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加藤雄一のブログ

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わからせようとしている自分

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わからせようとしている自分
自分の思いを伝えたあと
 
「ちゃんと伝わったかな?」
 
「ちゃんと分かってくれたかな?」
 
と思うのは、人間らしい自然な反応だと思う。
 
そして
 
ときには、わかってもらいたい一心で、何度も説明したり、同じ主張を繰り返してしまうこともあったりする。
 
けれども
 
「伝えたらそれでよし」
 
これだけでいいんだと思う。
 
この感覚は、単なる放棄ではなく、相手の内側に委ねる、自分にも相手にも丁寧な姿勢でもある気がする。
 
 
 
「伝える」とは、自分の思いや考えを、誠実に言葉にして差し出すこと。  

それに対し、「わからせる」とは、相手に「同じ認識」を持たせようとする、一種の操作的な試みになりがち。  

この違いは、対話の温度を激しく左右する。
 
伝えることには

・相手の反応を信じる余白があって  
・一度手放す勇気があって
・対話の続きが生まれる可能性が残る
 
 
 
しかし
 
「わからせたい」という力みがあると

・相手の受け取り方への不信と  
・コントロールしようとする姿勢が生まれ  
・相手の感情やタイミングへの配慮が失われがち
 
になる。
 
つまり
 
・伝えることは「関係性を育てる営み」であり
・わからせることは「関係性に答えを強いる行為」になってしまうことなんだと思う。
 
 
相談支援を経験したことのある人は、よくわかるかもしれない。
 
ある支援者がいたとして、支援対象の方に対して、「この支援はあなたのためになる」と何度も説明を試みた。  

けれども、その相手は頷きながらも、どこか腑に落ちていない様子。
 
支援者は、「どうして伝わらないんだろう」「もっと言葉を尽くさないと」と思い、さらに説得を重ねました。  

すると相手はこう答える。
 

「言ってることは分かります。でも、今の自分にはその言葉を受け取る余裕がないんです」
 
このような相手の言葉を受けて、支援者は初めて気づくことがある。
 
「伝えたことそのものに意味はあった。でも、伝わるかどうかは今のタイミングや相手の状態に委ねなければならない」と。
 
それからというもの
 
その支援者は「伝えたらそれでよし」という感覚を持つことで、理解させることではなく、届く場を整えることへと気持ちを切り替えた。  

そしてそれが、相手との関係性をやわらかく整えていく転換点となる。
 
 
 
人に何かを伝えるとき
 
それが届いたかどうか、理解されたかどうかは、自分が決めることではなく、相手の中で起こること。
 
だからこそ
 
「伝えたらそれでよし」というスタンスには、  

・相手の理解力への信頼  
・相手のタイミングへの尊重  
・言葉の余白への配慮
 
が含まれているように思う。
  
そしてそのスタンスこそが、対話における安全と継続性を育てていく鍵になる。
 
「わからせたい」と思うのは、伝え手の不安や孤独から生まれることもある。
 
それを感じながらも、その気持ちを自分で受け止めつつ

「今は届かなくても、いつかこの言葉が思い出されるかもしれない」という余白を持つことが、関係性に静かな信頼を育て、そして自分のことも信じられるようになっていくような、そんな気がしている。
 
 
↑コーチ加藤雄一のページ

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伝えようと力むより、対話しようと思った方が心も関係も楽になる

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伝えようと力むより、対話しよう...
 

「ちゃんと伝えなきゃ」
 
「わかってもらわなきゃ」
 
その気持ちは、とても自然で、そして力強い。  
 

それだけに
 
伝えることばかりに意識が向くと、言葉が一方通行になり、関係性に緊張や孤独が生まれてしまうことがある。
 

そう思った時こそ、一呼吸おいて
 
「伝えよう伝えよう」ではなく、「対話しよう」と思うことが、心をほどく鍵になる。
 
 
 
対話とは、言葉を届けるだけでなく、相手と一緒に言葉のかたちを探す営み。  
 

その姿勢に切り替えるだけで、伝えることへの焦りがやわらぎ、関係性に『安心』が生まれる。
 
それは、自分の気持ちにも、相手の余白にも、やさしくなれる在り方のような気がする。
 
 
対話には「力を使いすぎないで済む構造」がある。
 
伝えようとするとき、人は自分の内側にある思いを、言葉にして、整えて、相手に届くように調整するという、かなり多くのエネルギーを使う。
 
 
そのプロセスは、時に過剰な力みや不安につながってしまうこともあって
 
「誤解されたらどうしよう」  

「ちゃんと論理的に伝えなきゃ」  

「うまく言えなかったら、意味がないかも」
 
こんな思いに支配されて、それは誠実であるがゆえに生まれるんだと思うけど、どこかで関係性の質を力技でコントロールしようとする感覚があるのかもしれない。
 
一方で
 
対話は構造的にも、その力みをほどいてくれる。  

対話は、「正確に伝えること」よりも、「一緒に意味を育てること」がひとつの目的になると思うので
 
・言葉が曖昧でも、そのまま差し出してみる  

・相手の反応から、自分の思いを深掘りしていく  

・同時に、自分が相手に対して開かれる
 
この構造では、自分も相手も
 
(完全でなくていい)
 
という安心が場に生まれる。
 
それは、「伝えきること」ではなく、「わかろうとする姿勢」に価値が宿るという転換。  

だから、心が楽になるんだと思う。
 
そして
 
伝えようとする場と、対話しようとする場には違いがある。
 
例え話になるけど
 
ある支援者が、クライアントとの初回面談で「想いをしっかり伝えよう」と準備を重ねて臨んだ。  

用意したフレーズ、論点、伝えたい方向性など、それらは確かに誠実なものだった。  

けれども
 
実際の面談では、相手の反応が硬く、言葉が届いたという実感がなかった。
 
その後、支援者はスタンスを変えてみた。  

「伝える」よりも、「一緒に話してみよう」
 
そう考えた。  
 

結果、次回の面談では、  

・用意した言葉を脇に置き、即興的に問いを立てる  
・相手の沈黙も「その人の言葉」として尊重する  
・「この言葉、届いている気がしますか?」と開いた問いを重ねる
 
そんな実践をした。
 
このとき、関係性には温度が生まれ、言葉が少しずつ『共有されたもの』になっていったのだと思う。  

支援者は後にこう語っていた。

「伝えることに必死だったとき、自分が『わかってほしい人』になっていた。  
対話しようと思ったら、『わかろうとする人』になれた気がした。」
 
この言葉には、伝達と対話の本質的な違いが見事に表れているように感じがした。
 
 
 
「伝える」ことは、誠実な営み。
 
けれども、その誠実さが「完璧に言葉にしなければ」「ちゃんと届かなければ」といったプレッシャーになると、  対話の余白が失われてしまう。
 
だからこそ
 
「伝えよう伝えよう」と焦るのではなく、  「対話しよう」「一緒に考えよう」とスタンスを変えることで、 言葉の力みがほどけ、関係性に安心が生まれ  、誤解も違いも、共に扱える場が立ち上がる。
 
それは、伝達の場ではなく、『共創の場』への移行なんだと思う。  

そして何より
 
「誰かに届けるために頑張る」より、「誰かと一緒に育てる」ことのほうが、  ずっと楽で、ずっと自分らしくいられるような気がした。

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