶然を誇ることではなく、偶然の中にもしっかりと自分の存在を見出していることに他ならない。
 
それは、自分の行動や選択を丁寧にふり返り、たとえ意図していなかった結果であっても、「そこに自分がいた」という事実を大切にする姿勢がある。
 
 
そしてその姿勢こそが、次の実践をより豊かに、より自分らしくしていく。
 
まぐれを笑わず、まぐれを恥じず、まぐれを見つめる。  
 

その一つひとつが、自分という存在の『まだ見ぬ力』を信じることにほかならないのだと思う。
 
 

ワオ!と言っているユーザー

  • ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
    ログイン
  • まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
    新規ユーザー登録へ
ハッピー
悲しい
びっくり