専門家でいる時間と休む時間
7月
4日
学び続けていると、やがて専門家になる。
専門家であることは、知識や経験を積み重ね、ある領域において信頼される存在になること。
けれども
「専門家になり過ぎる」ことが、時に他者との対話や自分自身の柔軟性を損なうこともある。
ボク自身はだいぶ拗らせてきた(笑)
専門性とは、最近は閉じた『知識の塔』ではなく、他者とつながるための『橋』みたいなものであるべきだと思うようになった。
だからこそ
専門家であろうとするほどに
「専門家になり過ぎない」姿勢、つまり、問い続ける余白や、わからなさを抱える勇気を持つ必要を自覚することが大事になる気がしている。
専門家であることは
知っていること、できることが多い
ということ。
ただ
「知っているからこそ、わからないふりができない」状態に陥ると、対話はどんどん閉じていく。
ボクは知識を振りかざしていたんだ。
たとえば
相手の問いに対してすぐに答えを出してしまったり、正解を提示することが「支援」だと錯覚してしまったり。
つまり
アドバイスしたい自分はスゴイ
そんな感覚。
そうした瞬間に
相手の内側にある「まだ言葉になっていないもの」を、ボクは置き去りにしてしまっていたんだ。
「専門家になり過ぎない」とは
「わからない」
を一緒に抱える姿勢を持ち続けること。
それは、知識を手放すことではなく、知識の上に「共に考える余白」を残すことのような気がしている。
専門性が高まるほど、「正しさ」や「効率性」を重視しがちになる。
うまくできる
早くできる
そんな自分がスゴイ
そんな感覚。
けれども、人と人との関係性においては、正しさが必ずしも相手の心に届くとは限らない。
むしろ、相手に受け取ってもらえないことが増えていた。
ときに、正しいアドバイスよりも
「一緒に悩んでくれた」
「自分の話を最後まで聴いてくれた」
という経験の方が、相手にとって深い意味を持つことがあることも、たくさんの方から教えていただいた。
「専門家になり過ぎない」とは、「正しさを届ける人」ではなく、「関係性を育てる人」であろうとすること。
それは
知識や技術を「上から与える」のではなく、「関係の中で育て合う」という姿勢を大切に選ぶことでもあると思っている。
専門家でありたいということは、ある意味で「完成された存在」と見られたいという気持ちもあるんだと思う。
そのうえで
「専門家になり過ぎない」姿勢を持つことで、自分自身も常に「学びの途中」であることを忘れずにいられる。
異なる分野の人との対話
初心者の視点
子どもの問い
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そうした「自分の外側」にあるものに触れることで、専門性は深まるだけでなく、ひらかれていくんだろう。
専門家であることに安住せず、「まだ知らないことがある」「まだ変われる自分がいる」と思い続けること。
簡単なようで、難しい。
「専門家になり過ぎない」という姿勢は、知識や経験を否定するものではないと思っている。
むしろ、専門性を「他者とつながるための力」として活かすために必要な、もうひとつの成熟のかたちなんじゃないかな。
わからなさを抱え、正しさを手放し、相手や自分との関係性に耳を澄ませる。
その姿勢が、専門性を「閉じた塔」ではなく、「ひらかれた橋」へと変えていくように思う。
そして何より、「専門家になり過ぎない」人は、自分自身の変化を許し続けることができる人のような気がする。
その柔らかさこそが、自分だけでなく、誰かの変化をも支える力になるんだろう。