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加藤雄一のブログ

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あなたの魅力や強みを輝かせるお手伝いをしています

そういえば、目的があったよね

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そういえば、目的があったよね
私たちは日々、さまざまな行動や選択を繰り返している。
 
 
そのひとつに
 
「目的」
 
があるかどうかは、思っている以上に人生の質を左右しているのを感じる。
 
 
 
目的があるということは、自分の行動に意味があることを自覚し、時間やエネルギーの使い方に納得感をもたらすということだと思う。  
 
それは
 
自分は「なぜそれをするのか」
 
という問いへの答えがあるということ。
 
 
それこそが、自分の人生を尊く、そして自分らしくしてくれるような気がしている。
 
 
  
目的があると、同じ行動でもその意味合いがまったく変わってくる。
 
たとえば
 
「毎日仕事に行く」
 
という行為も
 
「生活のために仕方なく」
 
なのか
 
「誰かの役に立ちたい」
 
「自分の成長につなげたい」
 
なのかによって
 
心構えや疲労感、達成感は大きく違う。
 
 
目的とは、行動に『意味の重み』を与えるものなんだと思う。  

それがあることで、日々の営みが「ただの作業」ではなく、「自分の人生の一部」として感じられるようになった。
 
 
そしてその感覚は、自分の存在を肯定する静かな支えとなってくれている。
 
 
そして

人生には、思い通りにいかないことや、努力が報われないように感じる瞬間が必ずある。
 
そんなとき
 
目的があると
 
「なぜこれを始めたのか」
 
「何のために続けているのか」
 
という問いに立ち戻ることができる。
 
 
それは、嵐の中でも揺るがない『コンパス』のようなものなんだと思う。
 
 
子育てや介護、創作活動など、すぐに成果が見えない環境の中でも
 
「この人を笑わせたい」とか
 
「この表現を残したい」とか
 
目的があることで、やめようと思った時でも、踏みとどまる力が生まれる。  
 

目的は、困難を消してくれることはないが、困難の中に意味を見出し、次の行動を見つけ出す力をくれるのを感じている。
 

目的を持って生きる人の姿は、他者にとっても力になる。
 
それは
 
何かを成し遂げたとかそういうことだけではなく、「なぜそれをしているのか」が伝わるからだと思う。  
 
 

目的は、自分の人生を語る言葉であり、他者とつながるものでもある。  
 
目的そのものがその人の生きてきた物語であり、それはこれから始まる物語でもあると思う。
 
 
だから、目的があるということは苦しくもあるけど、人を豊かにしてくれるものでもあるように思う。
 
 
 
目的があるということは、自分の人生に対して「こう在りたい」と願う意志を持ち、その意志を日々の行動に静かに織り込んでいくこと。
 
 
そしてそれは、他人に見せるためのものではなく、自分自身との対話の中で育まれていくもの。  
 

目的がある人生は、たとえ遠回りに見えても、一歩一歩に納得と意味が宿る、尊い道のり。  

その道を歩む人の姿には、静かな強さと、深い優しさがにじんでいるのだと思う。
 
 
何かがなくても、目的があれば、また始められる。
 
よし、また始めてみよう。

ワオ!と言っているユーザー

「誰とでも仲良く」ではなく「誰とどうかかわるか」

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「誰とでも仲良く」ではなく「誰...
私たちは社会の中で生きる以上、他者との関係は避けて通れない。
 
そう考えると、全てのつながりを維持しようとか、拡大しようとかすると、自分のエネルギーや心の健やかが少しずつ損なわれていく機会がしょっちゅうやってくる。
 
 
特に、無理に合わせたり、気を遣いすぎたりといった「頑張る交流」は、知らず知らずのうちに自分を削ってしまう。
 
自分にとって健やかで自然な人間関係を見極める感度は、意識して磨いていきたい。
 
 
ボクがそうであったが、
 
無理な交流を続けていると
 
「誘いを断れない」
 
「場の空気を壊したくない」
 
といった理由で、自分の本音を後回しにしてしまいがちになる。
 
その結果
 
休日でさえ心が休まらない、何かに疲れているのに理由がわからなという状態に陥ってしまう。
 
 
そうならないように
 
まずは無理な交流を一つ手放すことで、自分にとっての「本当に必要な余白」を少しずつ戻したい。
 
その空白こそが、自分の感情や欲求と向き合う余裕を生んでくれ、また次に向かうエネルギーが湧き出すキッカケを作ってくれる。
 
 
そもそも
 
人付き合いに疲れるのは
 
「合わない相手」そのものよりも
 
「合っていないのに合わせようとする自分の行動パターン」
 
であることが多いのではないか。
 
要は無理するっていうのは、この辺のことかと。
 
そうした癖に気づき、少しずつ距離や関わり方を調整することで、「本当に無理をしなくていい関係」の自分なりの見極め方が磨かれていく。
 
 
また、不自然な付き合いを見直すことで、自分らしくいられる関係や安心できる場所のありがたさにも、より敏感になれる気がしてる。
 
 
無理な交流を手放す行為は
 
「嫌われるかもしれない」
 
「気まずくなるのではないか」
 
という不安と常に隣り合わせ。
 
 
ただ
 
その「恐れ」に対して、丁寧に越えるプロセスを進むのは、自分に対しても相手に対しても、実は誠実であろうとする姿勢だと思う。
 
しっかりとそこと向き合えた時
 
「自分の気持ちを信じ、尊重してよい」
 
という自己信頼が固まっていくようにも思っている。  
 
 
自分の基準で人間関係を築いていくことは、他者と心地よく距離をとれるということでもあり、より気持ちに自由度が増す。
トレーニング次第で誰もが手にいれるものだと思うから、少しずつ始めてみることをオススメしたい。
 
 
 
私たちは、すべての人に好かれる必要はないし、すべての人を好きになるなんてこともできない。
 
だからこそ、無理な交流を手放すことは「相手を切り捨てること」ではなく、「自分を大切にする選択」として「線引き」することで、自分を大切にする行為になっていくのだと思う。  
 
 
それは結果的に、その選択が関係性における誠実さや透明さを育み、より豊かな人間関係を築いていく土台になる。
 
たぶんこれからはますます「つながりの総量」よりも、「つながりの質」を大切にする時代になると感じている。
 
そこに意識を向けて、心をより自由に、そして穏やかでいたい。
 
そのためにも
 
「誰とでも仲良く」ではなく、「誰とどう関わるか」を心に掛けていきたい。

ワオ!と言っているユーザー

「型にはめる」ではなく「個を拓く」営みを心掛ける

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「型にはめる」ではなく「個を拓...
ポンコツだが、縁あって3つの部署でマネージャー職をさせていただいた。
 
この経験は、私の人生に大きな影響を与えてくれて、そして自分の家族経営や子育てにも、とても大きい力をくれた。
 
子育ての話しになると終わりがなくなりそうなので、マネージャーとしてサポートしてきた経験を少しだけ書き留めておきたい。
 
 
 
経験を積むにつれて、まだ若い人に対して
 
「こうあるべき」
 
といった期待や理想像をついつい押し付けがちになることがある。
 
ただ、自分の経験則のみの、その『型』が強すぎると、お互いに苦しくなっていく。
 
誰かを特定の型にあてはめようとするほど、「その人らしさ」は見えづらくなり、自分自身も「思い通りに育たない」ことへのストレスに、少し翻弄される。
 
 
  
本当に大切なのは、型にあてはめることではなく、目の前のその「人」という『いまここにある存在』と向き合い、その方らしい芽が育つ土壌を整えること。
 
 
その視点を持つことで、コントロールの連続ではなく、対話と発見の積み重ねへと変化していくように思う。
 
 
先輩として
 
「きちんと育てたい」
 
「(チームの)社会性を身につけさせたい」
 
と願うのは当然のことだと思う。
 
 
しかしその思いが増した時
 
「こうすれば安心」
 
「これができなければ不安」
 
という思考と結びつくことがあって、そうなった時に以前経験した『型』にはめる育て方へと変わっていくような気がしている。
 
 
「言わなくても動ける」
 
「誰とでも仲良くできるように」
 
といった差し支えなく誰とでも良いコミュニケーションがとれる『理想像』が強まると、静かに自分を表現するタイプの人や、慎重に関係を築くタイプの人は、少しずつ「できない自分」「ダメな自分」として周りからばかりではなく、自分が自分をそう思うようになり、そしてつぶれていく。  
 

こうした先輩としての『善意の型』みたいなものこそ、経験の少ない人にとっては自分の自然な表現を封じられる苦しさとなり、リーダー自身にとっても「うまく育たない」ことへの焦りを生みはじめる気がする。
 
 
 「よかれと思って」の期待が、知らぬ間に圧力になっているんだろうな、きっと。
 
 
  
経験の若い人を型にはめたくなる背景には、リーダー自身の不安や恐れがあるんだと思っている。
 
それは今も日々感じる(笑)
 
 
「(チームの中で)人と違うのはかわいそう」
 
「きっと困るよな」
 
そういった思いが、無意識に
 
「こうあってほしい」
 
「こうすべき」
 
という型を生み出しているのだと思う。
 
 
 
これは、『若い』という存在を「未熟」と捉え、「変えられれば、安心できる存在になる」という、勝手な盲信があるんだろうなと。  
 

ただ現実には
 
経験の若い人は自分の思い通りには育たないし、それが自然なことなんだとも思っている。
 
 
そのうえでリーダーが
 
「なぜ伝わらないのか」
 
と思い悩み、そして若い人は
 
「どうして自分はわかってもらえないのか」
 
と感じ、静かな断絶が生まれはじめた時を感じられるかどうかは、その後に大きな影響を及ぼすことも、多くの経験から学んだ。
 
「型」を求めようとするのは、安心感を得て、そしてコントロールしたいと思う気持ちの裏返しなのかもしれない。
 

型にはめることから抜け出すためにできることといえば
 
まず 
 
「その人は、自分とは別の『他者』である」という前提に立ち、そしてその人を深く見つめる姿勢を持つことだと思っている。
 
 
 
若い人=若い頃の自分
 
ではなく
 
自分とは異なる価値観・気質・感性をもつ、独立した存在として認識すること。
 
型にはめるのではなく、その人の型、つまり『自然な姿』をまずは尊重し、活かすかかわりを考えてこそ、育てる土壌が作られるのではないのか。
 
たとえば
 
安心が第一の人には、注意よりもまず共感を示す。
 
好奇心で動く人には、ルールで縛るよりも、可能な範囲で自由な探索の余地を持たせる。
 
 
『ちがい』を問題視するのではなく、「どうかかわれるか」に想像力を全集中させる。
 
それが、お互いの苦しさを減らし、ともに育つ喜びを増やすアプローチのような気がしている。
 
 「個」としてのその人を尊重すること。  
 

型にはめる育て方は、リーダーの意図が強くなればなるほど、双方にとって苦しさを生む構造を持っている気がする。  

それは愛情がないからではなく、
 
「不安」
 
「比較」
 
「理想」
 
などの感情がそこにあり、そしてそれは無意識の反応として、相手に届ける。
  
だからこそ
 
必要なのは『正しい型』ではなく、その人とかかわるための『見つめ方』の質を問い直すことだと思っている。  
 

「この人はどんなときに自然体で動けているのだろうか?」
 
「どんな瞬間に楽しそうにしているのか?」
 
という問いに立ち戻ることで、その人の理解が深まっていき、リーダーはコントロールから信頼へと歩みを進められるような気がする。  

そして何より、リーダーの期待をよそに、自分自身と向き合うその時間こそが、若い人が枠を広げる学びの機会でもあること、そしてそれはリーダーも一緒だということを、いつも心に掛けておきたい。

ワオ!と言っているユーザー

キャパを超える意識を持つ大切さ

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キャパを超える意識を持つ大切さ
以前、転職を考えていた時のこと。 
 
 
とある経営者に
 
「自分の器以上のことはしない方がいい」
 
「私は自分の器の大きさを知っている」
 
と言われたことがあった。
 
 
 
人は誰しも
 
自分の「キャパ」(容量・許容範囲)
 
というものを持っている。
 
 
ただ
 
 
その枠の内側だけで生きていると、成長や変化の機会は限られてしまうことに、ボクはずっと違和感を感じていた。
 
そんな当時のボクは
 
「キャパを超えるかもしれない」
 
と感じる領域に、あえてイタズラに踏み込んでみることに面白さを感じていたのかもしれない。
 
 
思考や行動の枠を広げようとすることに興味があったんだと思う。
 
 
一方で
 
無理や背伸びを推奨するかと言ったら、決してそうではない。
 
今の状況を踏まえて、アクセルを踏み込むタイミングをうかがうのは、得意な方だと、自分では思っている。
 
 
そこを無理して踏み込んだと思える経験が、一度だけあったな(笑)
 
 
 
「キャパを超える『意識』を持つこと」
 
は、むしろ自分の限界を丁寧に見つめ、そのギリギリに触れることで、成長を刻もうとする勇気のあらわれだとも思う。
 
 

人は、やってみて初めて「どこまでなら大丈夫で、どこから苦しくなるか」を知ることができる。
 
 
つまり
 
『少しの背伸び』
 
をしてみることではじめて、キャパの正体を自分なり言語化できる。  
 

これはたとえるなら
 
少しだけ重い荷物を持ってみることで「これ以上は腰にくるわー」とわかるのに似ていている(笑)
 
 
日常の中で自分をあまりにも守りすぎていると、逆に「自分の限界がどこなのか」が不明瞭になり、突発的なストレスに弱くなってしまうと、ボクは思っている。
 
 
自分のキャパに向き合い、時にそこをあえて越えてみようとすることで、自分にとっての『エネルギー配分』や『休息の取り方』をより的確に調整できるようになっていく。
 

そうやって
 
キャパの外に出る経験を繰り返すと、今まで「無理」「自分には向いていない」と思っていたことにも、『やってみる価値があるかも』と感じられるようになる。
 
 
 
つまり
 
 
未知=不安ではなくて「まだ慣れていないだけの領域」と捉え直す力も育ってきているような気もする。  
 

たとえば
 
これまで避けていたプレゼンや新しい人間関係をつくろうと踏み出したとき、
 
「思ったより大丈夫だった」
 
「これなら次もやれるかも」
 
と、良くも悪くも、それは小さな成功体験として積み上がっていく。
 
 
それは自己効力感やチャレンジへの充実感を通して、結果的に人生の選択肢を広げるものになっているように思う。
 
 

そして皮肉なことに
 
人は「キャパを超えたとき」に初めて、「ひとりではどうにもならない」という現実と向き合う。
 
 
そこではじめて
 
『助けを求めたい自分がいる』
 
という、誰かを頼る行為が選択肢に入ってくる。
 
 
助けを求めることは、弱さではなく「持続的に自分を扱う力」だと思っている。
 
 
それは、自分の限界と対話したことのある人にしか育たない資質でもあるとボクは思う。
 
 
キャパを超える体験は苦しさや混乱を生むようでいて、一方で実は「自分らしく成長するために何が必要か」を考えるきっかけとなっているような気がする。
 
 
失敗や後悔を積み重ねるのもまた、自分に合った仕組みや支えを設計するための力を養っているのだと、自分に言い聞かせてみる😊

ワオ!と言っているユーザー

外向型か内向型か、の前に大切にしたいこと

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外向型か内向型か、の前に大切に...
私自身も様々学んできましたが
 
「〇〇タイプ」
 
「□□キャラ」
 
「~~型」
 
「外向型か内向型か」
 
のような分類は、自分や相手の性格傾向を理解する手がかりとして、とても有効なもので、学んだことでとても生きやすくなった。
 
 
それと同時に
 
それらの枠に縛られるような感覚もあって、「本来の自分」みたいな感覚や「思い込みによる可能性の制限」があるような気がするのもまた、現実。  
 
 

ボク自身が本当に大切にしたいのは
 
「どちらの型か」
 
よりも
 
「どんなふうに人と関わり、どう生きたいか」
 
という自分なりの価値のある意図と感受性。
 
 
その視点を持つことで、分類を超えた自己理解と、穏やかに受け止められるようになった他者理解が育まれているように思っている。
 
 
 
外向型・内向型という言葉はなんとなく便利な気がして、ただそれは、あくまで「傾向」であって、「定義づけるもの」ではない。
 
 
人は誰しも、外向的な要素も内向的な要素も両方持ち合わせており、それは状況や心の状態によって流動的に変化するものだと思っている。
 
 
たとえば
 
普段は内向的で静かな人が、安心できる仲間の中ではやたらとおしゃべりになったり、逆に外向的な人が、人前に立つプレッシャーで言葉に詰まることもある。  
 
 
後者はめちゃくちゃ自分に当てはまる(笑)
 

つまり、重要なのは「私は◯◯型だからこう振る舞う」ではなく、「今の私は、どんな状態にあるか」という自己観察と、「だとしたらどうする?」という選択の自由を自分なり持つことなんじゃないかと。
 
 
固定的な分類に自分を閉じ込めない方が、可能性を広げてくれる気がする。
 

また
 
「内向型だから一人でいたい」
 
「外向型だから多くの人と関わりたい」
 
などとよく聞くが、それはその人の「癖」や「心地よさ」を示しているだけで、常にそう在り続けているわけではない。
 

関係性によって常に「化学反応」が起こっていて、ある人といるときは落ち着けるのに、別の人といるときには神経が張り詰める、そんなことも日常茶飯事のこと。
 
 
自分がどの型かよりも、「この関係の中で自分はどう感じ、どんなふうに関わりたいのか」といった、「関係の質」を意識する感度の方がずっと大切なのだと思う。  
 
 
そして

ボクが性格のタイプ以上に重視したいのが
 
「自分はどんな場に身を置きたいか」
 
「どんなつながりを育みたいか」
 
という自分にとって心地の好い、「在りたい世界への意図」みたいなもの。
 
 
たとえば、人と深く関わりたいという気持ちがあっても、それをどう表現するかは人によって異なるはず。
 
 
外向的に盛り上げながら場づくりをする人もいれば、外向的であっても静かに一人ずつの対話を大切にする人もいる。  
 

つまり
 
「外向型の方が社交的で価値がある」
 
「内向型だから共感力がある」
 
といった一面的な評価ではなく、自分の在り方が「何を育もうとしているか」という意図を軸に据えることが、結果的にその人の魅力を最大限に育ててくれるような気がしている。
 
 
これはある意味、「外に出るか中にこもるか」ではなく、「どんな世界と、どう関わりたいか」という問いなんだと思う。
 

外向型か内向型か、という分類は「便利な地図」みたいなものかと思うけど、それを「目的地」にしてはいけない。
 
本当に大切にしたいのは、自分自身との正直な対話と、在りたい方向への感性。  
 

「今の私はどう感じているか」
 
「誰と、どんな場をつくっていきたいのか」
 
 
そう問い続けることで、タイプを超えた生きた関係性が育まれていく。
 
そしてその柔らかくしなやかな在り方が、自分にも他者にも心地好い居場所をつくってくれるのだと思っている。

ワオ!と言っているユーザー

生きる気持ちが全く湧かない時の切り抜け方

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生きる気持ちが全く湧かない時の...
「生きる気持ちが湧かない」
 
 
ここしばらくそんなことを感じる時が何度もあった。
 
 
無理に前を向こうとするほどに、より深い疲労や孤独に包まれてしまうことがあった。
 
 
そんな時に必要なのは
 
「頑張らない切り抜け方」
 
という選択肢を、自分に許すことだと思う。
 
 
最低限やらなければいけないことは、やる。
 
これだけは放っておけないということは、やれる範囲でやる。
 
でも
 
それ以上はやらない。
 
「走る時期」もあれば「とどまる時期」も必要だ。
 
大切なのは
 
無理に生きる理由を探すことではなく、まずは「ただ、ここにいてもいい」ことをまず肯定することかもしれない。
 
 
それだけ頑張ってきた反動だと、言い聞かせてあげてもいいのかもしれない。
 
 
生きる気持ちが湧かないとき、そんな時でも、いくつか切り抜け方があったように思う。
 
 
 
未来のことも、周囲との関係も、何ひとつうまくいく気がしない
 
 
そんなとき、頭の中の思考にどんどん飲み込まれ、身体の感覚からどんどん離れていく感覚がある。
 
 
まず試したいのは、
 
「空を見上げる」
 
「美味いものを食べる」
 
「しっかり寝る」
 
ごく基本的なことかもしれない。
 

これは、生きる意欲を取り戻すというより、「生きている」という事実に自分を繋ぎ止めるための、最小限で最大の手段だった気がする。  
 

考えすぎるのではなく、感じること。
 
 
心の飽和状態を少しだけ和らげてあげたい。
 
 

生きる気持ちが湧かない状態は、決して「意志が弱い」からでも「甘え」でもない。
 
むしろ、これまで必死に頑張ってきた心が、限界を超えて静かにSOSを出している状態ともいえるかもしれない。
 
 
助けてくれる人がいるなら、お願いしたい
 
そんな気持ちだった。
 
 

そのとき
 
「もっと前向きに」
 
「ちゃんとしなきゃ」
 
と自分を責める言葉は、さらに心を追い詰める。
 
 
そうではなく
 
「今はエネルギーをためる時期」
 
「何もしないことが必要な時期」
 
と捉えてみる。  

これはあきらめるのではなく、自分が自分との信頼を壊さない選択でもあるような気がする。
 
何もできない自分を見捨てず、そっと隣にいてあげること。
 
その姿勢が、何より大切だったように思う。
 

すべてを語らなくてもいい。
 
べつに完了させなくてもいい。
 
 
たった一言
 
「今日はしんどい」
 
「何もしたくない」
 
だけでもいいと思う。
 
 
もっと具体的に
 
 
「〇〇はやりたくない」  
 
「□□はいや」
 
などなど。
 

そして
 
信頼できる相手にほんの少し気持ちをこぼせるときは、
 
「ひとりきりではない」
 
としっかり感じてみる。
 
 
もし周囲に話せる人がいないと感じたら、日記やスマホのメモ、あるいはAIとの対話でもいいと思う。
 
 
まずは言葉にすることで、感情を外に出すこと。
 
それは心の中で静かに沸騰していた何かの温度を下げ、呼吸をしやすくしてくれる行為でもあると思うから。
 
 
 
生きる気持ちが湧かない時、「回復すべき問題」ばかり見るのではなく、「今はそういう状態なんだ」と静かに隣にいるような気持ちを向けてあげる。
 
 
そして
 
無理をしないこと
 
小さな感覚に戻ること
 
誰かとつながる可能性を閉じないこと
 
そうした積み重ねが、やがて次の一歩に新しい風を送り込む力となってくれる気がする。
 
 
今日を生き抜いたこと、それ自体が尊い。
 
それだけで、もう十分に意味のあることと、自分に言ってあげたい。

ワオ!と言っているユーザー

感情の言語化が人生を楽にする

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感情の言語化が人生を楽にする
感情をうまく言葉にできないと、曖昧なモヤモヤを抱える。
 
そんな時
 
感情を言語化できる力があれば、自分の内面を整理し、相手との関係も滑らかにすることができると思う。
 
個人的にこれは
 
「心の技術」
 
とも言い換えられる気がして、ただそれは特別な才能ではなく、誰もが日常の中で少しずつ育てていけるものだとも思っている。
 
 
そしてこの力があると、人生の重たさがほんの少し軽くなる場面が増えていくのようにも思う。
 
 

ボクたちは
 
「イライラする」
 
「何か不安」
 
「ちょっとモヤモヤ」
 
といった感覚は持ちながらも、それを放置したまま日々を過ごしがちだと思う。
 
 
けれど
 
その感覚の正体を具体的な言葉にしようとすると
 
「あー、自分は寂しかったのか」
 
「期待していたんだな、だから傷ついたんだ」
 
と、それまで見えていなかった本音に出会える瞬間がある。
 
 
言葉にしようとするプロセスは、自分を一歩外から見て、他者として見つめ直すような作業にも思える。
 
そこは「自己理解の入り口」でもあり、感情に振り回されるのではなく、感情と丁寧につきあう自分がいるような気がする。
 
 

感情をうまく言葉にできないと、怒りや涙といった表現でしか伝えられず、誤解やすれ違いが生まれやすくなる。
 
それを
 
「自分はこう感じた」
 
「○○が心にひっかかった」
 
と伝えられることで、相手は非難ではなく「思い」としてそれを受け取ることができるようになる。
 
 
それは自分自身もそう。
 
 
たとえば
 
「忙しいのに、また頼まれ事か」
 
と怒るのではなく
 
「今はいっぱいいっぱいで、頼られるのが少し苦しいんです」
 
と表現できたなら、対話は全く違うものになる気がする。  
 
 
素直に受け止めてくれる場合もあれば、もしかしたら相手は気分を悪くするかもしれない。
 

ただ
 
感情の言語化は、相手との「関係の質」を静かに底上げしてくれる気もする。
 
(このように思っている)
 
それをしっかり伝えられるからこそ築くことのできる関係があるようにも思う。
 

感情にフタをしてばかりいると
 
「自分が本当は何を感じているのか」
 
がわからなくなり、自分の判断や直感すら信じられなくなることがある。
 
逆に
 
「私は今、こう感じている」
 
と明確にできると、心の中に一本の軸が通るような感覚が得られる。
 
 
(これこそがボクの真意なんだ)
 
 
それは、自分の感情に「ちゃんと気づいてるよ」と声をかけてあげるようなもの。
 
 
その積み重ねが、自己信頼を支える静かな土台になっていく。
 
 
だからこそ、不安定な状況の中でもぶれずに立ち続けることができるのかもしれない。
 
 
 
感情を言語化することは、ただの“表現”ではなく、自分を理解し、他者とつながり、人生に穏やかにするための尊い技術と言える気がしている。
 
 
「どうせ伝わらない」
 
とあきらめず
 
「まずは自分に伝えてみる」
 
 
 
たとえ完璧な言葉でなくても、その試み自体が人生を少しだけ優しく、そして生きやすくしてくれるのだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

過去の経験には未来を照らす種がある

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過去の経験には未来を照らす種が...
「これからどう生きる」
 
時々未来ばかりを見つめがちになる。
 
 
でも
 
 
未来を切り拓くうえで最も確かな手がかりは、すでに自分が体験した「過去の経験」の中に眠っていることが少なくない。
 
 
とくに
 
「なんとなく印象に残っている」
 
「なぜだか繰り返し思い出される」
 
そんな経験には、今の自分に何かを問いかけてくる力があるように思える。
 
 
過去の一場面を「振り返る」ことで、未来への「進み方」が見えてくることも少なくない。
 
 
 
過去を意味づけする、なんていうこともあるが、過去の出来事はその瞬間には理解できなかった意味を、あとから植え替えることができるような気もする。
 
 
たとえば
 
失敗と思っていた経験が、後の出会いや選択に影響を与えていた
 
そんなことは珍しくない。
 
 
 
重要なのは
 
「何が起きたか」
 
ではなく
 
「そのとき自分が何を感じ、何を学んだか」
 
という視点で記憶を読み直すこと。
 
 
過去を再読するというか、振り返ることで自分の価値観や行動原理の輪郭が、たしかに浮かび上がってくる。
 
過去は、解釈し直すことで「未来資源」になるんだろうな。
 
  
そして、記憶に残っている経験の中には「強い感情」をともなった場面がある。
 
悔しさ
 
感動
 
怒り
 
驚き
 
そうした感情は、自分が何を大切にしているのかを教えてくれている。
 
 
たとえば
 
「誰にも頼れずに頑張った」
 
という経験からは
 
「孤独を理解できる人でありたい」
 
という想いが湧き起こっているのかもしれないし
 
「誰かに救われた」体験には
 
「今度は自分が支えたい」
 
という使命感が宿っていることもあるように思う。
 
 
感情は、過去と未来を橋渡ししてくれている。
 
 
さらに、せっかく得た気づきも、言葉にとどめるだけでは変化は起こりにくい。
 
 
過去の経験に込められた意味を、しっかりと今の自分の選択に落とし込むこと。
 
 
過去の「聴いてもらえた安心」が印象に残っているなら、「人の話に耳を傾けることを仕事に活かす」などの形で具体化できることもたくさんありそう。 
 
また「当時の自分にかけてあげたかった言葉を、今の仲間に届ける」というアクションも、自分にとっても相手にとっても力になりそう。
 
自分の過去は、ただ懐かしむ対象ではなく、今の行動にエネルギーを注ぎ込む「記憶の資源」といえるかもしれない。
 

「将来につながる経験」は、どこか遠くにある特別な出来事ではなく、これまでの人生にすでに刻まれている経験の中に存在している。
 
 
それを思い出し、意味づけし、感情をすくい取り、行動に変えていくことで、未来はより自分らしい輪郭を帯びて立ち現れてくる気がする。  
 

未来に迷ったときこそ、立ち止まり、少し過去に目を向けること。
 
 
 
それは決して後ろ向きなことではない。
 
 
 
自分という存在の「軌跡」を礎にして、次の一歩を踏み出すためのしなやかな力となるものを、私たちはすでに持っているんだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

やりたいことが見つかった時に、まずやるべきこと

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やりたいことが見つかった時に、...
やりたいことが見つかった瞬間は、人生の中でも特にエネルギーに満ちた、何とも言い難い喜び感じる。
 
 
と同時に、その熱をどう扱うかによって、夢が実現に向かうか、遠のいていくかが分かれることもたびたび。
 
 
「やりたいことを見つけたら、まず何をするか」は、その後の行動の質を決める土台になっているようにも感じる。
 
 

見つけた“やりたいこと”に対し、まず最初に取り組むべきことは「動機の言語化」ではないかと。  
 

どうしてそれをやりたいと感じたのか?
 
どんな価値をそこに感じているのか?  
 

こんな問いを自分に投げかけて、感情や直感だけにとどまらず、自分なりの言葉で「動機」を整理することが大切。
 
それによって、やりたいことが単なる「願望」から「意思」へと変わり、他者に共有したり、自分の判断軸に組み込んだりできるようになる。
 
たとえば
 
私の経験を述べると、「人の話を聴く仕事がしたい」という想いが生まれたなら、それは「人の力になりたい」からなのか、「心のしくみに興味がある」からなのか――その動機の違いによって、そこからまた歩んでいく方向性も異なっていくような気がする。
 
 

そして動機が言語化できたら、次はできるだけ小さく、現実的な一歩を踏み出す準備を考える。
 
 
「その分野の本を一冊読む」
 
「関係者に話を聞いてみる」
 
「仮のスケジュールを立ててみる」
 
など、準備段階でできることを行動に落とし込むことで、行動のハードルを下げ、自然とエンジンがかかってくる。
 
大きな夢ほど「準備が整うまで待つ」姿勢を取りがちですが、実際には「とりあえずやってみる」ことでしか得られない発見や修正がある。
 
 
完璧な計画よりも、まずは頭だけでなく「手を動かす」ことこそが、やりたいことを「実体化」させる鍵なのかもしれない。
 

そして最後に、やりたいことを自分だけの内側にとどめていると、日常の中で埋もれてしまう。
 
そこで有効なのが、信頼できる人に話したり、SNSなどで少しだけ表明するといった「外への発信」が自分を後押しする。
 
 
というか、進まざるを得ない環境になる(笑)
 
 
人に話すことで、応援者や仲間が現れたり、偶然のきっかけが生まれたりすることが多々あった。
 
また、自分が口にした言葉が「約束」や「動機づけ」となり、行動の促進力になることもたくさんあった。
 
 
つまり、やりたいことは、環境との関係性の中で育っていくんだろう。
 
 
 
やりたいことを見つけた瞬間は、心が開き、未来への可能性が広がる貴重な時間だったりする。
 
そしてその想いをかたちにするには
 
「なぜやりたいか」
 
を言葉にし
 
「できること」
 
から動き始め、環境とつながっていくというステップがとても重要。
 
やりたいことは、静かに温めておくだけでは叶わない。
 
そして温めておくだけだと、もったいない。
 
 
だから、自分の意思と具体的な行動で「秘めた願い」をまずは「生きた願い」にしていく必要がある。
 
 
まずは、未来を分ける最初の一歩を踏み出してみよう。

ワオ!と言っているユーザー

問い続けながら育てる本当の自分

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問い続けながら育てる本当の自分
「本当の自分」がわかる心理学
 
という本が置かれていたのを見て、本当の自分を考えざるを得なくなった(笑)
 
 
本当の自分とはなんだ
 
本当の自分とは誰だ
 
 
「本当の自分」とは、生まれながらに決まっている「何か」ではなく、環境や経験、選択を通じて少しずつ形づくられていく、実にか弱い存在のように思っている。
 
 
そして、他者や社会との関わりの中で、よく見失う。
 
 
が、そのたびに自分の「核」に立ち戻ることがあるので、内にある一貫性や納得感を少しずつ得て、今の自分があるように思う。
 
 
つまり、本当の自分とは、変化の中でもぶれない指針を持っていて、同時にそれを育てていくプロセスそのものなのかもしれない。
 
 

私たちは日々、他者の期待や役割のなかで生きている。
 
「いい人でいなければ」
 
「成果を出さなければ」
 
といった社会的な仮面を身につけるうちに、自分自身が何を感じ何を望んでいるのか、見えなくなることが多い。
 
 
本当の自分を知る第一歩は
 
「こう思われたい」
 
ではなく
 
「自分は本当はどう感じているか」
 
を問い直すことのような気がする。
 
 
たとえば、何かに対してイライラした時、「自分はこの価値観に違和感を覚えているんだ」と丁寧に内省することで、自分の大切にしたいものが浮かび上がってくることが、今までたくさんあったような。
 
ありきたりな感じかもしれないが、他者の眼ではなく、自分の「内なる声」に耳を澄ますことが、やはり大事なんだと思う。
 
 

そして、人は孤立した存在ではなく、他者との関係性の中で自分自身が照らし出されるような気がする。
 
ある人といるときの安心感、ある場で見せる素直さ...そうした「自然に自分らしくいられる関係や場所」こそが、本当の自分を教えてくれる鏡になるとも思う。
 
 
また、信頼できる他者との対話によって、言語化されていなかった自分の想いに気づかされることも少なくない。
 
 
だからこそ、自分を表現できる安全な場づくりも、本当の自分を育むために欠かせない要素なのだと。
 
 
本当の自分は「関係性の中」で浮かび上がってくるんだろうね。  
 
 

そしてもう一つ
 
自分らしさは、何か特別な瞬間に突然あらわれるものではない。
 
 
むしろ、日々の小さな選択の中に
 
たとえば
 
どう挨拶をするか
 
誰と時間を過ごすか
 
どの言葉を口にするか
 
その中にこそ、本当の自分が映し出されているような気がする。
 
 
自分の内側と一致した選択ができた時には、静かな満足感が残っている自分に気づく。
 
その感覚を手がかりに、選択と行動を一致させていくことで、自己信頼を育んでいったらいいようにも思う。
 
本当の自分は「日常の選択」の中に、いつも現れているだろうね。
  
 

本当の自分は、固定された「正解」があるのではなく、人生のプロセスの中で少しずつ言葉になり、かたちになっていく存在なんだろう。
 
 
内なる声に耳を傾け、信頼できる人と関わり、自分らしい選択を積み重ねる。
 
そうした日々の営みこそが、「自分自身とつながりつづける」ことを可能にしていってくれるんだろうね。  
 

そして何より大切なのは
 
 
本当の自分を「探す」だけでなく、まずは「ありのままを尊重する」視点を自分の中に持つこと。
 
 
その姿勢こそが、外側に振り回されない穏やかな軸を育ててくれるように思う。
 
そうやって、問い続けながら自分を育てていこう。

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陰口は自分の心に静かに傷を刻む

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陰口は自分の心に静かに傷を刻む
私が一番嫌いな場所が、誰かのことを攻撃的に責める場所。
 
 
そう言いながらも、自分も会社の上役についてついつい喋ったりしてるけど(笑)
 
 
そういった役職レベルでのぶつかり合いとは別に、人として相手のいないところでその人の人格を否定的に語る場所からは、1秒でも早くいなくなりたい。
 
 
決して自分は品行方正な人間でもありませんがね(笑)
 
 
陰口は一見、他人への批判に見えても、実はその言葉は自分自身への信頼や心の安定を少しずつ蝕んでいくように思っているんですね。
 
 
陰口を言うことは、一時的な発散や共感の獲得につながるように思えても、その代償は予想以上に大きいものだと。
 
 
そして、そういう場に出くわしたとしたら、それはもう間違いなく自分のことも言われていることと(笑)
 
 
 
 
陰口を言うことで、自分に与えるダメージも小さくはないですよね
 
 

陰口を聞いた相手は「この人は、いない人の悪口を言うのだから、自分のこともどこかで言っているのでは?」と感じていることと。
 
たとえ内容が事実であったとしても、陰口そのものが信頼を損なう言動となり、自分自身の信用を落としてしまう。
 
そしてその印象は、思っている以上に長く残るから、結果的に自分が傷つくことになるような気も。
 
 

また陰口が習慣化している人をみていると、思考が「評価する・裁く」方向に偏ってしまっている気もする。
 
「○○さんはまたこうだった」
 
「あの人はだめだ」
 
というフィルターをかけて人や出来事を見るようになると、本来感じられたはずの感謝や学びが見えづらくなる。
 
せっかく素晴らしい人間性があった人でも、視野や感性が狭まり、相手を見下すようになっていく様を、見たくないけどもたくさん見てきた。
 
 
これは他人を否定する言葉で自分の内面に曇りをかけているようなものなのかもしれない。
 
できることなら、本当はどうしたいのか、どうなっていきたいのか、そのためにどうしたらよさそうか、提案してみたり、考えを聞いてみたり。
 
成功事例を持ち寄って話をしてみるとか、できることは実はたくさんあるのですが、そういったことに意味はないとバッサリ切ってしまうのもまた、考えものですよね。
 
お互いの考えを聞き合いたいなと。
 

そして、皮肉なことに陰口を言った後には、一時的な高揚感のあとに自責や虚しさが残ることもあるよね。
 
 
「どうして自分はこんなことを言ってしまったのか」
 
「言ったところで何が変わるんだろう」
 
と、自分を小さく感じてしまう……
 
それは、陰口が本来、自分の理想や誇りと食い違う行為だからなんじゃないかと。

つまり、陰口は他人へのダメージ以上に、自分の心を静かに削っていく行為なんだろう。
 
 
ただ、それを感じられているうちはまだマトモな状態で、それすら感じられなくなってしまっている人も、悲しいかな、たくさんいるような気も。
 
 

陰口を言わないことは、他人のためというより自分の尊厳と信頼を守ることに他ならないと思う。
 
もしモヤモヤした気持ちがあるなら
 
「建設的に対話する」
 
「信頼できる人に相談する」
 
「感情を紙に書き出す」
 
など、別の方法で扱うことができる。
 
 
陰口を選ばない生き方は、結果として自分の心の透明さや対人関係の質を保つことにつながる。
 
 
 
「言いたいヤツには言わせておけばいい」
 
 
と思いながらも、そうやっておさめられない時もあると思うから、身近に建設的に対話ができて信頼できる人がいたとしたら、そんな人にお話聞いてもらうのが、いいかもね^^

ワオ!と言っているユーザー

自分が生きたい世界観

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自分が生きたい世界観
「自分が生きたい世界観で生きる」
 
たぶん、自分を含め多くの人は無意識にその方向に向かっているんだと思う。
 
社会の常識や他人の期待に流されず、自分の信じる価値観を軸に人生を築いていきたい。
 
 
そう思っているんじゃないかな。
 
 
それは単なる理想の追求ではなく、自分の中にある「こうありたい」という想いに、忠実に生きたいという表れなような気もする。
 
 
突き詰めて言えば、主体的に人生をデザインしていくためには、この「世界観の明確化」は「日々の選択との接続」と密接に関係しているんだろうと思う。
 
 
 
 
世界観とは、外側ではなく内側から始まっているものだと思う。
 

生きるうえでの、ものの見方や感じ方。
 
 
たとえば
 
「人の可能性を信じたい」
 
「優しさの循環をつくりたい」
 
「不条理に対して声を上げる勇気を持ちたい」
 
それらは決して「正解」ではなく、「自分にとっての真実」であり、「願い」なんだろう。
 
 
世界観は、社会に合わせることで磨かれるものではなく、自分の内側に問いを立て続けることで、研ぎ澄まされて、育まれていくものなのかもしれない。
 

いくら素敵な世界観を言語化できても、それが「日常の行動」に結びついていなければ、ただの空想にとどまってしまう。
 
 
「対話を大切にしたい」
 
という世界観を持っているなら、意見が対立したときに相手を否定せずにまず聴く、「分かりあえないこと」も含めて関係を続ける覚悟を持つ、そうした行動に落とし込むことこそが重要になる。  
 

これはもしかしたら「言語化」よりも「翻訳力」の方が近い表現な気がして、世界観と現実世界との橋渡しをしているようにも思う。
 

周りを見ると、自分の言葉と行動が一致している人は、周囲からも信頼されている。
 
それはたぶん外から見て、世界観がブレていないからだと思う。
 
そして、この信頼は人間関係だけでなく、自分自身への「自己信頼」にもつながっているんだろうと。
 
 
小さな選択を丁寧に積み重ねているからこそが、自分の世界観を現実にできているんだろう、一貫できている人を羨ましく思う。
 

長く福祉の現場にいると様々な人と出会いがあるが、その中でも「人の尊厳を守る関わりを大事にしたい」という世界観を持っている方がいる。
 
 
その方は仕事の現場で、業務的に扱われがちな瞬間にも、できる限り人としての礼儀を大切に接することを欠かさない。
 
 
その姿勢は派手ではないが、本人にとっては「世界観を生きている」確かな実感であり、その誠実さが周囲にも優しい空気を届けているように感じる。
 

「自分が生きたい世界観で生きる」ことは、派手な自己主張や夢の実現とは異なる気がする。
 
 
 
それはむしろ、日々の何気ない選択の中で、自分の大切にしたい価値観に一歩ずつ忠実であろうとする、静かで力強い生き方なのかもしれない。
 
そう在りたいと思うが、それがとても難しいんだなー(笑)
 
 
自分の思いが周囲の音にかき消されないように、まずは自分自身が自分の味方であり続けること、その積み重ねが、やがて周囲の世界と自分の世界に優しく波紋を広げていくのだと思う。
 
 
世界観を生きることは、「静かで力強い選択の積み重ね」なんだろうな。

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もしもテトリスの一本棒が、いつまでも落ちてこないとしたら

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もしもテトリスの一本棒が、いつ...
少し上向きになると、なんとなく期待がふくらみ、そしてついつい期待をふくらませ過ぎて、落ち込む。
 
 
いくつになってもそんな自分がいる(笑)
 
 
もどかしさはいつしか無くなるけど、期待していた通りの楽しい時間を作りたいという欲望は、いつしかテトリスみたいに積み上がり、どこかで一本棒が落ちてくるような別の期待が湧いている。
 
そんな自分を面白がりながら、必死に悪あがきをしている自分にちょっとした失望もして、そしてそんな自分が幼子みたいにかわいく思ったりもして。
 
そんなに可愛いくはないんだけど(笑)
 
 

期待は
 
「こうあるべき」
 
「こうあった方がいい」
 
という結果への執着を含むけど
 
 
信頼は
 
「今の自分を認め、育てていく」
 
そんな姿勢のように思う。
 
たとえば、「うまく話さなければならない」ではなく、「今できる範囲で心を込めて話そう」と自分を信じることと励ましみたいな 、そんな感覚。
 
もしかしたら、「期待」は自分に対する「信頼」の裏返しのような気もしたりして。
 
 
 
期待しすぎず、今のベストを尽くすことがまた次への成長の鍵になる、なんて言われたりしても、ついつい焦る自分もいる。
 
 
そうやって自分に対する「無意識の重圧」を押し付けてしまっている自分がいることもまた、覚知しているんだけど。
 
 
「無意識の重圧」は目には見えないけれど、日々の判断や行動に静かに影響を与えている「心の空気」のようなもののような気がしていて、時に穏やかに時に荒ぶって、なかなか自分にはコントロールが難しい。
 
そこには
 
「常に役に立たなければいけない」という思い込みや、「失敗してはいけない」という自分が身を置く環境の文化的プレッシャーを、勝手に自分が作り上げている決めつけなんかがあるんだろうね。
 
 
たぶんだけど。
 
 
特にケアや教育の現場では、自分が誰かの役に立っていないと存在価値がないように感じてしまうことがある。
 
 
思うままに動いてみたり顔色をうかがったりするから、それが過度な自己犠牲や疲弊につながったりして。
 

表には出さなくても、「ミス=能力不足」という価値観が心の内にあって、失敗を極端に恐れてしまう。
 
それこそが失敗を招いたり。
 
結果として、挑戦を避けたり、自分を責めたりしてしまう傾向があるのかな。
 
 
 
あとは
 
 
 
 「期待されている自分像」に応えようとする無意識の緊張だったり、「まだ足りない」と感じ続けるから、自己基準のハードルがどんどん上がったり。
 
 
たとえば
 
「あの人に頼めば何とかなる」
 
とか
 
「頼れる存在だよね」と言われ続けていると、それを裏切ってはいけないように感じになって、感情を抑え込むことがあったり。
 
それがさらに「もっとできるはず」と内面で自分に対するハードルを上げたりしているんだろうさ。
 
 
こうした無意識の重圧に気づくことが、「自分に期待しすぎない」ための第一歩なんだと思うけど、期待しないのもまた、いつも頑張っている自分に失礼なような気もして。
 
 
それはたぶんこれからもなかなか手放すことはできなくて、手放すというよりも、「そのプレッシャーは、どこから来ているのか?」と問い直すとか、いろんな方法を試みながら、「期待」から優しく距離を置く感覚で付き合っていくんだと思う。
 
 
いつかテトリスの一本棒みたいなものが落ちてきますように。
 
そんな感覚は、たぶんこれからも無くなることは無いかもしれないけど(笑)
 
 
自分への「期待」との付き合い方。
 
 
優しくしてるんだか、辛くしてるんだか、ちょっとよくわからないけどね(笑)

ワオ!と言っているユーザー

「あなたのことが嫌い」と言われたことはありますか

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「あなたのことが嫌い」と言われ...
「ごめん、正直に言うと……あなたのこと嫌い」  
 
 
 
不意に投げ込まれたその言葉に、時間が止まった気がした。  
 

何かを間違えたのか。
 
何かを傷つけたのか。  
 

頭の中は真っ白で、言い返すこともできなかった。  
 
 
 
ただ、ただ、何かが崩れるような音がした。
 
 

それまで「うまくやっている」と思っていた。  
 

空気も読んでいたし、相手に嫌な思いをさせないように気を配っていた。  
 

なのに~♪
 
な~ぜ~♪
 
 
そんなメロディーがぐるぐると頭を巡って、 自分の存在価値まで揺らぐような気がしていた。  
 
 
「ボクの何がいけなかったの?」  
 

その問いが、しばらく心に根を張っていた。
 

数日経っても、モヤモヤは消えなかった。  
 

でも、ふと思った。  
 
 
「誰かが自分をどう感じるかは、100%自分の責任とはいえないよな」 
 
 
もしかしたらその人の「苦手」は私の全否定ではなく、「その人のレンズ」を通して見た結果だけだったのかもしれない。  
 
 
そう思ったら、少しだけ呼吸が楽になった。
 
 
「嫌われた自分を直す」ことも大事かもしれないが、自分をそのままに理解してみることも大切なんじゃないかなとも思った。
 

それから私は、自分に問い直してみた。
 
それはもう何度も何度も(笑)
 
いやってほどに。
 
 
 

私はどんなときに自然体でいられる?  
 

どんな人といるとき、安心できる?  
 

「好かれるための努力」ではなく、  
「本来の自分を大切にすること」
 
に意識を向けてみることにした。  
 
 
 
すると、少しずつ変化があった。
 
 
同じように繊細なところを持った人とつながるようになり、「なんだか安心するー(笑)」みたいなことを言われる機会が増えた。  
 
 
 
たしかに、あの一言は痛かった。
 
でも、それは「本音と本音で付き合える関係を選ぶ」きっかけになったんだと思う。
 
 
 
 
嫌われることは、すべてが終わることではない。

誰かに「嫌い」と言われることは、たしかに苦しい。  
 

でもそれは、「自分の全てが否定された」わけではない。  
 
 
 
むしろその一言をきっかけに
 
 
自分にとって大切な人や、自分らしい在り方がくっきりと見えてきたと、今なら思える。  
 
 
 
嫌われたことを痛みで終わらせず、気づきに変えていけたとしたら、たぶん人は、さらに一段、やさしく強くなれるのだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

「自己肯定感」に振り回されない

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「自己肯定感」に振り回されない
自己肯定感が高いか低いかに一喜一憂する。
 
 
自分には価値がない。
 
どうせ自分なんか。
 
 
そんなことを考える必要ってあります?
 
 
「自己肯定感」って言葉に振り回され過ぎじゃないですか??
 
 
そんなことを思い続けるよりも、まずは目の前の小さな行動を積み重ねることのほうが、自分とも相手とも、もっと信頼を築く土台を作ることに時間を割いたらいいんじゃないかと、私は思っています。
 
 
「自己肯定」という概念自体
 
「感じるもの」とか
 
「持つべきもの」とか
 
 
そんな感じで扱われがちなような気がしてならないのですが、それを手に入れようと意識し過ぎることで、かえって自分を見失ってしまう危険があるんじゃなかろうかと。
 
 
 
特に、なんだか現代社会は
 
「ありのままの自分を肯定しよう」とか
 
「自信を持とう」とか
 
そんなメッセージに溢れている気がします。
 
いつも
 
「煽るんじゃねー」って思ってます(笑)
 
 
それが逆に
 
「今の自分では不十分だよね」みたいな焦りを呼び起こしているんじゃないかと。
 
 
そんなときにボディーブローのように効いてくるのが、「今できることを、丁寧に積み重ねる」という姿勢を貫いている方々の姿。
 
 
 
多くの皆さんがそうであると思いますが、ある時期の私は、自分に自信が持てず、「このままでいいのか」と悩みながらいつも仕事に向かっていました。
 
 
自己啓発本を読んだり、ポジティブ思考を心がけても、その場しのぎのような感覚ばかり。
 
 
そんななかでいつも自分を見つめ直すきっかけをくれたのが、淡々と仕事をこなし、目の前の人の話にしっかりと耳を傾けている方々でした。
 
 
 
決して華やかでもなく、効率的でもないようにも思えていましたが、相手の方の表情が全てを物語っているような気がして、「自分とも相手ともしっかり向き合っている」という感覚が、じわじわと湧いてきてきました。
 
 
褒められることがなくても、評価されなくても、積み重ねた時間が「自分は信じられる存在になれる」ということを、教えていただいたよう気がしました。
 
 
振り返れば、それこそが最も安定した形の「自己肯定」なんじゃないかと。
 
 
 
このように考えると、「粛々とやること」は、表面的な自信や承認欲求とは異なる、もっと深くて静かな自己受容に繋がっていくもののような気がしています。
 
 
それは
 
「自己肯定を得る手段」
 
としてではなく
 
「人生の姿勢として選ぶ価値のある道」なんじゃないかと。
 
 
そう考えると
 
「自己肯定がぐらつくときほど、目の前のことを粛々とやり続ける」
 
ことが、自分を肯定することにもつながっていくと思うのです。
 
 
 
「粛々とやる」ことは、ただの作業では終わらないのだと思います。
 
 
そこに自分なりの意図や背景の意味づけを加えられることで、行動そのものが自分との対話になっていくのでしょう。
 
 
自分ではちっぽけなこととしか思えないことでもいいと思うんです。
 
 
そして自分にとって大切なことのような気がしているので、続けられていることがあるんだと思います。
 
 
誰かに笑われているような気がしても、気になさらないでください。
 
 
粛々と積むことのなかに、「今の私はこれでいい」という確かな肯定が芽吹いていて、積まれた経験がしっかりと力強く自分の財産になっているんだと、私はそんな気がしています。

ワオ!と言っているユーザー

世界が変わる言葉「ありがとう」

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世界が変わる言葉「ありがとう」
「すみません」
 
気づけば、そればかり言っていた。  
 
 
何かを手渡されたとき

ドアを開けてもらったとき
 
道を譲ってもらったとき
 
名前を呼ばれたとき。
 

何かしてもらうたびに、反射的に
 
「すみません」
 
と口に出していた。  
 
 
それが礼儀だと思っていた。
 
相手に迷惑をかけていないことを示すためでもあったのかもしれない。  
 
誰に謝ってんの?
 
 
何か悪いことでもしたん?
 

「謝ることで、せっかくいただいた好意を蔑ろにしてたのでは?」  
 
 
そんな風に思うようになった。
 
 

「すみません」は、謙虚な言葉だと思う。
 
 
でも、知らず知らずに使い続けているうちに、徐々にどこか遠慮の空気をふくらませてしまっていたような感じもする。  
 
 
 
相手の好意に対して、何となくの申し訳なさを伝えていたんだね。  
 
 
 
 
もっと感謝の気持ちをまっすぐに届けたほうが、相手との関係も変わるのでは?  
 
そんな思いが心の中にないわけではなかった。  
 
 
 
いつもなら「すみません」と言う場面で、口から出たのが「ありがとう」だった。  
 
「ありがとう!」  
 
すると、相手の表情が明るくなった。  

「どういたしまして!」と返ってきたその声は、予想以上に柔らかく、温かかった。  
 
  
「謝るより、感謝を伝えたほうが、人とのつながりが深まるんだ」  
 
そんな感じがした。
 
 

それからは、「すみません」の代わりに「ありがとう」を意識して使うようになった。  

✅ 相手の好意には、遠慮ではなくまっすぐな感謝で返す。
出かかった「すみません」を即座に「ありがとう」に変換する。

✅ 小さな場面でも「ありがとう」を伝えることで、関係に温度が生まれる。
まずは「ありがとう」を伝える意識を持つ。 

✅ 感謝の言葉を受け取った相手も、気持ちが明るくなる。
相手からの「ありがとう」を素直に受け取る。  
 
 
すると、いつもは少し緊張感が生まれる相手との、日常の何気ない会話が少し変わっていった。
 
 
 
「ありがとう」と言うだけで、場の空気がほどけ、対話の流れが変わるんだ。  
 
それだけで、関係がより深く、心地よいものになっていくのを実感した。  
 
 
 

「すみません」ではなく「ありがとう」。  

それだけで、世界の見え方が変わる。  
 
もし今、謝ることが癖になっている人がいるなら、試しにひと言「ありがとう」に変えてみてほしい。  

そのたったひと言が、誰かとの関係をほんの少し、優しくしてくれるはず。
 
「ありがとう」を言える自分に優しくなれる。
 
そして「ありがとう」を伝えてくれる相手にも優しくなれる。
 
「すみません」を「ありがとう」に変えて、自分の世界を変えてみよう^^
 

ワオ!と言っているユーザー

人と比べず自分の人生をめちゃくちゃ楽しむ•*¨*•.¸¸♬︎

スレッド
人と比べず自分の人生をめちゃく...
人と比べず自分の人生を「めちゃくちゃ」楽しむ。
 
 
 
楽しむ?
 
楽しめてる?
 
それも「めちゃくちゃ」?
 
いやームリムリムリムリ(笑)
 
 
 
この年代の人に比べたら
 
あの人と比べたら
 
って
 
いつから他人と比べるようになった?
 
誰と比べるようになった?
 
 
 
人生「めちゃくちゃ」楽しんでる自分ってどんなん?
 
 
 
思い出せんくなったなー、オレ。
 
 
 
でも 
 
「めちゃくちゃ」楽しむって、どんなことなんだろう?
 
 
今は楽しくないのかぃ?オレ
 
 
いやいや、だいぶ楽シーサー(笑)
 
 
みんなと一緒に、いろんなことが形になってきているしね。
 
 
たぶんソレは
 
 
ひとりじゃないから、なんだと思う。
 
 
 
支えてくれる人がいるから、誰かを支えたいと思う自分がいる。
 
 
誰かの力になれる自分がいたとしたら、それは自分の人生が「めちゃくちゃ」楽しいものになるような気がする。
 
 
誰かに喜んでもらえたら、自分の人生は「めちゃくちゃ」楽しいんだと思う。
 
 
だから、ひとりだけじゃモノ足りないんだと思う。
 
 
こうやってblogを続けているのも、誰かと触れ合っているような感じがするから、楽しんで続けられているんだと思う。
 
 
「めちゃくちゃ」派手じゃなくても、「めちゃくちゃ」贅沢じゃなくても、それでも「めちゃくちゃ」楽しい気持ちになれる時間があるのは、やっぱりひとりじゃないからなんだと思う。
 
 
ついつい誰かと比べたくなる時ばかりかもしれない。
 
 
比べて落ち込むのはしょうがない。
 
 
比べたっていいじゃんか。
 
 
 
そしてトコトン落ち込んで落ち込んで落ち込んで、そして次に誰かが一緒にいてくれる時間は絶対に粗末にせずに、「めちゃくちゃ」楽しもうと無理やりにでも楽しもう。
 
 
それすらもわかってくれる誰かが、間違いなくそばにいるはず^^
 
そしてボクも応援してる!(笑)

ワオ!と言っているユーザー

うまくいっていないことを言葉で伝える勇気を持つ

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うまくいっていないことを言葉で...
「全然だめ……」
 
 
物事がうまくいっていないと感じたとき、それを言葉にして伝えるのは決して簡単なことではありませんよね。
 
たぶん周りも同じような気持ちだと感じていたとしても、それを言葉にしてしまうことで、もっと状況が悪化してしまいそう……そう躊躇しまったことが、今まで何度あったことか。
 
 
しかし、率直に伝えることで、問題を整理し、周囲の理解を得ることができる場合もありますよね。
 
きっとそんな経験も少なからずお持ちではないでしょうか^^
 
 
言葉にする勇気こそが、状況を好転させる第一歩となるのかもしれませんね。  
 

言葉にしてみることで、状況が共有され解決の糸口が見えることもあります。
 
  
 自分の中だけで抱え込んでいると、問題がますます重くのしかかります。
 
しかし、言葉にして伝えることで、他者の視点や助けを得ることができ、解決策が生まれやすくなることも頭ではわかっているんですけどね。
 
 
そんなウツウツとした時間もまた、 自己認識を深め冷静に対処できる方法を考えてきた時間と言えなくもありません。
 

 「うまくいっていない」と認め、それを言葉にすることで、自分の気持ちを整理できます。
 
曖昧な不安が具体的な問題点に変わり、どう対処するべきかを冷静に考えられるようなったりもしませんか?  
 
また
 
言葉にしたからこそ信頼関係を築くきっかけができたこともあったのでは。
 
  
 弱さや課題を伝えることは、決して恥ずかしいことではなく、誠実なコミュニケーションの証です。
 
勇気を持って話すことで、周囲との信頼関係が深まり、今後の協力がしやすくなることも、本当はわかっているんですけどね。  
 
  
 
 
仕事で困難に直面しているとき、「うまく進められない」と正直に伝えることで、チームメンバーがサポートしてくれたら嬉しいですよね。
 
一人で悩むより、助けを求めた方がより良い結果につながることがあります!  
 
また、個人的な悩みについても、「今の状況がつらい」と言葉にすることで、家族や友人が励ましてくれたり、新たな解決策を考えてくれたりすることがあります。
 
伝えることで、孤独を感じることなく、心の負担を軽くすることができたとしたら、なんて素晴らしいことでしょう。  
 
 
  
うまくいっていないことを言葉で伝える勇気があると、状況を共有し、自己認識を深め、信頼関係を築くことができます。
 
言葉にすることは解決への第一歩であり、未来をより良い方向に導く力を持っています。
 
どんな小さなことでも、一歩踏み出して伝えてみて、新たな可能性を開きましょう^^  

ワオ!と言っているユーザー

好きなものを好きと言った瞬間、流れが変わる

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好きなものを好きと言った瞬間、...
「自分の好きなことを言うのが、少し怖い。」  
 
「好き」という言葉を使うことに抵抗があったのかもしれない。

そんな気持ちを抱えていた。  
 
 
 
周りが流行を追う中、自分の夢中になっているものは、いつもなんだか違っていた。
 
 
「これが好き」
 
と言ったら、  

「そんなの興味ないよ」
 
と流されるかもしれない。  
 

「好きだね~」と笑われるかもしれない。  
 
だから、いつの間にか、自分の好きなものを表に出さない習慣ができていたような気がしている。  
 
 
他の人に笑われるという勝手な思い込み。
 
自分の中の「思考のクセ」が影響していたようにも思う。
 
「好きなものを話しても、理解されるかわからない」  

「共感が得られなかったら、自分だけ浮いてしまうかもしれない」  

そんな思いが、知らず知らずのうちに「対話へのブレーキ」になっていたんだろう。  
 
でも、本当にそうなのか?  
 
好きなことを夢中になって話すことのできる人を、羨ましく思っていたようなところもある。

「自分が好きなものを発信することは、場にエネルギーを生むのでは?」
 
その思いも、心の奥にはあった。  
 
 

雑談していた時のこと。
 
「好きなことは何?」
 
と聞かれた。  
 

ためらいながらも、思い切って答えてみた。  
 
「実は、これがすごく好きなんだ。」  
 
すると、相手の表情が変わった。  
 
 

「そんなの知らなかった。でも、なんか面白そうだね!」  
 
 
 
なんだかエネルギーの循環が生まれた感覚だった。  

否定されるのではなく、興味を持たれた。  
 
 
なんだかとても嬉しかった。
 

それだけで、場の空気がほどけ、対話の流れが変わったのを感じた。  
 
「好きなものを言葉にすることで、場が動き始めるんだ」  
 
そんなことを思った。
 
 
  
それからは、好きなことを好きと言ってみることを意識した。
 
しかし本当はまだまだ恥ずかしい(笑)
 
✅ 流行や評価に関係なく、自分の感覚を信じる
 
✅ 「こんなの好きだと言っても…」ではなく、「好きだから伝えよう!」

✅ 好きなものを話すことで、共感や対話のきっかけをつくる
 
 
すると、不思議なことに、たくさんのご縁が。
 
 
好きなものを言葉にするほど、それに興味を持つ人が現れ、新しいつながりが生まれていった。  
 
相手とエネルギーが一致したような感覚。
 

「好き」と言っただけで、場の流れが変わるんだ。  

それが、自分の中で確かな変化だった。  
 
 
 
  
好きなものを好きと言うことは、ただの自己表現ではない。  

それは
 
「場にエネルギーを生む選択」
 
であり
 
「場のエネルギーを高める合言葉」  
 
のような気がしてならない。
 
 
 
もし今、好きなことを言葉にするのをためらっているなら、まずは小さくでもいい。
 
「これ、好きなんだ」と伝えてみてほしい。  
 

そこから、新しいご縁が生まれるはずだから^^  

ワオ!と言っているユーザー

それは自分のフィルター?それとも自分の中の他人のフィルター?

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それは自分のフィルター?それと...
「なんだか最近、うまくいかない。」  
 
いや、なんだかずっとそんな感覚が続いていた。  
 
 
 
意見を交わしても、話がすれ違うことが増えた。  
良い案だと思っていても、どこか行き詰まる感じがあった。  
 

「自分は間違っていないはずなのに、なぜうまくいかないのだろう?」  
 

そんな思いが、心に重くのしかかる。  
 

いつの間にか「自分の視点だけで世界を見ていた」のかもしれない。
 
 
過去の経験、知識、価値観——それらがフィルターとなり
 
「こういうものだろう」
 
と決めつける癖がついていた。  
 
 
 
とはいえ
 
それだけだろうか。
 
 
これは本当に自分が見ている景色なのか。
 
自分にはない景色も、自分に取り込んではいないだろうか。
 
 
見える景色の色は?
 
それも自分のものなんだろうか。
 
 
 
いずれにしても、そのフィルターのせいで、新しい可能性を閉じていたんだろう。
 

そんな風に思った時、自分が見たい景色がどんなものか、わからなくなっていた。  
 
 
 
友人がふとした会話の中で言った。  

「それ、ちょっと視点変えたら面白いかもしれないよ。」  
 
 え?

「違う視点?でも、これはこういうものでは?」  
 
「なんじゃそりゃ」
 
そう思いながらも、試しに考え方を変えてみた。  
 

いつの間にか、知らず知らずのうちに、自分のフィルターなのか他人のフィルターなのか、それすらもわからず、考えもせずに存在していたようだ。  
 
「フィルターを外すことは難しいかもしれないけど、どんなフィルターで見ているのか、それを少し感じるだけでも、違う気がする」

その実感が、思考の転換点になった。  
 
 

それからは、意識的に自分のフィルターを外すことを試した。  

✅ 「これはこういうものだ」と決めつけず、一度『かもしれない』と柔軟に考える

✅ 違う意見が出たとき、まず否定するのではなく「その視点ではどう見えているのか?」と尋ねる
 
✅ 過去の経験だけで判断せず、「もし今ゼロから考えたら?」と問い直してみる 
 
それすらも、もしかしたら自分だけのフィルターではないのかもしれない。
 
自分の中にある他人のフィルターを通しているのかもしれない。
 
 
ただ
 
 
この習慣を続けるうちに、驚くほどアイデアの幅が広がり、何より、人との対話が楽しくなった。  
 

「こうかもしれない」
 
「ああいう見方もある」  

その余白があることで、会話にも新しい発見が生まれていった。  
 
 

世界を狭めているのは、環境ではなく、自分の思い込みかもしれない。  

だからこそ、一度フィルターを外してみるだけで、可能性が広がる。
 
 
フィルターを外しているようで、外れているかはわからない。
 
 
チャレンジしてみたようで、結局はいつも同じような服しか着ていない自分が、はたしてどこまでそれを実践できているかは、よくわからないが(笑)
それでもそれをやる価値は大きいと思う。 
 
 
 
もし今、考えが行き詰まっているなら
  
まずは「これは本当にそうなのか?」と問い直してみてほしい。  
 
「これは本当のボクの思いなのか」
 
「これは〇〇さんの思いに寄っているような気がする」
 
そして感じてほしい。
 
「ボクの思いのようだ」
 
「〇〇さんのフィルターがはいってるな(笑)」
 
 
そんな風に気軽でいいと思う。
 

そこから、また今と違う新しい世界が見えてくるはずだ^^ 

ワオ!と言っているユーザー

撒いた種は、たまには無理にでも花を咲かせにいこう~頑張りは自分で回収しにいこう~

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撒いた種は、たまには無理にでも...
「自分には何の取り柄もない」
 

「いつも叱られてばかりで価値のない自分」
 
 
 
 
 

何かに取り組んでも、うまく進まない。  
 
挑戦しても反応がない。
 

努力したつもりが全て空回り。
 

 
 
「自分のやっていることに意味はあるのか?」  
 
そう思う瞬間が増え、焦りばかりが募っていく。
 
 
 
 
 

 
 

周りを見ると、順調に成果を上げる人ばかりが目にはいる。
 

誰かの活躍ばかりが耳に届く。
 
 
その姿を見ては、自分の歩みがあまりにも遅く、もう進むことができなくなるんじゃないかと、そんなことを感じてしまうことばかりだった。  
 
 
 

  
「このまま続けても、本当に何か変わるのだろうか?」  
 
 
 
 
 
積み上げても、それが実を結ぶ保証なんてない。  
 
途中で投げ出したくなることもあった。  
 

たぶん
 

結果を早く求めるあまり「育てる時間」を信じることができていなかったんだと思う。
 
 
 
その焦りが、自分自身を追い詰めていたんだろうさ。  
 
 
毎年メモ帳を更新していたこともあって、昔のメモ帳を見返した。  
 
そこには面白いくらい、かつて苦しんだ日々の記録があり
 
 
 
「どうしたらよいものか」
 
 
 

そんな言葉がたくさん書かれていた。  
 
 
 

ただ、そのノートを眺めるうちに気づいたことがあった。  
 
 
 
「あのときの努力が、今の自分を支えている」
 
 
 

その小さな継続もまた、自分の「実力」
 

派手でなくてもいい。  
 

大きくなくても、強い影響なんてなくてもいい。
 
 
 

すぐには報われなくても、積み重ねたものは確かに形になっている。
 
 
「自分の頑張りが回収できる日」
 

は、その瞬間に訪れるのではなく、静かに育ち続けていたんだと、今はそう思う。
 

  
それからは、焦らず育てることを意識した。  
 
✅ 「結果をすぐに求める」ではなく、「育てる時間を信じる」
 
✅ 「今の努力が何になるかわからない」ではなく、「何かの形になるまで待つ」
 
✅ 「急ぐ」のではなく、「積み重ねることを楽しむ」
 
 
 
 

簡単なことではないが、そうやっているうちにたくさんの仲間ができ、ひとりでは経験できないことが、たくさんやってきた。
 

嫌々やっていたことが、不思議と気持ちが軽くなり、徐々に目の前のことに集中できるようになった。
 
 
 
急がず、焦らず、ただ続ける。  
 
 
 
その時間が、未来にちゃんとつながることを確信したのかもしれない。  
 
 
 

よくわかっているようでわかっていないのが
 

努力は、すぐに結果を出すものではない。  
 
 
 
 
 
それは、
 

「静かに積み重ね、やがて育つもの」
 

なんだろう。
 
 
 

今、すぐに報われなくても、その時間は確かに未来へとつながっている。  
 
 
 
だからこそ、焦らず、急がず、ただ信じて積み上げていってほしい。  
 

いつか回収できる日が必ず来る。  
 
 
 
その日を迎えるために、今の歩みを大切にしていこう。
 
 
 
ひとりじゃないよ。
 

一緒に歩もう^^
 

ワオ!と言っているユーザー

小さなことでも大切にしているひとつのことを貫き通す

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小さなことでも大切にしているひ...
人が何かを貫き通すことには大きな意味があると思っています。
 
 
それがどんなに小さなことであっても、自分の信念や価値観を守ることは、自己の確立や、相手との信頼の構築につながっていくことを実感しています。
 
 
そして、その積み重ねがやがて人生に大きな変化を生み出してくれているのを、今確信しています^^
 
 
 
自分の考えや信念を貫き通すことは、「自分はこれを大切にしている」という認識を強め、自分自身を肯定する気持ちを高めてくれます。
 
小さな行動の積み重ねが「私は自分自身を信じることができる」という確信へとつながっていくんでしょうね。
 
 
  
また、自分の価値観に忠実であることは、他者に対しても誠実な姿勢を示すことにつながっているような気がします。
 
その人らしい一貫した行動を取ることで、「この人は信頼できる」と感じてもらえることにつながり、一緒に取り組む機会も増えていきます。
 
結果として、人間関係の質が向上し、チームやコミュニティの中でより良い役割を果たせるようになっていくような気もしています。
 
 
さらに一貫して行動することは、習慣の確立につながります。
 
そして、習慣が継続されることで、それがやがて大きな成果を生むことになります。
 
 
 
たとえば
 
毎日少しでも学ぶ習慣を持つことで、長い時間をかけて専門的なスキルを身につけることができます。
 

絵を描くのが好きな人がいたとして、「毎日必ず10分間は絵を描く」と決めたとします。
最初は小さなことでも、それを続けることで技術が向上し、表現の幅が広がっていきます。
周囲からも「絵を描くことに信念のある人」と認識され、やがて仕事の機会が増えたり、尊敬を集めることにつながるかもしれません。
 
また、仕事においても、たとえば「顧客第一の精神を貫く」という信念を持つ経営者のもとでは、その姿勢が企業の信頼につながり、長期的に顧客の信頼を得ることができると私は感じています。
 
一貫した価値観の実践は、個人のみならず組織においても非常に重要な要素になりますね。
 
 

どんなに小さなことでも、大切なことを貫き通すことは、自己肯定感の向上、信頼関係の構築、そして長期的に理想の実現につながります。
 
たとえそれが些細な行動であっても、積み重ねることで大きな影響をもたらしてくれます。
 
 
 
何かを貫くことの大切さを忘れずに、日々の行動に落とし込んでいきたいですね^^!

ワオ!と言っているユーザー

過去の苦しみに意味を持たせる

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過去の苦しみに意味を持たせる
「もう限界かもしれない」  

そう思ったことが、何度もあった。  
 
 
 
必死に頑張ったのに報われたような結果も、感覚すらも感じられない日々。  

どれだけ努力しても、思うような結果を作ることのできなかった時間。  
 
虚しい。
 

気づけば、自分の心がすり減っていくのがわかった。  
 
 
「いったい何のためにこんなに苦しんでいるんだろう?」  
 
「自分て、何したかったんだっけ」
 

その思いが、何度も頭をよぎった。  
 
  
苦しんだのに、それが何にもならないような気がしていた。  
 
 
どこに向かっているのかさえ、わからなくなりかけていた。
 

「この経験に意味はあるのか?」  

「ただ傷ついただけじゃないのか?」  

そんな思いが、過去を振り返るたびに押し寄せてくる。  
 
 
でも、立ち止まって考えた時、感じていることもあった。  
 
 

(この痛みを知っているからこそ、誰かの痛みをわかってあげられるのでは?)
 
 
 
悩んでいる後輩の話を聞いたことがあった。  
 

その内容は、かつての自分の苦しみとそのまま重なった。  
 
 
「この気持ち、すごくわかるよ。」
 
「ボクもそうだった」 
 

そう言った瞬間、相手の表情がほっと和らいだのと同時に、ボクの心も和らいだ。  
 
そのとき、思ったことが

(過去のすり減った時間は無駄じゃなかった)
  
(それは誰かの気持ちを理解できる力になっていたのかも)
 
 

それからは、過去の経験を違う視点で考えてみた。  

✅ 「無駄な苦しみ」ではなく、「誰かの背中を押す知恵」として活かすことにつなげていこう 

✅ 自分が乗り越えた方法を、言葉として整理して、誰かの力に変えられるようにしよう
(伝えることで、自分自身の意味付けが変わる気がした)  

✅ 「苦しんだ分だけ、深く人を理解できる」ということを強みにして受け入れる
 
すると、これまでただのポンコツだった自分が
 
「誰かのために役立つ経験」の持ち主へと変わり始めた感じがした。 
 
 
  
心をすり減らした経験は、決して無意味ではない。  

それは
 
「誰かの気持ちを本当に理解できる力」になっている。  
 
 
もし今、過去の苦しみが思い出されるなら、その経験が誰かを救う日がくることを、少しだけ信じてみてほしい。
 
 
自分の歩んだ時間は、自分の未来だけではなく、確かに誰かの未来にもつながっていることを、多くの人に実感してほしい。  

ワオ!と言っているユーザー

言葉の選び方が未来を広げる

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言葉の選び方が未来を広げる
「無理かも」
 
「できそうにない」  

考える前からそう思うことが増えていたような。  
 
 
 
話題が出るたびに、「今の自分には難しい」と感じてしまう。  
 
 
たぶんそう考えるのが楽だったんだろうさ。
 

結果、やる前から一歩引いてしまい、挑戦の機会が減っていった。  
 
 
 
周囲が次々と成長していくのを見ながら、自分だけ立ち止まり続けているような気がしていた。  
 
 
 
 
「できない」と言うことで、自分を守っていた。  

無理に背伸びして失敗するくらいなら、最初から慎重でいたほうがいい。  

そう思い込むほど、どんどんどんどん可能性が閉じていっているのを、肌で感じていた。  
 
 
とはいえ、うっすらと
  
(本当にできないの?)
 
と自分に問いかけている自分がいることも、自分ではわかっていた。
 
それを遠くへ追いやっていたのもまた、自分なんだ。
 
 
 
試す前から決めつけることで、自分が進む道を狭めていたのではないか?  

その疑問が、ずっと頭から離れなかった。  
 
 
とあるタイミングがやってきた。
 
 
苦手だと思っていたことを担当する機会が巡ってきた。  
 

「できません」と言おうとしたが、どうしたわけかその時は少しだけ考えた。  
 
 
 
もし、「やります」と言ってしまったら?  
 
 
 
その瞬間、不思議と選択肢が増えた気がした。  

断ることで終わるのではなく
 
(挑戦することで新しい方法を探せるのでは?  )
 
結局、「やってみます」と答えた。
 
あれ?どうしたんだろう。
 
その後はひたすらに目指すゴールをイメージして、工夫しながら準備を進めた。  
 

結果は、予想以上にうまくいった。  
 
その瞬間、少しだけ気持ちが切り替わる感覚がした。  
 

「できない」
 
と言わなかったことで、できるを育てる機会が生まれたような。
 
 

それからは、「できない」と言う前に、別の言葉を選ぶようにした。  

✅ 「どうすればできるか?」と、方法を探す癖をつける  

✅ 「今はできないかもしれないが、工夫次第で可能性がある」と考える  

✅ 「試してみます」と言い、少しでも行動に移す  
 
その小さな変化が、挑戦の幅を広げていった。  
 
 
それだけは間違いない。
 

そしてもうひとつ気づいたことが
 
人は、できることではなく、挑戦したことによって成長する、ということ。
 
 
  
「できない」と言わないことは、無理をすることではない。  

それは、「可能性を閉じない」という選択なんだと思う。  
 
試す前に「無理」と決めるのではなく、『どうすればできるか?』と考えてみる。  

すると、できる世界が広がるはずなんだ。  
 
もし今、「難しい」と感じていることがあるなら、その言葉の代わりに
 
「まずは」
「少しだけ」
「やってみよう」
 
と一度だけ言い換えてみてほしい。  
 

そこから、新しい何かが生まれるから。  

ワオ!と言っているユーザー

収入額で閉ざす未来よりも選択で切り拓く未来を

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収入額で閉ざす未来よりも選択で...
「未来は、収入額のみで決まるわけではなく“選び続ける力”で切り拓く」
 
 
常にそんな気持ちで今日も生きる、底辺福祉職サラリーマンのボク(笑)
 
 

「もっと稼げるようになったら、理想の暮らしができる!」  

仕事に熱意を持って取り組んでいたあの頃のボクは、そう思いながら日々働いていた。  
 
 

でも、手取りは決して多くなく、思い描く生活にはほど遠い。  

「いまの収入では、理想には届かないのか?」  
 

そんな気持ちが、どこかで重くのしかかっていた。  
 
 
そして今も重々しくのしかかっているのよね(笑)
 
 
  
収入が増えない現状のままで、「どう理想に近づいていったらいいのか」がわからなかった。  
 

「もっと稼げたら」
 
「お金さえあれば」
 
そう考えては、行動を止めてしまう。  

でも、ただ待っているだけでは何も変わらない。  
 
 
そんなジレンマを何年も何年も抱えていた。
 
 

そんな中でも、ボクの内側にある小さな火種が
 
「手元の限られた選択肢の中で未来へ進む方法は、はたして本当にないのか?」

心の中で問いかける。  
 
 

漠然とした自分とは違う、キャリアを真剣に考えながら生きてきた先輩から言われた言葉が胸で波打つ。  
 
 
 

「大事なのは額じゃなくて、その使い方(守り方)と積み重ね方だよ」
 
 
 
あの頃は、その言葉を聞いてもイマイチ理解できない自分がいた。
 
 
それが今なら
 
たしかに収入が少なくても「今の選択」を理想に寄せていくことはできるのではないか?  
 

そして、「選び続けることで、未来は自然と形になっていく」のではないか?
 
 
そう思えるようになってきた。  
 
 

それからは、お金と暮らしの使い方を見直した。  
 
 

✅ 「収入が増えたら始める」ではなく、「今できる範囲で未来に近づく選択」をする  

✅ 小さな積み重ねを数字で見える化し、「成長を実感できる仕組み」をつくる  

✅ 貯めるだけでなく、「未来のために必要な投資」として使う場面を意識する  
 
 
そうすることで、少しずつ「収入に縛られない未来設計」が見えてくるようになった。  
 
 
とはいえ、未だに朧気に(笑)
 

手元の額に関係なく、選択は「理想の方向へ進むことのできる力」になる。  
 
できない、ではなく「できるように」進んでいくこと。
  
未来は、稼ぐ額も間違いなく大事であるうえで、「どう積み上げるか」によって形になるような気がする。
 

収入を待つのではなく、今できる選択を積み重ねることで、未来が動き出すのをリアルに感じることができる。  
 

お金を理由に動けないのではなく、今の一歩が未来を決めるんだ。  
 

その視点を持った瞬間から、理想の暮らしはすでに始まっていると思ってもいいと思う。
 
今できることは確かにある。 
 
選択で未来を切り拓こう。

ワオ!と言っているユーザー

疑わず素直に受け止めてみる

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疑わず素直に受け止めてみる
ただ受け止めてみるだけ。
 
そうしたら世界が変わった。
 
 

「本当にそうなの?」  

そう思わずにはいられなかった。  
 
誰かが話すたびに
 
 
「それは正しいのか?」
 
「根拠はあるのか?」
  

慎重に物事を見極めるのは大事だ。  
でも、そのせいで誰かの言葉を素直に受け取ることができていなかったんだと思う。  
 
 
 
気づけば、なんだか自分の世界は「検証」ばかりで埋まっていた。  
 
 
 
  
「納得できないと、受け入れられない」  

それが習慣になっていたのかも。  
 
 
誰かの助言も、好意も、まず疑う。  

「信じて傷つくより、最初から距離を置くほうが安全だ」
 
と無意識に思っていた。  
 
 
でも、あるとき感じた。
 

確かに傷つくことは少ないかもしれない。  

でも、心が動く瞬間も、誰かの想いに触れる機会も、自分から閉ざしていたのではないか?  
 
 

とある友人が、ふとこう言った。  

「君と話してると、ジャッジされてる気分になるんだよね」  
 
その瞬間、時間が止まるような感覚になった。
 
 
自分が「考える力」だと思っていたものが、「誰かの言葉を受け止める力を奪っていたんではないか」と。
 
誰かのお心遣いを粗末にしていたんじゃないかと。
 
  
 
その日、自分にひとつ決めたことがある。  
 

「疑う前に、一度まっすぐ受け止めてみる」 
 

次の会話の機会で、試してみた。  
 
 
誰かが話すとき
 
「それはどうなんだろう?」
 
ではなく
 
「この人は今、こう思っているんだ」と捉える。  
 
 
 
すると、不思議なことが起きた。
 
 
頭の中で「判断する声」が静まり、相手の表情や言葉のニュアンスが見えてくる。  
 

ただ聞くことで、初めてわかることがあるのだと知った感じがした。  
 
そうやって、受け止めることに意識を向ける日々が続くうちに、気づいた変化がある。  
 

対話が深まる。  

関係がほどける。  
 
「考える」よりも、「感じる」ことが増える。  
 
 
疑わずに受け止めることは、思考を止めることではなく、相手を信じることで、自分の世界を広げることだったんだ。
 
 

何も疑わずに受け止めることは、無防備になることではないんだ。  

それは、まず「今ここにある言葉や感情を、ちゃんと受け取る」という選択なんだと思う。  
 
もし、すべてを見極めようとしているなら
 
その前に、「ただ、聞いてみる」という方法を試してみてほしい。  
 
信じてみたことでしか生まれないものが、たしかにあるんだ。  

ワオ!と言っているユーザー

Ⅱ.嫌われてもまぁいっか 伝えることで生まれる誤解より伝えないで生まれる距離の深刻さ

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Ⅱ.嫌われてもまぁいっか 伝え...
もしも
 
「伝えないことで失うもの、伝えることで得るもの」
 
があるとしたら。
 
 
 
  
「まあ、このくらいなら言わなくてもいいか」  

そう思うことが増えていた。  
 
 
違和感を覚えても、空気を壊したくなくて黙る。  
 
必要最低限さえも言わない。
 

誰かに言いたいことがあっても、角が立つのが嫌で流してしまう。  
 

気づけば、心の中に「伝えそびれた言葉」がどんどん溜まっていく。  
 

それは、いつか消えると思っていた。  
 
でも、消えなかった。  
 
消えたものもあるけど、消えずにふくらむものもたくさんあった。
 

そして
 
言わなかったことが積もるほど、自分が自分でなくなっていくような気がした。  
 

「言うべきか、言わざるべきか」  

その選択のたびに迷い、言えなかった自分にモヤモヤする。  
 
人間関係を守るために沈黙したはずが、その沈黙が逆に距離を生んでいるのではないか?  

そんな疑問が心の隅にわだかまる。  
 
 
でも、正直に言ったら嫌われるかもしれない。  
 

関係が壊れるかもしれない。  
 

そう思うと、喉の奥に言葉がひっかかったまま動けなくなった。  
 
 
喉が乾くのは、飲み物がほしいだけとは限らない。
 
 

「どう思う?」
 
と視線を向けられたことがあった。  
賛成とも反対とも言えない案だった。  
 

でも、何かが引っかかっている。  
 
いつもの自分なら、「まあ、大丈夫です」と濁す。  
 

けれど、その瞬間ふと考えずにいられなかった。  
 
 
……もし、誰も何も言わなかったら、どうなる?……
 
 
このまま進んでは、あとで後悔するかもしれない。  
 

それなら、「何か」は言うべきじゃないか?  
 
 
 
「少し気になっている点がありま
す」
 
 
と、いつもより深く息をして言葉を出した。  
 
少しだけ声が震えていたような気もする。
 
心拍の高鳴りを感じる。
 
頭は真っ白に近かった。
 
 

場の空気がすーっと静まった。
 
 
 
誰かが
 
「自分も思っていた」
 
と続けた。  
 
 

その瞬間、気づいた。  
 
言葉に出してもなかなか伝わらないのに、言葉を出さなければ、本当に誰にも伝わらない。  
 

だからこそ、言葉に出したことで生まれるものがある。
 
 
それが、はじめてストレートに言葉を投げた瞬間だったかもしれない。  
 
 

それからは、できる限り自分の言葉でストレートに伝えることを意識した。  
 
文法なんてクソ喰らえ。
 
接続がめちゃくちゃだろうが気にしない。
 
会話の展開法なんて考えていたら気持ちなんて伝えられない。
 
自分の真意は
 
感情は
 
自分と相手に対する敬意を最上位に置いて
 
「私はこう感じています」  
「こういう可能性もあると思います」  
 
単なる批判ではなく、視点を共有することを大切にした。  

最初はぎこちなかったが、少しずつ場の空気が変わっていったように感じた。
 
 

そして、自分の言葉が相手の思考のきっかけになることがあることも知った。  
 
 
 
伝えることで、関係がより深くなる瞬間を何度も経験できるようなった。  

気づけば、「嫌われるかどうか」ではなく、「素直に思いをに届けられているか」が基準になっていた。  
 
 

伝えなかったことで、後悔することがある。  
 
いや、伝えなかったことで後悔したことばかり浮かぶ。
 

伝えたことではじめて生まれる関係がたくさんあった。
 
 
言葉は、自分を守るためではなく、「自分と相手と本当に向き合うため」にあると思っている。  
 
 
もし今、言いたいことを飲み込もうとしているなら、  それが「恐れ」からなのか、「敬意」からなのか、問い直したい。  
 
素直に、ストレートに。  

そこから、本物の対話を楽しんでいきたい。  

ワオ!と言っているユーザー

嫌われても大丈夫

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嫌われても大丈夫
どこにいても「好かれる人」でいたかった。  
 

場の空気を読んで、相手の期待に応える。
 
笑顔でうなずき、角を立てない。  
 

そんなふうに振る舞っていれば、どこかで誰かが自分を認めてくれると思っていた。
 
 

気づけば
 
「あれ、自分って、どんなだったっけ」
 
自分自身がどこにいるのかわからなくなっていた。  
 
 

本音を飲み込み続けたぶん、心が疲弊していった。  

ときには言いたいことを伝えたくても、「嫌われるのが怖い」と思って、つい沈黙を選んでしまう自分に、自己嫌悪すら感じるようになっていた。
 
ただ
 
そうしているのは自分自身なのに。
 
 

ずっとそうしてきた中で、自分の意見を明確に述べたことがあった。
 
空気は一瞬、重くなった。  

後日、数名が何となく距離を取るようになったのを感じた。
 
 
でもその一方で、ひとりの人がこう言った。  
 

「あのとき、言いたいこと言ってくれてありがとう。救われた」  
 
 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。  
 

嫌われることで失ったものもあるような気もするけれど、それ以上に
 
「自分自身はどういたいのか」
 
ということと
 
素直でいても
「嫌われるばかりではない」
 
ということに気づいた。
 

それ以来、「好かれること」より「素直であること」を優先するようになった。  
 

とりあえず誰にでも合わせるのではなく、自分の価値観にそって言葉を選ぶ。
 

嫌われるリスクを恐れず、本音と敬意のバランスを学んでいった。  

すると不思議なことに、周囲にいてくれるのは「信頼でつながる人たち」で、自然なボクを受け入れてくれる。
 
 

嫌われることは、怖い。
 
 
それはひとりぼっちになりたくないという思いが強いんだろう。
 
 
でも一方では「自分を守った証」にもなりうるようにも思う。
 

すべての人に好かれる必要はないし、実際それは不可能に近い。  
 
 
いや、無理だ(笑)
 

だからこそ、「嫌われるかもしれない」と思う瞬間こそが、自分の軸を立て直す絶好のタイミングなんだと思う。  
 

本当に大切にしたい人たちは、ちゃんとそのままの自分を見てくれている。  
 

その選ばれた少数の信頼が、人生を驚くほど豊かにしてくれるんだと、今は確信している。

ワオ!と言っているユーザー

「普通」が最も優秀だという言い聞かせ

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「普通」が最も優秀だという言い...
「普通」
 
「常識」
 
「風習」
 
「あたりまえ」
 
 
 
それは言い換えると、
 
「今まで通り」のこと
 
【しきたり】とか
 
【お決まりのこと】
 
なんだと思ってる。
 

それが『普通』。
 
誰も疑問に思わず、形式を守ることに慣れていた。  
 
疑問に思わないわけではないが、疑問を持つことの必要がなくなっているのかもしれない。
 

例に漏れず、自分もまたルールを守る
 
「優秀な一員」
 
としてその場にいた。
 
 
 

あるときふと
 
 
「この時間、ほんとうに意味あるのかな」と感じた。  
 

数字や状況は共有されるが、議論は生まれない。
 
表面をなぞるような確認だけで、何ひとつ動きがない。  
 

それを淡々とこなすだけ。  
 
(感じた違和感は、言っちゃダメなのか?)
 

空気を乱したくない
 
嫌われたくない
 
1人にされたくない。
 
 
そんな気持ちが、声を押しとどめていたように思う。
 
 
  
ある日、ちょっとしたミスで、正しい共有事項が抜けていた。  
 

咄嗟に
 
「今日は違う形で共有させてもらえませんか」と、口を出た。  
 

するとある人が
 
 
「いいよ。どうぞ」
 
 
と応じてくれた。
 
 
そこから、実際に動いた内容の背景や、学び、次回につなげたい問いを共有したところ
 
コミュニティの空気が一変した。
 
 

そこからは、ただ共有すればよいのではなく、
 
「どんな価値が生まれるか」
 
「何に気づいたか」
 
「どんなことなら一緒にできるか」
 
を言葉にすることを意識した。  
 

同時に、他のメンバーにも“問い”を向けた。  
 

最初は戸惑っていたが、少しずつ「納得できるストーリー」が語られるようになった。  
 

「当たり前」に飲まれず『到達したいゴール』に目を向ける姿勢がコミュニティに伝播しているのを実感した。
 
  
 
「普通だからやる」
 
は、思考停止の合図かもしれない。
 
「それってあたりまえだよね」
 
って言われたら
 
「知らんがな」
 
ってつぶやけ(笑)
 
 

誰もが続けている“慣習”にも、少し違和感を持ってみる。
 
  
すると
 
 
そこに眠っていた価値や可能性が立ち上がる。  
 
 
熱を帯びた思いがそこにあるんだ。
 

疑問を持つことは、否定ではなく“問いかけ”であり、変化のはじまり。
 
 
自分の中にある
 
「これって本当に必要?」
 
という小さな声に、耳を澄ませてあげたいな。

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自分のポテンシャル

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自分のポテンシャル
何か目立った実績があるわけでもなく、何なら評価はたぶん普通以下で、自分は「ごくごくごくごく普通の人間」だと思っている。  
 

囲まれている人たちが活躍している人たちばかりなので「自分には特別な才能なんてない」と、心のどこかで線を引いている。
 
 
 
努力しても周りのように輝けない。  
 

自分の「強み」や「魅力」がわからず、何を伸ばせばいいのかも見えなかった。  
 

評価される人には、もとから才能がある。
 
そうに決まっている。
 
そう思い込むことで、自分の可能性にフタをしていた。
 

あるとき、いつも通りの何気ない無意識の行動に、仲間が言ってくれたひと言が心に刺さった。  
 

「それ、もっとみんなに見せた方がいいよ。あなたのその視点、すごく深いんだから」  
 
「角度が独特」
 
 

その言葉に、初めて「こんなことも価値になるのか」と感じた。  
 

人の「ポテンシャル」とは自分では気づかないけれど、誰かにとって光り輝いて見えたりしていて、それを伝えてもらうことで力強さが増していくものだと、そこではじめて実感した。
 
 
  
自分の思考や行動を、短くてもいいので日々記録してみる。
 
 
 
その中にある共通点や“無意識にやっていたこと”を洗い出し、言語化してみる。
 
「気配りができる」
 
「構造化するのが得意」
 
「気づいたことをそっと伝えるのが自然にできる」  

そういった経験に基づいた自然にできる行動を言葉にしてみた時、はじめて自分の輪郭が見えたような気がした。
 
 
 
  
ポテンシャルは見えない才能ではなく、
 
「無意識に繰り返している自分らしさ」

それに気づくには、まず自分の日常に目を向けること。
 
特別である必要はない。
 
ただ「これ、なんか自然にできてるな」という行動こそ、誰かにとっての価値になりうるのだと思う。  
 

そして、自分自身が「それでいい」と認めた瞬間、ポテンシャルは“力”を発揮していくのだと、そんな気がしている。

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「つまらない」は余白

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「つまらない」は余白
何だかとても停滞している気分。
 
 
いや、間違いなく停滞しているんだ。 
 

自分自身も惰性で過ごしているはわかっている。
 
 
「またいつもの繰り返しか~…」と心の中でため息をついている自分がいるのも、わかっている。
 
 

「何も面白くない」
 
「刺激がない」
 
「やっている意味が感じられない」  

そんな感情に支配されると、集中力も発言の意欲も、取り掛かりのテンションさえも下がり続ける。  

本当は、何かが嫌なのではなく「自分が何も生み出していないこと」に退屈していたんだと思う。
 
 
ある日、資料の隅に書かれた誰かの手描きのイラストに、ふと笑ってしまった。  
 
 
素人にしてはうまい。
 
ボクの10000倍はうまい。
 
話しも面白い。
 
 
そうやって誰かが何かをやっているのを見て

「自分も何かを仕掛けてみようかな」
 
 
思ったその瞬間、目の前の退屈をどうやって埋めてやろうか、退屈がまっさらなまだ埋まっていないでかいキャンバスに思えた。
 
 
思いつく工夫を少しだけ日々に加えてみる。
  

初めは気づかれなくても、やがて笑い声や「こういうのいいね」が聞こえるようになった。  
 

さらに、個人的に「自分なりの工夫ポイント」を1日ひとつ、手帳に書き留めるようにした。  
 

すると、どんなことに対しても「工夫の入り口」が見えてくるようになった。
 
 
  
「つまらない」とは、物事の問題ではなく、「関わり方の余白」のことかもしれない。
 

与えられたままの状態に飽きたのなら、自分で「引っかかり」をつくって、「とっかかり」を楽しんでみる。  
 
 

遊び心や問いかけ、誰かを観察したことから得たの気づきなど「面白くする力」は、外にはなく自分の中にあることを実感する。  
 
 

そしてその視点は、一度持つと日常のすべてに、どこか遊び場があるような感覚にもなれるような、そんな気がする。

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言わない優しさ

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言わない優しさ
言わなかったことが、時に優しさだったりするのかなと。
 
それは言うべきことを言わないのではなく、言う必要があることや言うべきタイミングを考えているかということ。
 
 
  
張りつめていた空気感があったある日、自分だけが気づいていた些細なミスがあった。
 
 
結果に大きな影響は及ぼすものではないのはわかっていたが、犯人探しになりそうな予感も。
 
 
周囲は気づいておらず、正直に言えば誰かを責める形になりそうな感じもしなくもない。
 
 
黙っていれば、空気はそのまま保たれる。
 
言うべきか、言わざるべきか
 
心が揺れる。
 
 
 
少し落ち着かない。
 
 
  
「正直であるべき」
 
「本音で言うのが正義」
 
 
 
そんな思いに駆られる一方で、今まで必死に取り組んできた誰かの努力をムダにしてしまうのではないかという葛藤もあった。
 
 
 
事実を伝えることが「正解」とは限らない。
 
言わなかったことが、のちに裏目に出て信頼を失うかもしれない。
 
 
どちらの沈黙も、どんな言葉選びをするのも、重たかった。
 
 

その後、ポジションが上のものが気づき、「誰かが気づいてたなら、言ってくれたら助かったのにな」とボソッとつぶやく。
 
 
その言葉に責める色は全くなかったが、自分の心に少しだけチクッと刺さる感覚が。
 
 
でも同時に感じたことも。
 
 
「言葉にしなかったのは恐れからではなく、誰かの尊厳を守るためだったんだ」
 
誰かに恥をかかせないようにという、自分の小さい静かな覚悟があったようにも思えた。
 
 
  
それからは、「言わない」ことも意識して“選択のひとつ”として扱うようになった。  
 
 

言葉を飲み込んだ理由をちゃんと自覚する。  
 
 

相手を守るための沈黙か、自分を守るための回避か。  

もし前者なら、胸を張って沈黙したい。
 
 
後者なら、まずはひとまず謝ろうかな(笑)
 

そして、必要なら別の形でケアを届ける。
 
 
対話だけではなく、行動で示すことができるような方法を必死に考えた。
 
 
  
言いたいことを言うのは勇気と誠実さが伴う気がする。
 
 
そして言わないこともまた、深い思慮と優しさがそこにあるように思う。
 
 

ただしひとつだけ
 
 
 
沈黙が意味を持つには、自分の中にある「それをなぜ言わないのか」への明確な答えが必要だとも思う。  
 

その選択が、誰かを守り、関係を育て、そして自分の誠実さを育てることにつながる。  
 

言葉にしないことで伝わる信頼も、時には必要で、たしかにあるのだとわたしは思う。

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言ってみよう

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言ってみよう
あのときあの場面で言えなかった言葉が、ずっと心に残っていた。
 
 
 
言っていたらどうだったろう。
 
  

あの日の会話の中で、少し違和感があった。
 
けれど、場の空気を乱したくなくて何も言わずに終えた。
 
周囲が賛同していたこともあって、「まあ、別に言わなくても大丈夫か」と自分を納得させようとした。
 
 

数日後、感じていた通りに、あの日話していたことがうまく進まず、やはり感じた違和感は正しかったと感じた。  
 
 

それと同時に、自分が黙っていたことへの後悔がじわじわと心に刺さった。
 
「もし、あのとき言っていたらどうなっていたんだろうな」と考えるほど、自分の沈黙に責任を感じてしまった。
 
 
そんなことも一度や二度ではない。
 
 
とまた別の日、少し大事な場面で、誰かが緊張しながらも自分の意見を伝えていた。
 
「大した意見じゃないんですけど…」と前置きしていたけれど、その言葉にそこにいた他のメンバーは頷き、議論が深まっていったのを見て思った。
 
 
やはり、言葉は出してみないと、誰にも届かないんだ。
 
 
 
それからは、「正しいかどうか」よりも、「感じたことを丁寧に表現する」ことを意識するようにした。  
 

批判ではなく提案として、素直に「私はこう感じています」と伝えるようにした。  
 

最初は勇気がいったけれど、言葉にしたことが誰かの気づきにつながったとき、「言ってよかった」と心から思えた。
 
 
時にはひどい脇汗がともなう(笑)
 
 

言いたいことを言うのは、勇気じゃなくて誠実さなのかもしれない。
 
 
自分の中にある違和感や気づきは、自分しか感じられないもの。  

それを言葉にして初めて、世界に共有できる。  
 
伝わって初めて広がる世界がそこにある。

たとえすぐには理解されなくても、「伝えた」という事実は、自分自身への信頼にもつながっていくはず。
 
 
誰をも傷つけるつもりはなくても、傷ついてしまう人がいるかもしれない。
 
ただ自分にはそんな意図はなく、一緒に目指す方向への大切なメッセージになるとしたら、それは伝えるべきことなのかもしれない。
 
 
言いたいことは気持ちを込めて誠実に伝える。
 
そうやって自分とも、相手とも、関係を積み上げていきたいな。

ワオ!と言っているユーザー

心の回復術♪

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心の回復術♪
何だかんだで、毎日頑張ってるんですよ。
 
本当に頑張っていない人なんて、ほんのひと握り。
 
くらいはいるとは思う(笑)
 
ただ、私とつながっている皆さんは、毎日とことん考え抜いて、果てるまで頑張っている方ばかりかと。
 
まずはゆっくり、心の回復に努めたいね。
 
 
 
誰にも話す機会はありませんが、私がやっていて、そんな心持ちでかかわらせていただいて、そして誰でもできる心の回復術を書き置いとくので、良かったらどうぞ^^
 
〇まずは自分を責めないことから始める。

   落ち込むのは、弱いからじゃないんですよね。
 
感じる力があるからなんだと思っています。
 
だからこそ、今の自分を否定せず、「そう感じている自分」をまるごと認めることが第一歩。
 
感じていることに、良いも悪いもないんですから。
 
 
〇小さな安心を重ねることを意識してみる。
 

   たとえば、お気に入りのアイテムでひと時を過ごすとか、好きな味を楽しむとか、心がほっとする香りを嗅ぐとか。
 
そういう「安心のスイッチ」を見つけて、日常の中にちょっとずつ増やしていくのもいいかもしれません。
 
そんな時に大事にしたいのが、自分は「視覚優位」なのか「嗅覚優位」なのか「感覚優位」なのか、自分が強烈に感じられる優位な感覚を覚えておくのはおすすめ。
 
誰かに勧められたけど何かハマらない、って方は、自分の「安心スイッチ」が見つけられていないだけなのかもね。
 
 
〇話すことは、あなた自身への優しさだからね

   無理に明るくしようとしなくていい。
 
でも、信頼できる人と同じ時間を過ごす中で気持ちを言葉にすると、自分の中に余白が生まれるのを感じられるはず。
 
そんな時間を大切に、自分を労わってあげてね^^

ワオ!と言っているユーザー

やる気は風、継続は火種

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やる気は風、継続は火種
「やる気のあるうちに一気に仕上げよう」  

そう言い聞かせて始めた習慣が、三日坊主で終わることが、何度も何度も、もう数え切れないだけあった。  

朝活、筋トレ、読書……もう思い出せないほどに。
 
 
どれも“やる気があるとき”は順調だった。
 
忙しさや疲れで一度抜けると、再開する気力が湧かなくなっていた。  
 

「どうして継続できないんだろう」  

自分は意志が弱いのか?
 
情熱が足りないのか?  
 

そう自問するほどに、ますます何を始めるにも自信がなくなっていった。  
 

やる気がないときばかりではなく、段々と普段の自分にさえ、嫌気すら感じていた。  
 

あるとき、習慣のプロがこんなことを言っていた。  
 

「やる気は“始めるきっかけ”にはなるけれど、続けるには向いていない」
 

その言葉に妙に納得した。
 
確かに、やる気は波のように浮き沈みする。  
 

でも本当に続けている人は、やる気に関係なく“やる”を選んでいるということ。  
 
  
「やる気があるからやる」から
 
「やる時間だからやる」へ。  

習慣に“感情”を絡めるのをやめ、スケジュールに“予約”として組み込むことを始めてみた。  
 

それがたとえ3分でもいい。
 
できなかった日があっても、“止めないこと”だけは守ろうと思った。  

さらに 

結果ではなく「続けたこと」を自分で小さく認めてみる  。

誘惑を減らすためにスマホを別部屋に置く。
  
「やり終えた瞬間の自分」をイメージして始めてみる。
 
 
などなど、やりやすくする工夫を重ねてみた。  
 

やる気は風。でも、継続は火種。
 
  
風を待っていたら、いつまでも進めない。  

でも小さな火を守りながら動きつづければ、やがて大きな炎になるような気がする。  
 

たぶんコツは、「やる気がなくても“できる構造”をつくること」。
 
 
気分任せにしない仕組みが、きっと自分の意思をやさしく支えてくれるんだと思う。  

ワオ!と言っているユーザー

今日を彩る

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今日を彩る
「新しい今日がまたはじまる」
 
朝の空気にまだほんの少しだけ夜が残っているような感じがして、朝日が見えた瞬間から、世界がゆっくり動き出す音が聞こえてくるような感じがする。  
 
 
 
もしかしたら
 
 
昨日の悩みを引きずっているかもしれない。  

寝不足かもしれないし、不安な予定が待っているかもしれない。  
 
 
それでも、今日という新しい日を迎えられたこと。  

それ自体を喜んでみる。
 
何故?
 
新しい自分になれるチャンスがやってきた。
 
自分も新しくなってみたらいい。
 
よし、今日からNew typeだ(笑)
 
 
全部に全力じゃなくていい。  

誰かの期待に完璧に応えようとしなくていい。  
 
朝の空気を思い切り深呼吸して、自分のリズムを思い出してみよう。
 

昨日より少しでも自分らしくいられる瞬間があったとしたら、もうそれだけで充分。  
 
つまづいたっていい。
 
へこたれたっていい。
 
ペースが遅くたっていい。  
 
誰かと比べなくてもいい。
 

「これが今の私よ」
 
そう言えるその強さが、今日の自分をいつも以上に美しくしてくれるはず。  
 
今の自分で精一杯今日を楽しもう😊

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弱みを克服するよりも強みを活かすことの価値

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弱みを克服するよりも強みを活か...
もしも自分の足りないところばかり見ている今の私が、できることに目を向けたら。
 
どうなりそう?
 
 
 
「もっと計画性があれば…」
 
「なんで私はすぐ迷うんだろう…」  
 
「いつも失敗ばっか」

自分の「苦手」ばかりに目がいって、気持ちは乗らないのにひたすらに克服しようと努力する毎日。  
 

でも、いつも苦しさが残ったまま。
 
 
「頑張ってるのに、自信がつかない」と悩み続けて、はや〇年。
 
 
 
もう悩みの大大大大ベテランよ(笑)
 
 

本やセミナーで「課題を克服する方法」を学んでも、成果は感じにくかった。  
 
いや、全く感じていない。

努力しても「人並み」になれるまでいったいどれだけかかるのか、それ以上にはなれない感覚。  
 

苦手をゼロにしようとするほど、どこか自分の心も身体も削っていくような気がしていた。
 
 

あるとき、すで悩みを突き抜けた仲間にこう言われた。  

「それ、本当に“伸ばすべきポイント”なの? むしろあなたの強みって、もっと別にあるでしょ」
 

その言葉をきっかけに振り返ってみたら、自分が自然と人にやっていたことが、ぼんやりとおぼろげに浮かんできた。
 
そう、お米〇〇みたいなひと言(笑)

・誰かが迷っているときに、ゆっくりと一緒に言語化して整理できる 

・落ち込んでいる人に心を寄せ続ける  

・チームで困っている時、誰よりも早く空気の変化に気づく  

…それは、もちろん誰にも評価されてはいない、「当たり前すぎて見過ごしていた力」だった。
 
 
 
そこからは“強み”を中心に仕事や人間関係を見直してみた。  
 

苦手なことは「最低限できるように」整えつつ、得意なことには時間とエネルギーを注いでみた。  
 

すると
 
驚くほど成果が出ているような反応を受け取ることができる!
 
それは自分だけの感覚かもしれないけど、心が躍るには十分な感覚だった。
 
「できないことを補うより、できることで輝く方が、自分も人も幸せになれそうね」
 

そう実感できた瞬間だった。
 

欠点ばかりを見て、自分を修正し続ける生き方は、いつか「自分らしさ」まで磨り減らしてしまう。
 
たぶんソレはもうすでにたくさんの人が実感していること。
 
 
ただ、強みはすでに「在る」ものだ。
 
 
磨けば伸びるし、活かせば誰かの幸せにつながるかもしれない。  

だから、自分にこう言って励ましてあげてほしい。  

「苦手に埋もれずに、得意な光をもっと広げなさーい」
 
って(笑)

それが、人生をしなやかに、強く、美しくする、自分を彩る選択になるはずだ!

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強みは「見つける」ものではなく「信じる」もの

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強みは「見つける」ものではなく...
自分を認めることって、とても難しい。
 
 

まわりから
 
「それって、君の強みよね」
 
と言われても、どこかピンとこなかった。  

「こんなの当たり前でしょ」って思ってしまって、素直に受け取れなかった。  
 

それよりも
 
「足りないこと」
 
の方が気になって、いつも自分にダメ出ししかしていなかったような。
 
 

強みを探しては
 
「んー…でも自信がない」
 
「これって、特別じゃない」
 
と否定してしまう。  

他人のすごさばかりが目に入って、自分の良さには超絶鈍感だった。  
 

本当は、もっと堂々と自分のことを認めたいのに、たぶんそれは怖かったんだと思う。
 

自分が何気なくやったことに対して、誰かがこう言ったことがあった。  

「それ、私にはできないから本当にすごいことよね」

その言葉を聞いてハッとした。
 
エッ?と思った。
 
「当たり前にできること」を強みって思ってもいいんだ。
 
それはきっと、誰かにとっては価値のある才能なのかもしれないと、少しだけ胸が温かくなった。
 
 
 

そこではじめたのが、「強み」っぽいことをメモ帳に記していくことだった。  
 
 
 
気になる言葉。
 
何となく心地好いワード。
 
聞くと心が反応する。
 

1日1つは、自分ができたこと、誰かに喜ばれたこと、小さな達成を記録する。  
 
1つどころでおさまらない(笑)
 
胸に残る言葉でドンドン埋まっていたのよ。
 
 

さらに、その行動の裏にある「資質」を思うままに言葉にしてみた。  

たとえば

「相手の話を丁寧に聞いた」
→共感力・傾聴力  

「アイデアを整理して伝えた」
→構造化・伝達力  
 
そうすることで、「できごと」が「能力」として自分の中に定着していくような感覚になった。
 
そうなんだ。
 
強みは名詞ではなく、動詞として発揮されていて、それは誰かのために使われてはじめて自分の力として実感できる、そんな気持ちになることができた。
 


「なんとなく得意かも」
 
「周りからよく褒められる」
 
と感じたことは、立派な才能の芽なんだ。  

まずは、自分自身が信じてあげること。それが何よりも大切な第一歩になる。
 
そしてそれは、遠慮なく使うべき、自分とそれによって助かる誰かのための力なんだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

感情を隠していた自分に、さよなら♪

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感情を隠していた自分に、さよな...
 

いつからだろう。  
 
 

感情を見せるのは「弱いこと」だと思っていたのは。  

人前で泣くなんて、カッコ悪い。  
 
いや
 
泣くこと自体、かっこ悪い。
 

そうやって笑顔で平気なフリをして、たくさんの気持ちを押し込めてきた。  
 
むしろ
 
泣くことを忘れてた。
 
 

心の奥ではずっとしんどかった。  
 

でも「大丈夫?」と聞かれると、条件反射のように「大丈夫」と答えてしまう。  
 
本当はそれだけで泣きそう。
 
絶対に下手くそな笑い顔になってる。
 
それだけはわかった。
 
いや
 
自然に笑顔を作ることすら難しくなってるんだ。
 
 

ひとりになった夜にだけ、少しだけため息をつく。  
 
自然と深く。
 

「泣いたら、負けたみたいで嫌だ」
 
そんな意地みたいなものが、自分を余計に苦しめているのもわかってる。  
 
 
 
ただ日常の中に、グッと心をつかまれる時もある。
 
それが映画のワンシーンだったり、
誰かのひと言だったり。
 
とある本に書かれていた、こんなフレーズに涙が溢れた。
 
「泣くって、心の浄化なんだよ。心の中の嵐を外に出すことなんだ」
 

その瞬間、堰を切ったように涙が溢れてきた。  

誰にも見られていないのに、泣くことすらためらっていた自分が、少しずつほぐれていくのを感じた。
 
涙だけじゃない。
 
自然と声まで出る。
 
そうだ
 
ボクは泣きたかったんだ。
 
 
  
泣いたあとは、不思議なくらい心が軽くなる。  
 
ずっと込み上げていて、ノドのその辺にあったものが、嘘のようにどこかに行ってしまう。
 
 

そこからは、感情を否定しないことにした。  

辛いときは辛いと言う。
 
泣きたいときは泣く。  
 
嫌いなものは嫌い。
 
何か気分が悪いことは、気分が悪いという。
 
それは「他の誰か」に言っているわけじゃない。
 
 
自分がそうなんだって、自分に言ってあげてるだけ。
 

誰かに迷惑をかけないように、じゃない。  
 
誰かに嫌われないように、じゃない。

「自分の心に嘘をつかないように」
 
と、優先順位を変えただけなんだ。  
 
自分が泣きたい時
 
誰かが泣きたいんじゃないかなと感じる時に思うのが
 
「泣くことは、壊れることじゃない。整えることだ」
 
「泣くことはかっこ悪くない。ちょっと切り替えたいだけ」
 

涙は、溜まりすぎた想いを外へ流すためのやさしい「しくみ」なんだと思う。
 
泣ける自分は、壊れているんじゃない。
 
感じていることを正しく表現するための強さであるとも思う。。  
 

だから、感情を閉じ込めそうになったときは、こう言ってあげてほしい。
 
「もうめっちゃ泣いていいよ」
 
「さっぱりするから」

ワオ!と言っているユーザー

結局、戻ってくるのは“あの輪”だった~ 信頼でつながる人間関係 ~

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結局、戻ってくるのは“あの輪”...
「新鮮で刺激的!」
 
 
新しい挑戦を始めたころ、刺激が欲しくて、さまざまな場所で新しい人と出会った。  
 

何かチャンスや成長のヒントを求めて、人脈を増やし続けた日々。  
 

名刺もSNSでのご縁も増えて、「繋がり」は膨らんで、何だかとても面白かった。
 

でも
 
何かが少し違う。
 
何か満たされない。  
 
拭えない違和感。
 

一緒にいてもどこか気を使い、笑顔の裏で探り合う空気が流れているような、そんな気配を勝手に感じる。  
 
 

「本音で話せる人って、誰だったっけ?」
 
 
 
とふと立ち止まる瞬間が増えた。  
 

広がった繋がりの中で、心の深いところはどこか孤独だった。
 
決定的にそんなことを感じているわけではないけど、何かそんな感じがした。
 
 

と、ある日、地域活動を共に楽しんでいた頃の友人と再会した。  

取り繕う必要もなく、言葉を選ばなくても通じる空気。  

仕事や実績を並べなくても、「そのままの自分」でいられる時間に、張りつめていた気持ちがあったことに気づき、そして緩んだままでも大丈夫な時間に心地好ささえ感じていた。
 
 
  
もしかしたら
 
 
肩書きやメリットが膨らんでいたのかもしれない。
 
 
 
とにかく言葉を並べ続けて、黙ったままだと何だか気持ち悪い時間を、ここ最近はすごしていたのかもしれない。
 
 
“安心して黙ってても大丈夫”
 
そんな仲間といたのは、いつだっただろう。  
 

共通の目的がなくても、いてくれるだけで強くなれる仲間。  
 
それでいて志に理解があって、目指す景色は何だか同じ、そんな同志。
 

新たな出会いももちろん大切だけれど、自分の軸を保てる関係があるからこそ、挑戦できると、毎日実感してる。
 
 
  
どんなに世界が広がっても、最後に笑っていられるのは
 
間違いなく「気心の知れた仲間」
 
だと思う。  
 

自分を飾らずにいられて、弱音も言える存在は、何よりの安心材料。
 
派手じゃなくていい。少なくてもいい。  
 
遠慮なくぶつかりたい。
 
 

本音でつながれる数人がいれば、人生はずっと強くてあたたかいものになるんだと、そんな気がしてる。

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自分だけは自分の味方でいたい

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自分だけは自分の味方でいたい
人と比べては落ち込み、SNSで流れるキラキラした投稿や他人の活躍にため息が出る。  
 
「楽しそう」
 
「いいな」

「どうしてあの人はあんなに好かれるんだろう」  
 
そのたびに
 
「自分なんて…」
 
という声が心の中でささやき始める。
 
 
 
誰にも必要とされていない気がして、静かに静かに自信がすり減っていく感覚を感じずにはいられない。
 
 
 
自分に優しくいようとしても何だか報われなかったり、頑張ったつもりでも誰にも認められなかったり。  

「自分の何がいけないんだろう」
 
とひたすらに理由探しを続けていたけれど
 
本当は誰かに
 
「いいじゃん!」
 
「一緒に頑張ろう!」
 
そんなことを言ってほしかった。  
 
背中を押して欲しかった。
 
認められたかった。

でも、待っても待ってもそんな言葉は訪れなかった。
 

誰かがこんなことを言ってたの思い出した。

「ねえ、自分が自分を見捨てたら、誰が自分の味方でいてくれるの?」
 

その瞬間、深く息を飲んで、ひとりぼっちどころの騒ぎではないような気もした。  

そうか、自分が自分に冷たくしていたんだ。  

それじゃあ、どこにいったって安心できる場所なんて見つかるわけが無い、そんな気もした。
 

それからは、少しでもうまくできたと感じた時には
 
「自分よくやった」
 
と声をかけてあげるようにした(笑)
 
「ありがとう」
 
とも呟いたりした。
 
  

誰かに褒められなくても、自分で「これってけっこうがんばったよね」と認めてみる。  
 
「自分ってけっこうやるじゃん」
 
そう自分に思ってあげる。
 
語りかけてあげる。

小さなことでも、自分の中の小さな応援団として、心を寄せてあげる。
 
自分のことだけど、自分にして「あげる」。
 

誰にも愛されていないように感じる日があったとしても、(自分は自分を愛している)という実感が、心の背骨になり、骨格となり、肉がついていくんじゃないかな。
 
 
太るわけではない(笑)
 
 

誰かに評価されるかどうかではなく、自分が自分にどう接するかが、人生の質を左右する。  
 

だからこそ、つらいときこそ、こう言ってあげてほしい。  
 
 

よくやってるよ。
ちゃんと見てるよ。
大丈夫、私はあなたの味方だよ。
 
そう声をかけてほしい。
 
そしてボクもアナタにそう声をかけたい。
 
めっちゃ頑張ってるぞ!

ワオ!と言っているユーザー

迷った時に最後に頼るもの

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迷った時に最後に頼るもの
「どっちを選ぶべきか…」  
 
 

人生には、簡単に決められない選択がある。  

仕事の転機、人間関係、新しい挑戦…
 
どれも「この選択でいいのか?」と悩みがつきまとうものよね。  
 
 

考えれば考えるほど、選択肢のメリット・デメリットが見えてきて、決められなくなる。  

「こっちを選んだら後悔するかも」
 
「あっちの方が安全かもしれない」
 
結局はいつもいつも結論が出ず、時間だけが過ぎていく。  

頭の中では答えを出そうとしているのに、どうしても最後の決め手が見つからない。  
 

そんなとき、「本当に大切なものは何か?」という問いを投げかけられた。  

単なるメリット・デメリットではなく
 
「自分にとって、本当に価値のあるものは何か?」

ふと頭に浮かぶ景色。  
 
自分が進みたい方向が少しだけ見えてきた気がする。
 
 未来の自分を想像する力は絶大だと思う。
 
誰にも遠慮なく、自分が実現したいことは自分だけのものであっていい。

「この選択をした一年後、五年後の自分はどう感じるか?」

目の前の不安ではなく、長期的な景色に触れることで、感覚が研ぎ澄まされる気がした。  
 

ただ、考えすぎると、選択の本質が見えにくくなる。  

最後は「どちらを選んだとき、心が軽くなるか?」を感じる。  

これまでの知識や経験といった論理だけではなく、自分の内側の声を聴いてみる。  
 
あー、私は今こんなことを話してるんだなって。
 
そして自分は何を大切にしているか?  

「挑戦」
「安定」
「楽しさ」
「成長」
 
どの選択が、自分の価値観に合っているか。
 
自分が大切にしたい軸は何なのか。

それを判断基準に、少しずつ納得できる選択を温めていったらいい。  
 
 

「迷ったときこそ、自分の本音を信じる」  

情報を集め、頭で整理することも大切。  

でも、最後に決めるのは、「自分が何を大切にしているか」。  

迷ったときこそ、自分の軸を問い直すことで、心から納得できる選択ができたらいいよね。

ワオ!と言っているユーザー

誤魔化してきたことを形にする方法

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誤魔化してきたことを形にする方...
いつかは本気で向き合う「つもり」!
 
そう思いながら、ずっと後回しにしてきたことがある。  

やりたいことがあった。
 
ような気がする。
 
それが何だかわからなくなってきているような気もする。
 
時間がない…
お金がない…
スキルが足りない…
準備ができていない…  

そんな理由をつけて、誤魔化し続けた。  

でも、本音ではずっと気になっていたのよ。
 
「形にしたいんだ!」と。  
 
 
 
 時が経つほどに「今さら始めても意味があるのか?」という迷い。  
 

自分が逃げてきた時間が重くのしかかり、「どうせ今からじゃ遅い」と思って、ますます手につかない。  

その一方で
 
「でも、ずっとこれが気になっていたのは事実なのよ…」
 
という想いもある。  
 

やるべきなのか?
 
それとも
 
もう諦めるべきなのか?  
 

ある日、過去に書きかけたメモ帳を見返した。  
 
毎年買い替えては、だいたい同じような内容。

そこには、昔の自分が夢中になっていたアイデアや考えが詰まっていた。  
 
やりたいことをどう面白くできるか。
 
自分なりの実現の方法。
 
いろんなことが書かれていた。
 
年を経るごとに、知らず知らずにブラッシュアップしてる自分。
 
やるじゃん、自分(笑)

読んでいるうちに、「この感覚、まだ自分の中にあるわ」と確信した。  
 

誤魔化していた時間があったからこそ、今の自分はより深く理解できている。  

つまり、「今からでも形にする意味はある」
 
そう思えた瞬間だったのかも。  
 
そこからいくつか実践したことを書き留める。
 
 
 
① 小さく始める

いきなり完璧を目指さず、まずは試してみる。  
たとえば、ずっと描こうと思っていた絵なら、スケッチから始める。  
執筆なら、短い文章をSNSに投稿してみる。  
 
ボクの場合は学んだことを自分なりにアウトプット。

完璧でなくていいから、まずは「形」にしてみることが大事。  
 
 
 
② 溜め込んだものを整理する
 
過去のアイデアやメモを見返し、「今でも使えそうなもの」「今ならもっと良くできるもの」を選び出す。  

すると、誤魔化していた時間も「蓄積」だったと気づける。  
 
今回のメモ帳がそう。
 
 
 
③ 公開することで動きをつくる

誰かに話す、SNSで発信する、作品として公開する。
 
どんな形でもいい。  

人に見せることで、自分の中で「本格的に動かす」スイッチが入る。  

フィードバックが得られれば、さらに磨きをかけられる。  
 
宣言に近いのかも。
 
やれなかったらやれなかったで笑われてもいい。
 
自分の歩みでやったらいい。
 
 
 

「逃げていた時間は、準備の時間だったのかもしれない」  

誤魔化していたことがあるなら、今こそが向き合うタイミングなのかも。  

小さくてもいいから、形にすることで、その時間が価値を持つようになる。  

今から始めるのは、決して遅くない。
 
むしろ、その時間があったからこそ、今がベストなタイミングなんだ。
 
きっとそうだ。  

ワオ!と言っているユーザー

誤魔化してきた時間を力に変えよう

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誤魔化してきた時間を力に変えよ...
「本当は違うことがしたいんだけどな…」  

そう思いながら、適当に現状に合わせて、周りばかり気にして生きる毎日。  
 

やりたいことがあった。
 
んだよね、たしか。
 
そうだった気がする。
 
 
でも、リスクを恐れて、周りになんと言われるか気にして踏み出せず、無難な選択を繰り返していた。  

「この道を選んだのは正解だったのか?」  
 
「いや、そうじゃないんだけど、仕方がない」

そんな気持ちを抱えながら、気づけば数年、いやもう十年以上過ぎている気もする。  
 
 
 
 
何に悩んでいる?
 
 

心のどこかで、「このままでいいのか?」とずっとずっと語りかけ続けていた。  
 
「いや、ほんとは違う」

でも、それを認めてしまったら、今までの選択が間違いだったと認めることになる気がして、誤魔化し続けた。  

新しい挑戦をする勇気はない。  

でも、今のままで満足できるほど、自分を騙しきることもできない。  
 

そんな葛藤を抱えながら、何も変えられずにい続けたのよ。  
 
 

ところが、ふと振り返ったとき、「誤魔化してきた時間の中にも価値があることがたくさんある」
 
そんなことに気づいた。  

理想を叶えられなかった時間は、全部が全部無駄ではなかった。  

その間に培ったスキルや経験が、今の自分を支える基礎になっている気もする。  

むしろ、遠回りしたからこそ、何かを実現するための準備が整っていたのかもしれない。  
 
 

あとは「これまでの時間を活かす」ことに意識を向けるだけだ。  

誤魔化してきた過去を否定するのではなく、「今の自分だからこそできること」に必死で切り替える努力をした。  
 

すると、不思議なことに、今まで選んできた道が「理想への土台」になっていることに確信を感じ、自然と踏み出す勇気が湧いてきた。  
 
 

「遠回りした時間は、決して無駄ではない」  

誤魔化しながら過ごした日々も、すべて未来の自分のための伏線だと思ったらいい。  
 
これはむしろ決めつけてしまって力に変えるべきこととも思う。

何かを諦めてしまった過去があっても、それは失敗ではなく、別のルートだっただけ。  

だからこそ、今からでも遅くはないし、活かせるすべての経験を活かしながら、理想へと進んでいきたいね。  

ワオ!と言っているユーザー

人の言葉に揺さぶられる日々— それでも自分を貫いてみる話

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人の言葉に揺さぶられる日々— ...
「それ、やめたほうがいいんじゃない?」  
「そんなことして、意味あるの?」
「(君に)できるの?」
 
周囲からの言葉に、心が少しずつ揺らいでいく。  

新しいチャレンジを始めようとすると、そんな誰かの声が今までに聞いたことのない大きさで耳に届く。  

それはアドバイスなのか?
それともただの否定なのか?  
 
励ましなのか
嫌味なのか

気づけば、自分の選択に自信が持てなくなっていた。  
 

「周りの声に振り回される」  

それが、自分の一番の悩みだった。  

アドバイスを聞くのは大事。
 
でも、どこまで受け入れるべきなのか?  

気づけば
 
他人の言葉の中で生きることが平穏で波風なんて立てない方がいい
 
そんな風な思いになり、自分が何をしたいのか分からなくなっていた。  
 
それでも自分の気持ちに素直になれる日がやってくる。

ある日、尊敬する人に言われた。
 
「周りの言葉って、単純に単なる“意見”じゃない?」  

それを聞いてハッとした。  

今まで、自分の選択を誰かの言葉で決めていたことに気づいた。  

でも、本当に大切なのは、自分がどうしたいか。  
 

そこから、「言葉を選別する」ことを意識した。  

ただの批判なのか?
 
「意味のある」アドバイスなのか?  

「聞く」べき言葉と、「聞き流す」べき言葉を見極めることで、心の揺れが少なくなった。
 
そして意識してソレができるように、自分なりにたくさんの方から学んだり、できるだけ気になる本を読んだり。
 
 
すると、自分の選択に堂々と向き合えるようになり、周囲の反応を気にする時間が減った。  
 
そう、なくなることはないけど、とにかく反応に反応し続けることは格段に減ったのよ。
  
「すべての言葉に影響されなくていい」  

人は、それぞれの価値観で話す。  
 
「影響される言葉を自分には選ぶ権利がある」

その言葉が正しいかどうかは、自分で決めるもの。  

だからこそ、自分の選択を大切にしたい。  

誰かに何を言われても、「自分がどうしたいか」を忘れなければ、多少の揺らぎはあっても、崩れるまでに至ることはなくなるような気もする。  
 
自分はどんな言葉にだったら影響を受けたいか。
 
好きな言葉で満たせるようになりたいね。

ワオ!と言っているユーザー

相手の言葉が自分の世界を変えてくれる

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相手の言葉が自分の世界を変えて...
誰かとの会話が、いつの間にか「話し合い」ではなく「説得」になっていた。  
 
そんなこと、あるよね。

自分の考えを伝えて、納得してもらうことばかり意識していた。  

でもある日、ふと気づいた。
 
「会話が噛み合っていない気がする…」  
 
気持ちを共有したいのに、相手はどこかものすごく遠い。  
 
 

「分かってほしい」と思って話せば話すほど、距離が広がるような感覚。  
 

なぜ伝わらないのか?
なぜ会話がうまくいかないのか?  
 

その答えをずっと探していたのかもしれない。  
 
ある日の出来事。
 
ポツリとこぼした一言
 
(ちゃんと聴いてほしいのに)
 
そうとしか受け取れなかった言葉に、衝撃を覚えたのね。
 
 
 
今まで「話すこと」ばかりに集中していて、「聴くこと」をしていなかった。
 
いや、聴くことなんて簡単で、できていないわけなんてないとさえ思ってた。
 

その気づきが、関係を大きく変えるきっかけになった。  
 
 

もう積極的にそして意識的に「聴く」ことを始めた。  

途中で意見を言わず、最後まで話を聞く。  
 
言いたくて言いたくてしょうがないのに。

「次に何を話そう?」と考えるのではなく、「今、何を私に伝えようとしているのか?」に集中する。  
 

すると、不思議なことに、相手の表情が柔らかくなり、心の距離が縮まっていくのが分かった。
 
そしてそんな機会が増えた。
 

「話す」ことだけでは、心は通じない。  

本当に大切なのは、「聴く」ことで相手の気持ちを理解しようとすることなのかもしれない。  
 

誰かとの関係で悩んだときは、まず「聴くこと」を大切にしてみたらいいい。
 
 
それだけで、自分の言葉の重みも、相手が伝えようとした思いの感じ方も大きく変わり、絆が深まる感覚を理解できると思う。  

ワオ!と言っているユーザー

不一致の乗り越え方

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不一致の乗り越え方
仕事に限らず、年齢も限ったものではないが、年上の方とのお付き合いに大変さを感じること、ありませんか。

新しい環境に身を置くことになった時、直属の先輩の指導を受けることになったり、親切な年長者さんがアドバイスをくれたりすること、ありませんか。
 
でも、考え方も仕事の進め方もまったく違い、最初のやり取りからズレを感じて、何だかやりづらくなったこと、ありませんか。
 
たとえていうと

先輩は「根性と努力」を重視するタイプ。
 
対して自分は「効率と戦略」を重視するタイプ。
 
何かを提案しても「そんな甘い考えじゃダメだ」と一蹴されることが多く、会話するたびに消耗していく。
 
〇〇世代で簡単に片付けられる話しではない(笑)
 
この関係をどうすれば改善できるのか——それが悩みだったり。  
 
 
 
ただ、そんな悩みが軽くなるのも、付き合いの積み重ねによるものでしかないような気もする。
 

ある日、先輩が「昔は私も君みたいな考えだったんだけどな」と何気なく言った瞬間、ひとつの気づきが生まれた。
 
「もしかして、この人は様々な経験をされたからこそ、今の価値観になったのでは?」と考えるようになり、少しずつ距離の取り方を変え始めてみる。  
 

まずは先輩の話を(嫌でも)しっかり聞くことからスタート。
 
「どうしてこのやり方を大事にしているのか?」と考えながら会話すると、ただの押し付けではなく、先輩なりの理由があることが感じられてくる。
 
 
そこからは、意見を戦わせるのではなく「自分の考えをどう相手に理解してもらえるか」を工夫してみる。
 
すると、次第に先輩も「意外と悪くない考えかも」と歩み寄るようになった。
 
いや、これだけですごい進展よ(笑) 
 
 
「気が合わない相手は、ただの敵ではない」  
 
そう、敵ではないのよ。

違いがあるからこそ、自分にない視点を学ぶチャンスになる。
 
まずは相手の価値観を理解し、それを前提に対話すると関係が変わる。
 
仕事や人生で「合わない人」と出会ったときこそ、視点を広げるチャンス。
 
うまく向き合えば、自分に思わぬ成長が待っている。
 
それを毎日少しだけ心にかけておきたい。 

ワオ!と言っているユーザー

違いが生み出すまだ見ぬ世界

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違いが生み出すまだ見ぬ世界
自分と異なる価値観を持つ相手と過ごすことで、今まで気づかなかった視点を得られる。
 
これこそが自分とタイプの違う方々と一緒に過ごす醍醐味。
 
「そんな考え方があったのか!」という発見が増え、物事を多面的に捉える力がつくような気がする。  
 
 
例えば、ボクはどちらかというと感情優位なタイプなので、論理優位な方々といると、いろいろな組み立て方はとても勉強になる。
 
だから、論理的思考が得意な人と、感覚的なひらめきが得意な人が組むことで、バランスの取れた結果を生み出すことができると思ってる。
 
お互いの強みを活かし、弱みを補い合うことで、より良い選択ができるようになれたら、ひとりでは見つけられないことが見つかりそうだよね。  
 

その時、自分と似たタイプ同士ならスムーズに話せるが、違うタイプの相手には「どう伝えればいいか」を考えながら話す必要がある。
 
この過程で言葉選びの精度が上がり、より幅広い人と円滑にコミュニケーションを取れるようになれるのは、有意義でしかない。  
 
 

自分と異なる興味を持つ相手といることで、「そんな世界があるのか」と知る機会が増える。
 
押し殺していた好奇心を刺激され、新しい趣味やチャレンジが生まれることで、人生の幅が広がっていくよね。  
 

一方では違うタイプの相手とは、ときに考え方が合わないこともある。
 
しかし、それを乗り越える過程で「相手の立場で考える力」が磨かれ、より深い人間関係を築けるようになるような気もする。  
 
 
「違い」は、時に理解を難しくするが、それ以上に自分を成長させてくれる要素でもある。
 
同じタイプ同士の心地よさも良いけれど、あえて異なるタイプの人と向き合うことで、人生の選択肢や可能性は何倍にも広げていきたいな。  

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自分の器は自分で決めよう♪

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自分の器は自分で決めよう♪
期待に胸を膨らませて飛び込んだ先が、自分が積み重ねてきたものを活かすことのできない環境だとしたら、毎日が手探りでつらい。
 

思うように進まず、指摘が続いた。
 
 
「自分の器以上のことはするもんじゃない」と言われた瞬間、大切にしてきたものが砕け散る。
 
 
やる気はあってできるようになろうと努力しているのに、成果が出ない。
 
自分は本当に向いているのか。
 
 
そんな疑念ばかりが募る。
 
 
ある日、以前お世話になった方を思い出し、自分へのかかわり方でとても力をいただいたことがよみがえった。
 
そして、その方が勧める本を読んだことで、自分のアプローチの狭さに気づいた。
 
仕事だけでなく、あらゆる物事を深く考えることの大切さに気づく。
 
 

そこから、周囲の人の考えを積極的に聞き、異なる視点を吸収する努力を始めた。
 
ひとつの答えに固執せず、たくさんの可能性を考えるようになった。
 
その結果、少しずつが日々を過ごす感覚が変わってきた。
 
  
躓いたり、凹んだ時は自分が新しい力を得る成長のチャンスかもしれない。
 
悩んでいるときこそ、視点を広げることが大切。
 
思考の幅を広げ、柔軟に対応できるようになれば、少しくらいの困難は平気で乗り越えられるようになっていた気がする。
 
失敗とは何か。
 
自分の可能性を信じて挑戦し続けよう。

ワオ!と言っているユーザー

言葉の力に救われた日

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言葉の力に救われた日
思うように進まない毎日。
 
何をやってもうまくいかない。
 
「自分には価値がないのでは?」
 
という不安だけが心を蝕んでいくのを感じて。
 

周囲の友人たちは何だかうまくいっているような感じがして、自分だけが立ち止まっているような、取り残されているようなそんな気持ちにさえなる。
 
努力しているのに報われない。 
 
「何が足りないのか?」
 
何が何だかもうよく分からず、焦りばかりが増していく。
 
そんな中、SNSをグルグルしていると、何気に気になる一冊の本と出会う。
 
そこに書かれていた言葉を目にして、少しだけ勇気をもらった気がした。
 
 
その時、単純に周りのせいにしていたことに気づき、
 
「今の自分にできること」
「自分が求めていること」
「自分が楽しめること」
 
そんなことに気持ちが向くようになった。
 
  
まずは翌日から、自分の捉え方を変えるために、使う言葉を変えてみた。
 
なるべく「どうしてできないのか?」を「どうしたらできそう」に意識してみる。
 
そして「なんとなく話す」ではなく、「自分の感じることをなるべく自分の言葉で伝える」ことから始めてみた。
 
初めのうちは、相手の反応が気になり落ち着かない日が続いたが、いつの間にか自分の中にある不自然さが抜け、自然と笑顔で話せるようになった。
 
そうしているうちに、自分の想いを大切にしながら一緒に取り組むことができる仲間たちが増えた。
 

今うまくいっていないと決めつけて、自分の価値を決めないこと。
 
あれから8年。
 
失敗が続いても、それは自分の本質を否定するものではないと、徐々に思えるようになってきた。
 
 
まずこれくらいなら自分はできる。
 
そうやって小さくても自分を肯定することで、選択肢は広がる。
 
だからこそ、焦らず、心の声に耳を傾けて進んでいきたいな。
 
今日も頑張ろっと。
 
いつもお立ち寄りありがとうございます。

ワオ!と言っているユーザー

人間関係は「距離感」が大切♪

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人間関係は「距離感」が大切♪
人間関係は、単なる感情のやり取りではなく、人生を豊かにするために必要不可欠なもの。
 
その中でも人間関係の悩みは、相手に変わってもらいたいと思うほどに深刻になっていくような気がして。
 
自分の受け止め方を変えられたらいいのを頭でわかっていても、なかなか変えられないんだよね(笑)  
 
勝手に相手を理想像に作り変えて、その現実とのギャップにモヤモヤして、さらに事態をひどくする。
 
大半は自分で作り上げておいて勝手に苦しんだりもしている(笑)
 
理想通りに変えられないとしたら、ちょうどいい距離感を知っておくのもいいかもしれない。
 
時に近づいたり遠ざかったりするけど、その相手にとっての自分だけの「これくらいの距離感」がわかったら、もしかしたら今よりも良好な関係が見つかるかもしれないね♪

ワオ!と言っているユーザー

真剣な人は信念を持つ人。真剣な人はかっこいい♪

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真剣な人は信念を持つ人。真剣な...
何かに真剣に向き合うとき、その姿勢の中には強い信念が宿っていると思う。
 
「真剣」に対して真剣に向き合った時、そこには「信念」があって、信念とは単なる意志ではなく、「何があっても貫きたい価値観や想い」、つまり自分が大切にしているものがそこにあるんだと。
 
だからそれはきっと、人生の指針になるんだと思う。  
 
それは自分を迷わすものが減ってブレてもなお突き進める力だったり、やり遂げようとする困難を乗り越える力だったり、周りをも変える力だったり、デリケートだけどとてもパワフルなものだとも思う。
 
真剣に取り組むことができることは、すでに努力してきたことでもあると思うし、これまでに何か行動を起こしてきたことでもあると思う。
 
真剣さに宿る信念を、もっと出していいよね。
 
そこに誰かが魅了されて、きっとこれからますます面白くなっていくんだろうさ。

ワオ!と言っているユーザー

支え合いの力♪

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支え合いの力♪
多くの人にとって、日々の悩みの9割は人間関係なんじゃないかと勝手な決めつけ(笑)
 
それだけ「人とのつながり」って大事なんでしょうね。
 
たしかに、お互いに理解し合い、支え合うことができたら、より充実した時間を積み重ねることができるような、そんな気はする。  
 
良好な人間関係って、自分にとってはどんな形かなと考える。
 
成長の機会を与えてくれたのも、そこに誰かがいたからこそだったし、そこに至る困難を乗り越える力をくれたのも、そこに誰がいてくれたから。
 
しばらく言葉を交わしていなくても、どこかでつながっているような感覚があるから、支えられているという気持ちにもなるし、何もしていないようだけど信頼関係が勝手に深まっているような感覚にもなったりする。
 
不思議だよね。
 
だからこそ
 
日々の小さな支えに対して、感謝の気持ちを忘れずにいたいし、それを伝えられる自分でいたい。
 
感謝を表す習慣が、支え合う文化を作るんだろうね。
 
それが難しいこともないわけじゃぁないけど(笑)
 
近い人にはついつい厳しくしてしまうこともある。
 
そこに日々反省している自分もいる。
 
それでも気持ちにある感謝は忘れず、「ありがとう」「ごめんなさい」は伝えていかないとなぁ。
 
いつも支えてくれて、ありがとう。

ワオ!と言っているユーザー

チャレンジはメンタルケアとともに♪

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チャレンジはメンタルケアととも...
持続的な成長を支えるのは努力と根性、とメンタルケア、そう思うこの頃。

チャレンジを継続していくうえで、努力やスキルアップは欠かせません。
 
ですが
 
それと同じくらい重要なのが「メンタルケア」だと思っているんですね。
 
心の健康を保つことができていなければ、安定した成長につなげることはできないんじゃないかと。  
 
ストレスが溜まってくると、集中力が低下し、取り組む効率も落ちているのを実感しながらも、とにかく黙々とやり続けるのが正義、みたいな感じでやってしまいがちですが、適度な休息やリフレッシュを取り入れるって、やはりものすごく大事だなーと。
 
適度な休息は本当に人それぞれで、ゆっくり音楽聴きながら美味しいコーヒーでも♪なんてやり方もあれば、海や山や自然に囲まれて♪なんてのもあるかと思うけど、重要なのは「休めたー!」と思えることなんじゃないかな。 
 
だから、ひたすら愚痴を喋り続けたり、休んでいるようだけど余計な事考えてしまうような時間は、きっと少し違うんだろうね。
 
めちゃくちゃ抽象的だけど、「サッパリしたー!」と本音で言えるような感覚が得られたら、Goodなんだろうと。

ひとつのライフハックとしては、「リラックスの時間を確保」できたらいいかもね。
 
心の健康を保つために、例えば、週に1回は仕事から完全に離れ、好きなことに没頭する時間を作ることでリフレッシュする。
 
そこに気の合う仲間がいたらさらに善きかな♪
 
「なんとかなる」という感覚が強まって、困難な状況にも前向きに取り組めるようになるために、適度にメンタルケアしてあげましょうね!
 
自分にね♪
 
一番いいのは
 
「寝る」
 
かもね(笑)

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置き換えてみよう♪

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置き換えてみよう♪
モヤモヤしてたり、ソワソワしていたり、何か不安だったり。
 
そんな時は自分を置き換えてみるのもいいかもね。
 
スリリングな物語の中にいる自分。
 
チャレンジングな主人公の自分。
 
おー、何かいい感じじゃない?(笑)
 
いつもよりも少し高めな目標に取り組んでいるとか、普段やらないやり方で進んでいるとか、未経験の分野領域に足を踏み入れている最中だと思って動いてみると楽しさが見えてくるかも。
 
あとは、自分で意図的に変化を起こしてみる。
 
どうにもならないような状況だからこそ、自分の行動をコントロールしてみる。
 
こうなったら、いつもの自分はやらないけど、少しくらいの無茶やったっていいかな。とか(笑)
 
日頃の何気ない単なる選択も、自分次第で面白くなりそうだね。

ワオ!と言っているユーザー

休もう!時々はひたすら休もう!

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休もう!時々はひたすら休もう!
忙しい毎日。
 
「休む」こと、後回しにしてるなぁ。
 
適度に休息を取ることで、心と体のバランスが整うとわかっていても、なかなか休めていないかもね。
 
体は休んだつもりでも、「頭の中」はフル回転だったり。 
 
めちゃくちゃ頑張って充実感を感じて、幸せいっぱいだったとしても、実は脳はストレスモードに入っているとか。
 
おおらかな気持ちになっているようで、視野が狭くなっている可能性もあるそうで。
 
だからこそ
 
一息つくことで、副交感神経が働き、リラックスした状態に切り替わるそう。  
 
   ひと休みすることであんなに大きな問題だと思っていたことも「あれ? 案外大したことじゃないかも」と気づくことがあったりして。
 
休息を挟むことで、必要以上に大きく見えていた問題が、現実的な大きさに戻るのかもしれないな。
 
焦りや不安に飲み込まれそう時こそ、ほんの少しの休息、大事にしたいね。

ワオ!と言っているユーザー

「こだわり」が軸を作り「柔軟さ」が可能性を広げる

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「こだわり」が軸を作り「柔軟さ...
大事なことを目指すためには「こだわり」が必要ですが、変化に対応するためには「柔軟性」も欠かせないと思っています。
 
どちらか一方だけではなく、両方をバランスよく持つことで、より大きな成果を生み出すことにつながっていっているような、そんな感じ。  
 

こだわりを持つことで、自分が大切にしていることがより明確にわかってきます。
 
例えば、職人が技術を磨くように、こだわりがあるからこそ高いレベルの仕事ができます。
 
ですが一方では時代や環境は常に変化します。
柔軟性を持たなければ、新しいチャンスを逃してしまうこともあります。  
 
周りを見ると、うまくいっている人は、「変えてはいけないもの」と「変えるべきもの」を見極める力を持っているのを感じます。
 
こだわりを持ちつつ、状況に応じて柔軟に対応することで、より良い結果を生み出しているのです。  
 
心理学の「適応力理論」では、成功する人ほど「自分の軸を持ちつつ、環境に合わせて変化できる」ことが示されています。  
 
参考にしてみるのもいいかもしれませんね。
 
なので、こだわりを持ちつつ、柔軟に進んでみましょう。

こだわりは、自分の強みを活かすために必要なもの。
そして、柔軟性を持つことでより多くのチャンスに巡り会い、チャンスを掴み取る。
 
 
 
大切なのは、「何を守り、何を変えるか」を見極めることかもしれません。
 
 
 
こだわりと柔軟性をバランスよく持つことで、より充実した時間を築いていきたいですね!

ワオ!と言っているユーザー

選んだことを正解にしていく

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選んだことを正解にしていく
人生にはたくさんの転機があり、その中でも自分で決めたことに限っていえば、迷いの先に見えてくるものがある。
 
 
特に長年同じ環境にいると、ふと「このままでいいのか?」と考える瞬間もある。
 
自分はどんなことに対して迷い感じているんだろう?
 
 
「今のままでいいのか?」という疑問は、簡単には消えないもの。
 
変化には不安が伴うし、周囲の目も気になるし。
 
けれど、心の奥底では「新しいことに挑戦したい」という気持ちが強くなっていたりするものではないでしょうか。
 
  現状維持か、新たな挑戦か。
 
そんな時ほど、偶然を装って「人」や「機会」と出会いがあったりするもの。
 

自分が理想とする歩みを進めている人に出会った瞬間の、強烈な感覚。
 
「変化を恐れず、一歩踏み出したことで人生が変わった」と語る姿に共感する。
 
自分も、挑戦することで何かが変わるかもしれない。
 
少しでもそう思った瞬間こそ、行動を起こすタイミングなのかもね。  
 
  
すぐに大きな決断ができなくてもいい。
 
まずは「自分が本当にやりたいこと」を整理することから始めるのもいい。
 
ボク自身は興味のある分野について調べたり、新しいスキルを学んだり、少しずつ視野を広げていった。
 
そして、とある日、自分の中で「これだ」と思えるものに出会うことができた。  
 

新しい挑戦を始めたからといって、毎日が充実に溢れているワケではない。
 
難しい場面の連続だったりもする(笑)
 
でも
 
「自分で選んだ道を歩んでいる」という実感が、何よりも大きな支えになっている。
 
自分が過ごす時間は、誰かに決められるものではなく、自分自身で創りたい。
 
迷いながらも一歩踏み出したことで、人生が大きく変わったと思う。
 
特に35歳~40歳、40歳~今日まで。 
 
もし今の過ごし方に違和感を覚えているなら、小さな一歩を踏み出してみてほしい。
 
変化の先には、想像以上の可能性が広がっているよ。
 
それも、自分だけのものね。 

ワオ!と言っているユーザー

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