まぐれを笑わない
7月
2日
「まぐれだっただけ」
と、自分の成果を謙遜や照れで片づけてしまうことは少なくない。
けれども
まぐれであっても、それは確かに起きた「結果」であり、『行動の証』。
実績とは、必ずしも意図通りに積み上げられたものだけを指すのではないはず。
むしろ
偶然に見える出来事の中にも、自分の選択や動きが確かに存在していたという事実こそが、実績の本質なんじゃないかと。
「まぐれも実績でした」
と言える人は、結果を過小評価せず、偶然の中に自分の輪郭を見出すことができる人なのかもしれない。
その姿勢が、次の一歩をより確かなものにしていく気がする。
偶然の裏には、必ず『動いた自分』がいる。
まぐれとは、何もしていない人には起こらない。
たまたま声をかけた相手との出会いが人生を変えた、そんな話しはよくある。
偶然応募した企画が通った
思いつきで話したアイデアが評価された
それらは確かに“偶然”かもしれないが、その偶然を引き寄せるだけの「行動」や「選択」があったからこそ起きたこと。
つまり、まぐれとは「運が良かった」ではなく、「動いたからこそ、運が巡ってきた」ということ。
その一歩を踏み出した自分を見落とさずに、「あのとき、なぜ動けたのか」「どんな気持ちが背中を押したのか」とふり返ることで、偶然の中にある『自分の意志』を感じたい。
「たまたまうまくいった」と思っていた出来事も、よく観察してみると、そこには再現可能な要素が含まれていることだってある。
プレゼンの機会なんかで「偶然うまく話せた」という裏には、「前日に誰かと話していたことが良かった」「緊張していたけど、偶然〇さんがいたから丁寧に話せた」といった背景があったりする。
このように
まぐれを「棚ぼた」で終わらせずに、「なぜ起きたのか」「どんな条件が重なっていたのか」を丁寧にふり返ることで、自分なりの成功パターンや行動の癖を知る貴重な機会になる。
それは、次の実践の機会をより意図的に、より柔軟に設計するためのヒントになる。
「まぐれだった」と言うとき、そこには謙遜や照れが含まれていることもあるが、裏を返せば「自分の力ではなかった」と自分を否定している側面にもなり兼ねない。
しかし、まぐれもまた「自分が関わった結果」であることに変わりはない。
それを肯定的に受け止めることは、「自分には、意識しなくとも何かを生み出す力がある」と信じることができるということにつながる気もする。
まぐれを認めることは、傲慢になることではなく、自分の中にある“まだ言葉になっていない力”を信じるという、静かな自己信頼の表現なのかもしれない。
そしてその信頼は、次の挑戦を支える『見えない足場』となってくれるはず。
「まぐれも実績でした」と言えることは、偶然を誇ることではなく、偶然の中にもしっかりと自分の存在を見出していることに他ならない。
それは、自分の行動や選択を丁寧にふり返り、たとえ意図していなかった結果であっても、「そこに自分がいた」という事実を大切にする姿勢がある。
そしてその姿勢こそが、次の実践をより豊かに、より自分らしくしていく。
まぐれを笑わず、まぐれを恥じず、まぐれを見つめる。
その一つひとつが、自分という存在の『まだ見ぬ力』を信じることにほかならないのだと思う。