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加藤雄一のブログ

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専門家でいる時間と休む時間

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専門家でいる時間と休む時間
学び続けていると、やがて専門家になる。
 
専門家であることは、知識や経験を積み重ね、ある領域において信頼される存在になること。  
 

けれども
 
「専門家になり過ぎる」ことが、時に他者との対話や自分自身の柔軟性を損なうこともある。
 
ボク自身はだいぶ拗らせてきた(笑)
 

専門性とは、最近は閉じた『知識の塔』ではなく、他者とつながるための『橋』みたいなものであるべきだと思うようになった。  
 

だからこそ
 
専門家であろうとするほどに
 
「専門家になり過ぎない」姿勢、つまり、問い続ける余白や、わからなさを抱える勇気を持つ必要を自覚することが大事になる気がしている。
 
 
 
 
専門家であることは
 
知っていること、できることが多い
 
ということ。  
 

ただ
 
「知っているからこそ、わからないふりができない」状態に陥ると、対話はどんどん閉じていく。
 
ボクは知識を振りかざしていたんだ。
 
 
たとえば
 
相手の問いに対してすぐに答えを出してしまったり、正解を提示することが「支援」だと錯覚してしまったり。
 
つまり
 
アドバイスしたい自分はスゴイ
 
そんな感覚。
 
 
そうした瞬間に
 
相手の内側にある「まだ言葉になっていないもの」を、ボクは置き去りにしてしまっていたんだ。
 
 
 
「専門家になり過ぎない」とは
 
「わからない」
 
を一緒に抱える姿勢を持ち続けること。  
 

それは、知識を手放すことではなく、知識の上に「共に考える余白」を残すことのような気がしている。
 
 
 
専門性が高まるほど、「正しさ」や「効率性」を重視しがちになる。  
 
うまくできる
 
早くできる
 
そんな自分がスゴイ
 
そんな感覚。
 

けれども、人と人との関係性においては、正しさが必ずしも相手の心に届くとは限らない。
 
むしろ、相手に受け取ってもらえないことが増えていた。  
 

ときに、正しいアドバイスよりも
 
「一緒に悩んでくれた」
 
「自分の話を最後まで聴いてくれた」
 
という経験の方が、相手にとって深い意味を持つことがあることも、たくさんの方から教えていただいた。
 
 
「専門家になり過ぎない」とは、「正しさを届ける人」ではなく、「関係性を育てる人」であろうとすること。  
 

それは
 
知識や技術を「上から与える」のではなく、「関係の中で育て合う」という姿勢を大切に選ぶことでもあると思っている。
 
 
 
専門家でありたいということは、ある意味で「完成された存在」と見られたいという気持ちもあるんだと思う。  

そのうえで
 
「専門家になり過ぎない」姿勢を持つことで、自分自身も常に「学びの途中」であることを忘れずにいられる。  
 
異なる分野の人との対話
 
初心者の視点
 
子どもの問い
 
そうした「自分の外側」にあるものに触れることで、専門性は深まるだけでなく、ひらかれていくんだろう。
 
 
専門家であることに安住せず、「まだ知らないことがある」「まだ変われる自分がいる」と思い続けること。
 
簡単なようで、難しい。 
 
 
 
「専門家になり過ぎない」という姿勢は、知識や経験を否定するものではないと思っている。
 
 
むしろ、専門性を「他者とつながるための力」として活かすために必要な、もうひとつの成熟のかたちなんじゃないかな。
 
 
わからなさを抱え、正しさを手放し、相手や自分との関係性に耳を澄ませる。  
 

その姿勢が、専門性を「閉じた塔」ではなく、「ひらかれた橋」へと変えていくように思う。
 
そして何より、「専門家になり過ぎない」人は、自分自身の変化を許し続けることができる人のような気がする。  
 

その柔らかさこそが、自分だけでなく、誰かの変化をも支える力になるんだろう。

ワオ!と言っているユーザー

人は促進力と抑止力のあいだで生きている

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人は促進力と抑止力のあいだで生...
普段何気なく過ごす私たちの行動の中には
 
 
「進もうとする力(促進力)」と
 
「踏みとどまろうとする力(抑止力)」
 
 
のせめぎ合いがあります。
 
 
 
前に進むことだけが成長ではなく、立ち止まること、踏みとどまることにも意味があるように思っています。
 
 
促進力と抑止力は、どちらかが正しくてどちらかが悪いのではなく、どちらも私たちの意思決定を支える『内なる力』です。  
 

どちらか片方だけでなく
 
この二つの力を丁寧に見つめ、使い分けることができたとき、私たちはより自分らしく、よりしなやかに生きることができるような気がしています。
 
 
 
促進力とは
 
「やってみたい」
 
「変わりたい」
 
「届けたい」
 
といった内なる願いから生まれる力です。  
 

一方で
 
抑止力は
 
「失敗したくない」
 
「傷つきたくない」
 
「迷惑をかけたくない」
 
といった内なる恐れや慎重さから生まれます。
 
 
どちらも人間らしい感情ですよね。
 
そして
 
どちらも私たちを守ろうとする力です。  
 
 
 
新しい挑戦を前にしたときには、「やってみたい」という促進力と、「失敗したらどうしよう」という抑止力が同時に働くことがあります。  
 

このとき、どちらかを否定するのではなく、両方の声に耳を傾けることが、自分にとって最も納得のいく選択を導く鍵になってきたように感じています。
 
 
 
抑止力はしばしば「行動を妨げるもの」としてネガティブに捉えられがちですが、実はそれは暴走を防ぐための『バランサー』でもあるような気がしています。  
 

勢いだけで突き進もうとしたときに、「ちょっと待って、本当にそれでいいの?」と問いかけてくれるのが抑止力で、きっと数え切れないくらい助けられてきたように思います。
 
この力があるからこそ、私たちは衝動ではなく、意志をもって行動を選ぶことができるんでしょうね。  
 
 
 
大切なのは、促進力と抑止力のどちらかを強めることではなく、両者のあいだに『対話』を生み出すことなんじゃないかと。  

「やってみたいけど怖い」
 
という状態は、まさにその対話の入り口。  

このとき
 
「なぜやりたいのか」
 
「何が怖いのか」
 
「どうすれば安心して一歩踏み出せるか」
 
といった問いを重ねることで、行動はより自分らしいかたちで整っていくように思います。
 
 
そういう観点でいえば、促進力は『動機づけのエネルギー』であり、抑止力は『ストレス反応の兆し』とも捉えられるように思え、それはしっかりと感じとっておくべき感覚のような気もします。  

両者を観察し、言語化し、必要に応じて調整することが、自分の行動スタイルを最適化する鍵になっていくんでしょうね。
 
 
 
 
促進力と抑止力は、どちらも私たちの内側にある『生きる力』です。  

前に進もうとする願いと、立ち止まろうとする慎重さ。  

その両方を否定せずに受け入れ、対話させることができたとき、私たちはより深く、より納得のいく行動を選ぶことができるんだと思います。
 
促進力だけでは空回りし、抑止力だけでは閉じこもってしまう。  

だからこそ、両者のバランスを見つめることが、自分らしい実践を育てる土壌になり、それが整ってこそより良い選択ができていくような気がしています。

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